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1巻

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   プロローグ


 目をつぶってもなお感じるほどの強い光。ここ――王城の大広間は、まばゆい光があふれ、輝いていた。
 広間の中央は、軽やかな音楽に合わせて紳士淑女しゅくじょ達がダンスを踊る場。
 そして、広間のあちこちに置かれたテーブルの上には、色とりどりの料理や飲み物が並んでいた。それらすべてに手間とぜいが尽くされている。
 今日は貴族院の卒業パーティー。貴族の子女が二年間教育を受ける貴族院は、この国の貴族に必要な知識と振る舞い、魔法の基礎を学ぶ場である。そして、貴族院を卒業すると、みんなはそれぞれの道へとその身を投じていく。
 私――レティシア・シャリエールも貴族院の卒業生としてパーティーに出席している。本来であれば、素敵な殿方とダンスをし、友人達と語らうはずだった。
 けれど、私にはそのどちらも叶わない。
 華やかなパーティー会場の素敵な雰囲気に水を差しているのは、他でもない私。
 私はシャリエール公爵家の令嬢で、この国の貴族の中では高い身分を持つ。
 今日のよそおいも、公爵令嬢にふさわしい華やかなものだ。高級な美しい布を使って、一流の職人にしか作れない、技巧をらしたドレスを身にまとっている。金色の髪はいつもよりつやが増し、光り輝いている。
 けれど、むしろその姿は滑稽こっけいだ。貴族院の卒業生である私の醜態しゅうたいを、浮き上がらせるための舞台装置にしか思えない。
 今、目の前には私の婚約者がこちらをにらみつけ、立っている。
 そして周囲の人々は皆、息を呑んで私達の様子をうかがっていた。
 先ほど婚約者が私に向けた一言が、このパーティー会場を静まり返らせたのだ。

「レティシア・シャリエール。俺がなぜこんなことを言うか、わかるか? 君は、俺の信頼を踏みにじり、シャリエール公爵家の名をけがした。その罪は許されるものではない」

 私の婚約者、ディオン・アレンフラールはそう言った。
 彼はアレンフラール王国における王位継承権第一位の王子だ。
 精悍せいかんな顔つきの彼は、怒りに満ちあふれた表情を浮かべている。
 父である国王譲りの金色の髪は、彼が怒りに震えているせいで揺らめいていた。迫力満点である。
 けれど私は、ここで引き下がる訳にはいかない。できるだけ自信ありげに、胸を張って答えた。

「あら? なんのことをおっしゃっているのかしら? 私にはまったく見当がつきませんわ」
「白々しい。そうやってしらを切るのもここまでだ。君が彼女――アンナ・マケール嬢に何をしたか、覚えてないとは言わせない」

 彼はそう言いながら、自身の背後をちらりと見る。そこには、可愛らしい令嬢アンナ様が立っていた。
 大きな瞳、小さな唇。色素の薄い髪も、透き通るような肌も美しい。抱きしめたら折れてしまいそうな華奢きゃしゃ体躯たいくは、男性の庇護欲をくすぐるに違いない。
 そんな彼女は、瞳をうるませながら、殿下の上着の裾をそっとつまんでいる。

「君が今まで彼女にした嫌がらせについて、すべて聞いた。証人もいる。言いのがれはできまい」
「そうですの……私の言うことよりも、その女を信じるというのですね」

 私は、やや大げさにため息をつき、どこか馬鹿にするように薄い笑みを浮かべた。その仕草がかんにさわったのだろう、ディオン殿下は声を荒らげた。

「くっ――、彼女の言葉が嘘だと言いたいのか!? どの口が言うのだ! 俺は君を信じていた! けれど、貴族院に入学してからの二年で、君はすっかり変わってしまったじゃないか! 裏切ったのは君だ!」

 大広間の中央で向かい合う――いや、にらみ合う私と殿下。
 誰が見ても一触いっしょく即発そくはつの事態。だが、これは私が望んだことだった。私の目論見もくろみがようやく叶う。
 もうすこしで終わりね。
 そう思いつつ、人をあざけるような表情を作る。そして、殿下とアンナ様を冷めた目で見ながら扇を顔の前で開いた。



