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美女ですが、懐かれました
しおりを挟む胸の痛みとともに、脳裏にこの美女と黒鷺が笑い合う光景が浮かぶ。
(なんか、嫌だ。見たくない)
塗れた髪のままタオルを椅子に投げ、荷物をひったくるように抱えた。
「やっぱり帰るわ! お邪魔しました!」
回れ右をしてリビングのドアノブを握る。
「待って!」
ドアを開けようとしたところで、焦った声が響く。そのまま背中に温もりと、柔らかい感触が。
(…………ん? やわらかい? これは……胸!?)
豊満な胸が、背中に!? というか、背後から羽交い締めにされてる!?
パニックになっている私の顔に柔らかな茶髪が触れる。吐息が耳にかかる。
(いや、待って!? なんか艶っぽい!?)
そこに、艶麗な声が私の耳を舐めた。
「帰っちゃうの? あ、良い匂い」
「ヘッ!? いや、ちょっ!? 耳は止め、ダメっ……ひゃっ!?」
美女が背後から私の匂いを嗅ぐ。首筋に鼻が当たって、くすぐった……ってなに、この状況!?
「シャンプーと石鹸の匂いだけじゃないわね。なんの匂いかしら?」
「いや、ちょっ……ほんと、待って。そこは……あぅ!」
「あら? ここが弱いところ?」
首から肩を指でなぞられる。くすぐったいのとは違う! 全身がぞわぞわする! 例えるなら、部屋でゴキブリを見つけて寒気が走るヤツ!
「やぁめぇてぇぇぇー」
私がもがいていると、呆れた声が降ってきた。
「姉さん、なにやってるの?」
顔を上げると、料理を持った黒鷺がいる。
「おそってるの」
「平然と、そういうこと言うのと、するの、やめない?」
「事実だし」
黒鷺と美女が淡々と会話をする……が! その前に! 私を! 開放して!
「助けて!」
私は藁をも掴む思いで黒鷺に手を伸ばした。けど、黒鷺は私をスルーして、料理をテーブルに並べていく。
私より! ご飯を! 選ぶのか! この恨み、忘れないわよ!
私が恨みの念を送っていると、黒鷺が振り返った。
「姉さん。ゆずりん先生はお仕事でお疲れだから、放してあげたら?」
「えー?」
「ゆずりん先生は、まだ夕食を食べてないんだよ?」
「それは大変!」
あっさりと解放され、思わずよろける。ここで、ようやく黒鷺が手を差し出した。恨みつらみを込めて手を掴む。
「大丈夫です?」
「大丈夫じゃないわ! それと、私の名前は柚鈴よ」
黒鷺は目を丸くした後、口を押えて吹き出した。
「それ、こんな状況でも言います?」
「大事なことよ!」
「はい、はい。とりあえず、ご飯をどうぞ」
「いや、私は帰る……」
「はい、どうぞ」
キンキンに冷えたビールが差し出される。視線をずらせば、テーブルに並んだ料理たち。
グゥ。
お腹は正直。複雑な気持ちもあるが、料理の前では全てが胃に落ちる。
私は渋々、椅子に座った。ここで食べないという選択肢は、私には出来ない!
「……いただきます」
「どうぞ」
まずは、ビールを一口。いつもより苦味を強く感じるけど、体はビールを欲している。こうなったら、ヤケ飲み!
ビールを一気に半分ほど飲んだところで、枝豆へ。塩加減が丁度いい。
次は、湯豆腐。一人用の土鍋に浮かぶ豆腐をすくって器へ。
ポン酢をつけて、刻み生姜をのせて、頬張る。ポン酢の酸っぱさが疲れた体に染みる。生姜のシャキシャキとした食感と、豆腐のほのかな甘みが絶妙に合わさる。
「……悔しいけど、美味しい」
「うん、おいしそう」
「うわっ」
真横に美女の顔。まっすぐ見つめてくる。私は体を引きながらも、食べる手は止めない。
そんな状況に黒鷺が笑った。
「姉さん、そんなに近づいたら食べにくいから、離れてあげて」
「こんなに、おいしそうに食べるのよ? 近くで見ていたいわ」
さっきから、ちょくちょく耳に入っていた単語。気になっていたんだけど……
「お、ねぇさんって……黒鷺君の?」
私は枝豆をくわえたまま、目の前の美女と黒鷺を交互に見た。特徴的な薄い茶色の目が似てる。それ以外は……顔立ちとかも、言われれば似てるかも。
そういえば、バックパッカーで世界を旅してる姉がいるって、前に黒鷺が話してたような…………
「はい。僕の姉です」
黒鷺の宣言に私の思考が凍りつく。
つまり、夏に私が粗相をした時に泊まった部屋と服は、この美女の物ってこと!? 勝手にいろいろ拝借したのに、私は……
美女が満面の笑みとともに、細く長い手を私に差し出した。
「天音の姉の美亜よ。よろしく」
「よ、よろしく……です。ミーア、さん」
握手をすると、そのまま手を引っ張られ抱きしめられた。
「ミーアって呼んで。敬語もなし、ね。でないと、離さないから」
「わ、わかった。わかったわ、ミーア」
名前を呼び捨てにして、敬語もなしにしたのにミーアは私を放さない。
黒鷺が離れた場所にワインと数種類のチーズがのった皿を置いた。
「はい。姉さんは、こっち」
「えー? ここに置いてよ」
「いいから、離れる。ゆすりん先生は姉さんより年上なんだから、ちゃんと節度をもって……」
「年上!? ワァオ! 日本人って若く見えるけど、ここまでなんて! 私より年上で、この可愛さは世界の宝よ!」
「世界? 宝? へ? いや、待って。私より年下なの?」
ミーアが豊満な胸を私に押し付ける。
(この迫力満点の美女が年下!?)
