悪役令嬢は婚約破棄がお好き。

ちゃっぴー

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王都、王城内。
アレクサンダー王太子の執務室。

普段は優雅な時間が流れるはずのこの部屋は、今、戦場のような有様になっていた。

「ええい! なんだこれは! 次から次へと!」

アレクサンダー王子が、目の前に積み上げられた書類の塔を崩し、癇癪を起こして羽ペンを投げ捨てた。

「サインしろ、決裁しろと、うるさいんだよ! 私は王太子だぞ! こんな地味な事務作業をするためにいるのではない!」

彼は叫び、近くに控えていた宰相を睨みつける。

「おい! お茶だ! 最高級の茶葉で淹れた紅茶を持ってこい! 頭が痛いんだ!」

しかし、宰相は無表情で首を横に振った。

「殿下。最高級の茶葉は在庫切れです。予算不足のため、今月から王城内の飲料は『麦茶(出がらし)』に変更されました」

「はぁ!? なんだその貧乏くさい話は! 予算がないだと? 税金があるだろう!」

「その税収が、入ってこないのです」

宰相は分厚い帳簿を開き、淡々と、しかし冷徹に告げた。

「これまで税金の徴収と管理は、ミルク・ド・ラテ様が構築した『自動徴税システム(通称:ミルク・アルゴリズム)』によって行われていました。しかし、彼女が去ったと同時にシステムが停止。現在、手作業で計算していますが、計算ミスと横領が多発し、回収率は以前の三割にも満ちません」

「な……なんだと?」

「さらに、外交問題も発生しています。東方諸国との貿易協定ですが、更新手続きの期限が昨日で切れていました。これにより、関税が倍増。輸入食品の価格が高騰しております」

「そ、そんな手続き、私が知るわけないだろう!」

「ええ、ご存知ないでしょう。全てミルク様が、殿下が寝ている間に処理されていましたから」

宰相の言葉に、棘が含まれていることに王子は気づかない。

「くそっ……! あいつ、余計なことを……いや、必要なことを勝手にやっていたのか!」

王子は頭を抱えた。

ミルクがいる時は、世界は回っていた。
何もせずとも、書類は片付き、金庫には金があり、美味しい紅茶が出てきた。

それが「当たり前」だと思っていた。
彼女が水面下で、白鳥のように足をバタつかせ(というより、高速でジェットスクリューを回し)ていたことなど、想像もしなかったのだ。

「殿下ぁ……」

その時、部屋の隅のソファで優雅に雑誌を読んでいたマリアが、甘ったるい声を上げた。

「なんかぁ、最近、お城の中が寒くないですかぁ? それに、デザートのケーキも小さくなった気がしますぅ」

「マリア……。すまない、少し財政が逼迫していてな」

「えー、やだぁ。愛の力でなんとかしてくださいよぉ。私、寒いの苦手なんですぅ」

マリアは上目遣いで訴える。
以前なら「可愛い」と思えたその仕草が、今のアレクサンダーには、ただの「ノイズ」にしか聞こえなかった。

「愛で暖炉は燃えないんだよ!」

思わず怒鳴ってしまい、ハッとする。
これは以前、ミルクに言われた言葉そのままだ。

「ひどぉい! アレク様が怒鳴ったぁ! ミルク様みたいになってるぅ!」

マリアが嘘泣きを始める。

そこへ、財務大臣が血相を変えて飛び込んできた。

「殿下! 緊急事態です!」

「今度はなんだ! これ以上悪い知らせがあるのか!」

「最悪の知らせです! 国債の格付けが暴落しました!」

「こ、こくさい……?」

「我が国の借金に対する信用度です! これまでは『ラテ公爵令嬢がバックについているなら安心だ』という投資家たちの判断で、Aランクを維持していましたが、婚約破棄のニュースが流れた瞬間、Dランク……『ジャンク級』まで落ちました!」

