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1巻
1-1
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金木犀の花が咲き終わり、真っ赤な南天の実が立冬を告げた霜月のはじめ。
平日の昼前まで惰眠を貪っていた僕の部屋に、いい加減に起きやがれと玄関チャイムがけたたましく鳴り響いた。
大して広くもない1DK。玄関チャイムとドアノブガチャガチャ攻撃のせいで、素晴らしい惰眠の世界からぬるぬると覚醒。
起きたくない。起きたくはないが、返事をしなくてはあの猛攻は止まないだろう。
「ふあ……」
こんな朝早く……でもないけれど、通販で何かを頼んだ覚えはないから宅配便ではないし、新聞はとっていないので集金でもない。大河ドラマを観るための視聴料も支払っているから、その取り立てでもない。
それなら、誰がこの家を訪れるというのか。
大きな欠伸を三回、溢れた涙をパジャマの袖で拭い、ドアスコープから外の様子を窺おうとすると。
「在宅していることはわかっているのですよ、啓順」
閉ざされた玄関ドアの向こうで、冷ややかながらもしっかりとした声が、招きたくない人物であることを告げた。
「ばあちゃん!?」
「誰がババァですか! 無礼な口を叩くと、庭の渋柿を食べさせますよ!」
しばらく会っていなかった祖母の声に、寝ぼけていた頭が今度こそ覚める。
激動の時代を生き抜いた祖母は、僕にとってこの世で一番逆らってはならない人だ。
恩があるだけではない。数年前に海外勤務となってこの日麩本国を出た父とともに母も海を渡り、一人残された僕のお目付役として、口やかましい親代理として、祖母は温かくもないけど見守ってくれている。
寝ぐせだらけの髪の毛を放置し、パジャマのシャツの裾を慌ててズボンに入れた。寝起きだから服装の乱れは許してほしいところだが、祖母相手にそれは通じない。
「今! 今、開けますから!」
慌てて玄関ドアに飛びつき、チェーンとロックを外す。
扉を開ける前に、乱雑な玄関を足で整理して……といっても、転がっている靴を端に寄せるだけだ。
外開きのドアをゆっくりと開けば、そこには品の良い藍色の京友禅を身に纏った老齢の女性。年齢よりも若くとても美しい容姿をした小柄な祖母は、ぴんと背筋を伸ばしていた。
僕も背筋をぴんと伸ばし、両手で寝ぐせを押さえつける。
祖母は単身者向けの狭くて薄暗いアパートには不釣り合いな出で立ちで、いつもと同じく不機嫌そうに花柄のハンカチで鼻を押さえている。この部屋の前が異様に臭いというわけではない。これが、祖母の癖なのだ。
「お、お、おはようございます……?」
「はい、おはようございます。ですが啓順、時刻は午前十一時を回っております。世間では『こんにちは』と挨拶をする時間帯ではございませんの?」
「こ……コンニチハ」
「はい、こんにちは」
祖母の言うことは正しい。
だけど、なぜ今この時間にここにいるのか、疑問に思うくらいは許されるだろう。
激しい寝ぐせによれよれのパジャマ姿のままで出迎えた僕を一瞥すると、祖母はハンカチで鼻を押さえたまま、有無を言わさず部屋に入ってきた。
玄関前には黒いスーツを着た、屈強そうなボディーガードが二人。なぜマッチョな外国人なのかはさておき、彼らに中に入るよう声をかけても、静かに顔を左右に振るだけ。これもいつものことだ。相変わらずだなと彼らに頭を下げてから扉を静かに閉めた。
祖母は狭い部屋に入ってすぐ、ベランダ側の大きな窓を開け放った。
まるで僕の部屋の空気が悪いみたいじゃないかと思いつつ、口には出さずにぐしゃぐしゃのベッドを慌てて整える。脱ぎ散らかしていた洋服を拾い集め、布団の下にねじ込んだ。靴下の片方が見つからないが、探している暇はない。
よれよれのカーディガンを羽織り、押し入れに突っ込んだままだった祖母専用の絹の座布団を取り出す。
しまった、もう半年以上日に干していないからカビ臭いかもしれない。消臭スプレーってどこだっけ。トイレ? やっべ、玄関に置いたままだ。
「今さら取り繕う必要はありません」
玄関へ急ぎ消臭スプレーを取りに行こうとしたら、祖母はこちらを振り向き静かに言った。
