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1巻
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1
大学を卒業して二年が経ち、働くのにも慣れた頃、私は父の書斎に呼び出された。
重厚感のある執務机に積み上げられた書類。本棚に並ぶたくさんの難しそうな本。それらのせいか、ここは我が家で一番重苦しさを感じさせる部屋だと思う。それに、この部屋の中ではいつもは優しい父の、銀行のトップとしての顔が見える気がして苦手なのよね。
どうかお叱りじゃありませんように、と緊張しつつも用件を聞くと、父は耳を疑うようなことを言った。
「え? お父様……今、なんと仰いましたか?」
私は驚く気持ちを抑えつつ、父に聞き直した。
片岡グループの御曹司を落とせと言われた気がするけれど、まさか聞き間違いよね? いくらなんでもそんなこと……
「だから、片岡宗雅を落とせと言ったんだ。……しずく、これは我がたちばな銀行と片岡グループの利害が一致した政略結婚だ。一カ月後には彼の秘書として働けるように手を回しておいたから、なんとしても彼と恋仲になりなさい。そうすれば、あとは両家でうまくやるから」
「…………」
理解がしきれずに表情が消える。
片岡宗雅さん……。片岡宗雅さんって、あの宗雅さんよね? 片岡家の長男で、片岡グループ本社の副社長。いずれは社長となられる方。そして、忘れもしない私の初恋の人。
片岡グループは、国内外に手広くホテル事業を展開しており、政財界との繋がりも深い。そして我が家は大手銀行の創始者一族。家柄は釣り合うので、縁談が持ち上がるのは、なにもおかしなことじゃない。ここ何年かで片岡グループとの取引が増えているので、そこから話が来ているのかしら。
でも、そんな本当に? 初恋の人と……ずっと好きだった人との縁談だなんて、そんなうまい話があるかしら?
私は戸惑いを隠せず、いつも以上に真面目な顔で話す父をジッと見つめた。
「嘘……冗談ですよね?」
「こんなことを冗談で言えるか」
「……で、ですが、お父様。政略結婚だなんて大丈夫でしょうか?」
宗雅さんは政略結婚がいやなのだと思う。だって、彼が来る縁談をすべて断っているという話は有名だ。家が代々事業をしていると、どうしても結婚が家同士のものになって、政略的な意味合いが強くなる。今時家柄で選んだ相手と家のために結婚するだなんていやよね。私も、いずれはこういった話があると覚悟はしていたけれど、本音を言えば自分の結婚相手くらい自分で選びたいと思っていた。当然ながら彼もそうなのだろう。私は彼のことが好きだからこの話は嬉しいけれど、彼はそうじゃないもの。そこまで考えて胸がズキンと痛む。
「正攻法でいけば彼に断られるだろう。だから両家で話し合って、しずくが彼に立花家の娘だと、婚約者候補だと気づかれずに近づくのがいいということになったんだ。それに、しずくはずっと彼を好いていたんだろう? 誰かと付き合ってみても、長くは続かなかったじゃないか」
「そ、それは……」
確かに好きだった。ううん、今も好き。だけれど、初恋は実らない。それが現実だ。だから、だからこそ、忘れるために高校や大学の時に、声をかけてくれた方と何度かお付き合いしてみたものの、どうにもうまくいかなくて、どの方とも一カ月も続かなかった。好きになれるように頑張ったのだけれど、結局向こうから断られてしまった。多分、ほかに好きな人がいるのが透けて見えて、いやになったのだと思う。
私が困ったように視線を逸らすと、父が悲しそうに溜息をつく。
「このままだと、しずくは一生結婚できないだろう?」
「え?」
そ、それは大袈裟ではないかしら?
その言い様に目を瞬か話がまとまり、私は彼の下で働くせると、父は「大袈裟じゃない」と言い切った。
「しずくは、腕の傷を見られたくないと言って、うち主催のパーティーにすら出席しないじゃないか。それでは、出会いなど生まれない。父さんは、しずくの子が見たい。可愛い孫に会いたいんだ。だから父さんは頑張った! もうこの際、しずくの初恋を実らせるしかないと!」
「お父様……」
「それに、しずくの初恋のためだけではないんだ。国内における貸出金利が低迷し続けている今、海外に広く展開している片岡グループは大きな顧客だ。なんとしても逃したくない。あちら側としてもうちの銀行とのパイプが強固なものになれば、事業拡大に踏み切りやすい。つまり、どちらにとっても確保しておきたい相手ということだ。お互いにメリットが大きいから、細かいことは気にしなくていい」
父は力強く拳を握りながら、そう言った。
孫とかは気が早すぎるかもしれないけれど、このままでは誰ともうまくいかないと、父なりに私を心配してくれたのかもしれない。……それに私だって、ずっと彼のことが好きだった。だから、これはまたとないチャンス。私はその言葉にコクリと頷いた。
「とりあえず、秘書業務を頑張りなさい。しずくはうちでもちゃんとやれていたから、きっと大丈夫だ」
「はい。分かりました」
声が上擦る。私はソワソワする気持ちを抑えつつ、頭を下げて退室した。パタンと書斎の扉を閉める音がしたと同時に、鼓動が加速していく。私は痛いくらいに跳ね回る心臓をなだめながら、自分の部屋へ早足で戻った。
片岡宗雅さん……
忘れもしない。あれは十一年前のこと。
初等部から中等部に進学した春、私は弓道部に入部した。幼い頃から弓道に憧れていたので、中等部に上がったら絶対に弓道部に入ろうと決めていた。初等部卒業の少し前から道場にも通って、入部できる日をずっと楽しみにしていたのだ。宗雅さんと出会ったのは、中等部の一年生を歓迎し弓道を教えるという名目で毎年初夏に行われる、高等部との合同練習試合の日だった。
当時、高等部の部長で生徒会長も務めていた彼は、学校内外問わず人気者だった。私も噂では知っていたけれど、見るのも会うのもあの日が初めてだったのよね。
『まずは的を見ながら左足を的の中心に向かって半歩開く。次に右足を一度左足に引きつけて、右へ扇形に踏み開くんだ。最初は仕方ないけど、この時足元を見てはいけないから気をつけて』
そうやって初心者の子に丁寧に指導しているところに目を奪われたのをよく覚えている。爽やかで気品があって、短髪でやや癖っ毛で……触れたら、きっと気持ちが良さそうな茶髪。そして、そこから覗く優しげな瞳。射術の基本ルールを中々覚えられない子達にも、何度も何度も分かるまで根気強く教えてあげていた。
