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1巻
1-3
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安心したところで、一つ質問をしてみる。それは、先ほどから気になっていることでもあった。
「あの、つかぬことをお聞きしますが、ヴィリバルトさんは、おいくつなんですか?」
「二十歳だけど」
最初に見た印象通り、やはり年下だった。優奈は両手で顔を覆う。年下の男の子に「いい子」をされるなんて、とても恥ずかしい。けれど一方的に聞いただけなのも悪いと思い、優奈も自身の年齢を口にする。
「私、二十三、なんです」
「ふうん」
明日は晴れです――と、普通のことを聞いたかのような、あっさりとした返答であった。
その後、優奈はシュトラエルの家でお世話になる旨を、ヴィリバルトに軽く伝えておく。
「そっか。良かった。シュトラエル、最近足腰が痛むって言っていたんだけれど、私達の手助けは不要だって聞かないから」
「そうだったのですね」
これも、女神が優奈の願いを叶えてくれた結果なのだろう。シュトラエルのもとにいられる理由に何となく見当が付いて、ホッとする。
ヴィリバルトは優奈ににっこりと微笑みかけ、語り始めた。
「昔、シュトラエルは喫茶店を開いていて、看板料理はパンケーキ。とっても繁盛していたんだ。私も小さな時に食べたことがあって――」
当時、王都暮らしをしていたヴィリバルトは、父親の仕事の関係でこの地へとやって来た。
緑が美しい場所で、短い間だったがのびのびと過ごしていたと話す。村の子ども達とも打ち解け、ある日追いかけっこをしていると、シュトラエルの薬草園に迷い込んでしまったのだ。
「恥ずかしい話なんだけど、シュトラエルを見た時、食べられてしまうと思って泣いてしまったんだ。初めて見た獣人だったからね。でも父のもとへの帰り方もわからないし、そのうちお腹空いたとか言って大騒ぎして」
ウィリティスに獣人はあまり住んでいない。なので、幼い彼は驚いたのだ。そんなヴィリバルトに、シュトラエルは気を悪くもせず、二段重ねのパンケーキを焼いてくれたのだと言う。
「あの時のパンケーキが、世界で一番おいしかった」
けれど、ヴィリバルトが再度この村を訪れた時、シュトラエルの店は閉店していた。
理由を聞くと、シュトラエルの夫の死をきっかけに、気力と体力が保たなくなったのだと。
「旦那さん……そうだったのですね」
「残念な話だけれど」
獣人の寿命も人とそう変わらない。別れは必然だった。
「ってことはヴィリバルトさんは、最近こちらにいらっしゃったのですか?」
「そうなんだ。一年くらいかな? でも君よりは先輩だから、わからないことがあったら、なんでも聞いて」
ヴィリバルトはそう言うと遠い目をして、ごろりと草の上に寝転がる。
「シュトラエルは頑固で、あれから私がいくらお願いしても、パンケーキを作ってくれないんだ。一人だけ特別扱いするわけにはいかないって」
「そ、そうなのですね」
おかげで、昨晩シュトラエルのパンケーキを食べたことを言い出せなくなってしまった。きっとあれは、優奈を元気づけるために、特別に作ってくれたに違いない。
優奈もヴィリバルトと共に、空を見上げる。澄んだ、綺麗な青空だった。
「料理人にお願いしても、同じようなものは作れなかったし、どのお店にも置いてないし……そうなると、余計に食べたくなるんだよね」
シュトラエルのパンケーキは厚さが三センチはありそうな、ふかふかの生地でできていた。おそらく、メレンゲを泡立てて作っているのだろうと優奈は推測する。
「あの、もしかしたら私、シュトラエルさんのパンケーキに近いものを作れるかもしれません」
「え、それって本当!?」
「はい。よろしければ、昨日のお礼に作れたらな、と」
ヴィリバルトはガバリと起き上がり、優奈の手を取る。
「ありがとうユウナ! もしかして君は、女神にパンケーキを作れるようになりたいって願ったの?」
「いえ、私はもともと、菓子職人なんです」
「そうなんだ。すごいな」
ヴィリバルトは立ち上がり、次にユウナの手を引いて立ち上がらせた。
「だったら、私の隠れ家――じゃなくて、家で作ってくれる?」
「今からですか?」
「そう。あ、予定は平気? 今日じゃなくてもいいけれど。ごめん、お腹が空いていたから、つい早々に予定を決めてしまって」
優奈はちらりとアオローラを見る。
『シュトラエルには、帰りが遅くなるって伝えておくよ。ついでにお使いもしておいてあげる』
「あの……お使いまで、大丈夫なの?」
『もちろん!』
「で、でも、荷物は……」
そんなに小さな体で運べるのか。心配する優奈をよそに、アオローラはシュトラエルの籠の持ち手を足で掴んだ。そして『ふんぬ!』とかけ声を上げた途端、籠が宙に浮いた。
「うわっ、アオローラすごい! 力持ち!」
『最近の妖精は力持ちなのさ』
そんなことを言って飛び去って行ったかと思えば、アオローラはなぜかすぐに戻って来た。
『あのね、ユウナに一言忠告。初対面の男に、ホイホイついて行ったらダメだからね!』
耳元でこっそり囁かれ、優奈は確かにと思う。ヴィリバルトは天使のような容姿なので、襲われる可能性など全く考えていなかったのだ。
『ヴィリバルトは下心とか今のところないっぽいし大丈夫だけど、今後は要注意だよ』
隙があり過ぎる行動に、優奈は恥ずかしくなった。これからは気を付けよう。
「わかった」と返事をすると、アオローラは満足そうに頷き、飛んで行った。会話が聞こえていなかったヴィリバルトは、今までと同じ様子で話しかけてくる。
「あ、そうだ。家に材料がないから、一緒に買いに行こう?」
ハッと優奈は肩を震わせたが、「どうかした?」と聞かれ、ぶんぶんと首を左右に振る。三つも年上の自分を、ヴィリバルトが異性として見るわけがない。そう思い直し、自意識過剰な心は隅っこへと押しやった。
「じゃあ、行こうか」と言われて、優奈は我に返る。
「あの、私、お金を持っていないんです。すみません、失念していました」
申し訳なく思い、ぺこりと頭を下げる。
「そんな、こっちが作ってってお願いしたんだから、心配しないで」
