婚約破棄、喜んで!悪役令嬢は、お作法よりも「お夜食」を愛したい

ちゃっぴー

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「……エリチカ。少し、いいか」


屋台の片付けも終わり、アンナが奥の部屋で高いイビキをかき始めた頃。


いつになく真剣な表情をしたサイラス様が、私のキッチンの椅子に腰を下ろした。


窓から差し込む月光が、彼の彫りの深い横顔を照らし出し、まるで歴史物語の一場面のような厳かな空気を醸し出している。


「あら、珍しく改まって。どうされましたの? まさか、明日から下町に『脂禁止令』でも出されるとか?」


私は冗談めかして言いながら、大鍋の中でコトコトと煮込んでいた「特製・三段バラ肉の角煮」の様子を確認した。


醤油と蜂蜜、そして八角の香りが、湯気と共に立ち上る。脂身が透明になり、箸で触れれば崩れそうなほどに柔らかくなった極上の角煮だ。


「……いや、そうではない。……俺は、ずっと考えていたんだ。貴様がこの下町に来てからのことを」


サイラス様の声が、いつもより一段と低い。


(……えっ。何かしら、この雰囲気。まさか、これは……恋愛小説でよくある『夜の急接近』というやつではなくて!?)


私は手に持っていた菜箸をそっと置き、胸の高鳴りを抑えようと努めた。


考えてみれば、この人は私の「脂」だらけの生活を一番近くで支えてくれた人だ。不器用で口は悪いけれど、私の料理を誰よりも美味しそうに食べてくれる。


「……エリチカ。俺は、貴様のことが——」


サイラス様が、私の目をじっと見つめてくる。


「…………っ!」


私は思わず息を呑んだ。元悪役令嬢としてのプライドが、あるいは一人の乙女としての本能が、次に続く言葉を予測して顔を熱くさせる。


「俺は、貴様の……貴様の作る、その、『角煮』が好きなんだ!!」


「…………はい?」


時間が止まった。


月光に照らされた騎士団長の告白は、私の予想を斜め四十五度、いや、三回転半ほど飛び越えていった。


「……特に、その脂身の部分だ! 口に入れた瞬間に溶けて消える、あの儚い口溶け! それでいて、後から追いかけてくる濃厚な豚の旨み! 俺は……あんなに素晴らしいものに出会ったのは、生まれて初めてだ!」


サイラス様は、椅子から立ち上がらんばかりの勢いで、熱烈に「角煮」への愛を語り始めた。


「エリチカ、貴様は天才だ! あの角煮の層は、もはや芸術作品と言っても過言ではない! 俺は任務中も、あの飴色の輝きが頭から離れないんだ!」


「…………サイラス様。ちょっと、落ち着いてくださいな」


私は、一気に引いていく顔の熱さを感じながら、虚脱感に包まれた。


「……なんだ。貴様、顔が赤いぞ。やはり、この熱気が中てられたか?」


「ええ、そうですわね。脂の熱気と、あなたの『ズレた情熱』に当てられましたわ」


私は、溜息を一つついて、鍋から一番よく煮えた角煮を一切れ、小皿に盛って彼の前に差し出した。


「ほら。そこまでおっしゃるなら、今すぐ食べてしまいなさい。あなたの『愛する人』……じゃなくて、『愛する角煮』ですわよ」


「……おお! これだ、この香りだ!」


サイラス様は、私の微かな落胆など一ミリも気づく様子がなく、恭しく箸を受け取った。


そして、大の男が震えるような手つきで、角煮を口に運ぶ。


「…………っ! ああ……! これだ、これこそが俺の求めていた絆(味)だ……!」


彼は恍惚とした表情で目を閉じ、じっくりと咀嚼(そしゃく)した。


その幸せそうな顔を見ていると、なんだか怒るのも馬鹿らしくなってくる。


「……ねえ、サイラス様。私、一瞬でも期待した私が馬鹿でしたわ」


「期待? 何をだ。まさか、角煮のタレに、さらに脂を追加することか? それは流石に、俺の胃袋でも耐えきれるかどうか……」


「いいえ、なんでもありませんわ! もう、食べて寝てくださいな!」


私はプイと横を向いて、自分の分の角煮を口に放り込んだ。


悔しいけれど、美味しい。脂身の甘みが、少しだけ傷ついた(?)私の心を優しくコーティングしていく。


「……エリチカ」


サイラス様が、満足げに皿を空にして、私を見た。


「なんだかんだ言っても、俺は……貴様のその、食いしん坊なところが気に入っている。貴様といると、どんな難解な軍事報告書よりも、次に何が揚がるのかを考えている方がずっと楽しい」


「……それは、私個人を評価してくださっているのかしら。それとも、私の調理スキルを評価してくださっているのかしら?」


「……両方だ。貴様がいないと、俺の人生から『彩り(カロリー)』が消えてしまう」


彼は、最後に少しだけ真面目な顔をして、私の指先に触れた。


「これからも、俺の隣で……美味いものを作っていてくれないか」


「………………っ。卑怯ですわ、そういう言い方は」


角煮の脂のせいだけではない。


今度こそ、私の顔は本物の「熱気」で赤く染まった。


「……いいですわよ。その代わり、サイラス様の騎士団長としての給料、半分は私の食費として徴収しますからね!」


「……ふん。安いものだ」


月明かりのキッチンで、私たちは二人、並んで角煮の残り火を眺めていた。


恋のライバルが「マヨネーズ」や「角煮」である生活も、まあ、悪役令嬢の余生としては悪くないのかもしれない。


私は、少しだけ欲張って、サイラス様の皿に二切れ目の角煮を追加してあげたのだった。
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