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1巻
1-2
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私を気にかけてくれる侍女の思いを嬉しく思いつつ、この場をどう切り抜けようか思考を巡らせた。けれど、すぐに妙案は浮かばない。どうすればいいんだ? どうすれば――
「……さま? お嬢様?」
シュザンヌに声をかけられ、慌てて顔を上げる。
「え!? 何?」
「どうしたのですか? 突然黙ってしまわれて。何度声をかけても聞こえていないようでしたわ。もしかして、まだご気分が悪いのですか?」
「いいえ、そうじゃ――って、そうなのよ! まだ昨日のことですこし混乱してるみたいでね! だから、きっと言葉遣いも乱れちゃったのかなぁ、みたいな?」
「……みたいな?」
私を見るシュザンヌの目が冷たい。
私だってわかっている! この言葉遣いが淑女らしくないってことは。でも、出ちゃうものはどうしようもない。そう、どうしようもないことなのだ。
そうやって無理やり自分を正当化しつつ、なんとかこの場を切り抜けようと私は話題を変える。
「あら、そういえば、食事の準備はできているかしら? 昨日の夜は何も食べていないから、お腹がすいてしまって」
「え? あ、はい。すでに準備は整っております。もう召し上がりますか?」
「お願い」
私の身支度は、いつのまにか整っている。すべてシュザンヌがやってくれたのだ。やっぱりシュザンヌはすごい。
食堂に行こうと部屋を出た私は、前を歩くシュザンヌの背中を見ながら、ほっと胸を撫で下ろした。
前世について話すのは、もうすこし待ってね。私もまだよくわかってないから。ごめんね、シュザンヌ。
信頼する侍女に心の中で謝罪をしながら、食堂を目指した。
そして、間もなく食堂というところで、シュザンヌが完璧なほほ笑みを浮かべて口を開いた。シュザンヌの背後に黒いオーラのようなものが見えるのは、気のせいだろうか。
「中でご主人様がお待ちです。昨日のことで、話したいことがあるそうですよ。やすやすと誤魔化されてくださるご主人様ではございませんので、覚悟された方がよろしいかと。それでは、ごゆっくりお過ごしください」
やっぱり気のせいじゃなかった。私の気分は再び沈んだのだった。
「失礼します」
食堂のドアをノックして開ける。目に飛び込んできたのは白いクロスのかかったテーブルと、その上に並べられた料理の数々だった。色とりどりの料理は、食欲をこれでもかと煽ってくる。
魅力的な料理の奥には、席に着くお父様の姿が見えた。
お父様は目の前の料理に手をつけず、何やら書類に目を通している。給仕はそれを見守りながら横に控えていた。
私が食堂に入ると、お父様はちらりとこちらを一瞥する。
「お待たせいたしました」
「いや、来たばかりだ。誰か、レティシアの食事を頼む」
お父様はそう言うと、給仕を促した。
お父様はこの国の宰相で、まだ四十歳になったばかりだ。この若さで宰相になったのは、お父様が初めてらしい。
先代の宰相――おじい様が体を壊して隠居されてから、お父様はあとを継ぐようにその役目を引き受けた。若さ故に批判を受けることも多いみたいだけど、お父様はそれを撥ね退けるほどの功績を上げ、立場を維持しているみたい。
私と同じ金髪をオールバックにし、露わになっている額には年相応のしわが刻まれている。そんなお父様の真剣な表情を見ながら、私は向かいの席に腰かけた。
間もなく給仕が配膳を終え、いつのまにか部屋にいるのは私とお父様だけになっていた。えっと、これって人払いされているってこと?
どんな話をされるのか……。想像するだけで気が重い。あぁ、嫌だな。
「レティシア。よく眠れたか? 昨日はパーティー会場で倒れてから起きなかったと聞いたが」
「はい。そのようですが、朝はすっきり目覚めることができました。体も大丈夫です」
「そうか。それで……お前にいくつか聞きたいことがあってな。パメラとミシェルはもうすこししたら来ることになっている」
「はい」
パメラはお母様、ミシェルは弟の名だ。二人には聞かせたくない話ってことか。
「ディオン殿下に婚約を破棄すると言い渡されたそうだな?」
「ええ」
「しかも、その原因はお前にあるという。どういうことだ?」
うん。当然、この質問は来るよね。
なんと答えたものか……。そういえば、考えておかなかった。
私は、すこしばかり考え込み、お父様と視線を合わせながら答える。
「まったく弁解のしようがありませんわ。殿下のおっしゃることは事実です。嫉妬にかられた私は、アンナ様にこれでもかと嫌がらせをしてきたのです。それに嫌気がさしたのでしょう。殿下のお心は、私を受け入れるには狭すぎたようですわ」
「殿下もそうおっしゃっていた。貴族院のパーティー中に陛下のもとに来てな。ひどく怒っていたぞ」
「それならば私に確認する必要はないでしょう。殿下は、嘘をつけるお方ではありませんから」
「……うむ」
とりあえずは事実確認、というところだろうか。
「それで? お話は以上ですか?」
「いや。お前がどういうつもりであんなことをしたのか、私にはわからなかったのだよ。だってそうだろう? お前とディオン殿下の婚約は、ずっと前から決まっていた。いずれ殿下に嫁ぐことになるのだから、王太子妃――将来的には王妃になるつもりで努力してきたはずだ。それを、嫉妬にかられて棒に振るなど、今までのお前からは信じられない」
「あら、嫌だ。女の嫉妬はとても恐ろしいのですよ?」