祖母はそこらへんに落ちていたフェイスタオルでフローリングをささっと拭くと、ゆっくりと腰を下ろす。
ぴしりと伸びた背筋を見ると、妙な緊張感が走る。
「ばあちゃ……」
「誰がババァですか」
「言ってませんって!」
ばあちゃんとババァは全然違うと思うのだけれど、祖母からすると一緒らしい。
「わたくしは貴方の祖母ではありますが、ババァなどと呼ばれるほど老いているつもりはございませんよ? 大体、老婆という言葉も気に入りません。女性はいくら年を重ねても女性であり続けていたいと願うもの。それをババァだのばあちゃんだのと勝手な呼び方をして。昨今のテレビのリポーターも、老齢の女性に声をかけるときにおばあちゃん、なんて言うのですよ。誰が、いつ貴方のおばあちゃんになったのかしらね。ああ、なんて無礼な」
祖母と会って話をするのはひと月半ぶりだが、よく動く舌は絶好調のようだ。
由緒正しい家柄に生まれ、蝶よ花よお姫様よと育てられた祖母は、厳格な性格の上、自分にも身内にも他人にも厳しい。孫である僕に対しての躾は親以上に厳しく、箸の持ち方から正座の仕方、扉の開き方に靴の脱ぎ方まで事細かに教わった。そんなの教わったところで、お花やお茶を仕事にするわけじゃあるまいし、何の役に立つんだと憤ったこともある。
まあ、社会に出てから食べ方が綺麗だとか、歩き方に品を感じるなどと言われることがあるから、まったく無意味だったわけじゃないけど。
祖母に教えてもらった座り方で正座をすると、祖母は鼻を押さえていたハンカチをようやく外した。
「あの、ばっ……えーと、ツマ子さん。今日はどういったご用件ですか」
祖母を名前で呼ばなければ、また怒鳴られる。ばあちゃんはばあちゃんに違いないのに、妙なところで拘るんだよな。
「貴方、わたくしに何か言わなければならないことがあるのではなくて?」
「……言わなければならないこと、ですか? ええと、体重が一キロ減りました」
「そのようなことは誤差の範囲内です。そうではありません」
わかってはいたが、この祖母を誤魔化すことなどできない。体重のわずかな変化よりも、もっと大変なことが起こっている。それは黙ったままでいたかったのに。
お茶でも出したほうがいいのかな。でも冷蔵庫には炭酸飲料しか入っていない。お茶のパックならあるけど、お茶っ葉はどうだったかな……そもそも急須はあったっけ。
「お茶はいりません。どうせろくな茶葉は揃っていないのでしょうから」
「あっ、はい」
立ち上がろうとしていたところを、祖母が鋭く制止した。混沌とした流しの下の棚を開けることにならなくてよかった。
「取り調べを受ける前に、なぜわたくしに連絡をしなかったのですか」
やっべ。
完全にバレてる。
ゴタゴタは昨夜終わったばかりだというのに、どうやって知ったんだ。僕は祖母に連絡なんてしていないし、数少ない友人にも黙ったまま。外に漏れるはずがない。
「取り調べって……容疑者でも被疑者でもないんですから、やめてください」
「警察に話を聞かれた時点で同じようなものでしょう。ですから、わたくしが勧める会社になさいとあれほど言ったではありませんか」
「それは、わかっています。わかっていましたけど、自分の勘を信じたかったと言いますか、雰囲気が良かったんですよね」
そもそも祖母に紹介された就職先は、僕なんかがしれっと入っていい職場ではない。都心のお洒落な高層ビル群に本社を構えているような、有名な会社ばかり。
そんな大企業に二流大学出の僕がコネ入社なんてしてみろ。周りに馴染めず隅に隅にと追いやられ、気がつけば社内のお荷物と化すのが目に見えている。そりゃ僕の努力次第かもしれないが、人には向き不向きっていうのがあるんだ。
祖母は僕をじろりと睨みつけると、静かに言う。
「雰囲気が良いからと言って、警察の強制捜査を受ける会社がありますか」
あちゃー。
もう誤魔化しなんて利かない。そもそも、この祖母相手に口で勝てるわけがないんだ。いや、口に限らず、合気道だか気功だかに精通している祖母は、腕っぷしも強い。
祖母の厳しい視線から目を逸らし、カーテンレールの上にたまった埃を見つめる。
祖母の言うことは正しい。わかっている。見る目がなかったのは自分なんだと。