「そうまでしてその女のことを――」

 必死に視線ににくしみを込めた。
 いつわりのにくしみだが、公爵令嬢である私がかもし出す険悪な空気に、周囲の人々は青ざめる。

「もういいですわ……すべて殿下の言う通りです。私はその女に嫌がらせをしていました。それで? それがなんだというのです?」

 私の言葉にディオン殿下が眉をひそめる。

「――何?」
「男爵家の令嬢ごとき、どう扱っても構わないではないか、と言ったのです。所詮は有象無象うぞうむぞう。公爵家の令嬢である私とは住む世界が違うのですよ」
「そ、それは本気で言っているのか?」
「本気も何も、事実ではありませんか。殿下にらがる虫を追い払った。ただ、それだけのことでございます」

 そう言って私は笑う。
 愉快そうに、楽しそうに。そんな表情とはまったく逆の思いを抱いているせいで、心は今にも張り裂けそうだけれど。

「ふざけるな! そのようなこと! 見損なったぞ、レティシア!」

 殿下は、顔を真っ赤にして私に詰め寄ってくる。今にも殴りかかってきそうなほどの剣幕に、思わず体を縮こませた。

「君との婚約は破棄する! そのようなことを平気でぬかす者と結婚するなど、虫唾むしずが走る! 二度と、俺の前にその姿を見せないでくれ!」

 彼の叫び声は大広間中に響きわたった。
 この場に来ていた貴族達全員が、この宣言を聞いたことだろう。殿下はアンナ様の手を取ると、さっさと大広間を出て行った。
 ……これで、私が二年間こつこつと頑張ってきたことが、実を結ぶ。
 きっとこの国は、まだ命をつなぐことができるだろう。そのために、私は殿下との婚約を破棄したかったのだ。
 これが私の貴族としての役目。頑張ってよかったのよ。
 そう自分に言い聞かせるものの、私の頬にはいつのまにか涙が伝っていた。その涙を止めるすべを私は持たなかった。
 こんな姿を人々に見られたくなくて、私はバルコニーに出た。
 私と殿下が会場を去ったからか、音楽が再び聞こえてくる。ざわめく声も徐々に響きはじめる。
 このままダンスの時間が過ぎれば、あとは国王陛下から祝いの言葉をもらい、卒業パーティーは終わりだ。
 その時、この国の宰相であるお父様と顔を合わせることになる。気まずいことこの上ない。きっと、さっきの話はすぐにお父様の耳に入るだろう。
 暗い気分で夜風に当たる。しばらくすると、音楽が途切れた。そろそろパーティーはお開きだ。
 行きたくないな。
 心の中でつぶやき、私はそっと大広間に向かう。足取りは重い。爽やかな夜風に後ろ髪をひかれながらも、重苦しい空気が充満しているパーティー会場に足を踏み入れる。
 意を決して顔を上げた瞬間――悲鳴が聞こえた。
 陛下が使う出入口のあたりに、人々がらがり、ざわめいている。

「何か……」

 私も慌てて駆け寄る。するとそこには、床に倒れた国王陛下と、その横で声を張り上げるお父様の姿があった。

「術師を! すぐに治癒ちゆ術師を呼べ!」

 お父様の叫び声が耳を貫く。治癒ちゆ術師は、治癒ちゆ魔法を使い体をいやす者だ。
 お父様の叫び声は、聞いたことがないほど鬼気迫ききせまっている。次第に周囲のざわめきも大きくなっていく。
 お父様の様子に不安を掻き立てられる。さらに陛下の顔を見て、その不安はふくれ上がった。
 陛下の顔は蒼白で、体はぐったりとしており、胸も上下していない。明らかに息をしておらず、陛下の命は風前ふうぜんともしびだ。

「陛下! 陛下ぁ! おい! 術師はまだか! このままでは陛下がっ」

 お父様は必死に陛下の体を揺すっている。だが、お父様に抱きかかえられた陛下の腕はだらりと垂れ下がり、揺さぶられるがままに揺れている。
 見る者すべてが棒立ちになり、動けない。治癒ちゆ術師もまだ来ない。事は一刻を争っていた。
 そんな中、お父様が近くのさかずきを手に取り、陛下の口に水を入れようとする。具合の悪い者には水を飲ませるのがよいと考えたのだろう。
 けれど、意識のない者にそんなことをしても意味はない。意味はないのだ――

