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1巻

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   第一章


 朝、目が覚めるといつも通りのえた匂いがした。
 日当たりが悪くカビが生えやすい私の部屋は、いい香りがするとは言いがたい。
 硬いベッドの上で身を起こし、薄い上掛けを体からぎ取る。部屋に唯一存在する小さな窓から外を見ると、まだ朝焼け空にもなっていない薄暗い空だった。私の一日はこの刻限からはじまる。
 私はルミナ・マシェット。美しい峰々みねみねに囲まれたユーレリア王国にある、マシェット子爵家の娘だ。
 ……だけど、その生活は貴族の娘にふさわしい、華美なものとはほど遠い。

「また、一日がはじまるのね」

 一日のはじまりに絶望を覚え、私は思わずつぶやいた。しかし物思いにふける時間なんて許されていない。手早くメイド服に着替えると、鏡の前で自分の姿を確認することもなく階段を下りていく。
 階下では使用人たちが業務を開始しようとしている。私はいつものように彼らに挨拶あいさつをした。

「おはよう」
「おはようございます、ルミナお嬢様」
「おはようございます、お嬢様」

 皆は口々に私に挨拶あいさつをするけれど、親切にしてくれる一部の人を除いて、その瞳には私を小馬鹿にする色が浮かんでいる。特に義母のお気に入りのフットマンやメイドたちはその態度が顕著けんちょだった。

「じゃあ、部屋の掃除に行ってくるわ」

 私は近くにいたメイドにそう声をかけた。

「ほんと、お嬢様は頼りになりますねぇ」

 そう言ってあからさまに嫌な笑い声を立てるのは、十五歳のそばかす顔のハウスメイドだ。私よりも三つ下の彼女は、私の粗相を義母や義姉に告げ口することで自分の立場を確立しているらしい。
 ――きびきびと仕事をしないとまた告げ口をされて、嫌なお仕置きが待っているわね。
 私は気を引き締めると掃除道具を抱えて、各部屋を回った。カーペットを掃き、丹念に調度品を拭き、最後に窓を磨き上げていると……背後から強い力で押された。

「きゃ!」

 予期せぬ出来事に小さく叫びながら窓枠に頭をぶつけ、私は地面に倒れ込んだ。
 だけど突っ伏したままではなにを言われるかわからない。私はふらつく身を懸命に起こし、背後の人物に顔を向けた。

「残念。ガラスには突っ込まなかったのね」

 背中を押したのは予想通り――義母のガーネット・マシェットだった。
 義母は黒髪黒目で整った顔をした、豊満な体つきの美女で……とても苛烈かれつな性格だ。
 私が二歳の頃、実母がやまいで亡くなった。それからしばらくは、父から特に可愛がられるわけでもないけれど、平和な生活が続いていた。しかし四歳の時。義母と二人の義姉がやってきたことで、私の生活は一変したのだ。
 出会った頃から私が気に食わなかったらしい義母は、義姉たちと私を明確に差別した。義姉二人には令嬢としてぜいを尽くした生活を。そして私には使用人のように義母や義姉にかしずく生活を。物心がついた頃にはそんな日々が日常になっていた。
 使用人のように扱われるだけならまだいいのだ。
 義母と義姉たちは私に毎日のように暴力を振るった。頬をぶたれ、腹を蹴られるくらいは生温なまぬるい方だ。時には真冬の池に突き落とされ、時には三日間食事を与えられずバルコニーに放置されたこともある。
 もともと子供に興味がなかった父は義母に私のことを任せっきりで、顔を合わせる機会が減っていた。だから父に助けを求めるなんて、一度も考えたことはない。

「お義母様かあさま、おはようございます」

 私は義母に向き合うと使用人のように丁寧に礼をした。そんな私を見て、義母は汚らわしいと言わんばかりに顔をしかめる。
 そして唐突に頬を強くぶたれた。ビリビリとしびれるように頬が痛み、涙がじわりとあふれそうになる。けれど私は一生懸命に涙をこらえた。私が泣かないのがつまらないのか、義母は続けて数度平手を見舞った。今日は平手だからまだマシだ。むちや焼けた火箸ひばしでいたぶられる日の方が何倍も辛い。

