私の一番大切なもの

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16. 紗恵子と二人と金縛り

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(紗恵子と二人と金縛り)

 それから二時間三時間、良一は受験問題集と取り組んでいるうちに口が渇いてきた。
 時計は午前1時を回っていた。
 もう誰も起きていないだろうと思いながらも暗い廊下に出てみると階段の下から薄明かりが漏れていた。
 良一は妙子の話が真っ先に思い起こされた。
 紗恵子さんが裸で一杯やっている。どうしよう……
 このチャンスを逃さないわけには行かない。明日はもう帰るのだから。
 知らない振りをしてそのまま下りて行けばいい……
 良一は階段を下りた。
 足の運びがいつしかそっと音を立てずに下ろしているのに気が付いた。
「これでは、まるで覗きだ……」
 良一は、もう一度姿勢を正して、普段どおりに階段を下りた。
 そして、キッチンの方に目をやるとそこには確かに紗恵子が缶ビールを一人で飲んでいた。
 風呂上りなのか濡れた髪が無造作に散らばり垂れた前髪が少し顔にかかり色っぽさを増していた。
 しかし、一糸まとわぬ姿ではなくパール色に輝くパジャマを着ていた。
「……、眠れないの?」
「口が渇いちゃって……」
「一杯やるー?」
 紗恵子は、缶ビールを差し出した。
「……、ビールはちょっと」
「前に飲んだことがあるみたいね……」
「ちょっとだけですけどねー、でも美味しくなかったし、後で頭が痛くなって大変だったんです。それからもいろいろためしたのですが、気持ちよくなる前に頭が割れそうに痛くなって、バカになりそうだったからやめたんです。お酒は僕には合わないみたいですー!」
 良一は自分の下心を隠すようにお喋りになった。
「そう、いろいろためしているのね。残念ね、一緒に飲みたかったのに……」
「お茶でよければお付き合いしますよ」
「そうね、冷蔵庫にいろいろあるからどうぞ……」
 良一はウーロン茶を持って紗恵子の前に座った。
「いつもこんなに遅くまで起きているんですか?」
「そうねー、お母さんに寝帰りというか向きを変えないとね。三時間おきに変えたいんだけど、なかなか出来ないわ……」
「エアーマットじゃないんですか?」
「エアーマットだけど、やっぱり床ずれが出来ちゃうみたいで、ずうと寝ていること事態無理があるのよ……」
「もう、良くならないんですか?」
 良一はここに来てから一番に質問したかったことを遠慮がちに小声で訊いた。
「悪いところは無いと思うんだけど、まだまだ脳は未知の分野で、私たちの使っている医療器械では探し出せない疾病があるんだと思う……」
「でも、脳死じゃあないでしょう?」
「そうよー、脳波を見ると大きな波形が出ていて、まるで夢を見ているみたいなの。深く長く覚めない夢……、どんな夢をみてるのかな……」
 紗恵子は少し微笑み、片足を椅子の上に上げて片手で膝を抱え、もう一つの手で缶ビールを口に運んだ。
 パジャマの襟元が膝に押されて斜めにはだけ、その間から白く透き通るような胸元が見えた。
 濡れた黒髪は普段にましてつややかに怪しく光り、そして小首をかしげて良一を見る紗恵子の目は細くうつろに宙を浮いているように見えた。
 良一は紗恵子を見ていると、その美しさに引き込まれるような力を感じていた。
 良一は生まれて始めて大人の女性を見たのかも知れない。
 それもこんなに悩ましげな格好をしている。
 これだけでも、この家に来てよかったと、心から思っていた。
 その時、自然に唇が緩んでゆくのを感じ、良一は慌ててグラスのお茶を口に押し込むと、体を引き締めるように立ち上がった。
「僕に出来ることがあったら、いつでもいってください……」
 良一は鼻の下を伸ばした締りの無い顔つきを紗恵子に見られてしまったのではないかと恥ずかしくなり、その場から逃げるように二階えと向った。
「…ありがとうー! おやすみ……」
 紗恵子は、なごり惜しそうに、良一を目で追いながら呟いた。

(金縛り)

 良一は再び自分の部屋に戻ると、紗恵子の生々しい湯上り姿を見たせいなのか、その夜はなかなか眠れず、昨日の出来事を思い出していた。
 そして、紗恵子のことも……
 突然、良一の上にのしかかってくる誰かに気が付いた。
 良一は思わず払いのけようと布団から起き上がろうとした。
 しかし体が動かない。どうしたんだ……?
「これが金縛り、なれない環境で心と体のバランスが崩れているのか……?」
 良一は、金縛りに逆らわずに体の力を抜いた。
「良一、良一、江崎良一、……」
 頭の中で誰かが呼んでいる。
「誰……?」
 思わず良一は、心の中で叫んだ。
「良一、君は生きている。体が温かい……」
「これは夢なんだ。ちょっと疲れていたかな……」
 良一は今の状況を自分なりに説明を付けた。
 そして、夢だと思うと心が軽くなり、体が宙に浮いているような心地よい気分を味わうことにした。
「僕は生きているよ。君は死んでいるのか?」
「そう、僕は死んでしまった……」
「死ぬってどういうこと?」
「君は頭を柱とか何か出っ張りのようなものにぶつけたことはないかい? ぶつけた瞬間、鈍い音と共に目の前が真っ暗になって、ジーンとする痛みと共にまた回りが見えてくる。それとこぶもだ……。でも、あの時、頭がつぶれていく鈍い音と暗闇は覚えているけど、あとの痛みはなかったよ。生きることがそれぞれ違うように、死ぬときもそれぞれ違うと思うけど……」
「でも、人は死ぬと天国とか地獄とか極楽とかに行くんじゃないの?」
「君は生まれた時のことを覚えているかい?」
「覚えていないけど……」
「じゃあ、眠る瞬間は?」
「眠くなるのは分かるけど眠る瞬間は意識できないよ……」
「もちろん、寝ている自分なんて見られないよね。それと同じで、多分、死ぬ瞬間も思い出せないと思うよ」
「つまり、どういうこと?」
「つまり、生も死も、起きるも眠るも同じこと。毎日朝起きる時が生まれた時、夜眠る時が死ぬ時と言うように考えるとしたら、毎日毎日生と死を繰り返している。そして、歳を取りよぼよぼの爺さんになって死んでゆき、またどこかで産声を上げる。そして年と共に死ぬ。人は本質的な魂というか命というものは何も変わっていないんじゃないかと僕は思うよ……」
「何かわかるような気がする。でも、そうすると君の存在は何なの?」
「僕の存在……。僕は、鈍い音と共に目の前が真っ暗になってから、気がつくと僕は紗恵子の横に立っていた。それで紗恵子と声を掛けても返事がない。よくよく自分を見たときに何もなかった。そして何も感じない。ただの心だけになってしまっていた。紗恵子を思う心だけになってしまった。」
「だから……?」
「だから僕は、本当は死んではいないんじゃないかと思う。でも生きてもいない。でも僕は目が覚めるように生まれた……」
「だから、何……?」

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