『まずは呼吸と心拍をどうにかしないと! すぐに心肺蘇生しんぱいそせいを!』
「いっ――」

 訳のわからない声が頭に響いた。同時に頭を金づちで殴られたような衝撃に襲われる。

『ほら! すぐに心臓マッサージをして! しんマよ、早く!』

 何よ、この声! 訳のわからないことを言って! 
 声が頭に響くたびに、痛みが全身を貫く。
 やめて! やめてよっ! 

『助かる人を死なせるの!? 私がやらなくて誰がやるのよ! 早くやるのよ! 陛下を見殺しにしていいの!? いい訳ないでしょ!!』

 全身を痛みにさいなまれ、聞き慣れない声も陛下のことも考えられなくなっていた。視界はぼやけ、やがて白く染まっていく。
 同時に、痛みの奥底から何かがふくれ上がっていき、押し潰されそうになった。
 自分を守ろうとみずからの体をぎゅっと抱きしめる。
 次の瞬間、そのが弾けて全身に広がった。
 ――そうしてようやく、私は苦しみから解放された。
 目を開ける。
 痛みを感じていた時間はとてつもなく長く感じた。けれど、目の前の光景は何一つ変わっていない。
 蒼白な顔の陛下と、慌てふためくお父様。棒立ちになっている貴族院の面々や、護衛達。
 それらを見て、急に苛立いらだちが湧いてくる。なぜなら、には、何をすべきかわかるから。
 そう……前世の記憶を取り戻した、今の私には。
 何、ぼーっと突っ立ってんのよ! 早く処置しないと、陛下が死んじゃうじゃない! 
 普段ならば理性で抑え込む苛立いらだちが、感情の前面におどり出る。私は、取り戻した記憶を頼りに動き出した。
 淑女しゅくじょとしての体裁を気にする余裕はない。
 今は、目の前の命に向き合わなければ。そう思い、私はすぐさま床を蹴った。

「お父様、どいてくださいませ!」
「なっ、何をする!? 貴様は――っと、レティシア!? いきなり何を!」

 陛下を抱きかかえているお父様の肩を強く掴んだ。すると、必死の形相で振り返ったお父様と目が合った。
 今は説明してる時間なんてない。
 私は、まくしたてるように言う。

「陛下を床に寝かせてください!」
「いきなりなんだ? いくらお前でも陛下の一大事――」
「体を揺さぶるほうが陛下にとって負担です! とにかく今は、床に寝かせてくださいませ。急いで、お父様」

 自分でも驚くほど冷たい声が出た。
 じっと見つめていると、お父様はごくりと唾を呑み込んだ。そして小さくうなずき、私の指示に従ってくれる。

「倒れてから、どれくらい経ちましたか? 一分ほどですか?」
「あ、ああ。まあ、それくらいだろう」

 お父様の返事を聞きながら、私は陛下をる。

「えっと……呼吸なし、脈は、頸動脈けいどうみゃくは……だめ、れない。すぐに心臓マッサージをはじめます! お父様! 人払いと清潔な布をお願いします!」
「そ、そんな物で、何を……」
「いいから! 早く! 陛下を見殺しにしたいのですか!? お父様、私は陛下を救う方法を知っています! やらせてください!!」
「くっ――わかった。そこの者! 清潔な布を持ってこい! 他の者達はすぐここから出るのだ! 早く! 急ぐのだ!」

 お父様は近くの侍女達に指示を出す。宰相であるお父様の声が会場に響くと、貴族院の面々はすぐさま外へ向かっていく。とはいえ、護衛の人達は近くにいる。私が横たわる陛下の上にまたがろうとすると、護衛が慌てて近づいてきた。

「宰相閣下のご令嬢とお見受けしますが、陛下に何をするおつもりか!?」
「邪魔をしないで!!」
「しかし!」
「今こうしている間にも、陛下の命は失われつつあるのです! 私に何もさせたくないのなら、あなたが陛下の息を取り戻しなさい! それができないのなら、大人しくしていて! 今、私の邪魔をして陛下の命を救えなかったら、あなたに責任が取れるのですか!?」