私がそう言ってほほ笑むと、お父様は顔を苦々しくゆがめる。
本当は別の理由があるが、そんなことお父様には言えない。言える訳がない。
これで誤魔化されてくれるといいのだけれど……
私が完璧な笑顔をキープしていると、お父様は根負けしたらしい。
「うむ……まあ、いい。この件は以上だ。間違いがないならその上でいろいろと考えるしかないな。王家との婚約が破談になった原因が、我がシャリエール家にあるということは、非常にまずい。レティシアは、事の重大さをしっかりと認識しなさい」
「はい、お父様」
お父様には悪いことをしちゃったけど、これで傾くほどシャリエール公爵家は脆弱ではない。宰相であるお父様のおかげで、このアレンフラールでは強い影響力を持っている。
私自身が、国に関わることはもう無理だろうけど、私さえ処分すれば、きっと問題ない。
「レティシア、聞きたいことはまだある。昨日の陛下のことについて、詳しく聞かせてもらおうか」
「はい」
「単刀直入に聞くぞ? 昨日のあれはなんだ」
突然、お父様の怒気が増す。私は訳がわからなくて、首を傾げた。
どうしてお父様が怒るのだろう。怒るポイント、どこかにあったかな? 陛下の命が助かったんだからいいじゃないか。
私が首を傾げていると、お父様は低い声で言葉をつなげた。
「陛下になんだ、その、突然だな……あれだ、せ、せせせ、接吻などして! 陛下にあのようなことをして、一体なんのつもりだったんだ!」
実の娘に言うのは、すこしばかり憚られる内容なのだろうか。お父様は、顔を赤くしながら顔をそらしている。なんだか可愛い。接吻って言うくらいで照れるとか、いくつだよ、お父様。
「ああ、あれですね。あれは、救命措置の一環で、人工呼吸というものです。息が止まっていた陛下に無理やり息を吹き込み、肺に必要な空気を入れました。陛下の命をおつなぎするために必要だったのですよ」
「接吻がか!?」
だから、人工呼吸だって言っているのに。私はムッとして眉をひそめた。
「キスなどではありませんよ。そんないやらしいこと、娘に向かって言うものではありません」
「い、いやらしいだと!?」
「陛下が倒れたあの時、すでに息をしておらず、心臓も止まっておりました。ですから、私は体の外から陛下の心臓を動かし、空気を吹き込んだのでございます。そうしなければ、陛下の命はなかったでしょう。もちろん、ああいったことをするには人目があるといけません。ですから、人払いをお願いしたのです」
「う、ん? そうなのか。まあ、話を聞くと納得できるが……。しかし、未婚のお前が陛下に接吻をするなど――」
「キスではありません。人工呼吸です。しかも布越しですよ? そんな風に考えないでくださいませ!」
「ぬぅ」
お父様は眉間のしわを深くする。だが、しばらくすると、ようやく受け入れたのだろう。大きくため息をつきながら表情を緩めた。
「まあ、治癒術師も、陛下は本来ならば亡くなっていてもおかしくないと言っていたからな。お前の言うことは間違いじゃないのだろう。そうなると、陛下はお前に救われたのだな?」
「いえ。治癒術師の方が尽力された結果でしょう」
「謙遜する必要はない。助かった、レティシア」
「はい」
ようやく小さな笑みを浮かべたお父様に、私も笑顔で応じる。
緊張が解けたのか、お父様はようやくカトラリーを手に取り、ゆっくりと食事をはじめた。その様は、まさに貴族といった感じ。
私ももちろん教育を受けているため、完璧な作法を身につけている。だが、なぜだか自分の動作にとても違和感を覚えた。まるで、自分じゃない何かが動いているみたい。
その違和感を振り払おうと食事に集中していると、お父様は考え込むように首を傾げていた。そして、思わずといったように疑問を漏らす。
「だが……なぜレティシアは陛下を助ける術を知っていたのだ? 治癒術の使えないお前がなぜ、それほどの知識を」
その言葉に私の手は止まる。
予想していた質問だったけれど、模範解答など用意していない。さきほどのシュザンヌとのやりとりと同様、ただ誤魔化すことしかできない。
「えっと……なんていうか。――そうっ! 倒れている陛下を見てたら、咄嗟に思いついたんです! 偶然です! たまたまです! 単なる思いつきです!」
「ふむ。思いつきで陛下にあのようなことをしたというのか?」
お父様の眉間にしわが寄る。っていうか、怖いから! なんて言えば納得するのよ、もぅ!
「いえ、そういうわけではなくて、急に声が聞こえて――って、あら? そんなことより、お食事が冷めてしまいますわね。早く食べなくては、料理人達に申し訳ないわ、ねぇ? お父様。ほほほ」
私は、とにかく話を逸らすことにした。
「いや、そんなことより――」
「まぁ! 今日のサラダは特別においしいわ! 普段通りの味と野菜がたまらなく素敵! お父様もそう思わないかしら? ほらほら、時間も無限にあるわけではないのですから。さぁさぁ、急いで食べてしまいましょう」
とにかく勢いで押し切ろうと躍起になった。なんだかとんちんかんなことを言った気がするが、構っている場合じゃない。
当然、お父様は怪訝な表情を浮かべていたが、しばらくすると小さくため息をついて、食事を食べはじめた。
ふぅ。これで追及は免れたかな? ようやく私も料理を味わうことができる。うん、今日も本当においしいわ!
「しかし声が聞こえただと……? まさか神から神託でも受け賜ったのか……」
お父様は、食事の手を止め、ぶつぶつと何かを呟いている。もしかして、ご飯いらないの? いらないなら、もらっていいかな?