材料費はヴィリバルトが出してくれると言う。優奈は再度、頭を下げることになった。
「じゃあ、行こうか」
ヴィリバルトはそう言い、優奈の腰に手を回す。内心ぎょっとしたが、この国では普通のことなのかもしれない。相手はただエスコートをしているだけなのに、拒絶するのも失礼だ。
「さ、さすが、イタリア人」
「え、何か言った?」
「いいえ、なんでも」
――ヴィリバルトはイタリア人である。頭の中でそう唱えて、動揺はなるべく顔に出さないようにした。けれど顔が真っ赤になったのは、言うまでもない。
村には四ヶ所、商店がある。雑貨屋に、パン屋、食品店になんでも屋といった店だ。
「なんでも屋さん、ですか」
「雑貨屋、パン屋、食品店にない物は、たいていなんでも屋にあるよ」
まず、ヴィリバルトの家にある食材について尋ねた。
「食材? 何もないよ」
「小麦粉や砂糖も、ですか?」
こくりと頷くヴィリバルト。驚いたが、男性の一人暮らしはそんなものなのかなと優奈は思った。
「では、小麦粉、砂糖、卵、バター、牛乳を買いましょう」
どうやら、食材名などは地球とそう変わらないようでホッとする。言語は日本語ではない不思議な響きだが、優奈は脳内で翻訳し、口にしていた。これも、女神の祝福なのかと考える。
「ここが食品店だよ」
ヴィリバルトが指さすのは、真っ赤な壁の二階建てのお店。一階部分が商店になっているようだ。日除けに吊るされた木の看板には『小熊堂』と彫られている。
「いらっしゃい、おっと、レンドラーク様じゃないか」
店からひょっこりと顔を出したのは、大柄な中年男性。顔の輪郭を覆う髭に、盛り上がった腕の筋肉は、まるで熊のよう。小熊ではなく大熊だなと、優奈は内心考えた。
「気軽に名前で呼んでくれてもいいのに」
「いやいや、恐れ多い」
ここで、優奈の思考が停止する。
「あ、あの、もしかして、『レンドラーク』が家名なんですか?」
ヴィリバルトは頷き、優奈は頭を抱える。ヴィリバルトというのは、ずっと家名だと思っていたのだ。日本人の感覚では、初対面の男性を名前で呼ぶなどありえないのに。
「おや、そちらの女性は?」
「彼女はユウナ・イトウ。シュトラエルの助手なんだ」
「ああ、そうか。あの婆さん、やっと人を傍に置いてくれたんだな」
優奈は小熊堂の店主に丁寧な挨拶を受ける。
「俺はビリー・ローテ。困ったことがあったら、なんでも言ってくれ」
「ユウナ・イトウです。初めまして。よろしくお願いいたします」
頭を下げる優奈を見て、ビリーは質問する。
「なんだ、どこぞのご令嬢なのか?」
優奈はすぐに否定したが、ビリーは納得がいかないといった顔をしている。聞けば、優奈の物腰や態度が貴族令嬢にしか見えないらしい。それは日本の義務教育のたまものだろう。それから、養護施設の先生達の教育の成果だ。優奈は育った環境を誇りに思った。
「物腰もそうだし、その黒い目も――」
「ビリー、注文、いいかい」
「あ、ああ。すまない」
ここでパンケーキの材料を買い、小熊堂を後にした。
「レンドラークさん、おうちに調理器具は――」
「ユウナ、違うよ。呼び方、ヴィリバルトって呼んで」
有無を言わせない迫力で迫るヴィリバルト。ビリーにもそう言っていたので、みんなに頼んでいるのだろうが、優奈はこういう風に異性と親しくしたことがないので困惑する。
「彼はイタリア人、彼はイタリア人……」
ボソボソと小さな声で呪文のように呟き、覚悟を決める。そして、無理矢理笑顔を作った。
「わかりました、ヴィリバルトさん」
引き攣った笑顔の優奈に対し、ヴィリバルトは天使のような微笑みを浮かべながら、「ありがとう」と言った。
「それで、話を戻しますが、ヴィリバルトさんの家にはどんな調理器具があるんですか?」
「自分で料理をしないから、全くないんだ。いつもはだいたいパンとリンゴを買って食べたり、チーズを齧ったり」
「え!? そんな食生活をしてるんですか?」
「あ、毎日じゃないよ、時々ね。でも、家じゃ料理しないんだ」
ボウルや泡立て器どころか、鍋や皿すらないということが発覚し、優奈は慌てた。
「せっかくだから買うよ」
「で、ですが……」
料理をしないのならば、今回のためだけに買うことになってしまうんじゃないだろうか。
「あの、ご提案なのですが、シュトラエルさんにお願いして、お台所と調理器具を借りて作るのはどうですか?」
「ダメだよ。シュトラエルは私が遊びに行くのを良く思っていないようなんだ」
「そう、なのですね」
良いアイディアだと思ったのだが、何やら複雑な事情があるらしい。使わない道具を買うのは無駄な出費だと思ったが、優奈は説得を諦めることにした。
今度は、なんでも屋に調理器具を買いに行く。その店は東京の浅草にある問屋街のような、豊富な品揃えであった。店の規模、商品数共に、さっきの食品店とは比べ物にならない。
ヴィリバルトは店主に挨拶をする。店の奥から出て来たのは、白髪頭の老婆だ。
「いらっしゃい。ヴィリバルトの坊ちゃん。あら、そちらのお嬢さんは見ない顔ね」
「彼女はシュトラエルの助手で、ユウナ・イトウ。昨日、この村に来たんだ」
「ユウナお嬢ちゃん、初めまして。私はなんでも屋のマリア・ロウよ」
「えっと……、初めまして、ユウナ・イトウ、です」
お嬢ちゃんと呼ばれる年ではないが、いちいち指摘するのもどうかと思い、曖昧に微笑んでおく。
「今日買う品は――ユウナ、なんだったかな?」
「あ、はい。フライパンにボウルが二つ、それから泡立て器とか、ありますか?」
「ええ、もちろん」
店の奥へと消えていくなんでも屋の女店主、マリア。ガチャガチャと、金物が重なり合う音が鳴り響く。その間、ユウナは周囲を見渡した。大きな壺に、円卓、本、食器、鞄、服など、品揃えは雑多である。なぜか自転車やミシンなども置いてあった。文明は地球とそう変わらないというアオローラの説明は本当だったのかと納得しながら、他の必需品を探した。
あと必要なのは平皿にナイフ、フォーク、カップくらいか。
「ああ、ユウナ、お茶を沸かすヤカンは家にあるから。あとカップも」
「そうなのですね」
振り向くと、すぐ近くにヴィリバルトの顔があってぎょっとする。距離が異様に近かった。彼は物語から飛び出てきたような貴公子然とした青年なので、顔を見ただけでドギマギしてしまった。距離が近い件に関しては、さすがイタリア人と思うことにしておく。
