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翌朝。アステリア公爵邸の食堂には、朝からありえない匂いが立ち込めていた。
芳醇なバター、焦げた醤油、そして分厚いベーコンが焼ける暴力的な香りだ。
私が席に着くと、目の前には「山積みのトースト(バター別添え)」と「エッグベネディクト(マヨネーズ増量)」、そして「大盛りポテトサラダ」が並べられた。
「……おはようございますわ、お父様。素晴らしい朝ですわね」
私が優雅に(ただし手元は素早く)ナイフとフォークを動かしていると、向かいの席で青白い顔をした父、アステリア公爵がコーヒーを啜りながら私を見ていた。
「……エリチカ。お前、昨夜からずっと食べていないか?」
「失礼な。深夜二時から四時までは、しっかり消化のために睡眠を取りましたわ。おかげで今の私は、生まれたての小鳥のように胃袋が空っぽですの」
「小鳥はそんなにベーコンを食べないと思うぞ……」
お父様は深い溜息をつき、数枚の書類をテーブルに置いた。
「昨夜の婚約破棄の件だ。王宮からは正式に受理したとの連絡があった。セドリック殿下は、リリアーヌ嬢との仲を公認させるために必死のようだが……問題はお前だ」
「私? 私は見ての通り、人生で一番幸せな瞬間(とき)を過ごしておりますが」
私は半熟卵の黄身をトーストに絡め、大きく一口頬張った。溢れる幸福。もはや語彙力は死に絶え、脳内には「旨い」という二文字しか残っていない。
「世間はそうは見ない。公爵令嬢が婚約破棄され、そのショックで狂ったように食べ続けている……。そんな噂が広まれば、アステリア家の名は地に落ちる」
「あら、そう。なら解決策は一つですわね」
私は飲み込んだばかりのパンの余韻を楽しみながら、口元をナプキンで拭いた。
「お父様。私を勘当してください」
「ぶっ……!?」
お父様がコーヒーを吹き出した。執事のセバスチャンが、流れるような動作でそれを拭い去る。
「か、勘当だと? 何を言っているんだ。破滅した娘を見捨てるほど、私は冷徹な親ではないぞ」
「いいえ、お父様。これは愛の鞭ではなく、私のわがままです。今の私はアステリア公爵家の名に縛られすぎていますわ。公爵令嬢が街角で串焼きを十本一気食いしていたら、それこそスキャンダルでしょう?」
「……まあ、そうだろうな」
「でも、ただの『エリチカ(自称・元令嬢)』ならどうでしょう? どれだけ食べても、どれだけ油に塗れても、誰も文句は言えません。私は自由な野良の食いしん坊になりたいのです!」
私は椅子から立ち上がり、お父様の手を両手で握りしめた。
「お願いします、お父様! 私を平民に落としてください! 家督も財産もいりません! ただ、調理長直伝のレシピと、当面の食費だけ持たせていただければ!」
「お前……。そこまでして食べたいのか? プライドや地位を捨ててまで、油っぽいものを?」
「お父様。プライドでお腹は膨れませんわ。地位で揚げたてのコロッケは買えませんわ。今の私に必要なのは、高貴な名前ではなく、強靭な胃袋とそれを満たす環境なのです!」
お父様は呆然としていた。
自分の娘が、教育の行き届いた完璧な令嬢だと思っていたのは幻想だったのだ。その皮を一枚剥けば、中から出てきたのは「食欲」という名の怪物だったのだから。
「……エリチカ。本気なのだな?」
「本気も本気、超本気です。明日から『下町の食い倒れ令嬢』として生きていく準備はできておりますわ!」
お父様はしばし沈黙した後、力なく頷いた。
「わかった……。お前のその目が、何よりも真実を物語っている。だが、一つ条件がある」
「条件?」
「勘当とは言ったが、表向きは『療養のための別居』ということにする。場所は下町の空き家を貸し出す。そこでお前が、一人で……いや、アンナを連れて、自分の食欲と向き合うがいい」
「お父様! 大好きですわ!」
私は思わずお父様に抱きつこうとしたが、自分の手がベーコンの脂でギトギトなのを思い出し、寸前で止めた。これが私の、唯一残された淑女としての配慮だ。
「アンナ! 準備をして! 私たちは今すぐ、この不自由な城(屋敷)を出るわよ!」
「お嬢様ぁ……! 本当に、本当に平民生活を始めるのですか……!?」
アンナの悲鳴のような声を背中で聞きながら、私は食堂を飛び出した。
目標は下町。そこにはまだ見ぬ、安くて旨くて暴力的なカロリーたちが私を待っている。
「見てなさい、セドリック殿下。あなたがリリアーヌさんと薄いサラダを食べている間に、私は街中の油を制覇してみせますわ!」