「それとも、あの神のような所業……レティシア自身が女神の生まれ変わりなのかもしれない……」
いいよね? その厚切りベーコン、もったいないから私が食べてあげる。
私がベーコンをかすめ取ろうとした瞬間、お父様はすっとそれを食べてしまう。
私が愕然としていると、まだ話は終わっていないとばかりに口を開いた。
「まあ、陛下の件は助かったのだからいいとして……殿下の件に関しては、このままという訳にもいくまい。謹慎処分を言い渡す」
その強い言葉に、私は固まる。しかしお父様は優しい表情を浮かべていた。
「殿下に失礼を働いたお前を処分しない訳にはいかない。お前のした行いは恥ずべきことだが……何か考えがあったのだろう? それに、お前は陛下を救ったのだ。不敬罪に問われはしまい。しかし、この王都では過ごしづらいだろう。よかったら本宅のほうでしばらく体を休めたらどうだ? その間に、事実確認を含めてこちらでうまくやっておく。悪い話ではないだろう?」
お父様が私のことをわかっていてくれたことに驚く。そしてその気遣いに、感謝の気持ちでいっぱいになった。
「本宅へ?」
「ああ。私は王都を離れられないが、お前は貴族院を卒業したのだ。卒業後に結婚する話は白紙に戻ったのだから、羽を伸ばしてもいいだろう。お前が望めばすぐに手配するが……どうする?」
本宅。それは、シャリエール家の領地にある我が家のことだ。幼少のころはそちらで生活していたけど、貴族院に通うにあたって、王都にある別邸に居を移した。こちらに来て二年も経ったが、やはり生まれ育った本宅のほうが馴染みは深い。
加えて、王都にいれば嫌でも他の貴族と関わらなければならない。淑女として、そして公爵令嬢として、お茶会などの社交に誘われたら、行かない訳にはいくまい。
殿下に婚約破棄を言い渡された私への風当たりが強いのは間違いない。噂話が届かないほど遠い地にある本宅は、今の私には天国のようなものだ。
それに、本宅なら人目を気にしないで、ゆっくりできるんじゃないだろうか?
私は生まれてからずっと、王妃になるための教育を受け続けてきた。幼いころから勉強で部屋に缶詰にされ、貴族院に行っていた間は、勉学と魔法の実技の予習で忙しかった。
前世では、忙しい仕事の合間に旅行に行ったり、働いた後にビールを楽しんだりしたけど、やっぱり長期間のんびりすることなんてなかった。
もしかして、これからの私の生活って、本当に天国だったりする!? 前世からの夢だった、ぐーたら生活が実現しちゃうのか!?
それならば断る理由などない!
すべては導かれるままに。多忙だった前世の分も、今世の分も、やりたい放題したっていいじゃないか! レッツ! ぐーたらぁ!
思わず、飛び上がりそうになる体を理性で抑え、それこそ淑女らしい上品な仕草で礼をした。
「お父様。お心遣い、ありがとうございます。確かにそのほうが、私もゆっくり休めるかと思います。お願いしてもよろしいですか?」
「ああ、わかった」
そう言って優しくほほ笑むお父様が、私には神に見えた。
こうして私は、天国への切符を手に入れたのだった。
第二章 来訪者の思惑
シャリエール公爵家の領地。
そこは、王都から馬車で二日と、比較的近い位置にある内地だ。農耕地が大半を占める広い領地である。
本宅は、領地で一番大きな街からすこしだけ離れた地に立つ。喧騒から離れた静かな環境は、確かに療養にふさわしい。
本宅に着いた私を迎えてくれたのは、執事であるドニと、召使い達だ。
今まで私達家族が生活していたのは王都にある別邸。
今もお母様と弟は別邸に住んでいる。
つまり、本宅にいる公爵家の血縁は私だけということだ。それが何を意味するかというと、私が本宅のヒエラルキーのトップ。最高権力者なのだ!
「シュザンヌ。ワインのおかわり持ってきてー」
本宅にやってきて早一週間。テラスでデッキチェアに座り日向ぼっこをしていた私は、昼間からワインをあおっていた。
いや、だってね。おいしいんだよ、この家にあるワイン。こんなの前世でも飲んだことない。それが、言うだけですっと出されるんだから、飲まない理由がない!
