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しとしとと、下町の石畳を濡らす雨。
湿度の高い日は、香りが空気の中に長く留まる。つまり、絶好の「飯テロ日和」ということだ。
私は市場の隅っこで安く叩き売られていた、泥付きのジャガイモを大量に買い込んできた。
「お嬢様、またそんなに大量に……。まさか全部召し上がるおつもりですか?」
アンナが呆れたように、泥を洗う私の背中に声をかける。
「甘いわね、アンナ。これはただのジャガイモではないわ。形を変え、衣を纏い、油の海で黄金に輝く『未来のコロッケ』なのよ!」
私は鼻歌まじりにジャガイモを茹で、熱いうちにマッシャー(という名の頑丈な木べら)で叩き潰した。
そこに、これまた安く手に入れた牛の脂身多めのひき肉を、たっぷりの玉ねぎと一緒に炒めて混ぜ込む。
「いいこと、アンナ。コロッケの命は『ひき肉の脂』と『ジャガイモの甘み』の結婚よ。ここに少しだけ多めの塩胡椒を振るのが、アステリア流……いえ、エリチカ流のこだわりですわ!」
「はいはい。お嬢様が料理をしている時の集中力、王妃教育の時にも発揮されていれば、今頃は歴史に残る賢妃になっていたでしょうに」
「歴史に残る賢妃よりも、今夜の胃袋に残る一個のコロッケ。それが私の正義よ!」
私は手際よく小判型に成形し、小麦粉、卵、そして粗めのパン粉をたっぷりとつける。
そして、いよいよ聖なる儀式、揚げの工程だ。
鍋の中で熱せられた油が、パン粉の欠片を落とした瞬間にパッと花開く。適温だ。
——バチバチバチッ! ジュワァァァッ!!
投入されたコロッケが、激しい油の洗礼を受ける。香ばしいパン粉の匂いと、肉汁の焼ける香りが一気にキッチンを支配した。
その時だ。
——ドン!
お馴染みの、隣の壁からの衝撃。しかし、今日の「壁ドン」はいつもより少し控えめで、どこか力強さに欠けているような気がした。
私は揚げたての、まだ油がパチパチと鳴っているコロッケを皿に乗せ、窓を開けた。
「サイラス様? 今日は壁を叩く元気がありませんわね。雨で湿気ってしまいましたの?」
窓の外を見ると、サイラス様は雨に濡れたのか、少し髪を湿らせた状態で窓枠に肘をついていた。
その顔はいつも以上に険しく、目の下には薄っすらとクマがある。
「……エリチカか。別に、なんでもない。ただ、貴様の家の油の音が、少しばかり騒がしかっただけだ」
「あら、強がりを。その鼻、さっきからヒクヒク動いていますわよ? この『揚げたて爆弾』の威力に耐えられますの?」
私は皿を彼の目の前に突き出した。
黄金色に輝く、完璧なキツネ色のコロッケ。隙間から溢れ出た肉汁が、表面で踊っている。
「……ふん。コロッケか。子供の食い物だな」
「そうおっしゃらずに。ほら、ソースもたっぷりかけておきましたわ。中身はホクホク、外はカリカリ。これを食べずに寝るなんて、人生の損失ですわよ」
サイラス様はしばし、皿と私の顔を交互に見ていた。
そして、観念したように大きく溜息をつくと、無骨な手でコロッケを一つ掴んだ。
「……一つ、譲ってくれ。……代金は、これだ」
彼が窓枠に置いたのは、小さな包みだった。開けてみると、中には最高級の茶葉が入っている。
「あら、嬉しい。食後のティータイムも完璧になりますわね」
サイラス様は、熱々のコロッケを躊躇なく口に運んだ。
——ザクッ!!
