悪役令嬢、婚約破棄に「御意」と答えて即帰宅。

ちゃっぴー

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「――ふぅ。これにて、裏帳簿の照合および修正作業、完了です」

深夜三時。

宰相執務室のソファで、私は最後のファイルを閉じ、大きく伸びをした。

「横領総額、金貨二万枚。……ガストン氏には、これから一生をかけて返済していただきましょう。刑務所の賃金規定に基づくと、完済まで約三百年かかりますが」

「……三百年か。吸血鬼でもなければ無理だな」

向かいのデスクで仕事をしていたアレクセイ閣下が、苦笑しながらペンを置いた。

「お疲れ様、ヨーネリア。君のおかげで、長年巣食っていた膿を出し切ることができた」

「いえ、私のストレス発散にお付き合いいただいたようなものです」

私はふらりと立ち上がろうとして――足がもつれた。

「っと……」

「危ない!」

ガタッ!

閣下が目にも止まらぬ速さで駆け寄り、倒れそうになった私を支えた。

「……無理をするな。顔色が悪いぞ」

「……すみません。少々、脳の糖分が不足しているようです。ガストン氏の字が汚すぎて、解読に予想以上のカロリーを消費しました」

「呆れたな。……少し眠れ。送っていくには遅すぎるし、今夜はここに泊まるといい」

閣下は私をソファに座らせ、自分の上着を掛けてくれた。

その動作があまりにも自然で、優しくて。

張り詰めていた糸が、プツリと切れた気がした。

「……では、少しだけ。十分後に起こしてください。残りの書類を……」

「わかった。十分後な」

閣下の低い声を聴きながら、私は瞼を閉じた。

ふかふかのソファ。閣下の上着から漂う、珈琲とインク、そして微かな香水の匂い。

意識が、泥のように沈んでいく。

……はずだった。



(……あれ? 眠れない)

五分後。

私の脳は、まだ覚醒していた。

体は鉛のように重いが、アドレナリンが出過ぎているせいか、意識だけがはっきりしている。

いわゆる『遠足の前日に眠れない現象』の、事後バージョンだ。

(困ったわね。寝たふりをして、やり過ごすべきかしら)

私が狸寝入りを決め込んでいた、その時。

カツ、カツ、カツ……。

デスクの方から、足音が近づいてきた。

閣下だ。

足音は私の枕元で止まった。

衣擦れの音がして、ソファが僅かに沈む。閣下が覗き込んでいる気配がする。

(……起こすにはまだ早いわよ?)

私が目を開けようとした瞬間。

「……ヨーネリア」

閣下が、独り言のように私の名前を呼んだ。

その声があまりにも切なくて、愛おしさに溢れていて。

私は反射的に目を開けるタイミングを失った。

(えっ? 何その声色?)

「……君は本当に、無茶をする」

大きな手が、私の前髪を優しく払う。

「悪役令嬢だの、効率主義だのと言っているが……その実、誰よりも国を思い、人を切り捨てられない甘さがある。……そんな君だから、私は惹かれたのだろうな」

(……買い被りすぎです。私はただ、残業をしたくないだけなのに)

心の中で反論するが、口には出せない。

閣下の指先が、私の頬をなぞる。

熱い。指先が熱い。

「……怖いんだ」

閣下がポツリと漏らした。

「君が有能すぎて、いつか私の手の届かない場所へ行ってしまうのではないかと。……君が『スローライフ』を望んで遠くへ行ってしまったら、私は生きていけるだろうか」

「……」

「君を契約で縛り、仕事で縛り……そうでもしなければ、君を繋ぎ止められない自分が情けない」

閣下の吐露する弱音。

普段の「氷の宰相」からは想像もつかない、弱くて、脆い本音。

聞いてはいけないものを聞いている気がする。

でも、鼓動がうるさくて、耳を塞ぐこともできない。

「……愛しているよ、ヨーネリア」

チュッ。

額に、温かくて柔らかい感触が落ちた。

キスだ。

おでこに、キスされた。

「……もし今、君が起きていて、この言葉を聞いたら……君はまた『計算できない』と言って逃げるだろうか」

閣下はクスクスと寂しげに笑った。

「それでも構わない。何度逃げられても、私は君を追いかける。……君が観念して、私の腕の中に堕ちるまで」

再び、髪を撫でられる感触。

そして、閣下は立ち上がり、デスクへと戻っていった。

遠ざかる足音。

ペンの走る音。

静寂。

(…………)

(…………システム、ダウン)

私は、石のように固まっていた。

目を開けられない。

顔が、火事だ。

耳まで、いや、首筋まで真っ赤になっているのが自分でもわかる。

(な、ななな、何今の!?)

『愛している』。

『逃げられても追いかける』。

『私の腕の中に堕ちるまで』。

(定義が……明確すぎるじゃない!)

計算? できるわけがない。

これはもう、ただの『溺愛』だ。逃げ道のない、完全包囲網だ。

(どうしよう。心拍数が毎分百二十を超えているわ。これじゃ眠れるわけがない!)

私は心の中で絶叫した。

「十分後」と言われたが、これでは朝までフリーズ状態だ。

(……ずるいわ、閣下)

寝ている(と思っている)相手にそんなことを言うなんて、反則だ。

これでは、起きた時になんて顔をすればいいのか分からない。

『起きてました』なんて言ったら、閣下が羞恥心で死んでしまうかもしれないし、私も爆発する。

(……忘れよう。これは夢。夢よ)

私は必死に自己暗示をかけた。

しかし、額に残るキスの熱さと、耳に残る「愛している」の声は、どんなに否定しても消えてくれなかった。

結局。

その夜、私は一睡もできず、翌朝「目の下のクマが凄いぞ、働きすぎだ」と閣下に心配されるという、なんとも皮肉な結果に終わったのである。

「……閣下のせいです」

「え? 何がだ?」

「なんでもありません!」

私は真っ赤になって顔を背けた。

……この「借り」は、いつか必ず返してやる。

そう心に誓いながら、私は冷めたコーヒーを一気に飲み干した。

この時の私はまだ知らない。

この甘い時間の裏で、最後の波乱――ミーナ様の「正体」と、王子の「決断」が迫っていることを。
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