大学卒業後、特に何がしたいわけでもなくふらふらとアルバイトをしていた僕に、両親が突然、仕送りを減らすと宣言した。そりゃ、卒業後は就職すると約束していたのに、なかなか勤め先を決められずに半年経過していたのだから無理もない。両親は僕ののんびりとした性格を把握し、発破をかけるためにそんな宣言をしてきたのだろう。それはわかる。
だから僕は、勤め先を吟味せずフィーリング優先で選んだ。つまりは妥協したってことなんだけど。
勤め先は少数精鋭の投資会社。投資については何一つ知らなかったが、業務部に配属されて主にパソコンで顧客管理をする仕事をした。事務の女性は優しくて、上司にも可愛がってもらえて、僕としては居心地が好かったんだ。
だけど、経営者と重役たちがまさか顧客の資産を私的に流用しているだなんてさ。末端の僕に気づけるはずがないだろう。そもそも投資についてよくわかってないんだから。
つまりは詐欺まがいのことをしていたわけで、顧客からの通報により、会社は警察の強制捜査を受けたのだった。
「なんといいますか、それは、あの、ええと……」
「言い訳はよろしい。なぜ警察が来た時点でわたくしに連絡をしなかったのですか。すぐにでも五十貝さんに出向いてもらったものを」
「ただの平社員にツマ子さん専属の弁護士先生なんて、もったいないです」
「ただの平社員ではないでしょう。貴方はわたくしの大切な孫。大海原家の次期当主ではありませんか」
「いやいやっ、とうちゃっ……父、父がいるじゃん!」
「日麩本国が狭いなどと言い訳をして米国に逃げた男など、次期当主とは認めません」
ああ言えばこう言う。
そもそも大海原の当主がどうの、なんて言っているけど、鎌倉市に古臭い屋敷を構えているだけじゃないか。
家格なんてよくわからないし、祖母の由緒正しい血筋というのも怪しいものだ。ご先祖様の名前は歴史の表舞台に一切出てこない。それだけで決めつけるわけじゃないが、怪しむには充分だと思う。
確かに祖母は謎に包まれている。自由奔放に生きている父とは違い、何かに縛られ、自分を戒めながら生きているような気がする。
常に屈強なボディーガードを二人引き連れ、黒い大きな防弾車には専用の運転手。鎌倉にある古い屋敷にはお手伝いさんが数人常駐。
かといって、祖母の家が何か事業を営んでいるというわけではない。それなのに祖母は高級そうな着物を常に身につけているし、僕に着せようとする服も、全て名のあるハイブランドだ。
膨大な収入源は何なのか聞いても、父は教えてはくれなかった。「知らないほうが幸せってこともあるさ!」なんて、鬱陶しいくらいの爽やかな笑顔で適当なことを言っていたっけ。
「それで、今はどうなりました」
祖母は膝に置いていた巾着袋から唐草模様のがま口財布を手に取り、中から白い名刺を取り出した。いや名刺ではないらしい。薄桃色の花びらが描かれているメモ帳だ。
「事情聴取……じゃなくて、いろいろと聞かれるのは終わったと思います。また何かあったら連絡すると言っていましたが、三週間以上連絡はありません」
「連絡などなくてよろしい。後は五十貝さんに任せなさい」
「いや、ですから腕利きの弁護士先生に頼むほどじゃありませんて」
「頼んでおけば、何度も警察署に赴くことなどありませんでした」
「なんでそこまで知っているんですか」
警察が祖母に情報漏洩でもしているのだろうか。いくらなんでも、そんな真似はしないだろう。まさかこの部屋に盗聴器が? いや待て、部屋で警察云々なんて言った覚えはない。そりゃ愚痴くらいは言うけどさ。それだって、可愛い独り言程度だ。
「貴方が隠そうとすることは、わたくしに筒抜けです」
「ばあちゃん、忍者でも雇っているの?」
「誰がババァですか!」
祖母はきりりとした眉をさらに吊り上げ、埃まみれのちゃぶ台をバシンと手で叩いた。爪の先まで美しく整った手に、埃が舞う舞う。
「ツマ子さん、えっと、お気遣いありがとうございます?」
「はじめからそう仰い。ここに五十貝さんの連絡先がありますから」
「いやいや、そういうこっちゃないです。会社は辞めてしまいましたが、今月いっぱいくらいはゆっくりしようかなと」
「ゆっくりしている余裕が貴方にありますか。貯金は残り二十八万七千四十五円でしょう」
なんで知ってんだ!