けれど、侍女のシュザンヌは私を咎める。
「お嬢様。もういい加減にされたらどうですか? こちらに来てからというもの、来る日も来る日も食っちゃ寝ばかりして。昼間からお酒を飲むなど、淑女の風上にもおけません」
「いいのよ。だって、私はもう王太子妃にならないし、勉強する理由もないわよね。小さいころからずっと頑張ってきたんだから、自分にご褒美をあげてもいいと思わない?」
「すこしくらいなら構いませんが……もう本宅に来てから一週間もこの状態ではないですか。ドニも含め、今のお嬢様の姿を見て、みんな嘆いておりますよ」
「ま、まあ、そうね。そういえば、そうかしら?」
会話を交わしながら差し出されたのは、水だった。
きっと、シュザンヌからの『いい加減にしろよ、この野郎』というメッセージだ。まあ、確かに、客観的に見るとどうかと思う部分もある。心配してくれてありがたいんだけど……
そんなことを思いながら、私はおとなしくその水を飲み干した。
今、私は十八歳。前世での記憶は大体三十数年間。今の自分の人生よりも長い経験と知識がいきなりのしかかってきたせいで、性格もそっちに引っ張られるのは、しょうがないことだろう。
生粋の貴族から一般庶民へと、価値観と思考が引きずられている違和感に、実は私自身も馴染めず苦しんでいるのだ。
でも、お酒に逃げるのがみっともないというのはごもっとも。このままではアルコール依存症まっしぐらだ。そうなれば、ぐーたら生活どころではない。とんでもない苦しみの中、酒絶ちをしなければならなくなってしまう。そんな未来は望んじゃいない。
私は、小さく息を吐くと、自嘲するように苦笑いを浮かべる。
「あのね、みんなが心配してくれてるのは、わかってるよ。……けどやっぱり苦しかったんだよね。殿下に罵声を浴びせられるのも、周囲の人から冷たい視線を向けられるのも、さ」
「お嬢様……」
「でも、もう大丈夫。いい加減、なんか違うなって思ってたから。お水、ありがと」
「はい」
私が感謝を伝えると、シュザンヌは優しくほほ笑んでくれた。
シュザンヌは厳しいところもあるが、結局、私のことを考えて行動してくれている。そのシュザンヌがいい加減にしろ、と言うのだ。だったら、大人しく聞いておこう。
確かに、引きこもってぐーたらしているのは、心も体も休まるし、楽しい。
けれど、看護師時代に感じていた、仕事後のお酒のおいしさには決して敵わない。今と前世で何が違うのだろうか。
その答えに行き着く前に、私はシュザンヌの言葉に身を凍らせることになった。
「気づいてもらえて本当によかったです。このままでは、お嬢様の服をすべて作り直さなければならなくなっていましたから」
「え? なんで――」
「気づいておりました? ドレスのお腹のあたりがパツパツになっているのを。お嬢様が着られる服は、もう数着しかありませんよ? 一週間の不摂生がもたらした恵みを、お腹回りに蓄えているのですね」
「嘘」
慌てて腰回りを掴むと、ぐにっとした何かがあった。
王都にいたころにはなかった存在に、さっと血の気が引いていく。
「シュザンヌ、まさか!」
突然立ち上がった私の腰から、びりっという、何かが破けた音がした。
「のおおおおぉぉぉぉぉぉ!!!」
その叫びは、ダイエットという戦闘の開始を告げるゴング。
私の戦いは、今、はじまろうとしていた。
◆
さらに一週間後。食っちゃ寝生活で身についた脂肪を落とすべく、私は散歩に出かけていた。
散歩といっても、自由気ままに歩ける訳ではない。シュザンヌと護衛を引き連れ、決められた道を歩くのだ。そんな些細な運動でも、今の私には重要で、そうしなければ淑女としての体裁を整えるどころの話ではなくなってしまう。綺麗なドレスも、まさに豚に真珠だ。
その散歩の中で出会うのが、領民達である。
みんな、私の姿を見ると頭を下げ、声をかけてくれる。その声はとても温かく、傷ついた私の心を癒してくれた。だが、気になることもある。
それは、孤児の多さだ。しかし、今の私にできることは何もない。無力さを噛みしめながらの散歩は、まさに身を削るほどつらかった。その感情を呑み込みつつ、散歩を続ける。
気分は、晴れるどころか、落ち込んでいくばかりだ。
沈んだ気持ちから目を逸らしながら、私は屋敷に戻った。すると、そこには一台の見慣れない馬車が停まっている。
私がシュザンヌを見ると、彼女は小さく首を傾げた。
「今日は来客の予定などなかったはずですが……」
「見たところ、馬車の中に人はいないわね。ドニが屋敷に入れたってこと?」
「何か、急用かもしれませんね」
二人で首を傾げながら玄関の扉を開けると、すばやくドニが近寄ってくる。そして、耳元でささやいた。
「お嬢様。王都からのお客様です」
「誰? 突然の訪問など、不躾にもほどがあるでしょう。そんなことを言ってくる方を通すなんてドニらしくない」
「それが、その不躾がまかり通る立場の方で――」
「ようやく戻ってきたか。隠居した公爵令嬢は優雅でいいな」
屋敷の奥から聞こえた声に視線を向ける。そこには背の高い美形の男が立っていた。
細身だが、よく鍛え込んでいるのだろう。袖から見える腕はたくましい。すっと伸びた背筋から、育ちのよさがうかがえる。
男の濃い茶色の髪は首までの長さで、緩く波打っており、色気を感じさせる。髪の毛と同じ色の瞳に見つめられ、私は弾丸に撃ち抜かれたような感覚を覚えた。
「あなたは――」
その立ち姿には見覚えがあった。すぐに彼の名前が思い浮かぶも、なぜ彼がこの場にいるのか、まったくわからない。
「――クロード殿下」
私の元婚約者である第一王子の弟――第二王子のクロード・アレンフラールだった。
にやにやと笑みを浮かべているクロード殿下に背を向けて、私はドニを見る。彼は小さく首を横に振ると、うやうやしく頭を下げた。ドニはまだ殿下の突然の訪問の理由を聞いていないようだ。
