悪役令嬢、婚約破棄に「御意」と答えて即帰宅。

ちゃっぴー

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「――却下だ! この予算案は計算が合わん!」

「承認! 南方の灌漑工事、着工許可を出せ!」

数年後の宰相執務室。

そこは相変わらず、怒号と紙めくりの音が飛び交う戦場だった。

だが、以前とは決定的に違う風景が一つだけあった。

それは、執務室の中央――私とアレクセイ閣下のデスクの間に鎮座する、豪華なベビーベッドだ。

「……あーうー」

「おお、どうした? リオン。パパの仕事ぶりが見たいのか?」

アレクセイ閣下が、書類の山から顔を上げ、ベビーベッドに駆け寄る。

そこには、私たちの一人息子、リオン(二歳)が座っていた。

閣下と同じ黒髪に、私に似た少し冷めた目つきを持つ、天使(将来有望な人材)だ。

「閣下。業務中にデレデレしないでください。リオンが呆れていますよ」

私はペンを止めずに注意した。

「見てみろ、ヨーネリア。リオンが私の承認印を握っている。……なんと将来有望な指使いだ。これは間違いなく、宰相の器だぞ」

「印鑑をオモチャにしないでください。誤って『宣戦布告書』に押印されたらどうするのですか」

私は溜息をつき、席を立ってリオンの元へ向かった。

「はいはい、リオン。印鑑は返してね。代わりにこの『決算報告書(書き損じ)』をあげるから、破って遊びなさい」

「きゃっきゃ!」

リオンは報告書を受け取ると、器用な手つきでビリビリと破り始めた。

「……素晴らしい」

私が感嘆する。

「この月齢で、機密書類のシュレッダー係をこなすとは。我が子ながら、高い事務処理能力を感じます」

「だろう? 英才教育の賜物だ」

閣下が得意げに胸を張る。

私たちは顔を見合わせ、満足げに頷いた。

結婚して数年。

私の夢だった「スローライフ」は、結局叶わなかった。

なぜなら、閣下が私を片時も離そうとせず、さらに私が産休に入ろうとした途端、国の機能が停止しかけたため、結局こうして「子連れ出勤」することになったからだ。

「……まあ、悪くはありませんが」

私はリオンの頭を撫でた。

「おい、邪魔するぞー!」

その時、執務室のドアが勢いよく開いた。

入ってきたのは、泥だらけの作業着を着た日焼けした男――クラーク(元殿下)だ。

手には、木箱いっぱいの野菜を抱えている。

「よう、アレクセイ、ヨーネリア! 今日はお中元の『クラーク農園特製・夏野菜セット』を持ってきたぞ!」

「あら、クラーク。ちょうどサラダが食べたかったところです」

「リオンちゃんも元気かい? ほら、おじちゃんが作った完熟トマトだよー」

クラークがトマトを差し出すと、リオンは「あむ!」と齧り付いた。

「おお! いい食いっぷりだ! 将来は王様じゃなくて農家におなり!」

「それは困る」

閣下が即座に否定した。

「リオンは私の後継者だ。三歳になったら複式簿記を教える予定なのだから、泥遊びなどさせてたまるか」

「えーっ、固いこと言うなよー。土はいいぞー?」

クラークは笑いながら、手慣れた様子で野菜をキッチン(執務室に増設された)へ運び込んでいく。

かつての「無能王子」は、今や「王都一の野菜王」として、私たちの食卓と健康を支える重要なパートナーになっていた。

「お茶が入りましたよー!」

続いて現れたのは、宰相補佐官(兼・筆頭メイド)となったミーナ様だ。

彼女はリオンを見ると、目尻を下げて駆け寄った。

「リオン様ぁぁ! 今日も尊いですぅ! その書類を破くお姿、ヨーネリア様にそっくり!」

「ミーナ。仕事に戻りなさい。リオンの観察日記をつけている暇があったら、お茶を淹れて」

「はい! 今日のブレンドは『激務も乗り切る・カフェイン増し増しスペシャル』です!」

ミーナ様がテキパキとお茶を配る。

執務室は、書類と育児と野菜とカフェインの香りで満たされていた。

カオスだ。

どう見ても、一国の宰相の執務室とは思えない。

でも。

「……ふふっ」

私は自然と笑みがこぼれた。

「どうした、ヨーネリア?」

閣下が不思議そうに私を見る。

「いえ。……計算外だなぁ、と思いまして」

私はコーヒーカップを手に取り、部屋を見渡した。

「本来なら、私は今頃、田舎のテラスで優雅に昼寝をしているはずでした。それなのに、現実はどうでしょう。書類の山、野菜臭い元王子、狂信的な補佐官、そしてオムツ替えのタスク……」

私は肩をすくめた。

「労働基準法違反もいいところです」

「……後悔しているか?」

閣下が少し不安そうに尋ねる。

私は首を横に振った。

「いいえ。……不思議と、充実しています」

私は閣下の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「退屈しない毎日。予想外のトラブル。そして何より……私の隣には、世界一優秀で、世界一私を愛してくれるパートナーがいますから」

「……!」

閣下の耳が赤くなる。

数年経っても、この人は私のデレに弱い。

「……それに、この子もいますしね」

私はリオンを抱き上げた。

「この子が大きくなって、私の仕事を継いでくれるまでは……もう少し、このブラックな職場で頑張ってあげてもよろしくてよ?」

「……ははは!」

閣下は楽しそうに笑い、立ち上がって私とリオンをまとめて抱きしめた。

「感謝するよ、私の女王様。……君とリオンのためなら、私はあと百年は働ける」

「百年は無理です。人間ですから」

「気持ちの問題だ」

閣下は私の額にキスをした。

「愛しているよ、ヨーネリア。……今日も、明日も、その先もずっと」

「……私もです、あなた」

「あーうー!」(僕もー!)

リオンも空気を読んで(?)声を上げた。

私たちは笑い合い、そして――。

「さて! 休憩終了です!」

私はパンと手を叩いた。

「感傷に浸っている場合ではありません。未処理の書類があと五百件残っています! 今日中に終わらせて、定時で帰りますよ!」

「鬼だな、君は」

「貴方の妻ですから」

私たちは再びペンを握り、書類の山へと挑みかかった。

忙しい。うるさい。休まる暇がない。

それでも、ここには確かに「愛」と「幸せ」があった。

悪役令嬢ヨーネリアの物語は、これにて幕を閉じる。

しかし、彼女たちの「労働」と「愛」の日々は、これからも書類の山がなくなるその日まで、永遠に続いていくのである。
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