5 / 28
5
しおりを挟む
ガタガタと音を立てて走る馬車が、下町の入り口で止まった。
かつての公爵令嬢専用の豪華な馬車ではない。お父様がどこからか手配してきた、年季の入った荷馬車に近い代物だ。
「お、お嬢様……。本当に、ここが私たちが住む場所なのですか?」
アンナが震える指で指差したのは、細い路地の突き当たりにある二階建ての古民家だった。
壁のレンガは欠け、窓枠は少し歪んでいる。お世辞にも「療養先」とは呼べない、質素を通り越して野性味あふれる佇まいだ。
私は馬車から飛び降りると、大きく深呼吸をした。
「あら、素敵じゃない! 見て、アンナ。隣の家との距離がこんなに近いのよ!」
「素敵……? 壁が薄くて、冬は凍死しそうですわよ!」
「何を言っているの。隣の家との距離が近いということは、私がここで何を焼いても、誰が何を食べているか特定されにくいということよ! これなら深夜にニンニクを大量に焼いても、誰にも文句を言われないわ!」
「お嬢様の評価基準が、全て『ニンニク』か『脂』に集約されている……!」
私は持ってきた最小限の荷物を抱え、家の中へと入った。
中は埃っぽかったが、一通りの家具は揃っている。そして何より、私の目を引いたのは一階の奥にある小さなキッチンだった。
「見て! レンガ造りの立派なコンロがあるわ! お父様、わかっているじゃありませんか。ここが私の『指令室』ね!」
私はすぐさま持ってきた鞄をひっくり返した。
中から出てきたのは、着替えのドレスではなく、アステリア公爵邸の厨房から掠め取ってきた最高級のラード、山盛りのニンニク、そして厳選されたスパイスの瓶だった。
「さあ、アンナ! 掃除は後よ。まずはこの部屋を『私の匂い』で染め上げるわ!」
「……もしもし、衛兵さん? お嬢様が引っ越しの片付けを放棄してテロ行為を始めようとしています……」
アンナの冗談を無視して、私は手際よくコンロに火を入れた。
フライパンが熱くなるのを待つ間、私はニンニクをまな板の上で叩き潰す。
——バチン! バチン!
「いい音! この潰れた繊維から溢れ出す香りこそ、自由の香りよ!」
熱したフライパンにたっぷりのラードを落とし、そこに叩き潰したニンニクを放り込む。
シュワーッという心地よい音と共に、強烈な、あまりにも暴力的な香りがキッチンいっぱいに広がった。
「ああ……これよ。王宮の晩餐会では『淑女の天敵』と呼ばれたこの香りが、今は私を祝福してくれているわ……!」
「お嬢様、目が、目が完全に決まっていますわ……!」
私はさらに、馬車の中で少し萎びてしまったベーコンを厚切りにして投入した。
脂が弾け、ニンニクが黄金色に色づいていく。醤油を一回しすれば、もはやこの世の贅を全て集めたような「悪魔のソース」の完成だ。
「さあ、アンナ。持ってきた冷やご飯を出しなさい! 今からこれを、最強のガーリックライスに仕立て上げるわよ!」
「……はい。もう抗うのは諦めました。私もお腹が空いて死にそうです」
私たちが、熱々のガーリックライスを口いっぱいに頬張っていた、その時だった。
——ドン! ドン! ドン!
