私の一番大切なもの

マッシ

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43. 朋子とピアノ

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(朋子とピアノ)

 家に帰った二人は、妙子の部屋で着替えながら、朋子に着せる服を選んでいた。
「でも、よかった。サイズは同じなのね。あたしのもの全部自由に使っていいから仲良くやりましょう。制服は明日からこれを着てってね」
「うん、ありがとう……」
 朋子はたくさんの服を借りられたことが嬉しくてニコニコして答えた。
「これから何をやるの?」
「私は、ピアノ……、明るいうちにやらないとね。朋子ちゃんも弾いてみる?」
「……、ピアノ嫌い。弾かないけど、聴いてみたいー!」
 二人はリビングに降りた。
「何かリクエストはある?」
「じゃ、妙ちゃんの得意なやを聴かせて……」
「得意な曲か……」
 妙子は、いつものようにピアノを弾き始めた。
 朋子は、ソファーに座り目を閉じていた。
 しかし、しばらくすると朋子は立ち上がって妙子の肩を叩いた。
「どうしたの……?」
 妙子は、弾くのをやめて朋子を見た。
「何か、つまらない……、何を思って弾いているの?」
「何も思ってないけど、とりあえず間違えないようにかな……、つまらないって言われても、ホップスじゃないから……、クラッシックなんてこんなものよ」
「ピアノ弾いていて楽しい?」
「楽しいって言えば、楽しいわよ。長い曲を終わりまで間違えずに弾けたときなんか、やったって感じで、征服感があるわねー!」
「じゃ、もっと楽しくなる方法教えてあげる。私にも弾かせて……」
 妙子は朋子に椅子を譲って、自分はソファーに腰を下ろした。
 朋子のピアノは最初の音から違った。
 そして1分もしないうちに妙子の心をつかんだ。
「え、なに……、朋子ちゃん凄いー! 私より全然ピアノ上手じゃない。ピアノ嫌いって言ってたのに……」
 妙子はだまされたと思って少し憤慨した。
「曲は、物語なのよ。そこには人の悲しみや喜びや、自然のいとなみなんかもあるよね。だから私は、音を探して弾くの。人の笑い声の音、鳴き声の音、考え込む音、木の葉の舞い散る音、それを集めて一曲にするのよ。だから本当は凄く楽しいの……、でも曲の心がつかめないときは苦しいけど……」
 朋子は、弾きながら、なおも話を続けた。
「この間なんか、リストのジプシーの曲がわからなくて、ジプシーになったの。朝から何も食べずに町の中をうろうろして、地べたに座って道行く人を何時間でも見ていたり、公園の草むらで寝てみたり……、ちょっと楽しかった。でも、夜まで何も食べなかったからお腹がすいて、辛かった。でも、晩ご飯を食べて、生き返った思いがしたわ。ご飯がこんなにありがたいものだとは思わなかった。それから、外で寝たの。とても冷たくて、怖かったのよ……」
 朋子のピアノは、それを物語るように歌っているように聴こえた。
 妙子は、もう一度朋子の後ろに立った。
「そこまでしなくてもよかったんじゃい。いくら真似をしても本当のジプシーの心なんてわかるはずないから……」
 妙子は、当たり前のことを言ったが、自分より遥かに上手な朋子に嫉妬していると思った。
「そうね。全部が全部わからないと思うけど、ジプシーの真似をしなかったときと、その後では、曲の考え方が変わったのよ。彼らは、定住していないから、いつも不安と隣りあわせ。だから、喜びも、一夜で爆発させて、また次の土地に移動しなければならない。悲しみも、一度泣くだけ。いつまでも引きずっていては、明日生きていけない。それに、満足な食事もできないから、きっと体力もあまりないと思うし、喜びも悲しみもすぐに疲れてしまう。そして後は眠るだけ……、夢を見ているときが一番幸せかもしれない……」
 朋子は、ピアノを弾きながら大げさに体をゆすって、時には力強く、時には倒れこむように力なく、ジプシーが乗り移ったように弾いて見せた。
 妙子は、その様子を見ながら笑っていた。

