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「……テリーヌ! テリーヌ・フォン・グラタン! そこにいるのは分かっているぞ!」
スパイス公爵邸の優雅な正門前。
そこに立っていたのは、かつての私の婚約者、ジュリアン・ド・ショコラ王太子殿下でした。
……いえ、立っているというよりは、今にも膝から崩れ落ちそうなほどフラフラの状態です。
目の下には真っ黒なクマが刻まれ、あんなに自慢していた金髪はボサボサ。
王族の威厳などどこへやら、今の彼は「一週間不眠不休で働かされた下っ端役人」のようなオーラを放っていました。
私はちょうど、中庭で新作の『デス・ペッパー・ソース』を天日干しにしていたところでした。
「あら。どちらの亡霊かと思えば、殿下ではありませんか。そんなところで何をなさっているの? ここは隣国ですわよ」
「……っ、テリーヌ! やはりここにいたのか! 探したぞ……いや、探すまでもなかった。国境を越えた瞬間、風に乗って貴様の吐き気のするような唐辛子の臭いが漂ってきたからな!」
「失礼ね。これは、嗅ぐだけで血管が拡張し、寿命が三日延びると言われている聖なる香りですわ」
私は、手に持っていた真っ赤なソースの瓶を振り回しながら、門のところまで歩いていきました。
「それで? わざわざ国境を越えて、私を捕らえにでもいらしたのかしら? それとも、聖女様とのお熱い生活の報告会?」
「……ふん。シャルロットなら、先にここへ来ているのだろう? あいつもあいつだ、親善大使の役目も果たさず、勝手に潜伏しおって」
ジュリアン殿下は、恨めしそうに屋敷を睨みつけました。
「いいか、テリーヌ。貴様の罪は重いぞ。王宮の事務作業を、あんな複雑怪奇な『スパイシー暗号』で残していきおって! 会計士も文官も、誰一人として今月の予算を算出できんのだ!」
「あら、それは困りましたわね。でも、あれは慣れれば簡単ですわよ? ハバネロは『百万単位』、ジョロキアは『一千万単位』と数えれば良いだけですもの」
「数えられるか! なぜ予算書に唐辛子の名前が出てくるんだ!」
殿下は、ついに膝をつきました。
そして、情けない声を上げて私に手を伸ばしたのです。
「……テリーヌ。もういい、許してやる。あの時の婚約破棄は、私の判断ミス……いや、ちょっとした気まぐれだった。だから、今すぐ荷物をまとめて戻ってこい。あの書類の山を片付けてくれたら、貴様を『事務担当側妃』として遇してやってもいいぞ」
「……事務担当、側妃?」
あまりの物言い(というか、あまりの図々しさ)に、私は開いた口が塞がりませんでした。
「そうですわね。……側妃になって、毎日殿下の代わりに書類を書き、夜は薄味の上品な料理を無理やり食べさせられる……。……想像しただけで、全身に蕁麻疹が出そうですわ」
「な、なんだと……!? 王太子の慈悲を断るというのか!」
「お断りしますわ! 私は今、この国の『食の革命児』として、かつてないほど充実した日々を送っていますの。事務仕事は、アリスティア様の領地の収支を『激辛・中辛・甘口』に分類するだけで終わりますし、何より……」
私は、背後から近づいてきた大きな影を感じ、微笑みました。
「……私の料理を、心から愛してくれるパートナーがいますもの」
「……その通りだ、ジュリアン王太子殿下」
アリスティア様が、私の肩を抱くようにして現れました。
彼はジュリアン殿下を冷徹な瞳で見下ろし、低い声で告げました。
「私のテリーヌに、不衛生な書類の山を押し付けようなど……軍神の名に懸けて、万死に値する無礼だな」
「ア、アリスティア公爵……! 貴様、いつからそんなにテリーヌと親しく……!」