 私の言葉に、押し黙る護衛達。そこでお父様が助け船を出してくれた。

「すべての責任は私が取ろう。だから、レティシアのやることを邪魔しないでくれないか」
「宰相閣下がそうおっしゃるなら……」

 護衛達はゆっくりと引き下がる。
 あぁ、今のでどれくらいの時間を失ったのか。
 それを考えると焦ってしまう。しかし、一つずつ、確実にやるしかない。
 私は、陛下に向き直った。
 やはり、息をしていない。
 私は陛下の胸に手を置いた。――胸骨の先、剣状けんじょう突起とっきから指二本分上。そこが圧迫すべき箇所である。
 私は体重をかけて、強く速く、そこを押した。
 その時、お父様の右手が私に伸びてくる。だが、途中で止まった。私と目が合ったからだ。
 おそらく、お父様は私を止めたかったのだろう。知識がない人からしたら、私がやっていることは陛下を傷つけているように見える。意識がない人間の体を圧迫しているのだから。
 けれど、今止められては陛下を救えない。助かる可能性がある命を手放したくない。
 私は心臓マッサージをしながらお父様と視線を交わす。
 しばらくして、お父様は無言で静かに手を下ろすと、歯を食いしばった。どうやら見守ることにしてくれたようだ。
 うん、ありがとう、お父様。あとは、陛下を救うだけ――
 心の中でつぶやきながら、私はひたすら陛下の胸を押し続けた。そのたびに、陛下の体が揺れ、口からはお父様が先ほど飲ませた水が噴き出す。顔色はまだ悪かった。

「陛下、戻ってきてくださいませ! 生きてくださいませ! 陛下はまだこんなところで死んでいい人じゃない!」

 そうこうしているうちに、人払いは終わったらしい。残っているのは、陛下と宰相であるお父様と私と護衛達。そして侍女や召使い達だった。
 それを確認した私は、清潔な布を持ってきてくれた侍女を呼ぶ。
 布越しだから、ノーカウントよね? 
 そんな悠長なことを考えながら、侍女に頼んで、軽く口を開けた時くらいの大きさの穴を布の中央にあけてもらう。
 準備が整うと、私は陛下の顔に布をかけた。陛下の口と布の穴の位置を合わせる。そして、布越しに唇を重ね、一気に息を吹き込んだ。

「んなぁぁ!?」

 馬鹿みたいな声を上げるお父様。しかしそれには構わず、私は唇を離すと、再び陛下の胸を押した。お父様はもう何も言えないのか、私は止められることなく心肺蘇生しんぱいそせいを続ける。
 心臓マッサージ三十回に、人工呼吸を二回。それを続けているうちに、私は汗だくになっていく。噴き出る汗が、陛下の青白い顔にしたたり落ちる。
 そろそろ、私の体力も限界に近い。そう感じつつ、祈るように陛下の口に息を吹き込む。
 ――すると、陛下は唐突にむせて咳きこんだ。目もうっすら開いている。
 心肺蘇生しんぱいそせい、無事に成功だ。
 次の瞬間、私は床に座り込んでしまった。息は荒く、胸の鼓動が頭に響いてうるさい。
 まだ予断は許さないけど、今、私ができることをげたのだ。
 言いようのない充足感に、全身の力が抜けていくのがわかった。
 そのうちに、後ろから数人が駆け寄ってくる足音が聞こえる。振り向くと、そこにはローブをまとった男達が立っていた。おそらく治癒ちゆ術師だろう。
 その場を彼らに明け渡すと、途端に睡魔に襲われた。
 私はそのままパタリと後ろに倒れてしまう。頭痛はまだ続いているし、あれだけ心臓マッサージをしたのだ。疲れて当然である。
 あー、疲れた。ビール飲みたい。
 ん? ビールってなんだっけ? そう思いつつ、私は意識を手放したのだった。
 ぐぅ。



   第一章 目を覚ましたその後


 目を覚ますと、見慣れた天井が布越しに目に入った。
 光がける繊細せんさい刺繍ししゅう付きの天蓋てんがい。私にかけられた柔らかな肌掛け。
 どうやら私は、自室のベッドで横になっているらしい。寝返りを打ち、どこまでも沈んでいきそうなほどに柔らかいベッドに顔を押しつけた。
 あぁ、腕がだるい。両腕が痛む。
 なぜだろうと考えて、陛下に心臓マッサージなるものをやりまくったことを思い出した。
 ――うん。やっぱり間違いないみたい。
 自分自身の感覚だけが頼りだけど、あの時感じたは、今も体の中に残っている。
 自分でも信じられないくらいだ。陛下が倒れた時に弾けた何かが、前世の記憶だったなんて。
 あの瞬間に押し寄せたのは、誰かの記憶。――レティシア・シャリエール以外の、人生の記憶だった。
 名前は思い出せない。けれど、『私はかつてこうやって生きていた』と、記憶を取り戻した瞬間に確信した。これは前世の記憶に違いないと。
 前世の私は大学病院で看護師として働いていた。その記憶のおかげで、心肺停止におちいった国王陛下に心臓マッサージと人工呼吸をほどこすことができたのだ。
 ベストなタイミングで記憶が戻ってありがたかったが、自分でもまだ信じがたく、落ちつかない。なぜなら、前世の記憶が戻ったとはいえ、私がレティシア・シャリエールであることに変わりないから。
 十八年間生きてきた今世の自分に、前世の記憶と経験が上積みされたようなこの感覚は、一言では表現しにくい。
 そんなことをぼんやり考えていると、遠慮がちなノックが耳に届く。

「お嬢様。起きておいでですか?」

 私付きの侍女――シュザンヌ・グノーの声だ。私は短く返事をする。

「ええ」
「では失礼いたします」

 そっとドアを開けたシュザンヌは、私の顔を見るやいなや、笑み崩れた。
 シュザンヌはとても可愛らしい女性だ。付き合いは十年近くになり、他の侍女たちと比べると、いくらか気安い関係だと思っている。私より七歳も年上なのに、彼女の見た目の年齢は私とほとんど変わらない。薄茶色の髪を後ろで束ねた彼女は、ほほ笑んだまま中に入ってくる。

「おはようございます、お嬢様。ご気分はどうですか?」
「おはよう、シュザンヌ。そうね、大分いいわ。昨日はみんなに随分迷惑をかけちゃったわね」
「そうですよ。運ばれてきたお嬢様を見て、みんな慌てていました。しかも、全然目を覚まさないんですから。あんまり心配かけないでくださいませ」
「悪かったとは思ってるわ。それで、教えてほしいことがあるんだけど――」
「陛下はご無事ですよ。ご安心を」

 シュザンヌは、さっそく私の身支度をはじめつつ、一瞬こちらに視線を向けると疑問に答えてくれる。それを聞いた瞬間、私はようやく緊張がほどけた。

「はあぁぁ。よかったぁ。陛下を助けられなかったら、どうしようかと思ってたのよ」
「駆けつけた治癒ちゆ術師の方々がご尽力されたとか」
「お父様も一安心ね」

 気分がよくなった私は窓の外を見る。
 今日は天気がとてもいいようだ。私の心も晴れやかである。

「いきなりですが、いつもと変わらずお嬢様の髪はとても美しいですね」

 私の髪をいながら、なぜか褒めてくれるシュザンヌ。突然の言葉に、顔が熱くなる。

「と、突然何よ。褒めたって、何も出ないわよ?」
「何も期待しておりません……。ああ、お嬢様の金髪が波のようにうねり、日の光を浴びてきらめいている。まるで金色こんじきの川の流れ。唯一無二のものでしょう」
「だから何を――」
「エメラルドのような瞳も、白い肌も、細く引き締まった肢体も、どれもが公爵令嬢にふさわしく美しい。常と変わらずのご様子です。まさしく淑女しゅくじょかがみと言われるのもうなずけますね」

 シュザンヌの誉め言葉に、私は思わず口ごもる。シュザンヌは普段、それほど私を褒めない。一体、どうしたのだろうか。
 ついつい、腰回りに手を伸ばして体を確認してしまう。うん、いつも通りだ。

