悪役令嬢、婚約破棄に「御意」と答えて即帰宅。

ちゃっぴー

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「な、なぜだ……!? なぜ追放したはずの貴様が、ここにいるんだ!」

クラーク殿下は、幽霊でも見たかのように私を指差して叫んだ。

その指先は小刻みに震えている。恐怖からか、それとも怒りからか。

私は手元の書類(破り捨てた残骸)をゴミ箱へポイッと捨て、埃を払うように手を叩いた。

「ごきげんよう、殿下。奇遇ですね。私もなぜ自分がここにいるのか、小一時間ほど自問自答していたところです」

「ふざけるな! ここは国の重要機密を扱う宰相執務室だぞ! 部外者が勝手に入っていい場所ではない!」

「ええ、存じております。ですが今回は正規の手続き……というか、強制連行に近い形での『臨時雇用』ですので」

私はチラリとアレクセイ閣下の方を見た。

閣下は腕を組んだまま、冷ややかな視線を殿下に送っている。

「彼女は私が雇った。何か不満がおありですか、殿下」

「不満も何も、こいつは僕の元婚約者だぞ!? 顔も見たくないから追い出したんだ! なのに、なんで職場にいるんだよ!」

殿下は駄々っ子のように地団駄を踏んだ。

精神年齢が五歳児で止まっているのだろうか。

私は溜息をつき、冷静に提案した。

「殿下。顔を見たくないのであれば、殿下が回れ右をしてお部屋にお戻りになれば解決します。視界から私が消えますので」

「うぐっ……! だ、だが、僕の書類がないんだ! さっきまで机の上にあった『銅像建立計画書』が!」

「ああ、あれですか」

私はゴミ箱を指差した。

「そこにありますよ。細切れになって」

「な……なにぃぃぃーっ!?」

殿下はゴミ箱に駆け寄り、紙吹雪と化した元・計画書を救い上げた。

「あ、ああっ! 僕の傑作が! 『右手を掲げて民を導くポーズ』のラフ画まで描いたのに!」

「絵心は評価しますが、予算配分が壊滅的でした。銅像の素材に『純金』を指定するなど、正気の沙汰とは思えません」

「王太子の威厳を示すには金ピカがいいだろうが!」

「威厳は金メッキでは作れません。日頃の行いで作るものです」

「ぐぬぬ……!」

正論をぶつけると、殿下はすぐに言葉に詰まる。

昔からそうだ。彼は感情で動き、私は論理で動く。噛み合うはずがないのだ。

殿下は涙目で私を睨みつけた。

「お前はいつもそうだ! 僕のやることなすことにケチをつけて! 可愛げがない! ミーナを見習え、彼女は『すごーい!』って褒めてくれるぞ!」

「ミーナ様は語彙力が欠如しているだけでは?」

「違う! 愛だ!」

「はいはい、愛ですね。素晴らしい。では、その愛の力で公務も回してください」

私は会話を切り上げようと、机に向き直った。

しかし、殿下はまだ帰ろうとしない。モジモジと私の周りをうろつき始めた。

何か言いたげだ。

「……で、用件はまだあるのですか?」

私が尋ねると、殿下はバツが悪そうに視線を逸らした。

「……その、ペンがないんだ」

「はい?」

「僕の愛用の万年筆だ。いつも机の右上に置いてあったのに、今朝見たらどこにもない」

「……」

私は呆れて天を仰いだ。

「殿下。それは昨日、貴方が癇癪を起こして投げ捨てた際に、ソファの下に転がり込みました。私が拾って、引き出しの二段目の奥に入れておきましたが」

「えっ、あ、そうなのか? ……あ、あった」

殿下は自分のポケットや、何もない空間を探る仕草をした後、「後で確認する」と呟いた。

「それと、青いファイルもが見当たらないんだが」

「外交資料ですね? それは本棚の『ハ行』の列です。貴方が『青いからア行かな』と適当に戻そうとしたのを、私が正しい場所に戻しました」