「相変わらずみにくい子ね。ガラスで顔がズタズタになった方がまだマシだったんじゃないの?」

 私を叩くのに飽きたらしい義母は手を止めて、口角を上げながら笑った。
 私はたしかに、義母や義母にそっくりな義姉たちのように美しくない。
 父に似たわらのようにぱさついた金色の髪、薄い青の瞳。栄養状態が良くないので、肌はかさつき青白い。鏡は、近頃もう見ないようにしていた。幽鬼ゆうきのような姿など、見ても仕方がない。

「……みにくい不出来な娘で、申し訳ありません、お義母様かあさま

 深々と頭を下げる私に、義母はふんと小さく鼻を鳴らして立ち去ろうとしてから……足を止めた。

「今日はお客様がいらっしゃるから、お昼になったら部屋に引っ込んでいなさい。みにくいお前を見られたら、我が家の恥ですからね」

 そう言い去る義母に、私はさらに深々と頭を下げた。
 各部屋の掃除を終えた私は、使用人用の食堂へ行く。使用人たちはすでに食事を終えた後らしく、食堂には誰もいなかった。冷えたスープとパンがテーブルに残されている。
 一日一度の私の大事な食事。美味おいしくもないそれを命をつなぐためだけに咀嚼そしゃくする。
 食事を終えたら針仕事をしてから、階段の掃除をしないと。私の一日はこうして労働にはじまり労働で終わっていくのだ。
 そうして、昼も近くなった頃だった。

「今日来るお客は、けものらしいわよ。ルミナ」
「汚らわしいわねぇ。お前とけもの、どちらがみにくいのかしら」

 階段の掃除をしている私に、そう声をかけてきたのは義姉たちだった。
 長女のリオナと、次女のカルナ。どちらも母親にそっくりな容貌をしている。今日も義姉たちは豪奢ごうしゃなドレスを身に着けていて、私と同じ家の娘だなんてとても思えない。

けものでございますか? お義姉様ねえさま

 首を傾げる私に、義姉たちは小馬鹿にするような目を向けた。

けものといえば獣人のことじゃない! そんなこともわからないの?」
「ルミナは学がないから仕方ないわよ、リオナお姉様」

 義姉たちの言い方がまぎらわしいのだと思ったけれど、私は反論しなかった。反論をするとぶたれるのは、わかりきっている。
 ――そして、私に学がないのは当たり前だ。家からはほとんど出してもらえず、なにかを学ぶことが禁じられているのだから。私は皆が知っている当たり前のことをほとんど知らず、読み書きは子供の時に習ったっきり。この国の人間の誰しもが使える『魔法』の使い方もわからない。そんな私を義姉たちは「バカだ、のろまだ」と日々なじるのだ。

(それにしても、獣人のお客様なんて)

 隣国のライラック王国は獣人たちが住まう国だ。人間も住んではいるのだけれど、その数は圧倒的に少ない。だからライラック王国は『獣人の国』と周辺諸国から呼ばれている。
 彼らは体にけものの特徴があり、人よりも力が強い。そして、人の姿だけではなく四つ足のけものにもなれるのだ。……ということを私はメイドやフットマンたちの噂話で知っていた。
 恐れを多く含む口調で話すメイド、差別的な内容を攻撃的な言葉でつむぐフットマン――彼らの話す内容はさまざまではあったけれど、皆は口をそろえて「獣人は野蛮で恐ろしい種族だ」と言っていた。
 だから私も「獣人は恐ろしいものだ」という漠然とした印象を抱いている。

「獣人は人間と違って魔法を使えないんですって。うちにも魔法が使えない子がいるけど、まさか獣人……じゃないわよねぇ」

 そう言ってカルナが私を嫌な目で睨めつけた。

「ふふふ。ルミナのお母様が獣人と浮気をしてできた子だったりして」

 リオナもカルナの言葉に乗って下世話なことを言う。

「そんな……」

 あまりの言葉に私は思わず涙目になった。自分のことを悪く言われるのは慣れている。だけど、生みの母のことを悪く言われることだけは耐えられなかった。
 そんな涙目の私を見て、義姉たちは楽しそうに笑った。