「それじゃ、死んだ人とか、悪魔とか、失恋とか、恋とか、どうするの? 恋しているの?」
 妙子の言葉が終わらないうちに朋子は、椅子からそのまま床に倒れこんだ。
 妙子は驚いて駆け寄り、朋子を抱きかかえると大きく揺り動かした。
「朋子ちゃん!」
「……、私、死んでいるの……」
「もー、脅かさないでよー!」
 大丈夫だとわかると妙子は、抱きかかえていた朋子を床の上にそっと仰向けに寝かした。
 それから妙子も床に座ったまま、死んだように眠っている朋子を見つめた。
 これが私の母なのだと思いながら、今でも信じられない気持ちで一杯だった。
「ね、キスして……」
「え、何いっているの?」
「良一とはもうキスした?」
「してないわよー! 良一とはそういう関係じゃないから……」
「どうして、キスしないの? 私はしたいな……」
「朋子ちゃんは、キスしたことあるの?」
「あるわよ! お母さんと、でも良一とならしてもいいな。これって恋よね」
 妙子はなんちゅう親だと思いながら、朋子から目線をそらした。
「そうかもしれないけど、良一のどこがいいの……?」
 朋子は起き上がり、妙子と向き合って、同じように床に座った。
「やさしいところ……。私が疲れた顔をしたら、すぐにおんぶしてくれた。何か、一緒にいるとほっとするの。肩肘張らなくていいって感じ……、何かとても自然なのよ……、いつも一緒にいたいな」
 朋子は、妙子に近づき、顔を見つめた。
「おんぶしたの? 下心があるんじゃないの? でも、そうね。良一ならそんな感じね。でも、それって恋っていうのかな? カッコいい男の子の前だと緊張するじゃない。胸も変にドキドキしたりして、その日は一日ウキウキして弾んだ気持ちになったりして、良一にはそんな感じは沸かないし、あまりにも慣れてしまった感じはあるけど……」
 朋子は、なおも妙子の顔に近づいた。
「そうよ。慣れちゃったのよ。だって一緒に暮らしているから……」
 妙子は顔を寄せてくる朋子から顔をそむけた。
「何か、それも寂しいわね。私、このまま、もし良一と結婚したら、ときめくような恋を知らずにおわちゃうわ。そんなのやだな……」

「今すぐ結婚まで考えなくてもいいけど、一度キスしてもらったら? 何か変わるかもしれないわよ……」
 朋子は、逃げようとする妙子の肩を両手でつかんだ。
「良一とキス……! 何も感じないと思うわ……」
 朋子はもう一度、妙子の顔に、顔を近づいた。
「キスするとどんな気持ちになると思う……?」
 朋子は真剣なまなざしを妙子に向けた。
「女同士でキスしても何も感じないと思うわー!」
「女同士で愛する人たちもいるわ……」
 朋子は、なおも体を妙子に近づけながら、軽く目をとじて妙子の唇に迫った。
「どう、何か感じない……?」

 妙子の唇まで一センチのところで朋子が訊いた。
「何も感じないわ……」
 妙子は、朋子の行動を阻止することもなく逃げることもなく、ただ床に座ったまま、次の朋子の行動を待っていた。
 朋子は、何も感じないと言う妙子の言葉に挑発されるように、一瞬だけ妙子の唇に唇を重ねた。
「何か感じた……?」
「何も感じないわ……」
 事実、妙子は何も感じていなかった。
 それが母である朋子のせいかもしれないと思っていた。
 そういえば幼児期、何かにつけ母とキスをしていたことを思い出した。
 そうだ、小さいときなら良一とも何度もキスしたことあるんだと妙子は思い出した。
「私、キスに慣れているのかな?」と妙子は呟いた。
「じゃ、これは……」
 朋子は、今度はしっかりと唇を合わせたあと舌を妙子の唇の間に滑り込ませた。
 これには妙子もびっくりして朋子の唇からはなれた。
「どう、感じた……」
「感じないけど……、舌を入れるの?」
「そうよ。キスは唇と舌で感じるものなのよ」
「誰に教わったの?」
「おかあさん……」
「なんちゅう親だー!」
「でも、気持ちよくない?」
「気持ちいいの? よくわからないわ……」
「じゃ、もう一度……」
 朋子がもう一度キスをしようとしたときに玄関の開く音がした。
「良一が帰ってきた!」
 妙子は慌てて立ち上がり、朋子から逃げるように良一を玄関まで迎えに出た。
「お帰り、今日の夜ご飯はなに……?」
「まだ、考えてないけど……、それよりお母さんは元気……?」
「どっちのお母さん?」
「どっちも……」
「どっちも元気……」
 この出来事があってから、妙子はピアノの音作りを考え、懸命に励んだ。
 曲の気持ち、作曲家の気持ちを考えながら、そして自分の気持ちで語られる音を探した。
 そう考えると朋子の言うように難しい。
 五線紙の音符が一つ一つ言葉になって語りだしてくる。
 それに答えるだけの技量も心も妙子にはないと思った。
 想像しなければと焦るけれども、想像の種すらなかった。
 しかし、朋子は前より心の変化が感じられると言って、喜んで妙子のピアノを聴いていた。
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