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「……私の国へ来ないか、と言いましたの?」
私は、空になった皿をテーブルに置き、目の前の美男子をじろじろと眺めました。
整った顔立ち、高級そうな衣服、そして何より、私の劇物……ではなく至高の煮込みを食べて死んでいないという強靭な胃袋。
この男、ただ者ではありませんわ。
「そうだ。私はアリスティア・フォン・スパイス。隣国スパイス連邦の公爵を務めている」
「……スパイス公爵? あの一年中カレーの匂いがすると噂の、軍事大国の?」
「匂いのくだりは風評被害だが、概ね合っている。私はある事件以来、味覚の大部分を失っていてね。何を食べても砂を噛むような日々だったのだ。だが……」
アリスティア様は、自分の唇を指先でなぞりました。
「君の料理を食べた瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。痛み、熱さ、そして微かに感じる旨味……。失われていた私の世界に、鮮やかな『赤』が戻ってきたんだ!」
「それは良かったですわね。でも、私を連れて行ってどうするおつもり?」
「我が国で、私の専属料理人……いや、食の顧問になってほしい。報酬は望むままだ。金、地位、あるいは……」
彼は一度言葉を切り、私の鞄から覗いている唐辛子の瓶を見つめました。
「最高級の乾燥ジョロキアを、毎月君の体重分だけ支給しよう」
「契約成立ですわ! 今すぐ行きましょう!」
私は椅子を蹴って立ち上がりました。
迷う理由などありません。体重分のジョロキア。それはもはや、この世の楽園の招待状ですわ。
「話が早くて助かる。……だが、君は本当に『元・悪役令嬢』なのか? 王宮を追放された身だと?」
「ええ。つい数時間前に、婚約者の王太子殿下から高らかに宣言されましたわ。ついでにガッツポーズも決めてきましたの」
私が胸を張って答えると、アリスティア様は少しだけ困惑したような表情を浮かべました。
「……普通、令嬢というのは、婚約破棄されたら泣き崩れるものではないのか?」
「あら、そんな無駄な水分を排出する余裕があったら、激辛スープを飲んで良い汗を流すべきですわ。お父様も仰っていましたもの。『泣いて解決するなら、世界中の玉ねぎは絶滅している』と」
私の脳裏に、出発直前の父との会話が蘇ります。
……
「テリーヌよ、お前が婚約破棄されたと聞いて、私は安心したぞ」
お父様は、地下倉庫でスパイスを詰め込む私に、優しい(?)声をかけてくれました。
「安心、ですの?」
「ああ。お前があの退屈な王太子の妻になり、一生薄味のスープを啜って生きるのかと思うと、父は夜も眠れなかった。グラタン家の女は、常に舌の上で火を吹いていなければならん」
「お父様……」
「これを持っていけ。我が家が三代かけて品種改良した『死を招く紅(くれない)』の種だ。これを他国で育て、新たな戦場……いや、食卓を築くのだ」
「分かりましたわ。私、立派な劇物……美味しい料理を作る令嬢になってみせます!」
……
そんな感動的な(?)別れを経て、私は今ここにいるのです。
「というわけで、私は今、完全に自由な身なのですわ。追っ手も来ないでしょうし」
「……いや、それはどうかな。王宮の入り口で君が裸足で爆走していたという報告は、既に私の耳にも入っているが」
アリスティア様が、苦笑混じりに言いました。
「君のような……その、独創的な人材を、あの国が本当に手放すとは思えない。事務能力も極めて高かったと聞いているしな」
「あら、私の事務処理が早かったのは、早く帰って辛いものを食べたかったからですわよ? 目的を失った今の私があの書類の山に戻ったら、間違いなく三日で白目を剥きますわ」
「ははは! 気に入った。君のその『刺激』に対する執着心、我が国には最も必要なものだ」
アリスティア様は、私に向かって優雅に手を差し伸べました。
その仕草は紛れもなく高貴な貴族のものですが、漂う殺気……いえ、スパイスの気配が私を安心させます。
「行こう、テリーヌ嬢。君の新しい厨房は、ここから馬を飛ばしてすぐの場所にある」
「分かりましたわ、公爵様。あ、その前に……」
「なんだ?」
「お代、公爵様のツケにしておいてもよろしいかしら? 私、全財産をスパイスに換えてしまったので、現金が一銭もありませんの」
「……ああ、構わない。君のこれからの働きで、いくらでも返してもらうさ」
こうして私は、一国の公爵様に借金を背負わせるという、悪役令嬢らしい(?)第一歩を隣国で踏み出したのでした。
夜の街道を、二騎の馬が駆けていきます。
私の背中のスパイスが、カチャカチャと心地よいリズムを刻んでいました。