「じゃあ、お皿はどれがいい?」
「あ、はい。え~っと」
店には数種類の皿が置いてあった。優奈が手に取ったのは、縁に蔓模様のある平皿。先ほどヴィリバルトが使っていた蔓を生やす魔法が印象的で、同じ柄の皿が目に留まったのだ。
「そういえばさっきの魔法、すごかったですね! 蔓を生やして修繕するなんて、素晴らしいです!」
そう言った瞬間、ヴィリバルトは目を丸くした。それから、少し寂しそうな顔で微笑んだ。
「……そんな風に言ってくれるの、ユウナくらいだよ」
「そう、なのですか?」
悲しそうに微笑むその表情は、ワケアリに見えた。優奈はそれ以上触れずに、食器選びを再開する。
なんでも屋では、調理器具に食器類と、大量の買い物をした。まるで新婚さんの買い物のようだとマリアに言われたが、ヴィリバルトは否定せずに笑うだけ。そこはきっちり否定してほしいと思いながら、優奈は他に、食器を洗うスポンジと洗剤などの雑貨も購入した。
「こういうのは雑貨屋のほうが安いんだけどね。今日は時間がもったいないから」
そういえば、お腹が空いていると言っていた。早く作らなければと、優奈は気合を入れる。
材料が揃ったので、ヴィリバルトの家に移動した。
「ここが私の家」
黄色い壁に赤い屋根の、平屋建ての一軒家を前に、ヴィリバルトはそう言った。
「ごめん、ちょっと埃っぽいかも。来るのは一週間ぶりくらいだから……」
「え?」
「あ、いや、なんでもない」
何やら不穏な発言が聞こえたような気がしたが、ヴィリバルトは首を横に振ってこれ以上の追及はしないでくれという姿勢を取る。優奈は首を傾げつつも、まあいいかと疑問を頭の隅に追いやった。
「ちょっと待っていて。窓を開けて空気の入れ換えをするから」
扉を開き、ヴィリバルトは一人中へと入って行く。ガチャガチャと何かを移動させるような物音を聞きながら待機して、数分後――
「ごめん、お待たせ。どうぞ」
「おじゃまします」
換気をしたはずの室内は、それでもまだ少しだけ埃っぽい。廊下に足を踏み入れると、ギシギシと木の軋む音が鳴り響いた。ヴィリバルトは殺風景な居間に、書斎、風呂場と、簡単に内部を案内してくれる。物はほとんどないのに、書斎の本だけは充実していた。いったいどういう暮らしをしているのかと、ユウナは不思議に思う。
「ここが台所」
料理しないと公言しているだけあって、何もなかった。コンロと備え付けのオーブンに流し台、背の高い棚、そして調理机があるばかりである。机は埃を被っていたので、布巾か何かで拭かなければならない。優奈は水道に手を伸ばしたが、蛇口を捻っても何も出てこない。あれ? と優奈は首を傾げる。
「あ、優奈、もしかして魔力切れ? 大丈夫?」
「あっ……!」
思い出した。この世界では魔力がなければ、便利な道具は使えないのだ。
「こちらに来たばかりで、体に魔力があまりないみたいなんです」
「え? だったら、こうして歩き回るのも不可能なような……」
「それは、女神様に祝福してもらった名残かもしれません」
「そっか。だったら、魔力を補給するために、たくさんここの食材を食べないとね」
そう言って、ヴィリバルトは水道の説明に戻った。蛇口の内部に彫られた呪文と、捻った摩擦で術式が完成し、貯水所から水を引き寄せる魔法が発動すると言う。優奈に代わってヴィリバルトが蛇口を捻ると、水が勢い良く出てきた。
「わ、すごい!」
と、感心している場合ではない。布巾を借りて台所を掃除した。真っ先に調理台付近を綺麗にしたあと、食器を洗って、ついでに床も拭く。ヴィリバルトと二人がかりで、大掃除となった。
台所はすっかりピカピカになった。満足げにふうと息を吐いた優奈が額の汗を拭っていると、ぐらりと視界が歪み――
「ユウナッ!」
倒れそうになったところを、ヴィリバルトが抱き止めた。そのまま台所の椅子に座らせてもらう。
「君は、やっぱり魔力が足りていないんだね」
「すみません、ご迷惑を」
一休みしようと、提案される。ヴィリバルトは棚から真っ赤な石を取り出し、コンロの下のオーブンを開いて投げ入れた。一体型になっているのか、蓋を閉め、オーブンの表面に彫られていた文字を指先でなぞると、ボッと音を立てながらコンロの火が着火する。
「ヴィリバルトさん、それは?」
「魔石燃料だよ。これで火を熾すんだ」
地球でいうガスみたいな物かと、納得する。ヴィリバルトはヤカンを火にかけ、缶の中の茶葉のような物を、サラサラとカップに入れた。
「これ、保存食のビスケットなんだけど、良かったら食べて」
「ありがとうございます」
魔力を溜めるには、この世界の食べ物を口にしなければならないらしい。お世話になりっぱなしで申し訳ないと思いつつも、優奈はビスケットをいただくことにした。
丸いビスケットを、手に取って齧る。パキリと硬めの歯ごたえを感じつつ、呑み込んだ。
良く言えば素朴、悪く言えばボソボソしている甘い物体。そんなクオリティであった。
お茶も、当然ながら渋かった。異世界の不思議なお茶なのかとも思ったが、これはヴィリバルトが淹れ方を間違っているのではないだろうか。
「どっちもおいしくないでしょう?」
「……それは」
「いいよ、顔を見ればだいたいわかるから」
これは王都で大量生産された茶葉と庶民菓子。おいしくはないが、安くて手に入りやすいそうだ。
「この村で売っている茶葉とお菓子と言えば、王都の工場で生産された物くらいなんだ。まあ、味気ない場所なんだよね」
だから、おいしいお茶とパンケーキを出すシュトラエルの店は貴重な存在だったんだと、ヴィリバルトは寂しげに語った。
「ユウナ、シュトラエルの家まで送って行こう。辛いだろう? 歩ける? 抱いて行こうか?」
優奈は顔を真っ赤にして、首をぶんぶんと横に振った。同時に、彼の言葉がパンケーキは今度でいいと暗に示していることにも気づく。
「あの、私、平気です。ビスケットとお茶で元気になりましたから」
無理はしないでくれと言われたけれど、買い物までお世話になって、何もしないまま帰るわけにもいかない。優奈は妥協案を提案した。
「もしよろしければ、ヴィリバルトさんも手伝ってくれませんか?」
「パンケーキ作りを?」
自分にも手伝えるのかと聞かれ、こくりと頷く。
「わかった。上手くできるかわからないけれど、手を貸すよ」
「よろしくお願いいたします」
優奈は腕まくりをして、エプロンを探す……が、そんな物などないと言われてしまい、苦笑いを浮かべながら調理に取りかかった。
さっそく材料を手に取る。計量器がないので磁器のカップを使い、小麦粉と砂糖を目分量で量った。
それが終わったら、卵を黄身と白身に分ける。白身に砂糖を入れて、泡立て器で軽くかき混ぜた。
「こんな風にして、中身がフワフワの白いクリームみたいになるまで混ぜてもらえますか?」
ヴィリバルトが卵白を泡立てている間、優奈は黄身に牛乳を混ぜて生地の準備をする。
「ユウナ、まだ?」
「はい、もっとです」
ヴィリバルトは一生懸命卵白を泡立てている。慣れない作業に苦戦しているようだった。
ハンドミキサーがないとメレンゲを作るのは大変そうだなと考えながら、優奈も手が空いたので、声をかけてみる。
「私がやりましょうか?」
「大丈夫。ユウナは座っていて」
そう言われて、まだ少し眩暈を感じていた優奈はお言葉に甘えさせてもらう。
数分後、ヴィリバルトは見事な角の立つメレンゲを作り上げた。
「これでいい?」
「はい、ありがとうございます。お上手ですね」
礼を言って受け取ると、ヴィリバルトは嬉しそうに微笑んだ。それを横目に、優奈は生地作りの仕上げを行う。
メレンゲに黄身と砂糖を合わせ、小麦粉を篩って混ぜる。ポイントはさっくりと混ぜること。こうするとメレンゲが萎みにくくなるのだ。生地が完成したら、フライパンに油を引き、温める。
「ヴィリバルトさん、これ、火の勢いを弱くできますか?」
ヴィリバルトは「任せて」と言い、オーブンに書かれてある呪文の一つをなぞった。すると、強火だった火が中火に変わる。フライパンが温まったのを見計らって、生地を落とした。じゅわりと、生地の焼ける音と甘い香りが漂う。フライ返しで何度か裏返し、中まで火が通ったら完成。バターをカットし、パンケーキの上に載せる。
ここで、優奈はハッとなる。蜂蜜を買い忘れたのだ。そのことを、ヴィリバルトに伝える。
「ああ、蜂蜜ね。今、手に入りにくいんだ」
「そうなのですか?」
「残念なことにね。国内唯一の産地が嵐の被害に遭ったせいで高騰して、この辺りは流通していないんだよ。たぶん、王都の貴族が買い占めているんだと思う」
シュトラエルの家にあったのは、きっと嵐の前に買った物だったのだろう。ならば申し訳ないが、このパンケーキはバターだけで食べてもらうしかない。
机の上に置くと、ふるりと震えるパンケーキ。
「うわ、すごい、フワフワだ!」
見た目だけで、ヴィリバルトは感激しきっていた。正直、シュトラエルに作ってもらった物より厚さは薄かったが、喜んでもらえてホッとする。
「食べていいの?」
「どうぞ」
焼きたてのパンケーキを前に、ヴィリバルトは食前の祈りを捧げる。ナイフとフォークを掴み、そっとナイフを入れる様子を、優奈はドキドキしながら見守った。
一口大に切り分けたパンケーキを口にした瞬間、ヴィリバルトは目を見開く。そして目を煌めかせて、感想を語り出した。
「これ、すごいよ! 生地がフワフワもちもちで、甘すぎなくて、子どもの頃、シュトラエルに作ってもらったパンケーキと同じくらいおいしい!」
「あ、ありがとうございます。良かった……」
彼はあっという間に一枚食べきってしまった。じんわりと瞼が熱くなったのを自覚して、優奈は二枚目を焼くと理由を付けてヴィリバルトに背を向ける。
やはり、この地に来たのは間違いではなかった。優奈が欲しかったのは、コンクールで得られる実績や名誉ではなく、笑顔で「おいしい」と言ってくれる人達なのだ。
感極まり、途中から涙が止まらなくなってボロボロと泣いてしまったけれど、ヴィリバルトは気づかない振りをしてくれた。彼が二枚、三枚と食べ進める様子を、優奈は幸せな気分で見守る。
後片付けはヴィリバルトがやってくれた。いろいろと動き回れるだけの魔力が、まだ優奈に溜まっていないのを見越してのことだ。片付けを終えたヴィリバルトが、振り返りながら言った。
「――ユウナさ、シュトラエルのお店を継いでみる気はない?」
その言葉に、ドキンと胸が高鳴る。優奈はただただ、驚いた。できたらいいけれど、果たして体力が保つのか。それに、シュトラエルが許してくれるのかもわからない。そう言うと、ヴィリバルトは優しく笑った。
「そっか。そうだよね。まずは元気にならなきゃ」
自分の店を持つのは優奈の夢である。いつか叶えたいと考えていた。しかし、まずはこの世界の環境に慣れることが先決である。
「まあ、私のためだけに作ってくれてもいいけれど」
「そうですね。それくらいなら、私にもできるかも」
「本当? だったら、一緒に住む? なんだったら、ここじゃなくて――」
言葉を遮るかのように、扉がトントントンと叩かれる。続いて大きな声が聞こえた。
『すみませ~ん、うちのユウナ、いますよね~?』
アオローラだ。優奈はゆっくり立ち上がり、玄関へと向かう。するとそこには、アオローラだけでなく、なぜかシュトラエルの姿もあった。
「シュトラエルさん!?」
「ユウナがなかなか帰ってこないから、迎えに来てしまったよ」
にっこりと、手を差し伸べられる。
「ああ、すみません、ありがとうございます」
優奈はシュトラエルの温かな指先をぎゅっと握った。そこへ見送りに来たヴィリバルトの声がかかる。
「ユウナ、今日はありがとう、おいしかった」
「……おいしかった?」
シュトラエルは訝しげな視線をヴィリバルトに向けた。
「ユウナにパンケーキを作ってもらったんだ。彼女、菓子職人なんだって」
「あら、そうなのかい?」
シュトラエルは驚いた顔で優奈を見た。
「素敵だねえ。家に帰ったら、どんなお菓子が作れるのか教えてくれるかい?」
「はい。喜んで」
と、アオローラが不意に『ぶふっ!』と噴き出した。
「アオローラ、どうしたの?」
『だ、だって、ヴィリバルトが捨てられた子犬みたいな顔をしているから』
アオローラの言うとおり、ヴィリバルトはなぜか眉尻を下げた、情けない表情で優奈を見ていた。一人になるのが寂しいのだろうか。
「ヴィリバルトさん、また今度、お話ししましょう」