預金残高なんて、僕でさえざっくりとしか把握してないのに!
怖い。本当に怖い、このばあちゃん。
「それじゃあ、ちょっとだけ融資をしていただけるとか……?」
「ハイリスクでリターンがまったくなさそうな貴方に投資をするのですか? ははっ」
やめて笑わないで。笑うなら目も笑って。
ばあちゃん、金持ちそうなのに財布の紐は堅いんだからな。
そのおかげで、僕には浪費癖などつかなかった。ただ、服装や鞄などの人から見られるものには拘れ、安物を身につけてふらふらウロつくな、と言われ続けたのだ。
いやいや、安物こそ汚れを気にせず着られるんじゃないかと主張したが、汚れないよう振る舞いなさいと反論されれば何も言えず。
僕が金持ちのボンボンだと勘違いした同級生からは、妙に懐かれたことも多々あったっけ。
「それじゃあ、何をしに来たんですか。僕は次の働き先をまだ決めていませんし、ばあ……ツマ子さんの推薦先の巨大企業には絶対に行きませんよ」
「一昨年に貴方が頑なに拒んだ企業を再度勧めようとは思いません。ですが、ぼんやりしている暇もありませんでしょう」
「せめて今月中だけはぼんやりさせてください」
「貴方にはぼんやりと立ち止まる暇はありません」
駄目だ。祖母は思い込むと突っ走るイノシシなのだ。しかも、本人に悪気は一切ない。正論に正論を重ね、有無を言わさず強引に事を進める。
大手企業への就職だけは駄目だ。
凡人の僕が能力者だらけの中に放り込まれて、無事に生き延びられるとは思えない。胃袋をズタボロにされて入院するのがオチだ。僕の精神はそんなに強くない。
「貴方も二十四になるのですから、そろそろお会いするべきですね」
「え。誰に?」
「何ですか?」
「ええと、どなたにお会いすればよろしいのでしょうか?」
とっさに出てしまった言葉遣いを直して再度問うと、祖母は先ほどのメモ帳をすっと差し出した。埃にまみれたちゃぶ台の上に、桜色の上品なメモ帳。それには都心部の住所が書かれていた。それと、人の名前。
「ゆぎょう、ひ、いこ?」
「遊行ひいこさんです。我ら大海原一族がその身をお守りしてきた、大切なお方です」
「お守りしてきた?」
「明日にでもお会いしてきなさい。よろしいですか? これはわたくしからの命令です」
「そんな横暴な!」
「横暴なものですか。どうせ明日も明後日も昼まで眠るだけなのでしょう? そんな非生産的なことをするものではありません。貴方は若いと言われる歳ではありますが、時間というものは決して止まることがないのです。貴方は刻一刻とその命を燃やしているのです。無駄に」
こうやっていつも祖母は年齢についてしつこいほど語ってくる。怠惰に時間を使うなとか、懸命に生きなさいだとか。
無論、祖母に反論などできるわけがない。祖母が言っていることはいつも正しい。それは、わかっている。
だけど、二十四歳相手に日々を噛み締めて生きろと言っても、右から左へと流れるだけだ。
幸いにも五体満足健康で、明日の命の心配をする必要はない。
ガツガツしなくてもまだ若いんだし、という大義名分がある。
そりゃ、あと十年もこの生活が続くだなんて思っていない。そこまで甘い考えはないけど、祖母に言ったところで、月末までゆっくりしたいという考え自体が甘いのだと切り捨てられるだろう。
明日の惰眠を取るよりも、祖母の命令を素直に聞いたほうが平和に過ごせる。どうせ祖母の言うことには逆らえないのだから。
平日の昼前まで惰眠を貪っていた僕の部屋に、いい加減に起きやがれと玄関チャイムがけたたましく鳴り響いた。
大して広くもない1DK。玄関チャイムとドアノブガチャガチャ攻撃のせいで、素晴らしい惰眠の世界からぬるぬると覚醒。
起きたくない。起きたくはないが、返事をしなくてはあの猛攻は止まないだろう。
「ふあ……」
こんな朝早く……でもないけれど、通販で何かを頼んだ覚えはないから宅配便ではないし、新聞はとっていないので集金でもない。大河ドラマを観るための視聴料も支払っているから、その取り立てでもない。