隣の家との境目にある壁が、力強く叩かれた。
「ひぃっ!? な、何事ですの!?」
アンナが飛び上がる。私もスプーンを構えたまま、壁を凝視した。
すると、壁の向こうから低く、野太い声が響いてきた。
「……おい。隣に引っ越してきた奴」
「は、はい! 何かしら?」
「……飯の匂いが、殺人的だ。今すぐ窓を閉めろ。こっちは空腹で死にそうなんだ」
私は、思わずアンナと顔を見合わせた。
苦情かしら? それとも……。
「あら、ごめんなさい! でもこの匂い、窓を閉めても無駄だと思いますわよ? 何しろ、ニンニクを三玉も使っていますから!」
「三玉だと!? 貴様、正気か!?」
壁の向こうの住人が、さらに激しく壁を叩く。
だが、私は気づいてしまった。彼の声が、怒りよりも「切実な飢え」に震えていることに。
「アンナ、聞こえた? 彼は今、私の料理に屈服しかけているわ」
「お嬢様、それは屈服ではなく、単なる近所迷惑ですわ」
「いいえ! 食いしん坊の直感が告げているわ。彼は、私の同志よ!」
私は皿に残った半分以上のガーリックライスを、迷わず小皿に分けた。
「ちょっと、お隣さん! 窓を開けてちょうだい! 毒見をさせてあげるわ!」
「何を……!? いいから静かに——」
窓を開けると、隣の家の窓からも、何やら強面の男が顔を出していた。
無精髭を生やし、目つきが鋭い。だが、その鼻はピクピクと、私の差し出した皿に激しく反応している。
「ほら! これを食べれば、壁を叩く気力も失せますわよ!」
「……ふん。変なものを寄越しやがって。俺はこう見えても、食事にはうるさいんだぞ」
そう言いながらも、男はひょいと皿を受け取った。
そして、一口食べた瞬間。
「…………っ!!」
男は目を見開き、雷に打たれたように硬直した。
「……どう? 自由の味は」
「……貴様。このニンニクの火加減……ただ者じゃないな」
これが、私と、最強の(お夜食)ヒーロー・サイラス卿との、記念すべき(そして油っこい)出会いだったのである。
かつての公爵令嬢専用の豪華な馬車ではない。お父様がどこからか手配してきた、年季の入った荷馬車に近い代物だ。
「お、お嬢様……。本当に、ここが私たちが住む場所なのですか?」
アンナが震える指で指差したのは、細い路地の突き当たりにある二階建ての古民家だった。
壁のレンガは欠け、窓枠は少し歪んでいる。お世辞にも「療養先」とは呼べない、質素を通り越して野性味あふれる佇まいだ。
私は馬車から飛び降りると、大きく深呼吸をした。
「あら、素敵じゃない! 見て、アンナ。隣の家との距離がこんなに近いのよ!」
「素敵……? 壁が薄くて、冬は凍死しそうですわよ!」
「何を言っているの。隣の家との距離が近いということは、私がここで何を焼いても、誰が何を食べているか特定されにくいということよ! これなら深夜にニンニクを大量に焼いても、誰にも文句を言われないわ!」
「お嬢様の評価基準が、全て『ニンニク』か『脂』に集約されている……!」
私は持ってきた最小限の荷物を抱え、家の中へと入った。
中は埃っぽかったが、一通りの家具は揃っている。そして何より、私の目を引いたのは一階の奥にある小さなキッチンだった。
「見て! レンガ造りの立派なコンロがあるわ! お父様、わかっているじゃありませんか。ここが私の『指令室』ね!」
私はすぐさま持ってきた鞄をひっくり返した。
中から出てきたのは、着替えのドレスではなく、アステリア公爵邸の厨房から掠め取ってきた最高級のラード、山盛りのニンニク、そして厳選されたスパイスの瓶だった。
「さあ、アンナ! 掃除は後よ。まずはこの部屋を『私の匂い』で染め上げるわ!」
「……もしもし、衛兵さん? お嬢様が引っ越しの片付けを放棄してテロ行為を始めようとしています……」
アンナの冗談を無視して、私は手際よくコンロに火を入れた。
フライパンが熱くなるのを待つ間、私はニンニクをまな板の上で叩き潰す。
——バチン! バチン!
