婚約破棄のにガッツポーズして「お幸せに!」と爆走退場する。

ちゃっぴー

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「……おい。これは、一体どういう状況だ」

 王太子ジュリアン・ド・ショコラは、執務机に突っ伏したまま、呻くような声を上げました。

 かつてはテリーヌによって完璧に整理整頓されていたその部屋は、今や崩落寸前の「紙の山」と化しています。
 天井まで届きそうな書類の塔が、窓から吹き込む風で危うく揺れていました。

「報告します、殿下! 隣国との関税交渉に関する重要書類が、依然として行方不明です!」

「こちらでも問題が! 地方領主への補助金支給が三日遅れており、門前には抗議の使者が並んでおります!」

「……テリーヌはどうした。あいつを呼べ」

 ジュリアンが力なく呟くと、側近の文官が顔を真っ青にして首を振りました。

「殿下、お忘れですか。テリーヌ様は四日前、殿下自らが『不快だから失せろ』と仰って追放されたではありませんか」

「……そうだった。だが、あいつがいなければ、この程度の事務処理も終わらんのか、貴様らは!」

「滅相もございません! しかし、テリーヌ様の処理速度は異常だったのです!」

 文官は、テリーヌが残した最後の一枚のメモを震える手で差し出しました。

「ご覧ください。これは昨年度の決算報告書ですが、余白にこう書かれています……。『この数字の並び、まるで豆板醤の粒のようでイライラしますわ。一時間で修正して差し上げましたわよ。ホホホ』……と」

「一時間だと!? これ、熟練の会計官が三人がかりで一週間かかる量だぞ!」

「彼女は、趣味のスパイス研究のために一秒でも早く退勤したかったらしく、独自の計算術(スパイス・マスマティクス)を編み出していたようです。我々には、その数式が暗号にしか見えません!」

 ジュリアンは頭を抱えました。
 彼にとってテリーヌは、いつも「辛い」「痛い」「刺激を!」と騒ぎ立てる、公爵令嬢らしからぬ変人でした。

 しかし、その変人が、王宮という巨大な歯車に「最高級の潤滑油」を注ぎ続けていたことに、失って初めて気づいたのです。

 そこへ、パタパタと軽い足音を立てて、聖女シャルロットが入ってきました。

「ジュリアン様ぁ! 聞いてください! 今日のティータイムに出されたマカロン、なんだか味がボヤけていて美味しくありませんわ!」

「……シャルロット。今、それどころではないんだ」

「えぇーっ! 酷いです! テリーヌ様がいなくなったら、もっと素敵な毎日が待っているって言ったじゃないですか!」

 シャルロットはプンプンと頬を膨らませて、机の上の書類を適当に払い除けました。
 その拍子に、山積みの書類が崩落し、ジュリアンを埋め尽くします。

「ああっ、私の重要書類が……!」

「そんな紙切れより、私を構ってください! あ、そうだ。テリーヌ様が隠していたっていう『幻の蜂蜜』、厨房で見つかったんですよ? でも、それを食べた料理人が、なぜか泡を吹いて倒れちゃって……」

「それは蜂蜜ではない。彼女が開発した『激辛ハニー・デス・シロップ』だ。触るなと言っただろう!」

「もう! テリーヌ様って本当に意地悪! どうしてあんなに辛いものばかり残していくんですか!」

 シャルロットの文句を聞きながら、ジュリアンはふと、自分の中に芽生えた「ある感情」に気づきました。

(……静かだ)

 テリーヌがいなくなった王宮は、確かに静かになりました。
 あの耳障りな高笑いも、鼻をつく唐辛子の臭いも、理不尽なまでのエネルギーもありません。

 しかし、同時に。
 すべてが「無味乾燥」になってしまったような気がしたのです。

 シャルロットとの甘い生活は、確かに望んでいたものでした。
 ですが、砂糖だけを舐め続けるような日々に、彼は早くも胃もたれを感じ始めていたのでした。

「……事務官。テリーヌは今、どこにいる」

「はっ。隣国のスパイス公爵、アリスティア様の保護下にあるとのことです。……どうやら、向こうの厨房を文字通り『炎上』させて楽しんでいるとか」

「あいつ……! あんな味覚のない冷血漢のところで、何をしているんだ!」

 ジュリアンの心に、どす黒い嫉妬のスパイスが振りかけられました。
 それは決して「愛」などという綺麗なものではなく、便利な道具を奪われた子供の独占欲に近いものでしたが。

「……許さん。テリーヌは私の婚約者だ。連れ戻す。連れ戻して、この山のような書類を全部あいつに叩きつけてやる!」

「ええっ、ジュリアン様!? 私を見捨てるんですか!?」

「うるさい、シャルロット! お前も、少しは計算の一点でも覚えてから来い!」

「ひどいっ! ジュリアン様のバカーッ!!」

 かつて「真実の愛」を誓い合った二人の間に、大きな亀裂が入った瞬間でした。

 愛よりも実利。
 甘い夢よりも、ピリリと辛い現実の事務処理能力。

 愚かな王太子は、ようやく自分のしでかした失態の大きさに、顔を真っ赤にして悶絶し始めたのでした。
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