それなら、誰がこの家を訪れるというのか。
大きな欠伸を三回、溢れた涙をパジャマの袖で拭い、ドアスコープから外の様子を窺おうとすると。
「在宅していることはわかっているのですよ、啓順」
閉ざされた玄関ドアの向こうで、冷ややかながらもしっかりとした声が、招きたくない人物であることを告げた。
「ばあちゃん!?」
「誰がババァですか! 無礼な口を叩くと、庭の渋柿を食べさせますよ!」
しばらく会っていなかった祖母の声に、寝ぼけていた頭が今度こそ覚める。
激動の時代を生き抜いた祖母は、僕にとってこの世で一番逆らってはならない人だ。
恩があるだけではない。数年前に海外勤務となってこの日麩本国を出た父とともに母も海を渡り、一人残された僕のお目付役として、口やかましい親代理として、祖母は温かくもないけど見守ってくれている。
寝ぐせだらけの髪の毛を放置し、パジャマのシャツの裾を慌ててズボンに入れた。寝起きだから服装の乱れは許してほしいところだが、祖母相手にそれは通じない。
「今! 今、開けますから!」
慌てて玄関ドアに飛びつき、チェーンとロックを外す。
扉を開ける前に、乱雑な玄関を足で整理して……といっても、転がっている靴を端に寄せるだけだ。
外開きのドアをゆっくりと開けば、そこには品の良い藍色の京友禅を身に纏った老齢の女性。年齢よりも若くとても美しい容姿をした小柄な祖母は、ぴんと背筋を伸ばしていた。
僕も背筋をぴんと伸ばし、両手で寝ぐせを押さえつける。
祖母は単身者向けの狭くて薄暗いアパートには不釣り合いな出で立ちで、いつもと同じく不機嫌そうに花柄のハンカチで鼻を押さえている。この部屋の前が異様に臭いというわけではない。これが、祖母の癖なのだ。
「お、お、おはようございます……?」
「はい、おはようございます。ですが啓順、時刻は午前十一時を回っております。世間では『こんにちは』と挨拶をする時間帯ではございませんの?」
「こ……コンニチハ」
「はい、こんにちは」
祖母の言うことは正しい。
だけど、なぜ今この時間にここにいるのか、疑問に思うくらいは許されるだろう。
激しい寝ぐせによれよれのパジャマ姿のままで出迎えた僕を一瞥すると、祖母はハンカチで鼻を押さえたまま、有無を言わさず部屋に入ってきた。
玄関前には黒いスーツを着た、屈強そうなボディーガードが二人。なぜマッチョな外国人なのかはさておき、彼らに中に入るよう声をかけても、静かに顔を左右に振るだけ。これもいつものことだ。相変わらずだなと彼らに頭を下げてから扉を静かに閉めた。
祖母は狭い部屋に入ってすぐ、ベランダ側の大きな窓を開け放った。
まるで僕の部屋の空気が悪いみたいじゃないかと思いつつ、口には出さずにぐしゃぐしゃのベッドを慌てて整える。脱ぎ散らかしていた洋服を拾い集め、布団の下にねじ込んだ。靴下の片方が見つからないが、探している暇はない。
よれよれのカーディガンを羽織り、押し入れに突っ込んだままだった祖母専用の絹の座布団を取り出す。
しまった、もう半年以上日に干していないからカビ臭いかもしれない。消臭スプレーってどこだっけ。トイレ? やっべ、玄関に置いたままだ。
「今さら取り繕う必要はありません」
玄関へ急ぎ消臭スプレーを取りに行こうとしたら、祖母はこちらを振り向き静かに言った。
祖母はそこらへんに落ちていたフェイスタオルでフローリングをささっと拭くと、ゆっくりと腰を下ろす。
ぴしりと伸びた背筋を見ると、妙な緊張感が走る。
「ばあちゃ……」
「誰がババァですか」
「言ってませんって!」
ばあちゃんとババァは全然違うと思うのだけれど、祖母からすると一緒らしい。
「わたくしは貴方の祖母ではありますが、ババァなどと呼ばれるほど老いているつもりはございませんよ? 大体、老婆という言葉も気に入りません。女性はいくら年を重ねても女性であり続けていたいと願うもの。それをババァだのばあちゃんだのと勝手な呼び方をして。昨今のテレビのリポーターも、老齢の女性に声をかけるときにおばあちゃん、なんて言うのですよ。誰が、いつ貴方のおばあちゃんになったのかしらね。ああ、なんて無礼な」