「すぐにおもてなしの用意をいたしましょう。お嬢様。応接間にクロード殿下をご案内いたしますので、お召し物をお替えになったらいかがでしょう?」
困惑しているだろうに、ドニは私にとって最善の提案をしてくれる。
この家にいる公爵家の血縁者は私だけ。私が落ち着いて対応しなければならない。王家への不敬は家全体に影響がある。トラブルにならないよう立ち回るのが、今の私の使命だ。
「ええ。では、クロード殿下。大変恐縮なのですが、今しばらく応接間でお待ちくださいませ」
殿下にそう伝えると、私は急ぎ足で自室へ向かった。そして素早く着替え、身支度を整える。
その間にいろいろ考えたけど、やっぱり状況がわからない。とりあえず、クロード殿下と話さなければならないが、気が進まない。それは、クロード殿下について、いい噂がないからだ。
第二王子、クロード・アレンフラール。
その美貌で、十七歳という若さながら多くの女性を虜にしているらしい。ディオン殿下が爽やか潔癖王子だとしたら、クロード殿下は色気たっぷりのちょい悪王子だろうか。貴族院では、常に美しい女性を侍らせていた。ちなみに、私は声をかけられたことはない。
女性関係はもちろんのこと、それ以外でも素行がよいとは言えず、喧嘩や夜遊び、その他もろもろの噂は後を絶たない。そんなクロード殿下が今、このタイミングでここを訪れるということは、何か企んでいるのだろう。
「……さま? お嬢様?」
シュザンヌに声をかけられ、慌てて顔を上げる。
「え!? 何?」
「どうしたのですか? 突然黙ってしまわれて。何度声をかけても聞こえていないようでしたわ。もしかして、まだご気分が悪いのですか?」
「いいえ、そうじゃ――って、そうなのよ! まだ昨日のことですこし混乱してるみたいでね! だから、きっと言葉遣いも乱れちゃったのかなぁ、みたいな?」
「……みたいな?」
私を見るシュザンヌの目が冷たい。
私だってわかっている! この言葉遣いが淑女らしくないってことは。でも、出ちゃうものはどうしようもない。そう、どうしようもないことなのだ。
そうやって無理やり自分を正当化しつつ、なんとかこの場を切り抜けようと私は話題を変える。
「あら、そういえば、食事の準備はできているかしら? 昨日の夜は何も食べていないから、お腹がすいてしまって」
「え? あ、はい。すでに準備は整っております。もう召し上がりますか?」
「お願い」
私の身支度は、いつのまにか整っている。すべてシュザンヌがやってくれたのだ。やっぱりシュザンヌはすごい。
食堂に行こうと部屋を出た私は、前を歩くシュザンヌの背中を見ながら、ほっと胸を撫で下ろした。
前世について話すのは、もうすこし待ってね。私もまだよくわかってないから。ごめんね、シュザンヌ。
信頼する侍女に心の中で謝罪をしながら、食堂を目指した。
そして、間もなく食堂というところで、シュザンヌが完璧なほほ笑みを浮かべて口を開いた。シュザンヌの背後に黒いオーラのようなものが見えるのは、気のせいだろうか。
「中でご主人様がお待ちです。昨日のことで、話したいことがあるそうですよ。やすやすと誤魔化されてくださるご主人様ではございませんので、覚悟された方がよろしいかと。それでは、ごゆっくりお過ごしください」
やっぱり気のせいじゃなかった。私の気分は再び沈んだのだった。
「失礼します」
食堂のドアをノックして開ける。目に飛び込んできたのは白いクロスのかかったテーブルと、その上に並べられた料理の数々だった。色とりどりの料理は、食欲をこれでもかと煽ってくる。
魅力的な料理の奥には、席に着くお父様の姿が見えた。
お父様は目の前の料理に手をつけず、何やら書類に目を通している。給仕はそれを見守りながら横に控えていた。
私が食堂に入ると、お父様はちらりとこちらを一瞥する。
「お待たせいたしました」
「いや、来たばかりだ。誰か、レティシアの食事を頼む」
お父様はそう言うと、給仕を促した。
お父様はこの国の宰相で、まだ四十歳になったばかりだ。この若さで宰相になったのは、お父様が初めてらしい。
先代の宰相――おじい様が体を壊して隠居されてから、お父様はあとを継ぐようにその役目を引き受けた。若さ故に批判を受けることも多いみたいだけど、お父様はそれを撥ね退けるほどの功績を上げ、立場を維持しているみたい。
私と同じ金髪をオールバックにし、露わになっている額には年相応のしわが刻まれている。そんなお父様の真剣な表情を見ながら、私は向かいの席に腰かけた。
間もなく給仕が配膳を終え、いつのまにか部屋にいるのは私とお父様だけになっていた。えっと、これって人払いされているってこと?
どんな話をされるのか……。想像するだけで気が重い。あぁ、嫌だな。
「レティシア。よく眠れたか? 昨日はパーティー会場で倒れてから起きなかったと聞いたが」
「はい。そのようですが、朝はすっきり目覚めることができました。体も大丈夫です」
「そうか。それで……お前にいくつか聞きたいことがあってな。パメラとミシェルはもうすこししたら来ることになっている」
「はい」
パメラはお母様、ミシェルは弟の名だ。二人には聞かせたくない話ってことか。
「ディオン殿下に婚約を破棄すると言い渡されたそうだな?」
「ええ」
「しかも、その原因はお前にあるという。どういうことだ?」
うん。当然、この質問は来るよね。
なんと答えたものか……。そういえば、考えておかなかった。
私は、すこしばかり考え込み、お父様と視線を合わせながら答える。
「まったく弁解のしようがありませんわ。殿下のおっしゃることは事実です。嫉妬にかられた私は、アンナ様にこれでもかと嫌がらせをしてきたのです。それに嫌気がさしたのでしょう。殿下のお心は、私を受け入れるには狭すぎたようですわ」
「殿下もそうおっしゃっていた。貴族院のパーティー中に陛下のもとに来てな。ひどく怒っていたぞ」
「それならば私に確認する必要はないでしょう。殿下は、嘘をつけるお方ではありませんから」
