私の一番大切なもの

マッシ

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4. 私の一番大切なもの、良一の場所

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(私の一番大切なもの、良一の場合)

 僕の一番大切なもの。それは、あーちゃん、僕の母です。
 なぜあーちゃんと呼んでいたかと言えば、もちろん、父がそう呼んでいたからで……
 それに母の言っていたことを付け加えれば、僕が最初に口にした言葉が、あーちゃんだったそうです。
 真意はわかりませんが、でも母はそう呼んでくれたことが嬉しくて、それからも、
「あーちゃん、あーちゃんだよ」
とか言って、僕に言い聞かせるように話しかけていたそうです。
 他人から見れば、おかしな事かも知れませんが、僕からしてみれば「お母さん」と呼ぶ方が、あーちゃんが別人になってしまうような気がして、「お母さん」の意味を理解した今でも、それを直す気にはなれませんでした。

 自分にとって本当に大切なものを守るためだったら命なんかいらない。
 でもそう言ったら、あーちゃんは怒るでしょうね。
 でも僕の生き甲斐はあーちゃんに喜んでもらうことだった。
 あーちゃんの嬉しそうな顔。笑っている顔。
 僕はそれを見ていると何でもできる勇気が涌いてきた。
 あーちゃんがいなくなれば、僕は誰に喜んでもらえればいいんだ。
 誰に褒めてもらえればいいんだ。
 僕にとってそれが生き甲斐だったのに……
 生き甲斐。その反対は死に甲斐。
 僕はもう死んでしまっているのかも知れない。
 あーちゃん、僕はどうやって生きて行けばいいんだ。
 僕は蠍になれないよ。


(春の出来事)

 春の足音が聞こえてくるよ。
 しっかり歩けと叱るように、 時には走れと追い立てるように……
 春の足音がだんだん大きく響いてくるよ。
 春の日差しは悪戯坊主。
 暖かかく心地よい日の光は、もう春だよと眠っていた草木や虫たちを起こして回り
 草木や虫たちが、こっそり眠い目をこすりながら顔を出すと、いきなり冬の寒さで出迎える。

 今日の夜は、まだ肌寒くコートなしではいられない。
 桜のつぼみも寒そうにうな垂れている。
 父と食事するのは何か月ぶりだろう。
 そう思いながら良一は、少し緊張気味に後ろに控えて歩いていた。
「うまいんだぞ。ここの寿司は……」
 格子戸をくぐり、薄暗い石畳の小道をしばらく歩くと、格調高い和風作りの玄関にたどり着く。
 父親は勢いよく引き戸を引いた。
 そこには白木のカウンターと椅子、一息殺してしゃべるが、声の高い還暦を過ぎたような大柄の大将が、にこやかに迎えてくれた。
 父親は常連なのか、他の席には目もくれず、大将がいる真ん前、カウンターの真ん中に堂々と座った。
「早くこっちに来て座れよ……」
 良一はそう言われても、高級らしい寿司屋のカウンター席など座ったことなどなく、ファミリーレストランと違い近寄りがたいものがあった。
 それでも横に座り、手持ちぶささのように出されたおしぼりをとった。
 普段の食事は良一一人、父親と一緒に食事をすることはめったになかった。
 そして、珍しく早く帰って来たときには、こうして外食になる。
 しかし、その外食も年に二度三度と数えられるほどしかない。
「玄さん、今日の一品は何かね?」
「牡蠣か、そうだね、ゲソなんかもいいねー」
「じゃ、牡蠣とゲソもらおうかね。お前、生牡蠣食べられるか?」
 注文してから、訊いたことに良一はむっときたが、生牡蠣と言う大人の食べ物に、大人扱いされたような心地よい思いもあってか不機嫌に答えることはやめた。
「食べたことないよ」
「そうか。あーちゃんは好きだったぞ……」
「知らなかった……」
 良一は思いがけないその言葉に、まだ幼いころのことを思い出した。
「あーちゃん好きだったの……? 言ってくれれば、食べさせてあげたのに……」
「おまえが食べられないと思ったんだろう」
 父親は、前を向いたまま、無造作に言い放った。

 母親が最初の退院から自宅療養になると、良一が食事から洗濯、掃除と母親があまり動けない代わりに良一が家事を手伝うようになっていた。
 そうして手伝っているうちに、だんだんと料理も覚えて、一人でも作れるようになった。
 母親も具合が悪い中、良一が一人でも衣食住をまかなえる人間になるようにと根気よく、こと細かく教えていた。
 それが良一に与えられる最後の贈り物であり、親子の絆だったのかもしれない。
 良一もそれに答えた。
 もちろん食事においても、良一は早く元気になって欲しいという気持ちをこめて、母親の好きな食べ物を選んで作るようにしていた。
 しかし、その中に牡蠣は一度も出てこなかった。
「他に何が好きだった……?」
「寿司も大好きだったぞ……」
「そうだね。僕も好きだよ……」
 それから胸が締め付けられて、言葉が出なくなった。
 まもなく良一の世話の甲斐もなく母親は亡くなり、母親の遺産はしっかりと良一の中に刻まれ、自分ひとりの世話だけでなく、父親の面倒すら見られるほどの立派な中学三年生の主婦に成長していた。

 沈黙が続き、ただひたすらに寿司を二人で食べている間に、良一は前にもこんな雰囲気の外食があったことを思い出した。
 父親があえて値段の高そうな、それも高級と呼ばれる店を選ぶときは、決まって話しにくいことがあるときだった。
 前回はいつだっただろう、やはり高級フランス料理の店だった。
 そこで聞かされた話は、母親があと半年も持たないと言うことと、温泉のある高原のホスピスに移るという話だった。
 そして良一に、この街に残り学校に行くか、ホスピスに行き母親と一緒に過ごすかを選択させた。
 良一は迷わずホスピスに行くと言った。
 父親は、無表情に首を立てに振っただけだった。

 あの時に似ている。しかし、今の良一には怖いものがない。
 たとえ明日父親が死ぬと言われても、にこやかに、このとろけるようなトロの寿司を食べていられると良一は心の中で呟いていた。
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