「このお耳は本当に、人間のお耳なのかしら。実はけものの耳なんじゃない?」

 そう言いながらリオナが容赦ない力で私の耳を引っ張った。その痛みに私は思わず小さくうめきを漏らす。

「リオナお姉様。ルミナは獣人にしても頭が悪すぎよ」
「そうね、カルナ。ルミナはけもの以下の出来損ないなんだわ」

 そう言うと義姉たちはまた笑った。

「獣人は人間を生きたまま食べるんだって噂もあるのよ」
「ふふ。怖いわね、本当にケダモノなのね」

 義姉たちはかしましく話した後に、「怖いわぁ」と口をそろえて言う。
 ――人間を生きたまま食べる?
 それが事実なら、そんな危険な種族がこうやって隣国になんて来られないと思うのだけれど。

「あの……本日はなぜ、獣人の方がいらっしゃるんでしょう?」
「ライラック王国では今年麦が不作だったから、買いつけらしいわよ。ほら、うちの領地の特産品でしょう。マシェット子爵家は獣人に対して中立派だしね」

 ここまでざまに獣人のことを言う家でも『中立派』なのか。私はそのことに驚いた。

「まぁなんにしても……あんたは部屋でお留守番だから。関係ない話よねぇ」

 長女のリオナはにやりと嫌な笑いを浮かべると、階段を拭くために用意した水の入った木桶を手に取る。そしてそのまま私に投げつけた。木桶は私の顔にガツリと鈍い音を立てながらぶつかった。中には当然汚水が入っている。雑巾を何度も洗った汚水を頭からかぶり、私は痛みとやるせなさで呆然と立ちすくんだ。

けものに会うためにおめかししろってお母様に言われてるんだったわ」
「ルミナにかまってる暇なんてないわね。急がないと」

 そう言ってケタケタと笑いながら義姉二人は廊下を歩いていく。

「お嬢様、始末は私がしておきますので、お部屋に戻ってお着替えをどうぞ。……まぁ、血が!」

 義姉たちが見えなくなった後、声をかけてきたのは、この屋敷では珍しく私に好意的な人――メイド長だった。彼女はエプロンのポケットからハンカチを出すと、私のひたいを丁寧に押さえる。すると白いハンカチに赤い染みが広がるのが見えた。

「傷自体は浅いようですね。けれど頭の傷は血がたくさん出ますから、しばらくはハンカチでしっかり押さえていてください」
「ありがとう、メイド長」

 そう言って微笑む私に、メイド長は悲しそうな目を向けた。
 こうして私と話しているのを義母に見られたら、メイド長までひどい目に遭うかもしれない。私は会話を切り上げると、そそくさと自分の部屋へと向かった。


 血が止まるのを待ってからびしょぬれになったメイド服を脱ぎ、水差しの水で濡らした布で汚水にまみれた髪や体をぬぐう。そうしながら、私はふっと息を吐いた。

(――この屋敷は、地獄だわ)

 自分の体に目を向けると、義母や義姉につけられたさまざまな傷が残っている。

(逃げたい。だけど……)

 ここから逃げようにも、私は外の世界のことをなにも知らない。
 いずれ父が選ぶのだろう嫁ぎ先が、ここよりもマシであることを祈るしかないけれど、義母がそんな嫁ぎ先を許すとも思えないので難しいだろう。
 ちくちくする麻布のワンピースに袖を通して壁時計に目を向ける。すると時刻はちょうどお昼になる頃だった。

(お義母様かあさまには部屋から出るなと言われたし。お客様が帰るまでのんびりしよう)

 そんなことを考えながらベッドに横になった時。
 屋敷の前に馬車が停まる気配がした。

(きっと例の獣人のお客様ね。一体どんな見た目なんだろう)