「……うむ」
とりあえずは事実確認、というところだろうか。
「それで? お話は以上ですか?」
「いや。お前がどういうつもりであんなことをしたのか、私にはわからなかったのだよ。だってそうだろう? お前とディオン殿下の婚約は、ずっと前から決まっていた。いずれ殿下に嫁ぐことになるのだから、王太子妃――将来的には王妃になるつもりで努力してきたはずだ。それを、嫉妬にかられて棒に振るなど、今までのお前からは信じられない」
「あら、嫌だ。女の嫉妬はとても恐ろしいのですよ?」
私がそう言ってほほ笑むと、お父様は顔を苦々しくゆがめる。
本当は別の理由があるが、そんなことお父様には言えない。言える訳がない。
これで誤魔化されてくれるといいのだけれど……
私が完璧な笑顔をキープしていると、お父様は根負けしたらしい。
「うむ……まあ、いい。この件は以上だ。間違いがないならその上でいろいろと考えるしかないな。王家との婚約が破談になった原因が、我がシャリエール家にあるということは、非常にまずい。レティシアは、事の重大さをしっかりと認識しなさい」
「はい、お父様」
お父様には悪いことをしちゃったけど、これで傾くほどシャリエール公爵家は脆弱ではない。宰相であるお父様のおかげで、このアレンフラールでは強い影響力を持っている。
私自身が、国に関わることはもう無理だろうけど、私さえ処分すれば、きっと問題ない。
「レティシア、聞きたいことはまだある。昨日の陛下のことについて、詳しく聞かせてもらおうか」
「はい」
「単刀直入に聞くぞ? 昨日のあれはなんだ」
突然、お父様の怒気が増す。私は訳がわからなくて、首を傾げた。
どうしてお父様が怒るのだろう。怒るポイント、どこかにあったかな? 陛下の命が助かったんだからいいじゃないか。
私が首を傾げていると、お父様は低い声で言葉をつなげた。
「陛下になんだ、その、突然だな……あれだ、せ、せせせ、接吻などして! 陛下にあのようなことをして、一体なんのつもりだったんだ!」
実の娘に言うのは、すこしばかり憚られる内容なのだろうか。お父様は、顔を赤くしながら顔をそらしている。なんだか可愛い。接吻って言うくらいで照れるとか、いくつだよ、お父様。
「ああ、あれですね。あれは、救命措置の一環で、人工呼吸というものです。息が止まっていた陛下に無理やり息を吹き込み、肺に必要な空気を入れました。陛下の命をおつなぎするために必要だったのですよ」
「接吻がか!?」
だから、人工呼吸だって言っているのに。私はムッとして眉をひそめた。
「キスなどではありませんよ。そんないやらしいこと、娘に向かって言うものではありません」
「い、いやらしいだと!?」
「陛下が倒れたあの時、すでに息をしておらず、心臓も止まっておりました。ですから、私は体の外から陛下の心臓を動かし、空気を吹き込んだのでございます。そうしなければ、陛下の命はなかったでしょう。もちろん、ああいったことをするには人目があるといけません。ですから、人払いをお願いしたのです」
「う、ん? そうなのか。まあ、話を聞くと納得できるが……。しかし、未婚のお前が陛下に接吻をするなど――」
「キスではありません。人工呼吸です。しかも布越しですよ? そんな風に考えないでくださいませ!」
「ぬぅ」
お父様は眉間のしわを深くする。だが、しばらくすると、ようやく受け入れたのだろう。大きくため息をつきながら表情を緩めた。
「まあ、治癒術師も、陛下は本来ならば亡くなっていてもおかしくないと言っていたからな。お前の言うことは間違いじゃないのだろう。そうなると、陛下はお前に救われたのだな?」
「いえ。治癒術師の方が尽力された結果でしょう」
「謙遜する必要はない。助かった、レティシア」
「はい」
ようやく小さな笑みを浮かべたお父様に、私も笑顔で応じる。
緊張が解けたのか、お父様はようやくカトラリーを手に取り、ゆっくりと食事をはじめた。その様は、まさに貴族といった感じ。
私ももちろん教育を受けているため、完璧な作法を身につけている。だが、なぜだか自分の動作にとても違和感を覚えた。まるで、自分じゃない何かが動いているみたい。
その違和感を振り払おうと食事に集中していると、お父様は考え込むように首を傾げていた。そして、思わずといったように疑問を漏らす。
「だが……なぜレティシアは陛下を助ける術を知っていたのだ? 治癒術の使えないお前がなぜ、それほどの知識を」
その言葉に私の手は止まる。
予想していた質問だったけれど、模範解答など用意していない。さきほどのシュザンヌとのやりとりと同様、ただ誤魔化すことしかできない。
「えっと……なんていうか。――そうっ! 倒れている陛下を見てたら、咄嗟に思いついたんです! 偶然です! たまたまです! 単なる思いつきです!」
「ふむ。思いつきで陛下にあのようなことをしたというのか?」
お父様の眉間にしわが寄る。っていうか、怖いから! なんて言えば納得するのよ、もぅ!
「いえ、そういうわけではなくて、急に声が聞こえて――って、あら? そんなことより、お食事が冷めてしまいますわね。早く食べなくては、料理人達に申し訳ないわ、ねぇ? お父様。ほほほ」
私は、とにかく話を逸らすことにした。
「いや、そんなことより――」
「まぁ! 今日のサラダは特別においしいわ! 普段通りの味と野菜がたまらなく素敵! お父様もそう思わないかしら? ほらほら、時間も無限にあるわけではないのですから。さぁさぁ、急いで食べてしまいましょう」
とにかく勢いで押し切ろうと躍起になった。なんだかとんちんかんなことを言った気がするが、構っている場合じゃない。
当然、お父様は怪訝な表情を浮かべていたが、しばらくすると小さくため息をついて、食事を食べはじめた。
ふぅ。これで追及は免れたかな? ようやく私も料理を味わうことができる。うん、今日も本当においしいわ!