祖母と会って話をするのはひと月半ぶりだが、よく動く舌は絶好調のようだ。
由緒正しい家柄に生まれ、蝶よ花よお姫様よと育てられた祖母は、厳格な性格の上、自分にも身内にも他人にも厳しい。孫である僕に対しての躾は親以上に厳しく、箸の持ち方から正座の仕方、扉の開き方に靴の脱ぎ方まで事細かに教わった。そんなの教わったところで、お花やお茶を仕事にするわけじゃあるまいし、何の役に立つんだと憤ったこともある。
まあ、社会に出てから食べ方が綺麗だとか、歩き方に品を感じるなどと言われることがあるから、まったく無意味だったわけじゃないけど。
祖母に教えてもらった座り方で正座をすると、祖母は鼻を押さえていたハンカチをようやく外した。
「あの、ばっ……えーと、ツマ子さん。今日はどういったご用件ですか」
祖母を名前で呼ばなければ、また怒鳴られる。ばあちゃんはばあちゃんに違いないのに、妙なところで拘るんだよな。
「貴方、わたくしに何か言わなければならないことがあるのではなくて?」
「……言わなければならないこと、ですか? ええと、体重が一キロ減りました」
「そのようなことは誤差の範囲内です。そうではありません」
わかってはいたが、この祖母を誤魔化すことなどできない。体重のわずかな変化よりも、もっと大変なことが起こっている。それは黙ったままでいたかったのに。
お茶でも出したほうがいいのかな。でも冷蔵庫には炭酸飲料しか入っていない。お茶のパックならあるけど、お茶っ葉はどうだったかな……そもそも急須はあったっけ。
「お茶はいりません。どうせろくな茶葉は揃っていないのでしょうから」
「あっ、はい」
立ち上がろうとしていたところを、祖母が鋭く制止した。混沌とした流しの下の棚を開けることにならなくてよかった。
「取り調べを受ける前に、なぜわたくしに連絡をしなかったのですか」
やっべ。
完全にバレてる。
ゴタゴタは昨夜終わったばかりだというのに、どうやって知ったんだ。僕は祖母に連絡なんてしていないし、数少ない友人にも黙ったまま。外に漏れるはずがない。
「取り調べって……容疑者でも被疑者でもないんですから、やめてください」
「警察に話を聞かれた時点で同じようなものでしょう。ですから、わたくしが勧める会社になさいとあれほど言ったではありませんか」
「それは、わかっています。わかっていましたけど、自分の勘を信じたかったと言いますか、雰囲気が良かったんですよね」
そもそも祖母に紹介された就職先は、僕なんかがしれっと入っていい職場ではない。都心のお洒落な高層ビル群に本社を構えているような、有名な会社ばかり。
そんな大企業に二流大学出の僕がコネ入社なんてしてみろ。周りに馴染めず隅に隅にと追いやられ、気がつけば社内のお荷物と化すのが目に見えている。そりゃ僕の努力次第かもしれないが、人には向き不向きっていうのがあるんだ。
祖母は僕をじろりと睨みつけると、静かに言う。
「雰囲気が良いからと言って、警察の強制捜査を受ける会社がありますか」
あちゃー。
もう誤魔化しなんて利かない。そもそも、この祖母相手に口で勝てるわけがないんだ。いや、口に限らず、合気道だか気功だかに精通している祖母は、腕っぷしも強い。
祖母の厳しい視線から目を逸らし、カーテンレールの上にたまった埃を見つめる。
祖母の言うことは正しい。わかっている。見る目がなかったのは自分なんだと。
大学卒業後、特に何がしたいわけでもなくふらふらとアルバイトをしていた僕に、両親が突然、仕送りを減らすと宣言した。そりゃ、卒業後は就職すると約束していたのに、なかなか勤め先を決められずに半年経過していたのだから無理もない。両親は僕ののんびりとした性格を把握し、発破をかけるためにそんな宣言をしてきたのだろう。それはわかる。