「……じゃあ、今日のおやつは?」

「厨房に発注済みです。ただし、食べ過ぎは健康に悪いので、クッキーの枚数は三枚に制限してあります」

「三枚!? 少ない!」

「カロリー計算の結果です」

殿下は「ううっ……」と唸り声を上げた。

どうやら、自分の生活がいかに私によって管理・維持されていたか、少しずつ実感し始めたらしい。

「……な、なんか不便だ」

殿下はボソリと漏らした。

「今日起きてから、何もかもが上手くいかない。靴下は片方見つからないし、紅茶はぬるいし、書類はどこにあるかわからないし……」

「それは大変ですね」

私は棒読みで答えた。

「ですが、それは『自立』への第一歩です。頑張ってください」

「お前がやればいいだろう! 今まで通り!」

殿下は逆ギレした。

「戻ってこいよ! 婚約破棄は……まあ、撤回してやってもいいぞ。側室とかなら置いてやっても……」

その瞬間。

室内の温度が、急激に十度くらい下がった気がした。

冷気の発生源は、私の背後にいるアレクセイ閣下だ。

「……殿下」

地を這うような低い声。

閣下がゆっくりと歩み寄り、殿下と私の間に割って入った。

「寝言は寝室で言っていただきたい。彼女は現在、宰相府の重要な戦力であり、私の直属の部下だ」

「な、なんだアレクセイ。たかが女一人に……」

「たかが、ではありません。彼女がいなければ、今頃この部屋は書類の雪崩で埋没し、国政は停滞していたでしょう。貴方には彼女の価値が理解できなかったようですが」

閣下は冷徹な瞳で殿下を見下ろした。

「一度手放した『最高の人材』は、二度と戻らない。それを肝に銘じておくことですな」

「ひっ……」

殿下は閣下の迫力に押され、後ずさった。

「わ、わかったよ! 帰ればいいんだろう、帰れば! どうせ僕にはミーナがいるもんね!」

殿下は捨て台詞を吐いて、逃げるように執務室を出て行った。

バタン、と扉が閉まる。

嵐が去った後のような静けさが戻った。

「……助かりました、閣下」

私が礼を言うと、閣下はふんと鼻を鳴らした。

「礼には及ばない。作業の邪魔をされたくなかっただけだ」

そう言いながらも、閣下はどこか不機嫌そうだ。

「側室などと……ふざけたことを」

ボソリと呟いたその言葉に、少しだけ熱がこもっていたような気がしたが、聞かなかったことにした。

「さて、再開しましょうか」

私は気を取り直してペンを握った。

一方、廊下に出たクラーク殿下は、一人とぼとぼと歩いていた。

「……ちぇっ。なんだよ、あの態度」

殿下は壁を蹴った。

しかし、心の中には小さなモヤモヤが広がっていた。

(今まで、僕が「あれ」と言えば、ヨーネリアがすぐに持ってきてくれたのに)

(僕が失敗しても、いつの間にか修正されていたのに)

当たり前だと思っていた快適さが、突然失われた喪失感。

「ミーナは……可愛いけど、書類の場所は知らないしな……」

殿下は自分の執務室に戻り、散らかり放題の机を見て呆然とした。

「……どこから手を付ければいいんだ?」

その問いに答えてくれる「口うるさい婚約者」は、もういない。

後悔の波が、さざ波のように押し寄せ始めていた。

しかし、それはまだ序章に過ぎなかった。

これから彼を待ち受けるのは、ヨーネリアという安全装置を失った状態で挑む、過酷な外交と公務の荒波なのだから。

私は執務室の中で、くしゃみを一つした。

「誰かが噂していますね。非効率的なことです」

「風邪か? 休暇を与えるつもりはないぞ」

「わかっていますよ、鬼上司」

私たちは視線を交わし、ニヤリと笑って、再び書類の山へと挑みかかった。
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