 一度湧き上がった気持ちを押し止めることは難しい。私は、好奇心に負けて部屋の小さな窓に近づいた。義母や義姉たちにバレないよう細心の注意を払いながら、こっそりと窓から外をのぞき見る。
 すると馬車から一人の青年が降りてくるのが目に入った。
 その青年の頭には、犬や狐のようなふさふさした耳がついている。トラウザーズの後ろには穴が空いているらしく、大きな尻尾が飛び出して愛らしく揺れていた。
 お顔立ちはよく見えないけれど……耳と尻尾以外は普通の人間と変わらないように思える。

(なんだ、ちっとも怖くないじゃない)

 そう思いながら好奇心を満たせたことに満足し、窓から身を引こうとした瞬間。
 ――彼がこちらに目を向けた。


 青年の瞳と視線が絡む。
 ……ああ、あの人に囚われてしまう。なぜだかそんな気持ちが心を支配した。


 青年はこちらの方を指差しながらなにかを言っている。そして大股の急ぎ足で屋敷の入り口へと向かった。

(どうしよう。みにくい私が見ていたから、怒ってしまったのかしら。取り引きに支障をきたしたら、私は何度むちで打たれればいいんだろう)

 心臓がバクバクと音を立てる。何度ぶたれても、痛みには慣れないものだ。
 怖い、怖い、怖い、怖い。
 外なんて見なければ良かった。そう思いながら部屋の隅でうずくまっていると、部屋の扉が乱暴に開かれる。そちらに目線を向けると、先ほど遠目で見た青年が扉の側に立っていた。
 銀色の髪が薄暗い部屋の中できらめいた。綺麗な形の頭には、髪と同じ色の犬のような耳が揺れている。トラウザーズから飛び出た太くて大きな尻尾は、なぜかぶんぶんと激しく左右に揺れていた。
 青年の顔は今まで見たことがないくらいに美しくて、私はそれに驚いた。
 高い鼻梁びりょう、引き締まった頬、切れ長の綺麗な形のオレンジ色の瞳。唇は薄く、意志の強さを表すように引き締められている。年の頃は二十代半ばだろうか。
 身に着けている衣服は見るからに高価なもので、彼が高位の貴族であることを知らしめていた。
 青年は長い足を大股に動かして、私の方へ急ぎ足気味で近づいてきた。

「ひっ!」

 私は思わず身を縮こまらせた。遠くから見るぶんには怖くないと思ったけれど、未知の種族の接近に恐怖心がこみ上げてくる。

『獣人は人間を生きたまま食べるんだって噂もあるのよ』

 そんな義姉の言葉が脳裏をよぎり、恐怖をさらにかき立てた。
 青年は私に近づくとじっと顔をのぞき込んでくる。薄く開いた綺麗な唇からは二本の大きな牙がちらりと見えて、それで噛まれるときっと痛いのだろうと私は体を震わせた。
 大きな手がゆっくりとした動きでこちらに伸びてくる。義母よりもずっと大きな男の人の手だ。

「ぶ、ぶたないで! お願いします!」

 思わずそんな、悲鳴のような言葉が口から漏れていた。
 この青年にぶたれたら、義母や義姉たちにされるよりずっとずっと痛いに違いない。私は目を閉じて、震える体をかばうようにきゅっと身を丸めた。

「君はいつも、家人にぶたれているのか?」

 青年は静かな声でそうたずねてきた。私は恐る恐る目を開ける。するとそこには、心配そうに眉を下げる彼の顔があった。
 ふと扉の方に目をやると、焦った表情の父と義母の姿が見える。義母の顔は怒りで赤くなり、みにくく歪んでいて、余計なことは言うなとその表情は言っていた。

「ぶたれてなんておりません。いつも優しくしてもらっています」

 義母から目を逸らし、声が震えないように気をつけながらそう言う。すると彼は突然、私の腕を取り袖をまくった。
 そこには……昨日義姉たちにむちで打たれ、じわりと血がにじんだままの蚯蚓みみずれがくっきりと残っていた。それを見た青年の目がきゅっと激しくつり上がる。