「ありがとう、ユウナ。では、また」
優奈はシュトラエルと共に手を振って別れた。
「あの、つかぬことをお聞きしますが、ヴィリバルトさんは、おいくつなんですか?」
「二十歳だけど」
最初に見た印象通り、やはり年下だった。優奈は両手で顔を覆う。年下の男の子に「いい子」をされるなんて、とても恥ずかしい。けれど一方的に聞いただけなのも悪いと思い、優奈も自身の年齢を口にする。
「私、二十三、なんです」
「ふうん」
明日は晴れです――と、普通のことを聞いたかのような、あっさりとした返答であった。
その後、優奈はシュトラエルの家でお世話になる旨を、ヴィリバルトに軽く伝えておく。
「そっか。良かった。シュトラエル、最近足腰が痛むって言っていたんだけれど、私達の手助けは不要だって聞かないから」
「そうだったのですね」
これも、女神が優奈の願いを叶えてくれた結果なのだろう。シュトラエルのもとにいられる理由に何となく見当が付いて、ホッとする。
ヴィリバルトは優奈ににっこりと微笑みかけ、語り始めた。
「昔、シュトラエルは喫茶店を開いていて、看板料理はパンケーキ。とっても繁盛していたんだ。私も小さな時に食べたことがあって――」
当時、王都暮らしをしていたヴィリバルトは、父親の仕事の関係でこの地へとやって来た。
緑が美しい場所で、短い間だったがのびのびと過ごしていたと話す。村の子ども達とも打ち解け、ある日追いかけっこをしていると、シュトラエルの薬草園に迷い込んでしまったのだ。
「恥ずかしい話なんだけど、シュトラエルを見た時、食べられてしまうと思って泣いてしまったんだ。初めて見た獣人だったからね。でも父のもとへの帰り方もわからないし、そのうちお腹空いたとか言って大騒ぎして」
ウィリティスに獣人はあまり住んでいない。なので、幼い彼は驚いたのだ。そんなヴィリバルトに、シュトラエルは気を悪くもせず、二段重ねのパンケーキを焼いてくれたのだと言う。
「あの時のパンケーキが、世界で一番おいしかった」
けれど、ヴィリバルトが再度この村を訪れた時、シュトラエルの店は閉店していた。
理由を聞くと、シュトラエルの夫の死をきっかけに、気力と体力が保たなくなったのだと。
「旦那さん……そうだったのですね」
「残念な話だけれど」
獣人の寿命も人とそう変わらない。別れは必然だった。
「ってことはヴィリバルトさんは、最近こちらにいらっしゃったのですか?」
「そうなんだ。一年くらいかな? でも君よりは先輩だから、わからないことがあったら、なんでも聞いて」
ヴィリバルトはそう言うと遠い目をして、ごろりと草の上に寝転がる。
「シュトラエルは頑固で、あれから私がいくらお願いしても、パンケーキを作ってくれないんだ。一人だけ特別扱いするわけにはいかないって」
「そ、そうなのですね」
おかげで、昨晩シュトラエルのパンケーキを食べたことを言い出せなくなってしまった。きっとあれは、優奈を元気づけるために、特別に作ってくれたに違いない。
優奈もヴィリバルトと共に、空を見上げる。澄んだ、綺麗な青空だった。
「料理人にお願いしても、同じようなものは作れなかったし、どのお店にも置いてないし……そうなると、余計に食べたくなるんだよね」
シュトラエルのパンケーキは厚さが三センチはありそうな、ふかふかの生地でできていた。おそらく、メレンゲを泡立てて作っているのだろうと優奈は推測する。
「あの、もしかしたら私、シュトラエルさんのパンケーキに近いものを作れるかもしれません」
「え、それって本当!?」
「はい。よろしければ、昨日のお礼に作れたらな、と」
ヴィリバルトはガバリと起き上がり、優奈の手を取る。
「ありがとうユウナ! もしかして君は、女神にパンケーキを作れるようになりたいって願ったの?」
「いえ、私はもともと、菓子職人なんです」
「そうなんだ。すごいな」
ヴィリバルトは立ち上がり、次にユウナの手を引いて立ち上がらせた。
「だったら、私の隠れ家――じゃなくて、家で作ってくれる?」
「今からですか?」
「そう。あ、予定は平気? 今日じゃなくてもいいけれど。ごめん、お腹が空いていたから、つい早々に予定を決めてしまって」
優奈はちらりとアオローラを見る。
『シュトラエルには、帰りが遅くなるって伝えておくよ。ついでにお使いもしておいてあげる』
「あの……お使いまで、大丈夫なの?」
『もちろん!』
「で、でも、荷物は……」
そんなに小さな体で運べるのか。心配する優奈をよそに、アオローラはシュトラエルの籠の持ち手を足で掴んだ。そして『ふんぬ!』とかけ声を上げた途端、籠が宙に浮いた。
「うわっ、アオローラすごい! 力持ち!」
『最近の妖精は力持ちなのさ』
そんなことを言って飛び去って行ったかと思えば、アオローラはなぜかすぐに戻って来た。
『あのね、ユウナに一言忠告。初対面の男に、ホイホイついて行ったらダメだからね!』
耳元でこっそり囁かれ、優奈は確かにと思う。ヴィリバルトは天使のような容姿なので、襲われる可能性など全く考えていなかったのだ。
『ヴィリバルトは下心とか今のところないっぽいし大丈夫だけど、今後は要注意だよ』
隙があり過ぎる行動に、優奈は恥ずかしくなった。これからは気を付けよう。
「わかった」と返事をすると、アオローラは満足そうに頷き、飛んで行った。会話が聞こえていなかったヴィリバルトは、今までと同じ様子で話しかけてくる。
「あ、そうだ。家に材料がないから、一緒に買いに行こう?」
ハッと優奈は肩を震わせたが、「どうかした?」と聞かれ、ぶんぶんと首を左右に振る。三つも年上の自分を、ヴィリバルトが異性として見るわけがない。そう思い直し、自意識過剰な心は隅っこへと押しやった。
「じゃあ、行こうか」と言われて、優奈は我に返る。
「あの、私、お金を持っていないんです。すみません、失念していました」
申し訳なく思い、ぺこりと頭を下げる。
「そんな、こっちが作ってってお願いしたんだから、心配しないで」
材料費はヴィリバルトが出してくれると言う。優奈は再度、頭を下げることになった。
「じゃあ、行こうか」
ヴィリバルトはそう言い、優奈の腰に手を回す。内心ぎょっとしたが、この国では普通のことなのかもしれない。相手はただエスコートをしているだけなのに、拒絶するのも失礼だ。
