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(10)心配してそうな課長

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「あ……わ……」

 人間って、本当に驚いた時、何も言葉が出てこないものなんだな。

 薮から姿を現したのは、小柄な人間(?)たちだった。
 何故カッコハテナなのかというと、人間と同じように二足歩行しているものの、その他の大部分において人間のそれとは全く異なっていたからだ。

(いや、俺は知ってるぞ。これは──あれだ──えーっと……)

「ゴブリン?!」

 そう、ゴブリンだ。
 ゲームに出てくるモンスター、ゴブリン。
 暗緑色の肌、老人のように曲がった背、尖った鼻と尖った耳と鋭い目付き。
 手にはそれぞれ棍棒、短刀などを持っている。

 ゴブリン。

 まさにそのゴブリンが俺の目の前にいる。
 そしてあっちも俺を見ている。

(本当の本当に、異世界なんだな……)

 そんな状況なのに、のんびり考えてしまった俺は、やはりまだこれをどこか現実として受け入れ難いと思っているのかもしれない。

(……って、そんなことを考えてる場合じゃなかった! 逃げなきゃ!)

 そうだ。
 逃げなければ!

 モンスターと人間の関係なんて、どこの世界も大抵同じだろう。
 人間に友好的で意思疎通がはかれるモンスターだっているかもしれないが、このゴブリンたちの目からは知性を感じられない。
 その顔に浮かぶ残忍そうな表情から、彼らに俺を生かす気がないのは明白だ。
 ゴブリンと言えば、スライムやコボルトと同じくらい弱い序盤の敵として設定されていることが多い。
 けれど、この世界のゴブリンが同じだとどうして言えるだろうか。素手で熊を殺すほど凶暴で凶悪なモンスターではないと、誰が言えるのか?

 しかもこちらが一人なのに対してあちらは五匹いる。

 昨日とは違って手近に武器になりそうなものもない。

 人間相手ならばともかく、現実のモンスターなんて初見もいいとこだ。相手の実力が測れるわけがない。その場合はもちろん逃げの一択だ。
 俺が杖術習ったじいちゃんもそう言っていた。

(課長に助けを求める……? あの反則的な強さならゴブリンに勝てるかもしれないけど)

 ここで叫べば、この森のどこかにいる課長が駆けつけてくれるかもしれない。
 それは大変心強い。心強いが──やっぱり妻子持ちの課長を巻き込む訳にはいかないだろう。
 口では「自由だ!」って言って、異世界転移を喜んでいたけれど、あれは俺に気を遣っているだけかもしれないし。
 いや、むしろそっちの方がありうる。

 そうしている間にも、ゴブリンたちはジリジリと俺との距離を詰めてきていた。

 その数、五匹。

 俺を包囲するように広がりながら、徐々に包囲網をせばめてきている。

 必死に考える。

 背後は川だ。小さな川とはいえ、一息に渡れるほどの幅ではない。
 かと言って、奴らの間をすり抜けて森へ逃げ込むのはもっと悪手だ。森の中は彼らの庭のようなものに違いない。
 あっという間に捕まってしまうだろう。

「……くそっ!」

 川以外の選択肢がない。
 まさに文字通り背水の陣。
 いや、これからその背水にあえて突っ込むわけだけれども。
 俺は悪態をつきながら後ずさった。

「キィィィ──ッ!!」

 一匹のゴブリンが叫んだのを機に、他のゴブリンたちもいっせいに俺目掛けて襲いかかってくる。

「キーッ!」
「ギ、ギィィーッ!」
「ギィギィッ!」

「あっちへ行けっ!」

 ──ガシャンッ!

 俺は手にしていた食器類を、その中の一匹目掛けてぶん投げた。
 予想外の反撃に彼らが怯んだ隙をついて、踵を返して川へ足を踏み入れた。

「うわ……っ!」

(思ったより深いぞ!)

 岸から見積もっていたよりも、川底が深い。
 きっと、その昔理科で習った光の屈折のせいだろうな。
 数歩歩いただけで、もはや胸まで水に浸かっていた。
 歩くより泳いだ方が速そうだ。

 ゴブリンたちは川岸に立って何か喚き立てている。
 川に入るか入らないかで揉めていそうだ。何となく。
 悪いが、仲間割れしている間に向こう岸に渡らせてもらおう。

 とにかく距離をとってどこかに隠れ、奴らが諦めて去ったらまた戻ればいい。課長にはちょっと心配をかけるかもしれないが。

 俺は大きく息を吸って水に身を沈めると、向こう岸に向かって泳ぎ出した。


◇◇◇


 それがつい数分ほど前のことだ。

 川の流れは緩やかで、向こう岸に渡るのにそう苦労はしなかった。
 川を渡った俺は、森の奥へ進み、薮に身を隠した。

 もしも奴らが警察犬並みの嗅覚だとしても、川に入ったおかげで体のニオイは洗い流されてかなり薄まってるはず。
 見つからない可能性は高いと踏んでいる。

 結局、ゴブリンたちは川を渡らず諦めたようで後を追って来なかった。

 そこまではよかったのだ。

 課長の所へ戻ろうとして再び川を渡る寸前に、は姿を現した。

 気配も全く感じなかったし、視力も動体視力もそこそこいい俺にも全く見えなかった。

「え──っ?!」

 気がついた時にはもう、大きな何かが近づいていて。
 大きな何かはくわっと口を開けて。





 その瞬間、俺の身体は宙吊りになって身動きできなくなった。












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