「姉さんは僕の三歳年上です」
「あ、年下だわ」
黒鷺の年齢は知らないけど、大学生の年齢から三年足しても私の年齢には届かない。
「ブラーヴォ! 素晴らしいわ!」
「か、顔は触らないで。化粧水が……あ、ちょっ、胸もダメ!」
「姉さん!」
ついに黒鷺が強制的にミーアを移動させた。うん、あの喜びかたはリクにも似てる。親子だ。
私がビールを飲んで一息吐くと、ミーアが不満気に頬を膨らませた。
「可愛いは正義なのよ! 正義の邪魔をしたら、あとが怖いんだからね!」
「じゃあ、明日の姉さんのクリスマスケーキは無しで」
「前言撤回。正義は明日のクリスマスケーキよ」
話が見えず首を傾げていると黒鷺が説明をした。
「姉さんは生クリームにイチゴがのったクリスマスケーキが大好物なんです」
「生クリームにイチゴって、ショートケーキと同じじゃない?」
「そう! あの、ふわっふわっなスポンジにふわっふわっな生クリーム! そこに甘酸っぱいイチゴ! ショートケーキこそ至高の宝!」
私はショートケーキと同レベルらしい。
私の生ぬるい視線に気づいたのか、黒鷺が補足する。
「ショートケーキは海外ではないんですよ。だから、姉さんは毎年、クリスマスケーキを食べるために日本に来るんです」
「ショートケーキは年中売ってるのに、どうして、わざわざクリスマスに?」
「それは、明日になれば分かります」
「……そう」
ちょっと気になるけど、これ以上自分から踏み込んではいけない気がする。
ミーアを覗き見すると、思考は明日のケーキに移ったらしく、ニコニコとワインを飲んでいた。
「あ、姉さん。今日は父さんの部屋で寝てくれる?」
「ん? なんで?」
「客室の準備が出来てないから、ゆずりん先生には姉さんの部屋で寝てもらうと思って」
「ぶほぉ!?」
私は飲んでいたビールを吹き出しかけた。
「わざわざ部屋を代わってもらうのは悪いわ! 私はそこのソファーでいいから」
「別に一緒に寝たらいいじゃない。ん、待ってよ。一緒に寝て私の匂いが混じるより、ゆずりん一人の匂いがついたほうがいいわね」
ぶつぶつ呟いていたミーアが頷いた。
「うん、いいわよ」
「ウインク付きの良い笑顔で、親指を立てないで!」
黒鷺がミーアに同意する。
「じゃあ、それで」
「それで、じゃない!」
なんか、もうツッコミが追いつかない。私は周囲を見ながら訊ねた。
「それに、リク医師は?」
「父さんは講演会のため県外にいます。明日、帰ってくる予定です」
「ゆずりん。私のベッド、しっかり使ってね」
ミーアがウインクとともに、見えないハートマークを飛ばす。断れない雰囲気と圧。
「え、えぇ……」
私は名前を訂正する気力もなかった。
※※
翌日の昼前。
私はオープンカフェでカフェオレを飲んでいた。
目の前は大通り。歩く人々から注目を浴びていた。そりゃあ、こんな美女がいたら見ちゃうよね。
私の前には優雅に珈琲を飲むミーア。茶色の柔らかな髪を自由に流し、長い睫毛を伏せてカップに口をつけている。
以前、見かけた時と同じダウンジャケットにジーパン。綺麗な姿勢で長い足を組んでいる姿は、どう見てもモデルだ。
私の視線に気が付いたのか、ミーアが顔をあげる。
「日本の珈琲もまあまあね。値段が高いけど」
「そうなの?」
「チップがないことを考えても、こういうカフェで飲むには、ちょっとお高めね」
「そう」
視線をカップに移した私に、ミーアが満足そうに笑う。
「やっぱり、その化粧の方がいいわ」
「そ、そう?」
「うん。似合ってるし、可愛い」
誉められて嬉しいけど、こうなった経緯を考えると、複雑な心境になる。
今朝は少し寝坊したけど、いつも通り化粧をしてからリビングに入った。すると、突然ミーアに買い物に行くよ、と連行された。
しかも行き先は、化粧品店。
そこで私は化粧を落とされ、ミーアと店員から化粧の指導をされた。
ファンデを五点に置いて、内側から外側に伸ばしていくなんて、学校で習ってない。というか、誰も教えてくれなかった。
そのあとは、眉の書き方、口紅の塗り方、色の選び方などなど……しかも、使った化粧品はもれなくミーアが購入。そして、手渡された。なぜ!?
こうして朝からドタバタした私は、オープンカフェで休憩をしていた。
「でも、化粧がいつもと違うせいか、なんか落ち着かないわ」
「そのうち慣れるわよ」
ミーアがニヤリと笑って私の背後に視線を向ける。
「ねぇ、天音?」
「えっ!?」
驚いて振り返ると、そこには口元を押さえて顔を背けている黒鷺の姿があった。
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