「いい音! この潰れた繊維から溢れ出す香りこそ、自由の香りよ!」
熱したフライパンにたっぷりのラードを落とし、そこに叩き潰したニンニクを放り込む。
シュワーッという心地よい音と共に、強烈な、あまりにも暴力的な香りがキッチンいっぱいに広がった。
「ああ……これよ。王宮の晩餐会では『淑女の天敵』と呼ばれたこの香りが、今は私を祝福してくれているわ……!」
「お嬢様、目が、目が完全に決まっていますわ……!」
私はさらに、馬車の中で少し萎びてしまったベーコンを厚切りにして投入した。
脂が弾け、ニンニクが黄金色に色づいていく。醤油を一回しすれば、もはやこの世の贅を全て集めたような「悪魔のソース」の完成だ。
「さあ、アンナ。持ってきた冷やご飯を出しなさい! 今からこれを、最強のガーリックライスに仕立て上げるわよ!」
「……はい。もう抗うのは諦めました。私もお腹が空いて死にそうです」
私たちが、熱々のガーリックライスを口いっぱいに頬張っていた、その時だった。
——ドン! ドン! ドン!
隣の家との境目にある壁が、力強く叩かれた。
「ひぃっ!? な、何事ですの!?」
アンナが飛び上がる。私もスプーンを構えたまま、壁を凝視した。
すると、壁の向こうから低く、野太い声が響いてきた。
「……おい。隣に引っ越してきた奴」
「は、はい! 何かしら?」
「……飯の匂いが、殺人的だ。今すぐ窓を閉めろ。こっちは空腹で死にそうなんだ」
私は、思わずアンナと顔を見合わせた。
苦情かしら? それとも……。
「あら、ごめんなさい! でもこの匂い、窓を閉めても無駄だと思いますわよ? 何しろ、ニンニクを三玉も使っていますから!」
「三玉だと!? 貴様、正気か!?」
壁の向こうの住人が、さらに激しく壁を叩く。
だが、私は気づいてしまった。彼の声が、怒りよりも「切実な飢え」に震えていることに。
「アンナ、聞こえた? 彼は今、私の料理に屈服しかけているわ」
「お嬢様、それは屈服ではなく、単なる近所迷惑ですわ」
「いいえ! 食いしん坊の直感が告げているわ。彼は、私の同志よ!」
私は皿に残った半分以上のガーリックライスを、迷わず小皿に分けた。
「ちょっと、お隣さん! 窓を開けてちょうだい! 毒見をさせてあげるわ!」
「何を……!? いいから静かに——」
窓を開けると、隣の家の窓からも、何やら強面の男が顔を出していた。
無精髭を生やし、目つきが鋭い。だが、その鼻はピクピクと、私の差し出した皿に激しく反応している。
「ほら! これを食べれば、壁を叩く気力も失せますわよ!」
「……ふん。変なものを寄越しやがって。俺はこう見えても、食事にはうるさいんだぞ」
そう言いながらも、男はひょいと皿を受け取った。
そして、一口食べた瞬間。
「…………っ!!」
男は目を見開き、雷に打たれたように硬直した。
「……どう? 自由の味は」
「……貴様。このニンニクの火加減……ただ者じゃないな」
これが、私と、最強の(お夜食)ヒーロー・サイラス卿との、記念すべき(そして油っこい)出会いだったのである。
1
あなたにおすすめの小説
捨てられた悪役はきっと幸せになる
ariya
恋愛
ヴィヴィア・ゴーヴァン公爵夫人は少女小説に登場する悪役だった。
強欲で傲慢で嫌われ者、夫に捨てられて惨めな最期を迎えた悪役。
その悪役に転生していたことに気づいたヴィヴィアは、夫がヒロインと結ばれたら潔く退場することを考えていた。
それまでお世話になった為、貴族夫人としての仕事の一部だけでもがんばろう。
「ヴィヴィア、あなたを愛してます」
ヒロインに惹かれつつあるはずの夫・クリスは愛をヴィヴィアに捧げると言ってきて。
そもそもクリスがヴィヴィアを娶ったのは、王位継承を狙っている疑惑から逃れる為の契約結婚だったはずでは?