「さ、さすが、イタリア人」
「え、何か言った?」
「いいえ、なんでも」
――ヴィリバルトはイタリア人である。頭の中でそう唱えて、動揺はなるべく顔に出さないようにした。けれど顔が真っ赤になったのは、言うまでもない。
村には四ヶ所、商店がある。雑貨屋に、パン屋、食品店になんでも屋といった店だ。
「なんでも屋さん、ですか」
「雑貨屋、パン屋、食品店にない物は、たいていなんでも屋にあるよ」
まず、ヴィリバルトの家にある食材について尋ねた。
「食材? 何もないよ」
「小麦粉や砂糖も、ですか?」
こくりと頷くヴィリバルト。驚いたが、男性の一人暮らしはそんなものなのかなと優奈は思った。
「では、小麦粉、砂糖、卵、バター、牛乳を買いましょう」
どうやら、食材名などは地球とそう変わらないようでホッとする。言語は日本語ではない不思議な響きだが、優奈は脳内で翻訳し、口にしていた。これも、女神の祝福なのかと考える。
「ここが食品店だよ」
ヴィリバルトが指さすのは、真っ赤な壁の二階建てのお店。一階部分が商店になっているようだ。日除けに吊るされた木の看板には『小熊堂』と彫られている。
「いらっしゃい、おっと、レンドラーク様じゃないか」
店からひょっこりと顔を出したのは、大柄な中年男性。顔の輪郭を覆う髭に、盛り上がった腕の筋肉は、まるで熊のよう。小熊ではなく大熊だなと、優奈は内心考えた。
「気軽に名前で呼んでくれてもいいのに」
「いやいや、恐れ多い」
ここで、優奈の思考が停止する。
「あ、あの、もしかして、『レンドラーク』が家名なんですか?」
ヴィリバルトは頷き、優奈は頭を抱える。ヴィリバルトというのは、ずっと家名だと思っていたのだ。日本人の感覚では、初対面の男性を名前で呼ぶなどありえないのに。
「おや、そちらの女性は?」
「彼女はユウナ・イトウ。シュトラエルの助手なんだ」
「ああ、そうか。あの婆さん、やっと人を傍に置いてくれたんだな」
優奈は小熊堂の店主に丁寧な挨拶を受ける。
「俺はビリー・ローテ。困ったことがあったら、なんでも言ってくれ」
「ユウナ・イトウです。初めまして。よろしくお願いいたします」
頭を下げる優奈を見て、ビリーは質問する。
「なんだ、どこぞのご令嬢なのか?」
優奈はすぐに否定したが、ビリーは納得がいかないといった顔をしている。聞けば、優奈の物腰や態度が貴族令嬢にしか見えないらしい。それは日本の義務教育のたまものだろう。それから、養護施設の先生達の教育の成果だ。優奈は育った環境を誇りに思った。
「物腰もそうだし、その黒い目も――」
「ビリー、注文、いいかい」
「あ、ああ。すまない」
ここでパンケーキの材料を買い、小熊堂を後にした。
「レンドラークさん、おうちに調理器具は――」
「ユウナ、違うよ。呼び方、ヴィリバルトって呼んで」
有無を言わせない迫力で迫るヴィリバルト。ビリーにもそう言っていたので、みんなに頼んでいるのだろうが、優奈はこういう風に異性と親しくしたことがないので困惑する。
「彼はイタリア人、彼はイタリア人……」
ボソボソと小さな声で呪文のように呟き、覚悟を決める。そして、無理矢理笑顔を作った。
「わかりました、ヴィリバルトさん」
引き攣った笑顔の優奈に対し、ヴィリバルトは天使のような微笑みを浮かべながら、「ありがとう」と言った。
「それで、話を戻しますが、ヴィリバルトさんの家にはどんな調理器具があるんですか?」
「自分で料理をしないから、全くないんだ。いつもはだいたいパンとリンゴを買って食べたり、チーズを齧ったり」
「え!? そんな食生活をしてるんですか?」
「あ、毎日じゃないよ、時々ね。でも、家じゃ料理しないんだ」
ボウルや泡立て器どころか、鍋や皿すらないということが発覚し、優奈は慌てた。
「せっかくだから買うよ」
「で、ですが……」
料理をしないのならば、今回のためだけに買うことになってしまうんじゃないだろうか。
「あの、ご提案なのですが、シュトラエルさんにお願いして、お台所と調理器具を借りて作るのはどうですか?」
「ダメだよ。シュトラエルは私が遊びに行くのを良く思っていないようなんだ」
「そう、なのですね」
良いアイディアだと思ったのだが、何やら複雑な事情があるらしい。使わない道具を買うのは無駄な出費だと思ったが、優奈は説得を諦めることにした。
今度は、なんでも屋に調理器具を買いに行く。その店は東京の浅草にある問屋街のような、豊富な品揃えであった。店の規模、商品数共に、さっきの食品店とは比べ物にならない。
ヴィリバルトは店主に挨拶をする。店の奥から出て来たのは、白髪頭の老婆だ。
「いらっしゃい。ヴィリバルトの坊ちゃん。あら、そちらのお嬢さんは見ない顔ね」
「彼女はシュトラエルの助手で、ユウナ・イトウ。昨日、この村に来たんだ」
「ユウナお嬢ちゃん、初めまして。私はなんでも屋のマリア・ロウよ」
「えっと……、初めまして、ユウナ・イトウ、です」
お嬢ちゃんと呼ばれる年ではないが、いちいち指摘するのもどうかと思い、曖昧に微笑んでおく。
「今日買う品は――ユウナ、なんだったかな?」
「あ、はい。フライパンにボウルが二つ、それから泡立て器とか、ありますか?」
「ええ、もちろん」
店の奥へと消えていくなんでも屋の女店主、マリア。ガチャガチャと、金物が重なり合う音が鳴り響く。その間、ユウナは周囲を見渡した。大きな壺に、円卓、本、食器、鞄、服など、品揃えは雑多である。なぜか自転車やミシンなども置いてあった。文明は地球とそう変わらないというアオローラの説明は本当だったのかと納得しながら、他の必需品を探した。
あと必要なのは平皿にナイフ、フォーク、カップくらいか。
「ああ、ユウナ、お茶を沸かすヤカンは家にあるから。あとカップも」
「そうなのですね」
振り向くと、すぐ近くにヴィリバルトの顔があってぎょっとする。距離が異様に近かった。彼は物語から飛び出てきたような貴公子然とした青年なので、顔を見ただけでドギマギしてしまった。距離が近い件に関しては、さすがイタリア人と思うことにしておく。
「じゃあ、お皿はどれがいい?」
「あ、はい。え~っと」
店には数種類の皿が置いてあった。優奈が手に取ったのは、縁に蔓模様のある平皿。先ほどヴィリバルトが使っていた蔓を生やす魔法が印象的で、同じ柄の皿が目に留まったのだ。