「……それにもかかわらず」
「なに?」
「私の知らないうちに、お嬢様の内面は変化なさったのですね。お嬢様は、どこで医学をお学びに? 治癒ちゆ術師の方も驚いていましたよ。あの状態から陛下が息を吹き返すなど奇跡だ、と」

 私のドレスを準備しながらシュザンヌはさりげなく聞いてくる。
 胸がドキッと騒ぐ。まさか、『前世の記憶を思い出しまして』とは言えない。私は咄嗟とっさに誤魔化してしまう。それが悪手と知っていながら。

「え、えっと? たまたま? そう、たまたまよ! 以前、何かの本で読んだことをやってみただけよ。別に珍しいことじゃないわ」
「そうなんですね。ご主人様も、治癒ちゆ術師の方も誰も知らなかった対処法を、お嬢様は本で読まれたと。もしよろしければ、その本を教えていただいてもいいですか? 私も後学のために学んでおきたいと思います」
「その、あの、その本は貴族院で見たもので、どんな物か覚えていなくて……」
「そうですか。でしたら、貴族院の司書に聞けばわかりますね。問い合わせてみます。シャリエール公爵家の名を使えば、すぐに調べてくれることでしょう。お嬢様の博識に感嘆する思いです。それと、先ほどからうかがいたかったのですが……」
「ななな、なに?」
「その医学知識と、すこしばかり砕けた口調は、何か関係があったりするのでしょうか?」

 まったくこの侍女はーーー!! 
 私は心の中で叫んだ。シュザンヌは昔からこうだ。私の変化をすこしも見逃みのがさない。
 十年前に初めて会ったころから、彼女は優秀だった。侍女に求められる基本的な能力を備えているのは当然のこと、些細ささいな感情の揺らぎや心の変化を察するのが得意だったのだ。
 小さいころから、嘘やごまかしはシュザンヌにすぐにばれてしまい、その度に怒られてきた。当然今回の件も隠しきれるはずがない。
 彼女は、私が何かを隠し、結果、手助けできないことが嫌なのだという。
 そう言われると、私も何も言えなくなってしまう。
 だけど、このじりじりと追いつめるような言葉責め! 心臓に悪いから、これだけはやめてほしい!
 もちろん、シュザンヌに嘘をついていることは申し訳なく思う。でも、しょうがないじゃない! 前世の記憶が戻ったなんて、言えない。信じてもらえる訳がないから。
 かつての私は、看護師だった。医師や同僚と仕事をしながら、時に笑い合い、時にぶつかり合いつつ患者に向き合う日々を送っていた。
 そして私生活は――とてもじゃないが、上品とは言えない生活だった。
 具体的に言うと……夜勤明けに昼間から飲みにいったり。そのまま夜まで飲み屋に居座ったり。かと思えば、友達の誕生日やイベントの時にはホテルビュッフェでスイーツを死ぬほどお腹に詰め込んだり。彼氏に振られた時は、デパ地下でたくさん買い物をしてやけ食いしたりもしていた。それはもう普通の……うん、普通の女子だったのだ。
 その時使っていた言葉遣いは、砕けたものが多い。外面そとづらつくろうことは、今世で学んできた礼儀作法を駆使くしすれば可能だろう。しかし、こうして気心の知れた侍女の前では、咄嗟とっさに自分をいつわれなかったようだ。
 あと……、もうすこし言うと、やっぱりつらい。
 前世の記憶を取り戻し、私の心は後悔と悲しみと恐怖でいっぱいだった。
 かつての私は幼少のころ、病気にかかっていた。一時は命があやういと言われたこともあったが、お医者様方のおかげで、無事完治。それがきっかけで、看護師になったのだ。
 けれど、治ったはずのやまいは大人になって再発した。
 徐々に役職がついてくる中堅看護師。仕事への自信がつき、やりがいを感じる時期――私の記憶は、そんな三十代半ばで途切れていた。おそらくそこで、病気で命を落としたのだろう。
 そのショックがぬぐえず、平静を保てなくなっているらしい。

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