公爵邸の門を出る私の足取りは、かつてないほど軽かった。
芳醇なバター、焦げた醤油、そして分厚いベーコンが焼ける暴力的な香りだ。
私が席に着くと、目の前には「山積みのトースト(バター別添え)」と「エッグベネディクト(マヨネーズ増量)」、そして「大盛りポテトサラダ」が並べられた。
「……おはようございますわ、お父様。素晴らしい朝ですわね」
私が優雅に(ただし手元は素早く)ナイフとフォークを動かしていると、向かいの席で青白い顔をした父、アステリア公爵がコーヒーを啜りながら私を見ていた。
「……エリチカ。お前、昨夜からずっと食べていないか?」
「失礼な。深夜二時から四時までは、しっかり消化のために睡眠を取りましたわ。おかげで今の私は、生まれたての小鳥のように胃袋が空っぽですの」
「小鳥はそんなにベーコンを食べないと思うぞ……」
お父様は深い溜息をつき、数枚の書類をテーブルに置いた。
「昨夜の婚約破棄の件だ。王宮からは正式に受理したとの連絡があった。セドリック殿下は、リリアーヌ嬢との仲を公認させるために必死のようだが……問題はお前だ」
「私? 私は見ての通り、人生で一番幸せな瞬間(とき)を過ごしておりますが」
私は半熟卵の黄身をトーストに絡め、大きく一口頬張った。溢れる幸福。もはや語彙力は死に絶え、脳内には「旨い」という二文字しか残っていない。
「世間はそうは見ない。公爵令嬢が婚約破棄され、そのショックで狂ったように食べ続けている……。そんな噂が広まれば、アステリア家の名は地に落ちる」
「あら、そう。なら解決策は一つですわね」
私は飲み込んだばかりのパンの余韻を楽しみながら、口元をナプキンで拭いた。
「お父様。私を勘当してください」
「ぶっ……!?」
お父様がコーヒーを吹き出した。執事のセバスチャンが、流れるような動作でそれを拭い去る。
「か、勘当だと? 何を言っているんだ。破滅した娘を見捨てるほど、私は冷徹な親ではないぞ」
「いいえ、お父様。これは愛の鞭ではなく、私のわがままです。今の私はアステリア公爵家の名に縛られすぎていますわ。公爵令嬢が街角で串焼きを十本一気食いしていたら、それこそスキャンダルでしょう?」
「……まあ、そうだろうな」
「でも、ただの『エリチカ(自称・元令嬢)』ならどうでしょう? どれだけ食べても、どれだけ油に塗れても、誰も文句は言えません。私は自由な野良の食いしん坊になりたいのです!」
私は椅子から立ち上がり、お父様の手を両手で握りしめた。
「お願いします、お父様! 私を平民に落としてください! 家督も財産もいりません! ただ、調理長直伝のレシピと、当面の食費だけ持たせていただければ!」
「お前……。そこまでして食べたいのか? プライドや地位を捨ててまで、油っぽいものを?」
「お父様。プライドでお腹は膨れませんわ。地位で揚げたてのコロッケは買えませんわ。今の私に必要なのは、高貴な名前ではなく、強靭な胃袋とそれを満たす環境なのです!」
お父様は呆然としていた。
自分の娘が、教育の行き届いた完璧な令嬢だと思っていたのは幻想だったのだ。その皮を一枚剥けば、中から出てきたのは「食欲」という名の怪物だったのだから。
「……エリチカ。本気なのだな?」
「本気も本気、超本気です。明日から『下町の食い倒れ令嬢』として生きていく準備はできておりますわ!」
お父様はしばし沈黙した後、力なく頷いた。
「わかった……。お前のその目が、何よりも真実を物語っている。だが、一つ条件がある」
「条件?」
「勘当とは言ったが、表向きは『療養のための別居』ということにする。場所は下町の空き家を貸し出す。そこでお前が、一人で……いや、アンナを連れて、自分の食欲と向き合うがいい」
「お父様! 大好きですわ!」
私は思わずお父様に抱きつこうとしたが、自分の手がベーコンの脂でギトギトなのを思い出し、寸前で止めた。これが私の、唯一残された淑女としての配慮だ。
「アンナ! 準備をして! 私たちは今すぐ、この不自由な城(屋敷)を出るわよ!」
「お嬢様ぁ……! 本当に、本当に平民生活を始めるのですか……!?」
アンナの悲鳴のような声を背中で聞きながら、私は食堂を飛び出した。
目標は下町。そこにはまだ見ぬ、安くて旨くて暴力的なカロリーたちが私を待っている。
「見てなさい、セドリック殿下。あなたがリリアーヌさんと薄いサラダを食べている間に、私は街中の油を制覇してみせますわ!」
公爵邸の門を出る私の足取りは、かつてないほど軽かった。
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