財務大臣は、真っ赤なインクで染まったグラフを突きつけた。

「これにより、金利が跳ね上がります! 利払いだけで国家予算が消し飛びます!」

「な、な、なんだそれは……! わけがわからん!」

アレクサンダーは椅子から転げ落ちそうになった。

「どうすればいいんだ! 誰か、誰かなんとかしろ!」

「無理です。この複雑怪奇な国家財政を、パズルのように組み合わせて回せるのは、この国でただ一人……ミルク様だけでした」

大臣たちは一様に項垂れる。

「あの方の事務処理能力は、我々官僚十人分に匹敵しました。記憶力、計算速度、交渉術……全てが規格外だったのです。あの方を追放した時点で、我が国の頭脳(CPU)は失われたのです」

沈黙が支配する。
重苦しい空気の中、マリアが空気を読まずに口を開いた。

「ねぇねぇ、じゃあさぁ、ミルク様からお金、取ればよくない?」

「……は?」

「だってぇ、あいつ、違約金の代わりにあの荒野をもらって行ったんでしょ? あそこ、なんか最近すごいらしいよ?」

マリアが読んでいた雑誌をパラリと広げて見せた。

そこには、『辺境に楽園出現!? 黄金の温泉と謎の美女領主!』というセンセーショナルな見出しが躍っていた。

「な……」

王子が雑誌をひったくる。

記事には、美しく整備された街並みと、湯煙の中で優雅に微笑むミルクの写真(と、その横に見切れている隣国皇帝シリウスの姿)が掲載されていた。

『元公爵令嬢ミルク・ド・ラテ氏の手腕により、死の荒野はわずか一ヶ月で大陸有数のリゾート地へと変貌。オリハルコン鉱脈も発見され、その資産価値は計り知れない』

「お、オリハルコンだとぉぉぉ!?」

王子の目が血走る。

「温泉!? リゾート!? あのゴミ捨て場がか!?」

「すごいねぇ。あいつ、私たちの捨てたゴミを拾って、大金持ちになっちゃったみたい」

マリアが無邪気に(あるいは残酷に)笑う。

「許さん……! 許さんぞミルク!」

王子の中で、後悔という感情が、どす黒い嫉妬へと変換された。

自分が書類と借金に埋もれて麦茶を飲んでいる時に、あの女は温泉に浸かってシャンパンを飲んでいるだと?
しかも、自分が手放した土地で?

「宰相! 直ちにミルクに連絡を取れ!」

「はっ。なんと伝えますか? 『ごめんなさい、戻ってきてください』と?」

「馬鹿者! そんな惨めなことができるか!」

王子はバン!と机を叩いた。
しかし、叩いた拍子に山積みの書類が雪崩を起こし、彼の上にドサドサと降り注いだ。

「ぶへっ!」

書類の山から這い出しながら、王子は顔を真っ赤にして叫んだ。

「命令だ! 『王命』として伝えるのだ!」

彼は震える手で、一枚の命令書を書き殴った。

「『王国の危機につき、貴殿の事務処理能力を徴用する。直ちに王都へ帰還し、未処理の書類を片付けよ。なお、これは国民の義務である』……とな!」

「……正気ですか、殿下。火に油を注ぐようなものですが」

「うるさい! あいつは王家の権威には弱いはずだ! 公爵令嬢としての教育を受けているからな!」

王子はまだ分かっていなかった。
今のミルクにとって、王家の権威など「紙切れ以下の価値」しかないことを。

「送れ! 最速の早馬でだ!」

「はぁ……承知いたしました」

宰相は深くため息をつき、憐れむような目で王子を見た。
(これで完全に終わったな……)

王城の窓の外では、不吉なカラスが鳴いていた。

一方その頃、辺境のミルク・シティでは。

「くしゅんっ!」

ミルクが可愛らしくくしゃみをした。

「おや、風邪ですか? 湯冷めしましたか?」

「いいえ。きっと誰かが私の噂をしているのね。……たぶん、支払期限に追われている『誰か』が」

彼女は湯上がりの肌に高級化粧水をパタパタと馴染ませながら、邪悪に、そして美しく微笑んだ。

「そろそろ来る頃ね。『助けてくれ』という悲鳴が」
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