「そういえばさっきの魔法、すごかったですね! 蔓を生やして修繕するなんて、素晴らしいです!」
そう言った瞬間、ヴィリバルトは目を丸くした。それから、少し寂しそうな顔で微笑んだ。
「……そんな風に言ってくれるの、ユウナくらいだよ」
「そう、なのですか?」
悲しそうに微笑むその表情は、ワケアリに見えた。優奈はそれ以上触れずに、食器選びを再開する。
なんでも屋では、調理器具に食器類と、大量の買い物をした。まるで新婚さんの買い物のようだとマリアに言われたが、ヴィリバルトは否定せずに笑うだけ。そこはきっちり否定してほしいと思いながら、優奈は他に、食器を洗うスポンジと洗剤などの雑貨も購入した。
「こういうのは雑貨屋のほうが安いんだけどね。今日は時間がもったいないから」
そういえば、お腹が空いていると言っていた。早く作らなければと、優奈は気合を入れる。
材料が揃ったので、ヴィリバルトの家に移動した。
「ここが私の家」
黄色い壁に赤い屋根の、平屋建ての一軒家を前に、ヴィリバルトはそう言った。
「ごめん、ちょっと埃っぽいかも。来るのは一週間ぶりくらいだから……」
「え?」
「あ、いや、なんでもない」
何やら不穏な発言が聞こえたような気がしたが、ヴィリバルトは首を横に振ってこれ以上の追及はしないでくれという姿勢を取る。優奈は首を傾げつつも、まあいいかと疑問を頭の隅に追いやった。
「ちょっと待っていて。窓を開けて空気の入れ換えをするから」
扉を開き、ヴィリバルトは一人中へと入って行く。ガチャガチャと何かを移動させるような物音を聞きながら待機して、数分後――
「ごめん、お待たせ。どうぞ」
「おじゃまします」
換気をしたはずの室内は、それでもまだ少しだけ埃っぽい。廊下に足を踏み入れると、ギシギシと木の軋む音が鳴り響いた。ヴィリバルトは殺風景な居間に、書斎、風呂場と、簡単に内部を案内してくれる。物はほとんどないのに、書斎の本だけは充実していた。いったいどういう暮らしをしているのかと、ユウナは不思議に思う。
「ここが台所」
料理しないと公言しているだけあって、何もなかった。コンロと備え付けのオーブンに流し台、背の高い棚、そして調理机があるばかりである。机は埃を被っていたので、布巾か何かで拭かなければならない。優奈は水道に手を伸ばしたが、蛇口を捻っても何も出てこない。あれ? と優奈は首を傾げる。
「あ、優奈、もしかして魔力切れ? 大丈夫?」
「あっ……!」
思い出した。この世界では魔力がなければ、便利な道具は使えないのだ。
「こちらに来たばかりで、体に魔力があまりないみたいなんです」
「え? だったら、こうして歩き回るのも不可能なような……」
「それは、女神様に祝福してもらった名残かもしれません」
「そっか。だったら、魔力を補給するために、たくさんここの食材を食べないとね」
そう言って、ヴィリバルトは水道の説明に戻った。蛇口の内部に彫られた呪文と、捻った摩擦で術式が完成し、貯水所から水を引き寄せる魔法が発動すると言う。優奈に代わってヴィリバルトが蛇口を捻ると、水が勢い良く出てきた。
「わ、すごい!」
と、感心している場合ではない。布巾を借りて台所を掃除した。真っ先に調理台付近を綺麗にしたあと、食器を洗って、ついでに床も拭く。ヴィリバルトと二人がかりで、大掃除となった。
台所はすっかりピカピカになった。満足げにふうと息を吐いた優奈が額の汗を拭っていると、ぐらりと視界が歪み――
「ユウナッ!」
倒れそうになったところを、ヴィリバルトが抱き止めた。そのまま台所の椅子に座らせてもらう。
「君は、やっぱり魔力が足りていないんだね」
「すみません、ご迷惑を」
一休みしようと、提案される。ヴィリバルトは棚から真っ赤な石を取り出し、コンロの下のオーブンを開いて投げ入れた。一体型になっているのか、蓋を閉め、オーブンの表面に彫られていた文字を指先でなぞると、ボッと音を立てながらコンロの火が着火する。
「ヴィリバルトさん、それは?」
「魔石燃料だよ。これで火を熾すんだ」
地球でいうガスみたいな物かと、納得する。ヴィリバルトはヤカンを火にかけ、缶の中の茶葉のような物を、サラサラとカップに入れた。
「これ、保存食のビスケットなんだけど、良かったら食べて」
「ありがとうございます」
魔力を溜めるには、この世界の食べ物を口にしなければならないらしい。お世話になりっぱなしで申し訳ないと思いつつも、優奈はビスケットをいただくことにした。
丸いビスケットを、手に取って齧る。パキリと硬めの歯ごたえを感じつつ、呑み込んだ。
良く言えば素朴、悪く言えばボソボソしている甘い物体。そんなクオリティであった。
お茶も、当然ながら渋かった。異世界の不思議なお茶なのかとも思ったが、これはヴィリバルトが淹れ方を間違っているのではないだろうか。
「どっちもおいしくないでしょう?」
「……それは」
「いいよ、顔を見ればだいたいわかるから」
これは王都で大量生産された茶葉と庶民菓子。おいしくはないが、安くて手に入りやすいそうだ。
「この村で売っている茶葉とお菓子と言えば、王都の工場で生産された物くらいなんだ。まあ、味気ない場所なんだよね」
だから、おいしいお茶とパンケーキを出すシュトラエルの店は貴重な存在だったんだと、ヴィリバルトは寂しげに語った。
「ユウナ、シュトラエルの家まで送って行こう。辛いだろう? 歩ける? 抱いて行こうか?」
優奈は顔を真っ赤にして、首をぶんぶんと横に振った。同時に、彼の言葉がパンケーキは今度でいいと暗に示していることにも気づく。
「あの、私、平気です。ビスケットとお茶で元気になりましたから」
無理はしないでくれと言われたけれど、買い物までお世話になって、何もしないまま帰るわけにもいかない。優奈は妥協案を提案した。
「もしよろしければ、ヴィリバルトさんも手伝ってくれませんか?」
「パンケーキ作りを?」
自分にも手伝えるのかと聞かれ、こくりと頷く。
「わかった。上手くできるかわからないけれど、手を貸すよ」
「よろしくお願いいたします」
優奈は腕まくりをして、エプロンを探す……が、そんな物などないと言われてしまい、苦笑いを浮かべながら調理に取りかかった。