だから僕は、勤め先を吟味せずフィーリング優先で選んだ。つまりは妥協したってことなんだけど。
勤め先は少数精鋭の投資会社。投資については何一つ知らなかったが、業務部に配属されて主にパソコンで顧客管理をする仕事をした。事務の女性は優しくて、上司にも可愛がってもらえて、僕としては居心地が好かったんだ。
だけど、経営者と重役たちがまさか顧客の資産を私的に流用しているだなんてさ。末端の僕に気づけるはずがないだろう。そもそも投資についてよくわかってないんだから。
つまりは詐欺まがいのことをしていたわけで、顧客からの通報により、会社は警察の強制捜査を受けたのだった。
「なんといいますか、それは、あの、ええと……」
「言い訳はよろしい。なぜ警察が来た時点でわたくしに連絡をしなかったのですか。すぐにでも五十貝さんに出向いてもらったものを」
「ただの平社員にツマ子さん専属の弁護士先生なんて、もったいないです」
「ただの平社員ではないでしょう。貴方はわたくしの大切な孫。大海原家の次期当主ではありませんか」
「いやいやっ、とうちゃっ……父、父がいるじゃん!」
「日麩本国が狭いなどと言い訳をして米国に逃げた男など、次期当主とは認めません」
ああ言えばこう言う。
そもそも大海原の当主がどうの、なんて言っているけど、鎌倉市に古臭い屋敷を構えているだけじゃないか。
家格なんてよくわからないし、祖母の由緒正しい血筋というのも怪しいものだ。ご先祖様の名前は歴史の表舞台に一切出てこない。それだけで決めつけるわけじゃないが、怪しむには充分だと思う。
確かに祖母は謎に包まれている。自由奔放に生きている父とは違い、何かに縛られ、自分を戒めながら生きているような気がする。
常に屈強なボディーガードを二人引き連れ、黒い大きな防弾車には専用の運転手。鎌倉にある古い屋敷にはお手伝いさんが数人常駐。
かといって、祖母の家が何か事業を営んでいるというわけではない。それなのに祖母は高級そうな着物を常に身につけているし、僕に着せようとする服も、全て名のあるハイブランドだ。
膨大な収入源は何なのか聞いても、父は教えてはくれなかった。「知らないほうが幸せってこともあるさ!」なんて、鬱陶しいくらいの爽やかな笑顔で適当なことを言っていたっけ。
「それで、今はどうなりました」
祖母は膝に置いていた巾着袋から唐草模様のがま口財布を手に取り、中から白い名刺を取り出した。いや名刺ではないらしい。薄桃色の花びらが描かれているメモ帳だ。
「事情聴取……じゃなくて、いろいろと聞かれるのは終わったと思います。また何かあったら連絡すると言っていましたが、三週間以上連絡はありません」
「連絡などなくてよろしい。後は五十貝さんに任せなさい」
「いや、ですから腕利きの弁護士先生に頼むほどじゃありませんて」
「頼んでおけば、何度も警察署に赴くことなどありませんでした」
「なんでそこまで知っているんですか」
警察が祖母に情報漏洩でもしているのだろうか。いくらなんでも、そんな真似はしないだろう。まさかこの部屋に盗聴器が? いや待て、部屋で警察云々なんて言った覚えはない。そりゃ愚痴くらいは言うけどさ。それだって、可愛い独り言程度だ。
「貴方が隠そうとすることは、わたくしに筒抜けです」
「ばあちゃん、忍者でも雇っているの?」
「誰がババァですか!」
祖母はきりりとした眉をさらに吊り上げ、埃まみれのちゃぶ台をバシンと手で叩いた。爪の先まで美しく整った手に、埃が舞う舞う。
「ツマ子さん、えっと、お気遣いありがとうございます?」
「はじめからそう仰い。ここに五十貝さんの連絡先がありますから」
「いやいや、そういうこっちゃないです。会社は辞めてしまいましたが、今月いっぱいくらいはゆっくりしようかなと」
「ゆっくりしている余裕が貴方にありますか。貯金は残り二十八万七千四十五円でしょう」
なんで知ってんだ!