「ついさっき、指先に誓いの口づけを交わしたところだ。文句があるなら、我が国の軍事力をもって聞き届けようか?」
「…………っ!」
アリスティア様の放つ圧倒的な殺気(と、微かなスパイスの刺激)に、ジュリアン殿下は顔を真っ青にして後ずさりしました。
「あ、ありえん……! テリーヌのような、可愛げも刺激もない……いや、刺激しかない狂女を、なぜ貴様のような男が……!」
「……殿下。最後に一つ、アドバイスを差し上げますわ」
私は、鞄から「お土産」として用意していた特製のクッキーを一袋、門の隙間から投げつけました。
「それを食べて、頭を冷やしなさいな。あ、間違えました。頭ではなく、胃袋が燃え尽きるかもしれませんわね。……ホホホホ!」
「ぎ、ぎゃあああ! クッキーから煙が出ているぞ! テリーヌ、貴様ぁぁ!」
ジュリアン殿下は、クッキーの袋を抱えたまま、尻餅をついて逃げ去っていきました。
その背中は、かつての威厳など欠片も感じさせない、哀れな負け犬そのものでした。
「……ふぅ。これで少しは静かになりますわね」
「……テリーヌ。あんな男、追いかける価値もない。……それより、さっきの『パートナー』という言葉……もう一度聞かせてもらえないだろうか」
アリスティア様が、少しだけ照れたように私の顔を覗き込んできます。
「あら、一度しか言いませんわよ。……さあ、夕食の仕込みに戻りましょう! 今日はアリスティア様の味覚を完全に覚醒させる、『スーパーノヴァ・キムチ』を作る予定ですから!」
「……スーパーノヴァか。死ぬ気で完食しよう」
私たちは、幸せな(そして非常に辛そうな)笑みを交わし、屋敷の中へと戻っていきました。
一方、逃げ帰ったジュリアン殿下。
あまりの空腹に耐えかね、道端で私が投げたクッキーを一口齧り……。
「……がはぁぁぁぁッ!! 水! 誰か、水をぉぉぉぉ!!」
隣国の街道に、王太子の悲痛な叫びが響き渡りましたが、誰も彼を助ける者はいなかったのでした。
スパイス公爵邸の優雅な正門前。
そこに立っていたのは、かつての私の婚約者、ジュリアン・ド・ショコラ王太子殿下でした。
……いえ、立っているというよりは、今にも膝から崩れ落ちそうなほどフラフラの状態です。
目の下には真っ黒なクマが刻まれ、あんなに自慢していた金髪はボサボサ。
王族の威厳などどこへやら、今の彼は「一週間不眠不休で働かされた下っ端役人」のようなオーラを放っていました。
私はちょうど、中庭で新作の『デス・ペッパー・ソース』を天日干しにしていたところでした。
「あら。どちらの亡霊かと思えば、殿下ではありませんか。そんなところで何をなさっているの? ここは隣国ですわよ」
「……っ、テリーヌ! やはりここにいたのか! 探したぞ……いや、探すまでもなかった。国境を越えた瞬間、風に乗って貴様の吐き気のするような唐辛子の臭いが漂ってきたからな!」
「失礼ね。これは、嗅ぐだけで血管が拡張し、寿命が三日延びると言われている聖なる香りですわ」
私は、手に持っていた真っ赤なソースの瓶を振り回しながら、門のところまで歩いていきました。
「それで? わざわざ国境を越えて、私を捕らえにでもいらしたのかしら? それとも、聖女様とのお熱い生活の報告会?」
「……ふん。シャルロットなら、先にここへ来ているのだろう? あいつもあいつだ、親善大使の役目も果たさず、勝手に潜伏しおって」
ジュリアン殿下は、恨めしそうに屋敷を睨みつけました。
「いいか、テリーヌ。貴様の罪は重いぞ。王宮の事務作業を、あんな複雑怪奇な『スパイシー暗号』で残していきおって! 会計士も文官も、誰一人として今月の予算を算出できんのだ!」
「あら、それは困りましたわね。でも、あれは慣れれば簡単ですわよ? ハバネロは『百万単位』、ジョロキアは『一千万単位』と数えれば良いだけですもの」
