婚約破棄、喜んで!悪役令嬢は、お作法よりも「お夜食」を愛したい

ちゃっぴー

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ガタガタと音を立てて走る馬車が、下町の入り口で止まった。


かつての公爵令嬢専用の豪華な馬車ではない。お父様がどこからか手配してきた、年季の入った荷馬車に近い代物だ。


「お、お嬢様……。本当に、ここが私たちが住む場所なのですか?」


アンナが震える指で指差したのは、細い路地の突き当たりにある二階建ての古民家だった。


壁のレンガは欠け、窓枠は少し歪んでいる。お世辞にも「療養先」とは呼べない、質素を通り越して野性味あふれる佇まいだ。


私は馬車から飛び降りると、大きく深呼吸をした。


「あら、素敵じゃない! 見て、アンナ。隣の家との距離がこんなに近いのよ!」


「素敵……? 壁が薄くて、冬は凍死しそうですわよ!」


「何を言っているの。隣の家との距離が近いということは、私がここで何を焼いても、誰が何を食べているか特定されにくいということよ! これなら深夜にニンニクを大量に焼いても、誰にも文句を言われないわ!」


「お嬢様の評価基準が、全て『ニンニク』か『脂』に集約されている……!」


私は持ってきた最小限の荷物を抱え、家の中へと入った。


中は埃っぽかったが、一通りの家具は揃っている。そして何より、私の目を引いたのは一階の奥にある小さなキッチンだった。


「見て! レンガ造りの立派なコンロがあるわ! お父様、わかっているじゃありませんか。ここが私の『指令室』ね!」


私はすぐさま持ってきた鞄をひっくり返した。


中から出てきたのは、着替えのドレスではなく、アステリア公爵邸の厨房から掠め取ってきた最高級のラード、山盛りのニンニク、そして厳選されたスパイスの瓶だった。


「さあ、アンナ! 掃除は後よ。まずはこの部屋を『私の匂い』で染め上げるわ!」


「……もしもし、衛兵さん? お嬢様が引っ越しの片付けを放棄してテロ行為を始めようとしています……」


アンナの冗談を無視して、私は手際よくコンロに火を入れた。


フライパンが熱くなるのを待つ間、私はニンニクをまな板の上で叩き潰す。


——バチン! バチン!


「いい音! この潰れた繊維から溢れ出す香りこそ、自由の香りよ!」


熱したフライパンにたっぷりのラードを落とし、そこに叩き潰したニンニクを放り込む。


シュワーッという心地よい音と共に、強烈な、あまりにも暴力的な香りがキッチンいっぱいに広がった。


「ああ……これよ。王宮の晩餐会では『淑女の天敵』と呼ばれたこの香りが、今は私を祝福してくれているわ……!」


「お嬢様、目が、目が完全に決まっていますわ……!」


私はさらに、馬車の中で少し萎びてしまったベーコンを厚切りにして投入した。


脂が弾け、ニンニクが黄金色に色づいていく。醤油を一回しすれば、もはやこの世の贅を全て集めたような「悪魔のソース」の完成だ。


「さあ、アンナ。持ってきた冷やご飯を出しなさい! 今からこれを、最強のガーリックライスに仕立て上げるわよ!」


「……はい。もう抗うのは諦めました。私もお腹が空いて死にそうです」


私たちが、熱々のガーリックライスを口いっぱいに頬張っていた、その時だった。


——ドン! ドン! ドン!


隣の家との境目にある壁が、力強く叩かれた。


「ひぃっ!? な、何事ですの!?」


アンナが飛び上がる。私もスプーンを構えたまま、壁を凝視した。


すると、壁の向こうから低く、野太い声が響いてきた。


「……おい。隣に引っ越してきた奴」


「は、はい! 何かしら?」


「……飯の匂いが、殺人的だ。今すぐ窓を閉めろ。こっちは空腹で死にそうなんだ」


私は、思わずアンナと顔を見合わせた。


苦情かしら? それとも……。


「あら、ごめんなさい! でもこの匂い、窓を閉めても無駄だと思いますわよ? 何しろ、ニンニクを三玉も使っていますから!」


「三玉だと!? 貴様、正気か!?」


壁の向こうの住人が、さらに激しく壁を叩く。


だが、私は気づいてしまった。彼の声が、怒りよりも「切実な飢え」に震えていることに。


「アンナ、聞こえた? 彼は今、私の料理に屈服しかけているわ」


「お嬢様、それは屈服ではなく、単なる近所迷惑ですわ」


「いいえ! 食いしん坊の直感が告げているわ。彼は、私の同志よ!」


私は皿に残った半分以上のガーリックライスを、迷わず小皿に分けた。


「ちょっと、お隣さん! 窓を開けてちょうだい! 毒見をさせてあげるわ!」


「何を……!? いいから静かに——」


窓を開けると、隣の家の窓からも、何やら強面の男が顔を出していた。


無精髭を生やし、目つきが鋭い。だが、その鼻はピクピクと、私の差し出した皿に激しく反応している。


「ほら! これを食べれば、壁を叩く気力も失せますわよ!」


「……ふん。変なものを寄越しやがって。俺はこう見えても、食事にはうるさいんだぞ」


そう言いながらも、男はひょいと皿を受け取った。


そして、一口食べた瞬間。


「…………っ!!」


男は目を見開き、雷に打たれたように硬直した。


「……どう? 自由の味は」


「……貴様。このニンニクの火加減……ただ者じゃないな」


これが、私と、最強の(お夜食)ヒーロー・サイラス卿との、記念すべき(そして油っこい)出会いだったのである。
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