『こら、よそ見しない。ダメだよ、できるからって練習しないのは』
『ち、違、違うんです。これは……えっと……』
『ふふっ、冗談だよ。ほら、見てあげるから構えてみて』
『はい』
ほかの子達に指導している彼に見入っていると、優しい笑顔で話しかけてくれた。私がその言葉に頷き、右手を弦にかけ、左手を整えてから的を見ると、彼の目がスッと細まった。その視線にドキドキして、矢を落とさないように気をつけながら弓を構えた。本来なら弓を射るタイミングが熟すまで心身を一つにして待たなければならないのに、とてもじゃないけれど、心を落ち着かせるなんて無理だった。でも、彼が見てくれているので失敗したくなくて、頑張って射たのだけれど、矢を放った瞬間に緊張で体がぐらついてしまったのよね。
『立花さんは弓を握った瞬間に雰囲気が変わるね。特に、弓構えから打起しの時に表情が一気に変わる。そこから狙いを定めて射るまでは緊張感が保てているんだけど、矢を射たあとが少し乱れちゃうね』
『ご、ごめんなさい』
それは宗雅さんがジッと見るからです、とは言えない私は慌てて頭を下げた。すると、彼は『謝らないで。少しずつ気をつけていけばいいから』と言って、射法八節の見本を見せてくれたり、優しく丁寧に指導してくれた。私の手を取って教えてくれたので、心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと気が気じゃなくて指導に集中できなかった。
『このあと、中等部と高等部の一年生で一人四射ずつ引いて、中りの数を競うんだけど、あくまで練習試合だから気を張らずにね』
『は、はい』
そうは言ってくれたけれど、彼の前だからすごく張り切っちゃったのよね。だって一目惚れだったんだもの。彼と話したのはあの時が最初で最後だったけれど、一番楽しい時間として今でも鮮明に覚えている。
「そんな私が彼と恋仲に……」
私は父の言葉を反芻し、ベッドの上をゴロゴロと転がった。顔が熱い。私、今きっと顔が真っ赤になっていると思う。
「嬉しい。でも……」
嘘。嘘でしょ。もう接点はないと思って諦めていたのに。それが両家が合意していて私と宗雅さんが頷きさえすれば進むような形でお話が進んでいるだなんて……。これは夢じゃないわよね?
転がるのをやめて、頬をつねってみる。
「痛い……」
嘘でも夢でもない? 私は頬に確かな痛みを感じて、口元が緩んだ。
こ、これは神様が私にくれたチャンスかしら? もう一度、あの時をやり直しなさいって、言われているのかもしれない。
私はあの合同練習試合後の夏休みに利き腕に怪我をしてしまい、弓道を続けることが困難になってしまった。その上、入院しているうちに宗雅さんは高等部を卒業し、外部の大学へ進学してしまったので、縁が途絶えてしまったのだ。一度、勇気を出して一世一代の想いをしたためた手紙を書いた。その手紙を高等部にいる弟の雅佳さんに、「お兄様に渡してくださいませんか?」とお願いしたのだけれど、迷惑だと一蹴されてしまったのよね。
ま、まあ、兄弟共に人気のある方なので、いちいち手紙なんて取り次いでいたらキリがない。断られるのは仕方がないのも理解している。でも、あの時は宗雅さんとの縁を断ち切られた気がして、とてもショックだった。それからはもう縁がないものだと諦めていたのに、まさか、まさか、十一年目にして縁が繋がるだなんて……
「よし! 頑張るのよ、しずく!」
私は心に決めた。この機会をものにしなければ、女が廃るわ。
「必ず宗雅さんの恋人にしていただくんだから!」
◆ ◇ ◆
「それでは、副社長に挨拶に行きましょうか」
「は、はい!」
……いよいよだわ。私はゴクリと息を呑んだ。
あのあと瞬く間に話がまとまり、私は彼の下で働くことになった。大学を卒業してからは、出自を伏せて実家の銀行に就職し窓口業務をしていたのだが、この話が持ち上がってすぐに辞めることになった。同僚の方達は急に辞める私にいやな顔一つせずに、私の門出を祝ってくれた。とても優しい人達だ。そして私は今日、これから職場となる片岡グループ本社の秘書室へと足を踏み入れた。だけれど、緊張して落ち着かない。話を聞いてからというもの、ずっと浮き立っているものの、今日はさらにソワソワする。働いていたけれど、初めて社会に出るようなものなので、よその会社でうまくやっていけるかどうかも不安だ。うう、緊張しすぎて吐きそう……
だ、大丈夫、大丈夫よ。長かった髪も肩くらいまでバッサリと切ったので、出会った時と雰囲気が大きく変わっているはずだもの。それに、中等部の時から十一年も経っているのだから気づかれるはずがないわ。というより、覚えていないと思う。頑張るのよ、しずく。宗雅さんに、私のことを好きになってもらわなきゃならないんだから……
不整脈にでもなったように乱れた心拍を刻む胸を落ち着かせるため、私は深呼吸をした。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。優しい人だから」
「は、はい……申し訳ございません」
長い髪をアップスタイルにまとめ上げたとても美しい先輩が、私の背中をぽんぽんとさすってくれる。彼女は教育係の鮎川さん。緊張しっぱなしの私に色々と丁寧に教えてくれる優しい先輩だ。
「…………」
チラッと彼女を盗み見る。女性らしい体つきに、綺麗な相貌。その上、優しいときている。もしかすると、この方が側にいるから、宗雅さんは縁談すべてを断っているのかもしれない。だ、だって、とても素敵な人だもの。こんな女性に公私共にサポートしてもらえたら嬉しいに決まっている。そこまで考えて、かぶりを振る。
やめましょう。そんなことを考え出したら、こんな私が婚約者候補だなんてと卑屈になってしまうもの。私はこのチャンスを無駄にしたくないの。変なことを考えたりしないで頑張らないと。
「立花さん、本当に大丈夫? さっきから青くなったり赤くなったりしているけど……」
「は、はい! 大丈夫です。ご挨拶に行きましょう」
副社長室のドアの前で動かない私の顔を、鮎川さんが心配そうに覗きこんでくる。私は飛んでいった思考を呼び戻して、にこっと微笑んだ。
「そう? 大丈夫ならいいんだけど……」
少し落ち着かなきゃ。鮎川さんにもう一度大丈夫ですと伝えて、深呼吸をする。いざドアをノックしようとすると、私の手がドアに届くよりも早くドアが開いてしまった。
「え?」
開いた……?