「数えられるか! なぜ予算書に唐辛子の名前が出てくるんだ!」
殿下は、ついに膝をつきました。
そして、情けない声を上げて私に手を伸ばしたのです。
「……テリーヌ。もういい、許してやる。あの時の婚約破棄は、私の判断ミス……いや、ちょっとした気まぐれだった。だから、今すぐ荷物をまとめて戻ってこい。あの書類の山を片付けてくれたら、貴様を『事務担当側妃』として遇してやってもいいぞ」
「……事務担当、側妃?」
あまりの物言い(というか、あまりの図々しさ)に、私は開いた口が塞がりませんでした。
「そうですわね。……側妃になって、毎日殿下の代わりに書類を書き、夜は薄味の上品な料理を無理やり食べさせられる……。……想像しただけで、全身に蕁麻疹が出そうですわ」
「な、なんだと……!? 王太子の慈悲を断るというのか!」
「お断りしますわ! 私は今、この国の『食の革命児』として、かつてないほど充実した日々を送っていますの。事務仕事は、アリスティア様の領地の収支を『激辛・中辛・甘口』に分類するだけで終わりますし、何より……」
私は、背後から近づいてきた大きな影を感じ、微笑みました。
「……私の料理を、心から愛してくれるパートナーがいますもの」
「……その通りだ、ジュリアン王太子殿下」
アリスティア様が、私の肩を抱くようにして現れました。
彼はジュリアン殿下を冷徹な瞳で見下ろし、低い声で告げました。
「私のテリーヌに、不衛生な書類の山を押し付けようなど……軍神の名に懸けて、万死に値する無礼だな」
「ア、アリスティア公爵……! 貴様、いつからそんなにテリーヌと親しく……!」
「ついさっき、指先に誓いの口づけを交わしたところだ。文句があるなら、我が国の軍事力をもって聞き届けようか?」
「…………っ!」
アリスティア様の放つ圧倒的な殺気(と、微かなスパイスの刺激)に、ジュリアン殿下は顔を真っ青にして後ずさりしました。
「あ、ありえん……! テリーヌのような、可愛げも刺激もない……いや、刺激しかない狂女を、なぜ貴様のような男が……!」
「……殿下。最後に一つ、アドバイスを差し上げますわ」
私は、鞄から「お土産」として用意していた特製のクッキーを一袋、門の隙間から投げつけました。
「それを食べて、頭を冷やしなさいな。あ、間違えました。頭ではなく、胃袋が燃え尽きるかもしれませんわね。……ホホホホ!」
「ぎ、ぎゃあああ! クッキーから煙が出ているぞ! テリーヌ、貴様ぁぁ!」
ジュリアン殿下は、クッキーの袋を抱えたまま、尻餅をついて逃げ去っていきました。
その背中は、かつての威厳など欠片も感じさせない、哀れな負け犬そのものでした。
「……ふぅ。これで少しは静かになりますわね」
「……テリーヌ。あんな男、追いかける価値もない。……それより、さっきの『パートナー』という言葉……もう一度聞かせてもらえないだろうか」
アリスティア様が、少しだけ照れたように私の顔を覗き込んできます。
「あら、一度しか言いませんわよ。……さあ、夕食の仕込みに戻りましょう! 今日はアリスティア様の味覚を完全に覚醒させる、『スーパーノヴァ・キムチ』を作る予定ですから!」
「……スーパーノヴァか。死ぬ気で完食しよう」
私たちは、幸せな(そして非常に辛そうな)笑みを交わし、屋敷の中へと戻っていきました。
一方、逃げ帰ったジュリアン殿下。
あまりの空腹に耐えかね、道端で私が投げたクッキーを一口齧り……。
「……がはぁぁぁぁッ!! 水! 誰か、水をぉぉぉぉ!!」
隣国の街道に、王太子の悲痛な叫びが響き渡りましたが、誰も彼を助ける者はいなかったのでした。
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