「しかし声が聞こえただと……? まさか神から神託でも受け賜ったのか……」
お父様は、食事の手を止め、ぶつぶつと何かを呟いている。もしかして、ご飯いらないの? いらないなら、もらっていいかな?
「それとも、あの神のような所業……レティシア自身が女神の生まれ変わりなのかもしれない……」
いいよね? その厚切りベーコン、もったいないから私が食べてあげる。
私がベーコンをかすめ取ろうとした瞬間、お父様はすっとそれを食べてしまう。
私が愕然としていると、まだ話は終わっていないとばかりに口を開いた。
「まあ、陛下の件は助かったのだからいいとして……殿下の件に関しては、このままという訳にもいくまい。謹慎処分を言い渡す」
その強い言葉に、私は固まる。しかしお父様は優しい表情を浮かべていた。
「殿下に失礼を働いたお前を処分しない訳にはいかない。お前のした行いは恥ずべきことだが……何か考えがあったのだろう? それに、お前は陛下を救ったのだ。不敬罪に問われはしまい。しかし、この王都では過ごしづらいだろう。よかったら本宅のほうでしばらく体を休めたらどうだ? その間に、事実確認を含めてこちらでうまくやっておく。悪い話ではないだろう?」
お父様が私のことをわかっていてくれたことに驚く。そしてその気遣いに、感謝の気持ちでいっぱいになった。
「本宅へ?」
「ああ。私は王都を離れられないが、お前は貴族院を卒業したのだ。卒業後に結婚する話は白紙に戻ったのだから、羽を伸ばしてもいいだろう。お前が望めばすぐに手配するが……どうする?」
本宅。それは、シャリエール家の領地にある我が家のことだ。幼少のころはそちらで生活していたけど、貴族院に通うにあたって、王都にある別邸に居を移した。こちらに来て二年も経ったが、やはり生まれ育った本宅のほうが馴染みは深い。
加えて、王都にいれば嫌でも他の貴族と関わらなければならない。淑女として、そして公爵令嬢として、お茶会などの社交に誘われたら、行かない訳にはいくまい。
殿下に婚約破棄を言い渡された私への風当たりが強いのは間違いない。噂話が届かないほど遠い地にある本宅は、今の私には天国のようなものだ。
それに、本宅なら人目を気にしないで、ゆっくりできるんじゃないだろうか?
私は生まれてからずっと、王妃になるための教育を受け続けてきた。幼いころから勉強で部屋に缶詰にされ、貴族院に行っていた間は、勉学と魔法の実技の予習で忙しかった。
前世では、忙しい仕事の合間に旅行に行ったり、働いた後にビールを楽しんだりしたけど、やっぱり長期間のんびりすることなんてなかった。
もしかして、これからの私の生活って、本当に天国だったりする!? 前世からの夢だった、ぐーたら生活が実現しちゃうのか!?
それならば断る理由などない!
すべては導かれるままに。多忙だった前世の分も、今世の分も、やりたい放題したっていいじゃないか! レッツ! ぐーたらぁ!
思わず、飛び上がりそうになる体を理性で抑え、それこそ淑女らしい上品な仕草で礼をした。
「お父様。お心遣い、ありがとうございます。確かにそのほうが、私もゆっくり休めるかと思います。お願いしてもよろしいですか?」
「ああ、わかった」
そう言って優しくほほ笑むお父様が、私には神に見えた。
こうして私は、天国への切符を手に入れたのだった。
第二章 来訪者の思惑
シャリエール公爵家の領地。
そこは、王都から馬車で二日と、比較的近い位置にある内地だ。農耕地が大半を占める広い領地である。
本宅は、領地で一番大きな街からすこしだけ離れた地に立つ。喧騒から離れた静かな環境は、確かに療養にふさわしい。
本宅に着いた私を迎えてくれたのは、執事であるドニと、召使い達だ。
今まで私達家族が生活していたのは王都にある別邸。
今もお母様と弟は別邸に住んでいる。
つまり、本宅にいる公爵家の血縁は私だけということだ。それが何を意味するかというと、私が本宅のヒエラルキーのトップ。最高権力者なのだ!
「シュザンヌ。ワインのおかわり持ってきてー」
本宅にやってきて早一週間。テラスでデッキチェアに座り日向ぼっこをしていた私は、昼間からワインをあおっていた。
いや、だってね。おいしいんだよ、この家にあるワイン。こんなの前世でも飲んだことない。それが、言うだけですっと出されるんだから、飲まない理由がない!