愛などなかったと思っていた夫婦生活に変化が訪れる。
※この作品は、人によっては元鞘話にみえて地雷の方がいるかもしれません。また、ヒーローがヤンデレ寄りですので苦手な方はご注意ください。
狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します
ちより
恋愛
侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。
愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。
頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。
公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。
断罪される前に市井で暮らそうとした悪役令嬢は幸せに酔いしれる
葉柚
恋愛
侯爵令嬢であるアマリアは、男爵家の養女であるアンナライラに婚約者のユースフェリア王子を盗られそうになる。
アンナライラに呪いをかけたのはアマリアだと言いアマリアを追い詰める。
アマリアは断罪される前に市井に溶け込み侯爵令嬢ではなく一市民として生きようとする。
市井ではどこかの王子が呪いにより猫になってしまったという噂がまことしやかに流れており……。
【完結】捨てられた皇子の探し人 ~偽物公女は「大嫌い」と言われても殿下の幸せを願います~
ゆきのひ
恋愛
二度目の人生は、前世で慕われていた皇子から、憎悪される運命でした…。
騎士の家系に生まれたリュシー。実家の没落により、生きるために皇宮のメイドとなる。そんなリュシーが命じられたのは、廃屋同然の離宮でひっそりと暮らすセレスティアン皇子の世話係。
母を亡くして後ろ盾もなく、皇帝に冷遇されている幼い皇子に心を寄せたリュシーは、皇子が少しでも快適に暮らしていけるよう奮闘し、その姿に皇子はしだいに心開いていく。
そんな皇子との穏やかな日々に幸せを感じていたリュシーだが、ある日、毒を盛られて命を落とした……はずが、目を開けると、公爵令嬢として公爵家のベッドに横たわっていた。けれどその令嬢は、リュシーの死に因縁のある公爵の一人娘……。
望まぬ形で二度目の生を享けたリュシーと、その死に復讐を誓った皇子が、本当に望んでいた幸せを手に入れるまでのお話。
※本作は「小説家になろう」さん、「カクヨム」さんにも投稿しています。
※表紙画像はAIで作成したものです
【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する
ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。
夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。
社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。
ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。
「私たち、離婚しましょう」
アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。
どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。
彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。
アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。
こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。
呪いを受けて醜くなっても、婚約者は変わらず愛してくれました
しろねこ。
恋愛
婚約者が倒れた。
そんな連絡を受け、ティタンは急いで彼女の元へと向かう。
そこで見たのはあれほどまでに美しかった彼女の変わり果てた姿だ。
全身包帯で覆われ、顔も見えない。
所々見える皮膚は赤や黒といった色をしている。
「なぜこのようなことに…」
愛する人のこのような姿にティタンはただただ悲しむばかりだ。
同名キャラで複数の話を書いています。
作品により立場や地位、性格が多少変わっていますので、アナザーワールド的に読んで頂ければありがたいです。
この作品は少し古く、設定がまだ凝り固まって無い頃のものです。
皆ちょっと性格違いますが、これもこれでいいかなと載せてみます。
短めの話なのですが、重めな愛です。
お楽しみいただければと思います。
小説家になろうさん、カクヨムさんでもアップしてます!
捨てられ侯爵令嬢ですが、逃亡先で息子と幸せに過ごしていますので、邪魔しないでください。
蒼月柚希
恋愛
公爵様の呪いは解かれました。
これで、貴方も私も自由です。
……だから、もういいですよね?
私も、自由にして……。
5年後。
私は、ある事情から生まれ育った祖国を離れ、
親切な冒険者パーティーと、その地を治める辺境伯様のご家族に守られながら、
今日も幸せに子育てをしています。
だから貴方も勝手に、お幸せになってくださいね。
私のことは忘れて……。
これは、お互いの思いがこじれ、離れ離れになってしまった一組の夫婦の物語。
はたして、夫婦は無事に、離婚を回避することができるのか?
記憶喪失の婚約者は私を侍女だと思ってる
きまま
恋愛
王家に仕える名門ラングフォード家の令嬢セレナは王太子サフィルと婚約を結んだばかりだった。
穏やかで優しい彼との未来を疑いもしなかった。
——あの日までは。
突如として王都を揺るがした
「王太子サフィル、重傷」の報せ。
駆けつけた医務室でセレナを待っていたのは、彼女を“知らない”婚約者の姿だった。
※本作品は別サイトにて掲載中です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる