婚約破棄、喜んで!悪役令嬢は、お作法よりも「お夜食」を愛したい

ちゃっぴー

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「……はぁ。ようやく、落ち着けましたわ」


ガタゴトと激しく揺れる馬車の中で、私はようやく大きく息を吐いた。


王宮の裏門を突破し、サイラス様の用意していた快速馬車に飛び乗ってから数時間。背後から聞こえていた追っ手の馬蹄の音も、今はもう聞こえない。


「……エリチカ、大丈夫か。気分は悪くないか」


向かいに座るサイラス様が、心配そうに私の顔を覗き込んできた。


「ええ。ドレスの締め付けからも解放されましたし、何よりあの殿下のマヌケな顔を思い出すだけで、ご飯が三杯はいけますわ!」


「……あの激辛エキス、本当に凶悪な威力だったな。近衛兵たちの間では、あれは新種の暗殺兵器ではないかと噂になっているぞ」


「失礼ね。あれはただの調味料ですわよ。……それより、サイラス様。私たちはこれから、どこへ向かっているのかしら?」


私は窓の外を見た。景色はすっかり夜の闇に包まれ、街道の木々が飛ぶように後ろへと流れていく。


「……俺の領地、ノースガルドだ。王都からはかなり離れた、辺境の地だよ」


「辺境……。なんだか、美味しそうな響きですわね。特産品は何かしら? やはり、脂の乗った野生肉(ジビエ)? それとも、濃厚な乳製品?」


「……そんなことばかりか。ノースガルドは寒冷地で、作物も育ちにくい不毛の地と言われている。貴族たちの間では『呪われた氷の領土』なんて呼ばれているくらいだ」


サイラス様は少し自嘲気味に笑った。


「華やかな王都の暮らしに慣れた公爵令嬢には、退屈で厳しい場所かもしれない。……後悔していないか?」


私は、サイラス様の目をじっと見つめ返した。


「サイラス様。私が後悔するとしたら、それは『美味しいものがない場所へ行くこと』だけですわ」


「…………」


「作物も育たない不毛の地? 素晴らしいじゃありませんか! それはつまり、私が私の手で、その土地を『美味しい脂の楽園』に変える余地があるということですわよ!」


私は拳を握り、力強く宣言した。


「それに、ノースガルドは冬が長いのでしょう? 寒い場所で食べる熱々のスープや、脂たっぷりのシチュー。……考えただけで、涎が止まりませんわ!」


サイラス様は、毒気を抜かれたように呆然とし、やがてククッと喉を鳴らして笑い出した。


「……貴様という女は。……ああ、そうだな。貴様がいれば、地獄ですらフルコースの会場になりそうだ」


その時だ。


グゥゥゥゥゥ……。


私の腹の虫が、馬車の振動に負けないくらいの音量で鳴り響いた。


「……エリチカ?」


「……サイラス様。逃避行には、エネルギーが必要ですわ」


私は、座席の下に隠しておいた大きなバスケットを引き寄せた。


「……なんだ、それは」


「ふふ。王宮を脱出する際、厨房の裏口から『緊急回収』してきた特製弁当ですわ!」


蓋を開けると、中からはまだ微かに温かさを保った、山積みの「カツサンド」が現れた。


ただし、ただのカツサンドではない。食パンはバターで揚げ焼きにされ、挟まれたカツは通常の三倍の厚さ。さらに、特製のタルタルソースがこれでもかと溢れ出している。


「……貴様、あの混乱の中で、よくもこれだけのものを……」


「調理顧問の特権ですわよ。さあ、サイラス様も。これからは二人三脚……いえ、二人三腹(ににんさんぷく)の旅ですもの!」


私は一切れ、サイラス様の口元に突き出した。


サイラス様は躊躇いながらも、ガブリと大きな口を開けてかぶりついた。


「…………っ! 旨い……。肉の繊維を、脂とソースが強引に解いていくようだ……」


「でしょう? 逃避行の緊張感というスパイスが加わって、さらに美味しく感じられますわね!」


夜の街道を駆ける馬車の中で、私たちは二人、無言でカツサンドを頬張った。


口の周りはソースで汚れ、手は油でギトギト。


王都の礼儀作法から見れば、まさに「最悪の逃避行」かもしれない。


けれど、私の心は、かつてないほどの幸福感に満たされていた。


「……サイラス様。私、ノースガルドに着いたら、まず何をしようかしら」


「……まずは、温かい風呂にでも入れ。その脂ぎった顔を洗うんだ」


「あら、ひどい。……でも、お風呂上がりの一杯……最高に濃厚なココアなんて、どうかしら?」


「……ふん。勝手にしろ。材料だけは、俺がなんとか揃えてやる」


馬車は、暗闇を切り裂いて北へと進む。


王宮のパセリも、殿下の激辛な絶叫も、もう遠い過去の話。


私の新しい人生のレシピは、今まさに、この濃厚なカツサンドから書き換えられようとしていたのである。
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