預金残高なんて、僕でさえざっくりとしか把握してないのに!
怖い。本当に怖い、このばあちゃん。
「それじゃあ、ちょっとだけ融資をしていただけるとか……?」
「ハイリスクでリターンがまったくなさそうな貴方に投資をするのですか? ははっ」
やめて笑わないで。笑うなら目も笑って。
ばあちゃん、金持ちそうなのに財布の紐は堅いんだからな。
そのおかげで、僕には浪費癖などつかなかった。ただ、服装や鞄などの人から見られるものには拘れ、安物を身につけてふらふらウロつくな、と言われ続けたのだ。
いやいや、安物こそ汚れを気にせず着られるんじゃないかと主張したが、汚れないよう振る舞いなさいと反論されれば何も言えず。
僕が金持ちのボンボンだと勘違いした同級生からは、妙に懐かれたことも多々あったっけ。
「それじゃあ、何をしに来たんですか。僕は次の働き先をまだ決めていませんし、ばあ……ツマ子さんの推薦先の巨大企業には絶対に行きませんよ」
「一昨年に貴方が頑なに拒んだ企業を再度勧めようとは思いません。ですが、ぼんやりしている暇もありませんでしょう」
「せめて今月中だけはぼんやりさせてください」
「貴方にはぼんやりと立ち止まる暇はありません」
駄目だ。祖母は思い込むと突っ走るイノシシなのだ。しかも、本人に悪気は一切ない。正論に正論を重ね、有無を言わさず強引に事を進める。
大手企業への就職だけは駄目だ。
凡人の僕が能力者だらけの中に放り込まれて、無事に生き延びられるとは思えない。胃袋をズタボロにされて入院するのがオチだ。僕の精神はそんなに強くない。
「貴方も二十四になるのですから、そろそろお会いするべきですね」
「え。誰に?」
「何ですか?」
「ええと、どなたにお会いすればよろしいのでしょうか?」
とっさに出てしまった言葉遣いを直して再度問うと、祖母は先ほどのメモ帳をすっと差し出した。埃にまみれたちゃぶ台の上に、桜色の上品なメモ帳。それには都心部の住所が書かれていた。それと、人の名前。
「ゆぎょう、ひ、いこ?」
「遊行ひいこさんです。我ら大海原一族がその身をお守りしてきた、大切なお方です」
「お守りしてきた?」
「明日にでもお会いしてきなさい。よろしいですか? これはわたくしからの命令です」
「そんな横暴な!」
「横暴なものですか。どうせ明日も明後日も昼まで眠るだけなのでしょう? そんな非生産的なことをするものではありません。貴方は若いと言われる歳ではありますが、時間というものは決して止まることがないのです。貴方は刻一刻とその命を燃やしているのです。無駄に」
こうやっていつも祖母は年齢についてしつこいほど語ってくる。怠惰に時間を使うなとか、懸命に生きなさいだとか。
無論、祖母に反論などできるわけがない。祖母が言っていることはいつも正しい。それは、わかっている。
だけど、二十四歳相手に日々を噛み締めて生きろと言っても、右から左へと流れるだけだ。
幸いにも五体満足健康で、明日の命の心配をする必要はない。
ガツガツしなくてもまだ若いんだし、という大義名分がある。
そりゃ、あと十年もこの生活が続くだなんて思っていない。そこまで甘い考えはないけど、祖母に言ったところで、月末までゆっくりしたいという考え自体が甘いのだと切り捨てられるだろう。
明日の惰眠を取るよりも、祖母の命令を素直に聞いたほうが平和に過ごせる。どうせ祖母の言うことには逆らえないのだから。
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