「――この娘は、私のつがいだ」

 彼がその言葉を発した瞬間、父と義母から息を呑む音が聞こえた。
 ……つがい? それはなんなのだろう。
 私は首を傾げながら、青年の顔を見つめる。すると彼はとろけるような笑みをこちらに向けた。そんな顔を人から向けられたのははじめてで、私は困惑するあまり固まってしまう。青年は私の手を優しく取ると、ゆっくりと手の甲に口づけした。

「大事なつがいを、傷つける存在がいる場所に置いてはおけない。彼女は今ここで花嫁としてもらい受ける」

 そう言って彼は私を抱き上げた。急な浮遊感に驚き、私は思わず彼の首にすがりつく。するとふっと笑う気配が耳元でした。

つがい? 花嫁⁉ 一体どういうことなの!)

 知らない男性に花嫁と言われ、いきなりこんな風に抱き上げられるなんて。とにかく腕から逃れようと身をよじっても、力強い腕は離してくれない。

「可愛いつがい。少しだけ我慢をして?」

 甘い口調でささやかれ、私の混乱はさらに深まってしまった。

「アストリー公爵、そのようなことを急に言われましても……」

 大量の汗をかきながら父が言う。
 公爵。想像していたよりもずっと高い身分に、再び体が固まってしまう。
 彼はアストリー公爵というのね。うかがうように公爵を見ると、優しく笑まれてまた頬に口づけされた。……本当にわけがわからないわ。
 それにしても、父の姿なんて数年ぶりにまともに見た。私は父を見つめてみたけれど、なんの感慨も感傷も生まれなかった。

「そんな娘、あげてしまいましょうよ」

 義母が下卑げびた笑みを浮かべながら言う。けものの嫁がお似合いね、とその瞳は明白に語っていた。

つがいって、なんですか?」

 先ほど彼が口にした聞き慣れない言葉が気になって、私は誰ともなしにたずねた。

「後で詳しく教えてあげるよ。愛しい私のつがい。今は花嫁のようなものだと思ってくれればいい」

 公爵が私の腕の傷に舌を這わす。そのぬるりとした感覚に、私はびくりと身を震わせた。
 な、舐められた! はじめての感触に呆然とする私に、公爵は頭上の獣耳を揺らしながら悪戯いたずらっぽい笑みを向けた。

「後ほど使者を送る。今回の取り引きに限り麦は倍の値で購入しよう。その代わり、彼女とはもう二度と関わらないという証書を書いてもらう」
「ば、倍!」

 先ほどまでは渋る様子だった父だが、金のことを持ち出されたとたんに目の色が変わった。しょせん、父の私への愛情はそんなものなのだ。
 この家族に――私に対する愛情なんかあるはずがない。

「では、この子は連れていく。可愛いつがい、名前は?」
「ル、ルミナです」

 甘い声音で名前をたずねられたものの、絞り出すように小さな声で名乗ることしかできない。

「ルミナ、綺麗な名前だ」

 そう言って、アストリー公爵は嬉しそうに笑った。
 こうして私はその日のうちに、獣人の国のアストリー公爵家にお嫁に行くことになった……らしい。


   ☆ ☆ ☆


 身一つで今まで住んでいた辛い思い出ばかりの家を出て、今日会ったばかりの獣人の青年に優しく手を引かれて――私は先ほど窓から見ていた、立派な家紋がついた大きな馬車に乗せられた。
 こんな立派な馬車になんて乗ったことがない。そもそも前に馬車に乗ったのはいつだっけ。義母は私を家から出すのを嫌がったから……
 ……本当に私、こんなに立派な馬車を用意できる家にお嫁に行くの?
 あの家から逃げられるのならそれはとても喜ばしいことだけれど……どうしてこんなことになったのかがまったく理解できない。
 情報の整理がつかず、私は思わず百面相してしまう。
 そんな私をアストリー公爵はなぜか嬉しそうな表情で見つめていた。
 ……獣人は野蛮で怖い種族、とさんざん聞いていた。だけど彼はとても上品で穏やかな人物に見える。

(見た目通りの人だと、いいのだけど)

 私はそう思いながら小さく息を吐いた。

「ルミナ、こちらに座って」

 アストリー公爵はそう言うと私を手招きした。
 正面ではなく隣に座れってことかしら? 彼に近づくと……腰を引かれ、あっという間に膝の上に乗せられる。

「アストリー公爵!」

 驚き離れようとしたけれど、馬車が発車する振動に体が跳ねてアストリー公爵のお膝に再び着席してしまう。そのまま彼に抱き込まれ、身動きが取れなくなってしまった。

「ルミナ。アイルと呼んでくれ」

 ぎゅっと抱きしめられ、耳元に優しい声を吹き込まれる。その甘い声音に心臓が大きく跳ねた気がした。

「アイル、様?」
「うん。つがいに名を呼ばれるのは、とてもいいね」

 そう言いながらアイル様は私の体を横抱きに抱え直す。アイル様の美貌と間近で向き合うことになり、私はつい凝視してしまった。
 先ほども綺麗な人だと思ったけれど、間近で見るとなおさらだ。真っ白な肌、際立って整った顔立ち。長い銀色の睫毛まつげに囲まれた、透明感のある美しいオレンジの瞳。アイル様の動きに合わせて白に近い銀色の髪がふわりと揺れる。頭についた大きな犬のようなお耳は、絶世の美貌に愛らしいアクセントを添えていた。

「もしかして、緊張してる?」

 アイル様が首を傾げながらたずねてくる。私はコクコクと首を縦に動かした。使用人以外の男の人と二人きりになるのも、こんな風に膝に抱き上げられたりするのも、すべてが私にははじめてだ。しかも相手は私にとって謎の多い種族の獣人である。緊張しないわけがない。

「では緊張がほぐれるように、少し話をしようか」

 アイル様はそう言うと優しい笑みを浮かべた。
 父と義母に対する彼の態度は毅然きぜんとしていて少し怖かったけれど、私と話す時のアイル様はとても優しい雰囲気だ。屋敷にいた頃に家族にされていたようなことはなさそうだと、私は少し安堵した。

「な、なにを話しましょう?」
「うーん。じゃあ君の好きなものでも」
「好きなもの……」

 その問いに私は思わず考え込んでしまう。
 物心ついた頃にはすでに下働きの日々で、自分の趣味嗜好しゅみしこうを突き詰める機会がまったくなかったからだ。

「あ」

 私は一つのものに思い当たる。私は家人が誰もいない時に屋敷の図書室でこっそり本を読むことがあった。といっても私は読み書きが子供並みだから、挿絵を眺めてばかりだったのだけれど。
 その時に見た一冊の本の中の、雪原の中に佇むたたず美しいけものの絵。私はあれがとても好きだった。堂々とした体躯たいく、美しい被毛ひもう。あんなに綺麗な生き物が本当にいるなんてと、何度も何度も見返したものだ。メイド長からその生き物は『狼』というのだと後に教えてもらった。

「狼が、好きです」

 私がそう言うと、アイル様の白い頬が淡い赤に染まる。
 そしてなぜか――ひたいや頬に口づけが降ってきた。

「や、え⁉」

 どうして突然こんなことになったのかわからずに、私は目を白黒とさせた。

「ああ、なんて可愛いことを言うんだ。ルミナ……」

 アイル様は熱のこもった瞳で私を見つめる。その熱がなんだか怖くて、私は思わず逃げようとした。けれどアイル様の大きな手に腰を抱き込まれ、彼のお膝の上に後ろから座り込む体勢になってしまう。

「待って、アイル様」

 私の制止の声は彼に届かず、アイル様の唇は何度も耳に口づけをする。そして舌を往復させるように耳裏をスリスリと舐められ、耳の中に舌を差し込まれた。
 くちゅくちゅと、耳の奥でいやらしい水音がする。それがなんだかひどく大きく聞こえて、私を動揺させる。
 私、なにをされてるの……?

「やっ! アイル様っ」

 身をよじらせると、銀糸を引いてぬるり、と耳から出た舌が、今度は首筋を舐める。

「や……ぁあ」


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