「副社長、大変申し訳ございません。今……」
「うん。待っていたんだけど一向に入ってこないから、つい開けちゃった。ごめんね」
ドアから出てきた人に視線も思考も一瞬で奪われてしまう。
会いたかった人。ずっとずっと好きだった人。短髪でやや癖っ毛で、当時と変わらない優しげで人好きのする笑顔。そして学生時代とは違う装いが、私の胸を熱くする。
私の思い出の中の彼よりも背が高く、顔つきも雰囲気も大人の男性という感じで、とてもかっこいい。洗練された雰囲気を醸し出していて、シックなグレーのスーツがよく似合っている。大人の色気が加味された彼の姿に心臓が早鐘を打つ。
私は思わず息を呑んだが、すぐに背筋を伸ばして頭を下げた。
「本日付けで秘書として配属されました立花です。一生懸命頑張りますので、ご指導のほどよろしくお願いいたします」
「おはよう、立花さん。これからよろしくね」
そう言って彼は私に手を差し出した。私がおずおずとその手を取ると、ぎゅっと握られる。その途端、初めて会った時の熱がぶり返したようにブワッと体温が上がった気がした。脈が速度を増して、手のひらが湿ってきたのを感じ、慌てて手を離す。
「分からないことがあったら、鮎川さんに聞くといいよ。頑張ってね、立花さん」
「は、はい。ありがとうございます」
そう言って穏やかな笑みを向けてくれる宗雅さんに胸が高鳴る。でも、それと同時に宗雅さんは教えてくれないのかしらと残念に思ってしまった。お忙しい立場だから仕方ないけれど、なんだか線を引かれたようで少し寂しい。でも好き。やっぱり好き。十一年ぶりに再会して、一層強く確信した。私はこの人が好きなのだと……。そう気づいてしまうと、もう想いを止められなかった。二人の間にある一線を飛び越えたい。
◆ ◇ ◆
――働きはじめて二週間。
一向にバレる気配も進展する気配もない。でも、職場の人は皆優しく気遣ってくれるので、不慣れな私でもうまくやっていけている。これなら、すぐ慣れることができそう。私は安堵しつつ、副社長室へ入った。
「……副社長。お呼びでしょうか?」
「うん。この書類をデータに起こしてほしいんだ。あと、このファイルを資料室から取ってきてほしいんだけど、頼める?」
「は、はい。畏まりました」
つい声が上擦ってしまう。仕事には少しずつ慣れてきたけれど、彼と話すのは未だに緊張する。落ち着かなきゃ……。変に思われちゃうわ。
緊張を抑えながら側に寄ると、彼がクリアファイルに入った書類と欲しいファイルのメモを差し出す。
「ありがとう。よろしく頼んだよ」
「……っ」
それを受け取った時に、不意に指先同士が触れて、体が分かりやすいくらい跳ねてしまった。受け取ったクリアファイルとメモを取り落としそうになって、慌てて持ち直す。彼は指が触れたことに気づいていないのか、それとも気にしていないのか、すぐにパソコンに視線を戻して顔色一つ変わらない。
一人でドキドキして、バカみたい……
「では、失礼いたします」
私は一礼して副社長室と続きになっている秘書室へ下がり、小さく息をついた。
しっかりしなさい、しずく。少し指先が触れただけじゃない。こんなことでドキドキしていたら、とても彼と恋仲になるなんてできないわ。平常心を保たなきゃ……。私は気を取り直して、デスクにクリアファイルを置いたあと、小走りで資料室へ向かった。
でも、恋仲ってどうやったらなれるのかしら? 働きはじめたばかりの私が告白したら、彼に群がるその他大勢と同じだと思われてしまうかもしれない。彼はそういった子達にうんざりしているようなので、間違いなく断られるだろう。ふられるだけならまだしも、そのことが原因で私が婚約者候補だって知られたら、彼の秘書ですらいられなくなるかもしれない。
そこまで考えて、顔から血の気が引いていく。
……絶対に告白なんてできないわ。今はこのままでいいの。秘書として彼の側にいられるだけで充分。だけれど、いつかは……。いつかは、彼に私のことを好きになってもらいたい。
「えっと、どこかしら?」
私はざわつく心をなんとか落ち着かせ、仕事に集中しようと決めた。
そして、資料室の棚をキョロキョロと見渡す。資料室には数十年分の会社の資料が収められている。定期的に秘書課の人達が整理に来ているそうだが、膨大な数のファイルの中から目的のものを探すのは中々に大変そうだ。
メモによると、二年前に行ったイタリアにある系列ホテルの改装工事の資料が必要らしい。これって、確か宗雅さんが総責任者となって手がけたものよね? 『癒し』をコンセプトに和のテイストを取り入れたホテル。優雅かつ過ごしやすいことを第一に造られていて、特に水回りの設備に力が入っていると聞いた。
「ヨーロッパってバスタブがない家やホテルが珍しくないものね……」
その上、低料金クラスの部屋だと、お湯の温度が安定しなかったり、水圧が弱いことがあると聞いたこともある。そういう問題を心配しなくていいのはとても良いことだと思う。特に日本からの観光客も多い我が社のホテルでは、バスタイムを楽しめることは結構重要だと思う。さすが、宗雅さんだわ。
そんなことを考えながら、二年前の資料が収められた棚の前に立ち、メモと交互に見ながら探す。
「あったわ!」
資料を見つけた私は手を伸ばして、その資料を取ろうとした。でも、高いところにあるので、私の身長ではあと少し届かない。
どうしましょう。背伸びをしてみても届かない。踏み台が部屋の端に見えるけれど……
「でもあと少しなのよね。あ、もう少し……っ痛!」
指先がファイルに掛かったところで、右腕に痛みが走り、側にあった別の資料を落としてしまった。落ちたファイル達を見つめて、はぁっと息をつく。
ああ、やっちゃった……
私は腕を押さえながら、ファイルを拾おうとした。
「立花さん。今、なにか落ちる音がしたけど大丈夫? 怪我していない?」
「え?」
しゃがみこんだ時に、突然宗雅さんが現れたので目を瞬かせる。
む、宗雅さん? どうしてここに?
私は目をゴシゴシと擦った。
「頼んだファイルの場所が分かりづらいところだったなと思い出して見にきたんだ。見つかった?」
「ファイルは見つけられたんですけれど……」
右腕をさすりながら視線を上に向けると、彼も同じように上を見た。
「あ……ごめんね。あんなに高いところにあると取れないよね。大丈夫? 右腕をぶつけたの? ちょっと見せて」
「いえ。大丈夫です。踏み台を使わずに取ろうとした私が悪いので」
右腕に触られそうになって、慌てて背に隠す。彼はなにかを察したのか、すぐに手を引っこめて「ごめんね」と謝ってくれた。
ごめんなさい、違うんです。宗雅さんが悪いんじゃないの。ただ、過去に怪我したところを見られたくなくて……
俯いたまま右腕を掴んでいると、その手の上に彼の手が重なり、ハッと顔を上げる。
「大丈夫ならいいんだ。そんな顔しないで?」
「副社長……」
「立花さんは、男性が苦手? もしそうなら言ってね。気をつけるから」
「違います! 大きな声を出す人は苦手ですが、副社長は大丈夫です! だから、気をつけないでください! 私、私……あっ」
そこまで言ったところで、彼のスーツを縋るように掴んでしまったことに気づいて、慌てて手を離そうとする。でも、その前に彼がやんわりと私の手をほどいた。
やだもう、私ったら。
私はそのことに少しショックを受けながらも恥ずかしさで熱くなった頬を押さえ、か細い声で「申し訳ございません」と謝った。
「大丈夫だよ。それに、そんなに謝らないで。君の前では大きな声を出さないと約束する」
「副社長……」
そう言いながら、落とした資料を拾い、必要な資料も取ってくれる彼の優しさと笑顔に胸がトクンと脈打った。心臓の鼓動が痛いくらいで、気をつけていないと頬が緩んでしまいそうだ。
以前と変わらず、まわりの人を気遣う優しい人。宗雅さん、あの時からずっと好きです。私のことを覚えていますか?
一瞬、そう言いそうになって、私は自分の唇をキュッと噛み締めた。
落ち着かないと。勢いで好きだと言ってしまったら、そこですべてが終わってしまう。婚約者候補と気づかれずに、私自身を好きになってもらわなくちゃ……
でも、どうやって? 宗雅さんは相変わらずスマートで隙がない。彼は男女問わず社員皆に平等に優しい。そんな人の特別な存在になるには、どうしたらいいんだろう。恋愛経験が乏しすぎて分からない。
「立花さん。もし右腕が痛むようなら、我慢せずに医務室に行くんだよ」
「いえ、本当に大丈夫なんです。もう痛くありませんから……。ありがとうございます」
「それなら、いいんだけど。あまり無理しないようにね」
「はい」
部下としてだけれど、大切にされていると感じられて嬉しい。だから焦ってはいけない。今はとりあえず早く仕事を覚えて彼の役に立とう。私はそう決心して、頭を下げて資料室を退室した。
2
「副社長、コーヒーです。熱いのでお気をつけください」
「ありがとう」
デスクにコーヒーを置くと、なにやら難しい顔をしていた宗雅さんは、わざわざこちらを向いて柔らかく微笑んでくれる。でも、すぐ顔がパソコンに戻る。とても忙しそうだ。画面をチラッと覗き見ると、京都にあるホテルを改装するという企画書を開いていた。そして彼のデスクの上には、以前取りにいったイタリアにあるホテルの改装資料もある。
このホテルも彼が総責任者になって改装工事をするのかしら?
大学を卒業して二年が経ち、働くのにも慣れた頃、私は父の書斎に呼び出された。
重厚感のある執務机に積み上げられた書類。本棚に並ぶたくさんの難しそうな本。それらのせいか、ここは我が家で一番重苦しさを感じさせる部屋だと思う。それに、この部屋の中ではいつもは優しい父の、銀行のトップとしての顔が見える気がして苦手なのよね。
どうかお叱りじゃありませんように、と緊張しつつも用件を聞くと、父は耳を疑うようなことを言った。
「え? お父様……今、なんと仰いましたか?」
私は驚く気持ちを抑えつつ、父に聞き直した。
片岡グループの御曹司を落とせと言われた気がするけれど、まさか聞き間違いよね? いくらなんでもそんなこと……
「だから、片岡宗雅を落とせと言ったんだ。……しずく、これは我がたちばな銀行と片岡グループの利害が一致した政略結婚だ。一カ月後には彼の秘書として働けるように手を回しておいたから、なんとしても彼と恋仲になりなさい。そうすれば、あとは両家でうまくやるから」
「…………」
理解がしきれずに表情が消える。
片岡宗雅さん……。片岡宗雅さんって、あの宗雅さんよね? 片岡家の長男で、片岡グループ本社の副社長。いずれは社長となられる方。そして、忘れもしない私の初恋の人。
片岡グループは、国内外に手広くホテル事業を展開しており、政財界との繋がりも深い。そして我が家は大手銀行の創始者一族。家柄は釣り合うので、縁談が持ち上がるのは、なにもおかしなことじゃない。ここ何年かで片岡グループとの取引が増えているので、そこから話が来ているのかしら。
でも、そんな本当に? 初恋の人と……ずっと好きだった人との縁談だなんて、そんなうまい話があるかしら?
私は戸惑いを隠せず、いつも以上に真面目な顔で話す父をジッと見つめた。
「嘘……冗談ですよね?」
「こんなことを冗談で言えるか」
「……で、ですが、お父様。政略結婚だなんて大丈夫でしょうか?」
宗雅さんは政略結婚がいやなのだと思う。だって、彼が来る縁談をすべて断っているという話は有名だ。家が代々事業をしていると、どうしても結婚が家同士のものになって、政略的な意味合いが強くなる。今時家柄で選んだ相手と家のために結婚するだなんていやよね。私も、いずれはこういった話があると覚悟はしていたけれど、本音を言えば自分の結婚相手くらい自分で選びたいと思っていた。当然ながら彼もそうなのだろう。私は彼のことが好きだからこの話は嬉しいけれど、彼はそうじゃないもの。そこまで考えて胸がズキンと痛む。
「正攻法でいけば彼に断られるだろう。だから両家で話し合って、しずくが彼に立花家の娘だと、婚約者候補だと気づかれずに近づくのがいいということになったんだ。それに、しずくはずっと彼を好いていたんだろう? 誰かと付き合ってみても、長くは続かなかったじゃないか」
「そ、それは……」
確かに好きだった。ううん、今も好き。だけれど、初恋は実らない。それが現実だ。だから、だからこそ、忘れるために高校や大学の時に、声をかけてくれた方と何度かお付き合いしてみたものの、どうにもうまくいかなくて、どの方とも一カ月も続かなかった。好きになれるように頑張ったのだけれど、結局向こうから断られてしまった。多分、ほかに好きな人がいるのが透けて見えて、いやになったのだと思う。
私が困ったように視線を逸らすと、父が悲しそうに溜息をつく。
「このままだと、しずくは一生結婚できないだろう?」
「え?」
そ、それは大袈裟ではないかしら?
その言い様に目を瞬か話がまとまり、私は彼の下で働くせると、父は「大袈裟じゃない」と言い切った。
「しずくは、腕の傷を見られたくないと言って、うち主催のパーティーにすら出席しないじゃないか。それでは、出会いなど生まれない。父さんは、しずくの子が見たい。可愛い孫に会いたいんだ。だから父さんは頑張った! もうこの際、しずくの初恋を実らせるしかないと!」
「お父様……」
「それに、しずくの初恋のためだけではないんだ。国内における貸出金利が低迷し続けている今、海外に広く展開している片岡グループは大きな顧客だ。なんとしても逃したくない。あちら側としてもうちの銀行とのパイプが強固なものになれば、事業拡大に踏み切りやすい。つまり、どちらにとっても確保しておきたい相手ということだ。お互いにメリットが大きいから、細かいことは気にしなくていい」
父は力強く拳を握りながら、そう言った。
孫とかは気が早すぎるかもしれないけれど、このままでは誰ともうまくいかないと、父なりに私を心配してくれたのかもしれない。……それに私だって、ずっと彼のことが好きだった。だから、これはまたとないチャンス。私はその言葉にコクリと頷いた。
「とりあえず、秘書業務を頑張りなさい。しずくはうちでもちゃんとやれていたから、きっと大丈夫だ」
「はい。分かりました」
声が上擦る。私はソワソワする気持ちを抑えつつ、頭を下げて退室した。パタンと書斎の扉を閉める音がしたと同時に、鼓動が加速していく。私は痛いくらいに跳ね回る心臓をなだめながら、自分の部屋へ早足で戻った。
片岡宗雅さん……
忘れもしない。あれは十一年前のこと。
初等部から中等部に進学した春、私は弓道部に入部した。幼い頃から弓道に憧れていたので、中等部に上がったら絶対に弓道部に入ろうと決めていた。初等部卒業の少し前から道場にも通って、入部できる日をずっと楽しみにしていたのだ。宗雅さんと出会ったのは、中等部の一年生を歓迎し弓道を教えるという名目で毎年初夏に行われる、高等部との合同練習試合の日だった。
当時、高等部の部長で生徒会長も務めていた彼は、学校内外問わず人気者だった。私も噂では知っていたけれど、見るのも会うのもあの日が初めてだったのよね。
『まずは的を見ながら左足を的の中心に向かって半歩開く。次に右足を一度左足に引きつけて、右へ扇形に踏み開くんだ。最初は仕方ないけど、この時足元を見てはいけないから気をつけて』
そうやって初心者の子に丁寧に指導しているところに目を奪われたのをよく覚えている。爽やかで気品があって、短髪でやや癖っ毛で……触れたら、きっと気持ちが良さそうな茶髪。そして、そこから覗く優しげな瞳。射術の基本ルールを中々覚えられない子達にも、何度も何度も分かるまで根気強く教えてあげていた。
『こら、よそ見しない。ダメだよ、できるからって練習しないのは』
『ち、違、違うんです。これは……えっと……』
『ふふっ、冗談だよ。ほら、見てあげるから構えてみて』
『はい』
ほかの子達に指導している彼に見入っていると、優しい笑顔で話しかけてくれた。私がその言葉に頷き、右手を弦にかけ、左手を整えてから的を見ると、彼の目がスッと細まった。その視線にドキドキして、矢を落とさないように気をつけながら弓を構えた。本来なら弓を射るタイミングが熟すまで心身を一つにして待たなければならないのに、とてもじゃないけれど、心を落ち着かせるなんて無理だった。でも、彼が見てくれているので失敗したくなくて、頑張って射たのだけれど、矢を放った瞬間に緊張で体がぐらついてしまったのよね。
『立花さんは弓を握った瞬間に雰囲気が変わるね。特に、弓構えから打起しの時に表情が一気に変わる。そこから狙いを定めて射るまでは緊張感が保てているんだけど、矢を射たあとが少し乱れちゃうね』
『ご、ごめんなさい』
それは宗雅さんがジッと見るからです、とは言えない私は慌てて頭を下げた。すると、彼は『謝らないで。少しずつ気をつけていけばいいから』と言って、射法八節の見本を見せてくれたり、優しく丁寧に指導してくれた。私の手を取って教えてくれたので、心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと気が気じゃなくて指導に集中できなかった。
『このあと、中等部と高等部の一年生で一人四射ずつ引いて、中りの数を競うんだけど、あくまで練習試合だから気を張らずにね』
『は、はい』
そうは言ってくれたけれど、彼の前だからすごく張り切っちゃったのよね。だって一目惚れだったんだもの。彼と話したのはあの時が最初で最後だったけれど、一番楽しい時間として今でも鮮明に覚えている。
「そんな私が彼と恋仲に……」
私は父の言葉を反芻し、ベッドの上をゴロゴロと転がった。顔が熱い。私、今きっと顔が真っ赤になっていると思う。
「嬉しい。でも……」
嘘。嘘でしょ。もう接点はないと思って諦めていたのに。それが両家が合意していて私と宗雅さんが頷きさえすれば進むような形でお話が進んでいるだなんて……。これは夢じゃないわよね?
転がるのをやめて、頬をつねってみる。
「痛い……」
嘘でも夢でもない? 私は頬に確かな痛みを感じて、口元が緩んだ。
こ、これは神様が私にくれたチャンスかしら? もう一度、あの時をやり直しなさいって、言われているのかもしれない。
私はあの合同練習試合後の夏休みに利き腕に怪我をしてしまい、弓道を続けることが困難になってしまった。その上、入院しているうちに宗雅さんは高等部を卒業し、外部の大学へ進学してしまったので、縁が途絶えてしまったのだ。一度、勇気を出して一世一代の想いをしたためた手紙を書いた。その手紙を高等部にいる弟の雅佳さんに、「お兄様に渡してくださいませんか?」とお願いしたのだけれど、迷惑だと一蹴されてしまったのよね。
ま、まあ、兄弟共に人気のある方なので、いちいち手紙なんて取り次いでいたらキリがない。断られるのは仕方がないのも理解している。でも、あの時は宗雅さんとの縁を断ち切られた気がして、とてもショックだった。それからはもう縁がないものだと諦めていたのに、まさか、まさか、十一年目にして縁が繋がるだなんて……
「よし! 頑張るのよ、しずく!」
私は心に決めた。この機会をものにしなければ、女が廃るわ。
「必ず宗雅さんの恋人にしていただくんだから!」
◆ ◇ ◆
「それでは、副社長に挨拶に行きましょうか」
「は、はい!」
……いよいよだわ。私はゴクリと息を呑んだ。
あのあと瞬く間に話がまとまり、私は彼の下で働くことになった。大学を卒業してからは、出自を伏せて実家の銀行に就職し窓口業務をしていたのだが、この話が持ち上がってすぐに辞めることになった。同僚の方達は急に辞める私にいやな顔一つせずに、私の門出を祝ってくれた。とても優しい人達だ。そして私は今日、これから職場となる片岡グループ本社の秘書室へと足を踏み入れた。だけれど、緊張して落ち着かない。話を聞いてからというもの、ずっと浮き立っているものの、今日はさらにソワソワする。働いていたけれど、初めて社会に出るようなものなので、よその会社でうまくやっていけるかどうかも不安だ。うう、緊張しすぎて吐きそう……
だ、大丈夫、大丈夫よ。長かった髪も肩くらいまでバッサリと切ったので、出会った時と雰囲気が大きく変わっているはずだもの。それに、中等部の時から十一年も経っているのだから気づかれるはずがないわ。というより、覚えていないと思う。頑張るのよ、しずく。宗雅さんに、私のことを好きになってもらわなきゃならないんだから……
不整脈にでもなったように乱れた心拍を刻む胸を落ち着かせるため、私は深呼吸をした。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。優しい人だから」
「は、はい……申し訳ございません」
長い髪をアップスタイルにまとめ上げたとても美しい先輩が、私の背中をぽんぽんとさすってくれる。彼女は教育係の鮎川さん。緊張しっぱなしの私に色々と丁寧に教えてくれる優しい先輩だ。
「…………」
チラッと彼女を盗み見る。女性らしい体つきに、綺麗な相貌。その上、優しいときている。もしかすると、この方が側にいるから、宗雅さんは縁談すべてを断っているのかもしれない。だ、だって、とても素敵な人だもの。こんな女性に公私共にサポートしてもらえたら嬉しいに決まっている。そこまで考えて、かぶりを振る。
やめましょう。そんなことを考え出したら、こんな私が婚約者候補だなんてと卑屈になってしまうもの。私はこのチャンスを無駄にしたくないの。変なことを考えたりしないで頑張らないと。
「立花さん、本当に大丈夫? さっきから青くなったり赤くなったりしているけど……」
「は、はい! 大丈夫です。ご挨拶に行きましょう」
副社長室のドアの前で動かない私の顔を、鮎川さんが心配そうに覗きこんでくる。私は飛んでいった思考を呼び戻して、にこっと微笑んだ。
「そう? 大丈夫ならいいんだけど……」
少し落ち着かなきゃ。鮎川さんにもう一度大丈夫ですと伝えて、深呼吸をする。いざドアをノックしようとすると、私の手がドアに届くよりも早くドアが開いてしまった。
「え?」
開いた……?
「副社長、大変申し訳ございません。今……」
「うん。待っていたんだけど一向に入ってこないから、つい開けちゃった。ごめんね」
ドアから出てきた人に視線も思考も一瞬で奪われてしまう。
会いたかった人。ずっとずっと好きだった人。短髪でやや癖っ毛で、当時と変わらない優しげで人好きのする笑顔。そして学生時代とは違う装いが、私の胸を熱くする。
私の思い出の中の彼よりも背が高く、顔つきも雰囲気も大人の男性という感じで、とてもかっこいい。洗練された雰囲気を醸し出していて、シックなグレーのスーツがよく似合っている。大人の色気が加味された彼の姿に心臓が早鐘を打つ。
私は思わず息を呑んだが、すぐに背筋を伸ばして頭を下げた。
「本日付けで秘書として配属されました立花です。一生懸命頑張りますので、ご指導のほどよろしくお願いいたします」
「おはよう、立花さん。これからよろしくね」
そう言って彼は私に手を差し出した。私がおずおずとその手を取ると、ぎゅっと握られる。その途端、初めて会った時の熱がぶり返したようにブワッと体温が上がった気がした。脈が速度を増して、手のひらが湿ってきたのを感じ、慌てて手を離す。
「分からないことがあったら、鮎川さんに聞くといいよ。頑張ってね、立花さん」
「は、はい。ありがとうございます」
そう言って穏やかな笑みを向けてくれる宗雅さんに胸が高鳴る。でも、それと同時に宗雅さんは教えてくれないのかしらと残念に思ってしまった。お忙しい立場だから仕方ないけれど、なんだか線を引かれたようで少し寂しい。でも好き。やっぱり好き。十一年ぶりに再会して、一層強く確信した。私はこの人が好きなのだと……。そう気づいてしまうと、もう想いを止められなかった。二人の間にある一線を飛び越えたい。
◆ ◇ ◆
――働きはじめて二週間。
一向にバレる気配も進展する気配もない。でも、職場の人は皆優しく気遣ってくれるので、不慣れな私でもうまくやっていけている。これなら、すぐ慣れることができそう。私は安堵しつつ、副社長室へ入った。
「……副社長。お呼びでしょうか?」
「うん。この書類をデータに起こしてほしいんだ。あと、このファイルを資料室から取ってきてほしいんだけど、頼める?」
「は、はい。畏まりました」
つい声が上擦ってしまう。仕事には少しずつ慣れてきたけれど、彼と話すのは未だに緊張する。落ち着かなきゃ……。変に思われちゃうわ。
緊張を抑えながら側に寄ると、彼がクリアファイルに入った書類と欲しいファイルのメモを差し出す。
「ありがとう。よろしく頼んだよ」
「……っ」
それを受け取った時に、不意に指先同士が触れて、体が分かりやすいくらい跳ねてしまった。受け取ったクリアファイルとメモを取り落としそうになって、慌てて持ち直す。彼は指が触れたことに気づいていないのか、それとも気にしていないのか、すぐにパソコンに視線を戻して顔色一つ変わらない。
一人でドキドキして、バカみたい……
「では、失礼いたします」
私は一礼して副社長室と続きになっている秘書室へ下がり、小さく息をついた。
しっかりしなさい、しずく。少し指先が触れただけじゃない。こんなことでドキドキしていたら、とても彼と恋仲になるなんてできないわ。平常心を保たなきゃ……。私は気を取り直して、デスクにクリアファイルを置いたあと、小走りで資料室へ向かった。
でも、恋仲ってどうやったらなれるのかしら? 働きはじめたばかりの私が告白したら、彼に群がるその他大勢と同じだと思われてしまうかもしれない。彼はそういった子達にうんざりしているようなので、間違いなく断られるだろう。ふられるだけならまだしも、そのことが原因で私が婚約者候補だって知られたら、彼の秘書ですらいられなくなるかもしれない。
そこまで考えて、顔から血の気が引いていく。
……絶対に告白なんてできないわ。今はこのままでいいの。秘書として彼の側にいられるだけで充分。だけれど、いつかは……。いつかは、彼に私のことを好きになってもらいたい。
「えっと、どこかしら?」
私はざわつく心をなんとか落ち着かせ、仕事に集中しようと決めた。
そして、資料室の棚をキョロキョロと見渡す。資料室には数十年分の会社の資料が収められている。定期的に秘書課の人達が整理に来ているそうだが、膨大な数のファイルの中から目的のものを探すのは中々に大変そうだ。
メモによると、二年前に行ったイタリアにある系列ホテルの改装工事の資料が必要らしい。これって、確か宗雅さんが総責任者となって手がけたものよね? 『癒し』をコンセプトに和のテイストを取り入れたホテル。優雅かつ過ごしやすいことを第一に造られていて、特に水回りの設備に力が入っていると聞いた。
「ヨーロッパってバスタブがない家やホテルが珍しくないものね……」
その上、低料金クラスの部屋だと、お湯の温度が安定しなかったり、水圧が弱いことがあると聞いたこともある。そういう問題を心配しなくていいのはとても良いことだと思う。特に日本からの観光客も多い我が社のホテルでは、バスタイムを楽しめることは結構重要だと思う。さすが、宗雅さんだわ。
そんなことを考えながら、二年前の資料が収められた棚の前に立ち、メモと交互に見ながら探す。
「あったわ!」
資料を見つけた私は手を伸ばして、その資料を取ろうとした。でも、高いところにあるので、私の身長ではあと少し届かない。
どうしましょう。背伸びをしてみても届かない。踏み台が部屋の端に見えるけれど……
「でもあと少しなのよね。あ、もう少し……っ痛!」
指先がファイルに掛かったところで、右腕に痛みが走り、側にあった別の資料を落としてしまった。落ちたファイル達を見つめて、はぁっと息をつく。
ああ、やっちゃった……
私は腕を押さえながら、ファイルを拾おうとした。
「立花さん。今、なにか落ちる音がしたけど大丈夫? 怪我していない?」
「え?」
しゃがみこんだ時に、突然宗雅さんが現れたので目を瞬かせる。
む、宗雅さん? どうしてここに?
私は目をゴシゴシと擦った。
「頼んだファイルの場所が分かりづらいところだったなと思い出して見にきたんだ。見つかった?」
「ファイルは見つけられたんですけれど……」
右腕をさすりながら視線を上に向けると、彼も同じように上を見た。
「あ……ごめんね。あんなに高いところにあると取れないよね。大丈夫? 右腕をぶつけたの? ちょっと見せて」
「いえ。大丈夫です。踏み台を使わずに取ろうとした私が悪いので」
右腕に触られそうになって、慌てて背に隠す。彼はなにかを察したのか、すぐに手を引っこめて「ごめんね」と謝ってくれた。
ごめんなさい、違うんです。宗雅さんが悪いんじゃないの。ただ、過去に怪我したところを見られたくなくて……
俯いたまま右腕を掴んでいると、その手の上に彼の手が重なり、ハッと顔を上げる。
「大丈夫ならいいんだ。そんな顔しないで?」
「副社長……」
「立花さんは、男性が苦手? もしそうなら言ってね。気をつけるから」
「違います! 大きな声を出す人は苦手ですが、副社長は大丈夫です! だから、気をつけないでください! 私、私……あっ」
そこまで言ったところで、彼のスーツを縋るように掴んでしまったことに気づいて、慌てて手を離そうとする。でも、その前に彼がやんわりと私の手をほどいた。
やだもう、私ったら。
私はそのことに少しショックを受けながらも恥ずかしさで熱くなった頬を押さえ、か細い声で「申し訳ございません」と謝った。
「大丈夫だよ。それに、そんなに謝らないで。君の前では大きな声を出さないと約束する」
「副社長……」
そう言いながら、落とした資料を拾い、必要な資料も取ってくれる彼の優しさと笑顔に胸がトクンと脈打った。心臓の鼓動が痛いくらいで、気をつけていないと頬が緩んでしまいそうだ。
以前と変わらず、まわりの人を気遣う優しい人。宗雅さん、あの時からずっと好きです。私のことを覚えていますか?
一瞬、そう言いそうになって、私は自分の唇をキュッと噛み締めた。
落ち着かないと。勢いで好きだと言ってしまったら、そこですべてが終わってしまう。婚約者候補と気づかれずに、私自身を好きになってもらわなくちゃ……
でも、どうやって? 宗雅さんは相変わらずスマートで隙がない。彼は男女問わず社員皆に平等に優しい。そんな人の特別な存在になるには、どうしたらいいんだろう。恋愛経験が乏しすぎて分からない。
「立花さん。もし右腕が痛むようなら、我慢せずに医務室に行くんだよ」
「いえ、本当に大丈夫なんです。もう痛くありませんから……。ありがとうございます」
「それなら、いいんだけど。あまり無理しないようにね」
「はい」
部下としてだけれど、大切にされていると感じられて嬉しい。だから焦ってはいけない。今はとりあえず早く仕事を覚えて彼の役に立とう。私はそう決心して、頭を下げて資料室を退室した。
2
「副社長、コーヒーです。熱いのでお気をつけください」
「ありがとう」
デスクにコーヒーを置くと、なにやら難しい顔をしていた宗雅さんは、わざわざこちらを向いて柔らかく微笑んでくれる。でも、すぐ顔がパソコンに戻る。とても忙しそうだ。画面をチラッと覗き見ると、京都にあるホテルを改装するという企画書を開いていた。そして彼のデスクの上には、以前取りにいったイタリアにあるホテルの改装資料もある。
このホテルも彼が総責任者になって改装工事をするのかしら?
応援ありがとうございます!
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