さっそく材料を手に取る。計量器がないので磁器のカップを使い、小麦粉と砂糖を目分量で量った。
それが終わったら、卵を黄身と白身に分ける。白身に砂糖を入れて、泡立て器で軽くかき混ぜた。
「こんな風にして、中身がフワフワの白いクリームみたいになるまで混ぜてもらえますか?」
ヴィリバルトが卵白を泡立てている間、優奈は黄身に牛乳を混ぜて生地の準備をする。
「ユウナ、まだ?」
「はい、もっとです」
ヴィリバルトは一生懸命卵白を泡立てている。慣れない作業に苦戦しているようだった。
ハンドミキサーがないとメレンゲを作るのは大変そうだなと考えながら、優奈も手が空いたので、声をかけてみる。
「私がやりましょうか?」
「大丈夫。ユウナは座っていて」
そう言われて、まだ少し眩暈を感じていた優奈はお言葉に甘えさせてもらう。
数分後、ヴィリバルトは見事な角の立つメレンゲを作り上げた。
「これでいい?」
「はい、ありがとうございます。お上手ですね」
礼を言って受け取ると、ヴィリバルトは嬉しそうに微笑んだ。それを横目に、優奈は生地作りの仕上げを行う。
メレンゲに黄身と砂糖を合わせ、小麦粉を篩って混ぜる。ポイントはさっくりと混ぜること。こうするとメレンゲが萎みにくくなるのだ。生地が完成したら、フライパンに油を引き、温める。
「ヴィリバルトさん、これ、火の勢いを弱くできますか?」
ヴィリバルトは「任せて」と言い、オーブンに書かれてある呪文の一つをなぞった。すると、強火だった火が中火に変わる。フライパンが温まったのを見計らって、生地を落とした。じゅわりと、生地の焼ける音と甘い香りが漂う。フライ返しで何度か裏返し、中まで火が通ったら完成。バターをカットし、パンケーキの上に載せる。
ここで、優奈はハッとなる。蜂蜜を買い忘れたのだ。そのことを、ヴィリバルトに伝える。
「ああ、蜂蜜ね。今、手に入りにくいんだ」
「そうなのですか?」
「残念なことにね。国内唯一の産地が嵐の被害に遭ったせいで高騰して、この辺りは流通していないんだよ。たぶん、王都の貴族が買い占めているんだと思う」
シュトラエルの家にあったのは、きっと嵐の前に買った物だったのだろう。ならば申し訳ないが、このパンケーキはバターだけで食べてもらうしかない。
机の上に置くと、ふるりと震えるパンケーキ。
「うわ、すごい、フワフワだ!」
見た目だけで、ヴィリバルトは感激しきっていた。正直、シュトラエルに作ってもらった物より厚さは薄かったが、喜んでもらえてホッとする。
「食べていいの?」
「どうぞ」
焼きたてのパンケーキを前に、ヴィリバルトは食前の祈りを捧げる。ナイフとフォークを掴み、そっとナイフを入れる様子を、優奈はドキドキしながら見守った。
一口大に切り分けたパンケーキを口にした瞬間、ヴィリバルトは目を見開く。そして目を煌めかせて、感想を語り出した。
「これ、すごいよ! 生地がフワフワもちもちで、甘すぎなくて、子どもの頃、シュトラエルに作ってもらったパンケーキと同じくらいおいしい!」
「あ、ありがとうございます。良かった……」
彼はあっという間に一枚食べきってしまった。じんわりと瞼が熱くなったのを自覚して、優奈は二枚目を焼くと理由を付けてヴィリバルトに背を向ける。
やはり、この地に来たのは間違いではなかった。優奈が欲しかったのは、コンクールで得られる実績や名誉ではなく、笑顔で「おいしい」と言ってくれる人達なのだ。
感極まり、途中から涙が止まらなくなってボロボロと泣いてしまったけれど、ヴィリバルトは気づかない振りをしてくれた。彼が二枚、三枚と食べ進める様子を、優奈は幸せな気分で見守る。
後片付けはヴィリバルトがやってくれた。いろいろと動き回れるだけの魔力が、まだ優奈に溜まっていないのを見越してのことだ。片付けを終えたヴィリバルトが、振り返りながら言った。
「――ユウナさ、シュトラエルのお店を継いでみる気はない?」
その言葉に、ドキンと胸が高鳴る。優奈はただただ、驚いた。できたらいいけれど、果たして体力が保つのか。それに、シュトラエルが許してくれるのかもわからない。そう言うと、ヴィリバルトは優しく笑った。
「そっか。そうだよね。まずは元気にならなきゃ」
自分の店を持つのは優奈の夢である。いつか叶えたいと考えていた。しかし、まずはこの世界の環境に慣れることが先決である。
「まあ、私のためだけに作ってくれてもいいけれど」
「そうですね。それくらいなら、私にもできるかも」
「本当? だったら、一緒に住む? なんだったら、ここじゃなくて――」
言葉を遮るかのように、扉がトントントンと叩かれる。続いて大きな声が聞こえた。
『すみませ~ん、うちのユウナ、いますよね~?』
アオローラだ。優奈はゆっくり立ち上がり、玄関へと向かう。するとそこには、アオローラだけでなく、なぜかシュトラエルの姿もあった。
「シュトラエルさん!?」
「ユウナがなかなか帰ってこないから、迎えに来てしまったよ」
にっこりと、手を差し伸べられる。
「ああ、すみません、ありがとうございます」
優奈はシュトラエルの温かな指先をぎゅっと握った。そこへ見送りに来たヴィリバルトの声がかかる。
「ユウナ、今日はありがとう、おいしかった」
「……おいしかった?」
シュトラエルは訝しげな視線をヴィリバルトに向けた。
「ユウナにパンケーキを作ってもらったんだ。彼女、菓子職人なんだって」
「あら、そうなのかい?」
シュトラエルは驚いた顔で優奈を見た。
「素敵だねえ。家に帰ったら、どんなお菓子が作れるのか教えてくれるかい?」
「はい。喜んで」
と、アオローラが不意に『ぶふっ!』と噴き出した。
「アオローラ、どうしたの?」
『だ、だって、ヴィリバルトが捨てられた子犬みたいな顔をしているから』
アオローラの言うとおり、ヴィリバルトはなぜか眉尻を下げた、情けない表情で優奈を見ていた。一人になるのが寂しいのだろうか。
「ヴィリバルトさん、また今度、お話ししましょう」
「ありがとう、ユウナ。では、また」
優奈はシュトラエルと共に手を振って別れた。
応援ありがとうございます!
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