私は、空になった皿をテーブルに置き、目の前の美男子をじろじろと眺めました。
整った顔立ち、高級そうな衣服、そして何より、私の劇物……ではなく至高の煮込みを食べて死んでいないという強靭な胃袋。
この男、ただ者ではありませんわ。
「そうだ。私はアリスティア・フォン・スパイス。隣国スパイス連邦の公爵を務めている」
「……スパイス公爵? あの一年中カレーの匂いがすると噂の、軍事大国の?」
「匂いのくだりは風評被害だが、概ね合っている。私はある事件以来、味覚の大部分を失っていてね。何を食べても砂を噛むような日々だったのだ。だが……」
アリスティア様は、自分の唇を指先でなぞりました。
「君の料理を食べた瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。痛み、熱さ、そして微かに感じる旨味……。失われていた私の世界に、鮮やかな『赤』が戻ってきたんだ!」
「それは良かったですわね。でも、私を連れて行ってどうするおつもり?」
「我が国で、私の専属料理人……いや、食の顧問になってほしい。報酬は望むままだ。金、地位、あるいは……」
彼は一度言葉を切り、私の鞄から覗いている唐辛子の瓶を見つめました。
「最高級の乾燥ジョロキアを、毎月君の体重分だけ支給しよう」
「契約成立ですわ! 今すぐ行きましょう!」
私は椅子を蹴って立ち上がりました。
迷う理由などありません。体重分のジョロキア。それはもはや、この世の楽園の招待状ですわ。
「話が早くて助かる。……だが、君は本当に『元・悪役令嬢』なのか? 王宮を追放された身だと?」
「ええ。つい数時間前に、婚約者の王太子殿下から高らかに宣言されましたわ。ついでにガッツポーズも決めてきましたの」
私が胸を張って答えると、アリスティア様は少しだけ困惑したような表情を浮かべました。
「……普通、令嬢というのは、婚約破棄されたら泣き崩れるものではないのか?」
「あら、そんな無駄な水分を排出する余裕があったら、激辛スープを飲んで良い汗を流すべきですわ。お父様も仰っていましたもの。『泣いて解決するなら、世界中の玉ねぎは絶滅している』と」
私の脳裏に、出発直前の父との会話が蘇ります。
……
「テリーヌよ、お前が婚約破棄されたと聞いて、私は安心したぞ」
お父様は、地下倉庫でスパイスを詰め込む私に、優しい(?)声をかけてくれました。
「安心、ですの?」
「ああ。お前があの退屈な王太子の妻になり、一生薄味のスープを啜って生きるのかと思うと、父は夜も眠れなかった。グラタン家の女は、常に舌の上で火を吹いていなければならん」
「お父様……」
「これを持っていけ。我が家が三代かけて品種改良した『死を招く紅(くれない)』の種だ。これを他国で育て、新たな戦場……いや、食卓を築くのだ」
「分かりましたわ。私、立派な劇物……美味しい料理を作る令嬢になってみせます!」
……
そんな感動的な(?)別れを経て、私は今ここにいるのです。
「というわけで、私は今、完全に自由な身なのですわ。追っ手も来ないでしょうし」
「……いや、それはどうかな。王宮の入り口で君が裸足で爆走していたという報告は、既に私の耳にも入っているが」
アリスティア様が、苦笑混じりに言いました。
「君のような……その、独創的な人材を、あの国が本当に手放すとは思えない。事務能力も極めて高かったと聞いているしな」
「あら、私の事務処理が早かったのは、早く帰って辛いものを食べたかったからですわよ? 目的を失った今の私があの書類の山に戻ったら、間違いなく三日で白目を剥きますわ」
「ははは! 気に入った。君のその『刺激』に対する執着心、我が国には最も必要なものだ」
アリスティア様は、私に向かって優雅に手を差し伸べました。
その仕草は紛れもなく高貴な貴族のものですが、漂う殺気……いえ、スパイスの気配が私を安心させます。
「行こう、テリーヌ嬢。君の新しい厨房は、ここから馬を飛ばしてすぐの場所にある」
「分かりましたわ、公爵様。あ、その前に……」
「なんだ?」
「お代、公爵様のツケにしておいてもよろしいかしら? 私、全財産をスパイスに換えてしまったので、現金が一銭もありませんの」
「……ああ、構わない。君のこれからの働きで、いくらでも返してもらうさ」
こうして私は、一国の公爵様に借金を背負わせるという、悪役令嬢らしい(?)第一歩を隣国で踏み出したのでした。
夜の街道を、二騎の馬が駆けていきます。
私の背中のスパイスが、カチャカチャと心地よいリズムを刻んでいました。
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