婚約破棄?悪役令嬢は愛より小銭を稼ぎたい!

ちゃっぴー

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「……ココア。こっちへ来てくれないか」

深夜の公爵邸、執務室。

暖炉の火がパチパチと爆ぜる音だけが響く静寂の中、ルーカスが手招きをした。

彼は重厚な革張りのソファに深く腰掛け、片手にワイングラス……ではなく、書類の束を持っている。

私は羽ペンを置き、眉をひそめた。

「なんですの、改まって。今、来期の『冬野菜転売計画』のシミュレーション中なんですけど」

「いいから。……君に見せたいものがあるんだ。近くで見てほしい」

ルーカスの声は、いつになく低く、甘い響きを帯びている。

照明を落とした薄暗い部屋。

大人の男女が二人きり。

普通の恋愛小説なら、ここで「壁ドン」あるいは「顎クイ」からの甘い展開が約束されている場面だ。

私は少しだけ警戒しつつ、それでも彼の隣に座った。

「……近すぎませんか?」

「これくらい近くないと見えないだろう?」

ルーカスが身を乗り出し、私の肩に腕を回す――ような体勢で、テーブルの上の広げられた一枚の紙を指差した。

二人の顔の距離、わずか数センチ。

彼の吐息がかかる距離だ。

私の心臓が、不覚にもトクンと跳ねた。

(な、なによ。急に男の顔をして……。まさか、キスでも迫る気?)

私はゴクリと唾を飲み込み、覚悟を決めて目を閉じかけ――。

「見てくれ、この美しい右肩上がりの曲線を」

「……は?」

私は目を開けた。

そこにあったのは、愛の詩でも婚姻届でもなく、折れ線グラフだった。

「先月の『ウィックド・カフェ』の利益推移と、公爵領の特産品売上の相関図だ。……美しいと思わないか? まるで黄金比で描かれた芸術作品だ」

ルーカスはうっとりとした瞳でグラフを見つめている。

私に向けられるよりも遥かに熱っぽい視線を、紙切れに注いでいるのだ。

私は脱力して、ため息をついた。

「……あのですね、オーナー。雰囲気を返してください」

「雰囲気? 最高の雰囲気じゃないか。この利益率の上昇カーブを見ながら飲むコーヒーは格別だ」

「はいはい、そうですね。……で? このグラフがどうかしたんですか?」

「ここだ。この急激な上昇ポイント。君が『貴族向けプレミアム会員権』を売り出した日と一致している」

「ええ。年会費を払えば並ばずに買える権利、原価ゼロの錬金術ですね」

「その発想が素晴らしいと言っているんだ。通常、顧客は平等を求める。だが君はあえて『格差』を商品化した。人の優越感を金に変える……君は本当に、最高の悪女だ」

ルーカスが私の顔を覗き込み、ニヤリと笑う。

その笑顔は、褒め言葉として「悪女」を使っている。

そして悔しいことに、私にとってそれは最高の賛辞だった。

「ふふっ、光栄ですわ。でも、これだけじゃありませんよ?」

私は負けじと、別の資料を取り出した。

「見てください、この経費削減リスト。裏紙の再利用、ロウソクの間引き点灯、そしてセバスチャンの髭手入れ代のカット……これらにより、固定費がさらに五パーセント圧縮されています」

「五パーセント……!?」

ルーカスの目が輝いた。

「素晴らしい……! 髭手入れ代まで削るとは盲点だった! セバスチャンは泣いていなかったか?」

「『威厳が保てません』と泣いていましたが、『威厳で飯は食えません』と論破しました」

「ははっ! 君には敵わないな!」

ルーカスは愉快そうに笑い、自然な動作で私の髪を一房すくった。

指先が耳に触れる。

ゾクリとするような感触。

「……ココア」

「な、なんですか……」

「君の頭の中を覗いてみたいよ。そこにはきっと、宝石箱のようにキラキラとした『黒字計画』が詰まっているんだろうな」

「ええ。貴方の頭の中と同じものがね」

私たちは至近距離で見つめ合った。

端から見れば、愛を語り合う恋人同士。

しかし、その口から出る言葉は色気ゼロだ。

「……愛しているよ」

「えっ」

「……この『純利益』を」

「紛らわしい区切り方をしないでください!」

私が肘で彼を小突くと、ルーカスは子供のように笑った。

その時だ。

「……旦那様と奥様、いい雰囲気ですねぇ」

ドアの隙間から、話し声が聞こえた。

家令のセバスチャンと、元侍女のモカ(今は店長として報告に来ていた)が、こっそりと覗き見していたのだ。

「あらあら、肩を抱き寄せて……キスする寸前じゃないですか」

「お二人とも、ようやく素直になられたようですな。……髭手入れ代を削られた恨みはありますが、これを見れば許すしかありますまい」

「ええ、ええ。きっと愛の言葉を囁いているんでしょうね」

「『君の瞳に乾杯』とか?」

「『一生離さない』とか?」

彼らは勝手に妄想を膨らませ、生温かい視線を送ってくる。

実際は『君の利益率に乾杯』であり、『一生搾取する』という会話なのだが。

私は顔が熱くなるのを感じた。

「……ルーカス様、見られてますよ」

「構わないさ。事実、僕たちは熱く語り合っているんだから」

ルーカスは気にする素振りもなく、私の手を取った。

その手は大きく、温かく、そしてペンだこがあった。

働き者の手だ。

「ココア。……真面目な話」

彼が声を落とす。

「君が来てくれてよかった。この屋敷は広すぎて、寒くて、数字の冷たさしかなかった。でも今は……」

彼は私の手を、そっと自分の唇に寄せた。

甲に触れるか触れないかの距離。

「君と数字の話をしている時だけは、なぜか温かい気持ちになるんだ」

「……!」

それは、どんなキザな台詞よりも、私の胸に刺さった。

数字しか信じられない不器用な男の、精一杯の愛の告白――いや、信頼の証。

私は顔を背け、赤くなった頬を隠した。

「……当たり前です。私が『熱量(カロリー)』の高い商売を持ち込んだんですから。室温も上がって当然です」

「照れ屋だな」

「うるさいです。さあ、次は来月の『投資計画』について詰めましょう。寝る暇なんてありませんよ!」

「ああ、望むところだ」

私たちは再び書類に向き合った。

肩を寄せ合い、額を突き合わせて。

甘い雰囲気?

そんなもの、私たちには必要ない。

共有する『目標(りえき)』と、重なり合う『算盤(りがい)』があれば、それで十分幸せなのだから。

……でも。

(心臓の音がうるさいのは……計算のしすぎかしら?)

私は密かに深呼吸をし、高鳴る鼓動を「カフェインの過剰摂取による動悸」という勘定科目に仕訳して、無理やり納得させた。

夜は更けていく。

二人の影は、まるで一つの大きな金貨のように、寄り添って揺れていた。
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