静かな雨音の中に、心地よい咀嚼音が響く。
彼は目を見開き、噛み締めるたびに肩の力が抜けていくのがわかった。
「…………あつい。……だが、旨い。肉の脂がジャガイモに溶け込んで……力が、湧いてくるようだ」
「でしょう? 疲れている時は、油と炭水化物が一番の薬なんですわ」
サイラス様は無言で二個目、三個目と手を伸ばした。
その食べっぷりは、まるで見ているこちらまでお腹が空いてくるような、清々しいものだった。
「……エリチカ」
「はい?」
「……俺は、今まで食事をただの『燃料』だと思っていた。だが、貴様の作るものは……腹だけじゃなく、何というか……」
彼はそこで言葉を切り、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「……いや、なんでもない。とにかく、今日は助かった。礼を言う」
「ふふ。どういたしまして。お隣さんですもの、困った時はお互い様(の胃袋)ですわ!」
サイラス様は最後に「明日の壁ドンは、もう少し加減してやる」と言い残し、窓を閉めた。
雨の匂いに混じる、揚げ物の残り香。
私は、サイラス様から貰った茶葉でアンナとお茶を淹れながら、ふと思った。
(……あら。私、彼が何の仕事でそんなに疲れているのか、聞くのを忘れていましたわ)
まあ、いいわ。美味しいものを食べて笑顔になれたなら、それが真実だもの。
私は、サイラス様が落としていった「運命のコロッケ」の欠片を口に運び、幸せな雨の夜を噛み締めた。
湿度の高い日は、香りが空気の中に長く留まる。つまり、絶好の「飯テロ日和」ということだ。
私は市場の隅っこで安く叩き売られていた、泥付きのジャガイモを大量に買い込んできた。
「お嬢様、またそんなに大量に……。まさか全部召し上がるおつもりですか?」
アンナが呆れたように、泥を洗う私の背中に声をかける。
「甘いわね、アンナ。これはただのジャガイモではないわ。形を変え、衣を纏い、油の海で黄金に輝く『未来のコロッケ』なのよ!」
私は鼻歌まじりにジャガイモを茹で、熱いうちにマッシャー(という名の頑丈な木べら)で叩き潰した。
そこに、これまた安く手に入れた牛の脂身多めのひき肉を、たっぷりの玉ねぎと一緒に炒めて混ぜ込む。
「いいこと、アンナ。コロッケの命は『ひき肉の脂』と『ジャガイモの甘み』の結婚よ。ここに少しだけ多めの塩胡椒を振るのが、アステリア流……いえ、エリチカ流のこだわりですわ!」
「はいはい。お嬢様が料理をしている時の集中力、王妃教育の時にも発揮されていれば、今頃は歴史に残る賢妃になっていたでしょうに」
「歴史に残る賢妃よりも、今夜の胃袋に残る一個のコロッケ。それが私の正義よ!」
私は手際よく小判型に成形し、小麦粉、卵、そして粗めのパン粉をたっぷりとつける。
そして、いよいよ聖なる儀式、揚げの工程だ。
鍋の中で熱せられた油が、パン粉の欠片を落とした瞬間にパッと花開く。適温だ。
——バチバチバチッ! ジュワァァァッ!!
投入されたコロッケが、激しい油の洗礼を受ける。香ばしいパン粉の匂いと、肉汁の焼ける香りが一気にキッチンを支配した。
その時だ。
——ドン!
お馴染みの、隣の壁からの衝撃。しかし、今日の「壁ドン」はいつもより少し控えめで、どこか力強さに欠けているような気がした。
私は揚げたての、まだ油がパチパチと鳴っているコロッケを皿に乗せ、窓を開けた。
「サイラス様? 今日は壁を叩く元気がありませんわね。雨で湿気ってしまいましたの?」
窓の外を見ると、サイラス様は雨に濡れたのか、少し髪を湿らせた状態で窓枠に肘をついていた。
その顔はいつも以上に険しく、目の下には薄っすらとクマがある。
「……エリチカか。別に、なんでもない。ただ、貴様の家の油の音が、少しばかり騒がしかっただけだ」
「あら、強がりを。その鼻、さっきからヒクヒク動いていますわよ? この『揚げたて爆弾』の威力に耐えられますの?」
私は皿を彼の目の前に突き出した。
黄金色に輝く、完璧なキツネ色のコロッケ。隙間から溢れ出た肉汁が、表面で踊っている。
「……ふん。コロッケか。子供の食い物だな」
「そうおっしゃらずに。ほら、ソースもたっぷりかけておきましたわ。中身はホクホク、外はカリカリ。これを食べずに寝るなんて、人生の損失ですわよ」
サイラス様はしばし、皿と私の顔を交互に見ていた。
そして、観念したように大きく溜息をつくと、無骨な手でコロッケを一つ掴んだ。
「……一つ、譲ってくれ。……代金は、これだ」
彼が窓枠に置いたのは、小さな包みだった。開けてみると、中には最高級の茶葉が入っている。
「あら、嬉しい。食後のティータイムも完璧になりますわね」
サイラス様は、熱々のコロッケを躊躇なく口に運んだ。
——ザクッ!!
静かな雨音の中に、心地よい咀嚼音が響く。
彼は目を見開き、噛み締めるたびに肩の力が抜けていくのがわかった。
「…………あつい。……だが、旨い。肉の脂がジャガイモに溶け込んで……力が、湧いてくるようだ」
「でしょう? 疲れている時は、油と炭水化物が一番の薬なんですわ」
サイラス様は無言で二個目、三個目と手を伸ばした。
その食べっぷりは、まるで見ているこちらまでお腹が空いてくるような、清々しいものだった。
「……エリチカ」
「はい?」
「……俺は、今まで食事をただの『燃料』だと思っていた。だが、貴様の作るものは……腹だけじゃなく、何というか……」
彼はそこで言葉を切り、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「……いや、なんでもない。とにかく、今日は助かった。礼を言う」
「ふふ。どういたしまして。お隣さんですもの、困った時はお互い様(の胃袋)ですわ!」
サイラス様は最後に「明日の壁ドンは、もう少し加減してやる」と言い残し、窓を閉めた。
雨の匂いに混じる、揚げ物の残り香。
私は、サイラス様から貰った茶葉でアンナとお茶を淹れながら、ふと思った。
(……あら。私、彼が何の仕事でそんなに疲れているのか、聞くのを忘れていましたわ)
まあ、いいわ。美味しいものを食べて笑顔になれたなら、それが真実だもの。
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