けれど、侍女のシュザンヌは私を咎める。
「お嬢様。もういい加減にされたらどうですか? こちらに来てからというもの、来る日も来る日も食っちゃ寝ばかりして。昼間からお酒を飲むなど、淑女の風上にもおけません」
「いいのよ。だって、私はもう王太子妃にならないし、勉強する理由もないわよね。小さいころからずっと頑張ってきたんだから、自分にご褒美をあげてもいいと思わない?」
「すこしくらいなら構いませんが……もう本宅に来てから一週間もこの状態ではないですか。ドニも含め、今のお嬢様の姿を見て、みんな嘆いておりますよ」
「ま、まあ、そうね。そういえば、そうかしら?」
会話を交わしながら差し出されたのは、水だった。
きっと、シュザンヌからの『いい加減にしろよ、この野郎』というメッセージだ。まあ、確かに、客観的に見るとどうかと思う部分もある。心配してくれてありがたいんだけど……
そんなことを思いながら、私はおとなしくその水を飲み干した。
今、私は十八歳。前世での記憶は大体三十数年間。今の自分の人生よりも長い経験と知識がいきなりのしかかってきたせいで、性格もそっちに引っ張られるのは、しょうがないことだろう。
生粋の貴族から一般庶民へと、価値観と思考が引きずられている違和感に、実は私自身も馴染めず苦しんでいるのだ。
でも、お酒に逃げるのがみっともないというのはごもっとも。このままではアルコール依存症まっしぐらだ。そうなれば、ぐーたら生活どころではない。とんでもない苦しみの中、酒絶ちをしなければならなくなってしまう。そんな未来は望んじゃいない。
私は、小さく息を吐くと、自嘲するように苦笑いを浮かべる。
「あのね、みんなが心配してくれてるのは、わかってるよ。……けどやっぱり苦しかったんだよね。殿下に罵声を浴びせられるのも、周囲の人から冷たい視線を向けられるのも、さ」
「お嬢様……」
「でも、もう大丈夫。いい加減、なんか違うなって思ってたから。お水、ありがと」
「はい」
私が感謝を伝えると、シュザンヌは優しくほほ笑んでくれた。
シュザンヌは厳しいところもあるが、結局、私のことを考えて行動してくれている。そのシュザンヌがいい加減にしろ、と言うのだ。だったら、大人しく聞いておこう。
確かに、引きこもってぐーたらしているのは、心も体も休まるし、楽しい。
けれど、看護師時代に感じていた、仕事後のお酒のおいしさには決して敵わない。今と前世で何が違うのだろうか。
その答えに行き着く前に、私はシュザンヌの言葉に身を凍らせることになった。
「気づいてもらえて本当によかったです。このままでは、お嬢様の服をすべて作り直さなければならなくなっていましたから」
「え? なんで――」
「気づいておりました? ドレスのお腹のあたりがパツパツになっているのを。お嬢様が着られる服は、もう数着しかありませんよ? 一週間の不摂生がもたらした恵みを、お腹回りに蓄えているのですね」
「嘘」
慌てて腰回りを掴むと、ぐにっとした何かがあった。
王都にいたころにはなかった存在に、さっと血の気が引いていく。
「シュザンヌ、まさか!」
突然立ち上がった私の腰から、びりっという、何かが破けた音がした。
「のおおおおぉぉぉぉぉぉ!!!」
その叫びは、ダイエットという戦闘の開始を告げるゴング。
私の戦いは、今、はじまろうとしていた。
◆
さらに一週間後。食っちゃ寝生活で身についた脂肪を落とすべく、私は散歩に出かけていた。
散歩といっても、自由気ままに歩ける訳ではない。シュザンヌと護衛を引き連れ、決められた道を歩くのだ。そんな些細な運動でも、今の私には重要で、そうしなければ淑女としての体裁を整えるどころの話ではなくなってしまう。綺麗なドレスも、まさに豚に真珠だ。
その散歩の中で出会うのが、領民達である。
みんな、私の姿を見ると頭を下げ、声をかけてくれる。その声はとても温かく、傷ついた私の心を癒してくれた。だが、気になることもある。
それは、孤児の多さだ。しかし、今の私にできることは何もない。無力さを噛みしめながらの散歩は、まさに身を削るほどつらかった。その感情を呑み込みつつ、散歩を続ける。
気分は、晴れるどころか、落ち込んでいくばかりだ。
沈んだ気持ちから目を逸らしながら、私は屋敷に戻った。すると、そこには一台の見慣れない馬車が停まっている。
私がシュザンヌを見ると、彼女は小さく首を傾げた。
「今日は来客の予定などなかったはずですが……」
「見たところ、馬車の中に人はいないわね。ドニが屋敷に入れたってこと?」
「何か、急用かもしれませんね」
二人で首を傾げながら玄関の扉を開けると、すばやくドニが近寄ってくる。そして、耳元でささやいた。
「お嬢様。王都からのお客様です」
「誰? 突然の訪問など、不躾にもほどがあるでしょう。そんなことを言ってくる方を通すなんてドニらしくない」
「それが、その不躾がまかり通る立場の方で――」
「ようやく戻ってきたか。隠居した公爵令嬢は優雅でいいな」
屋敷の奥から聞こえた声に視線を向ける。そこには背の高い美形の男が立っていた。
細身だが、よく鍛え込んでいるのだろう。袖から見える腕はたくましい。すっと伸びた背筋から、育ちのよさがうかがえる。
男の濃い茶色の髪は首までの長さで、緩く波打っており、色気を感じさせる。髪の毛と同じ色の瞳に見つめられ、私は弾丸に撃ち抜かれたような感覚を覚えた。
「あなたは――」
その立ち姿には見覚えがあった。すぐに彼の名前が思い浮かぶも、なぜ彼がこの場にいるのか、まったくわからない。
「――クロード殿下」
私の元婚約者である第一王子の弟――第二王子のクロード・アレンフラールだった。
にやにやと笑みを浮かべているクロード殿下に背を向けて、私はドニを見る。彼は小さく首を横に振ると、うやうやしく頭を下げた。ドニはまだ殿下の突然の訪問の理由を聞いていないようだ。
「すぐにおもてなしの用意をいたしましょう。お嬢様。応接間にクロード殿下をご案内いたしますので、お召し物をお替えになったらいかがでしょう?」
困惑しているだろうに、ドニは私にとって最善の提案をしてくれる。
この家にいる公爵家の血縁者は私だけ。私が落ち着いて対応しなければならない。王家への不敬は家全体に影響がある。トラブルにならないよう立ち回るのが、今の私の使命だ。
「ええ。では、クロード殿下。大変恐縮なのですが、今しばらく応接間でお待ちくださいませ」
殿下にそう伝えると、私は急ぎ足で自室へ向かった。そして素早く着替え、身支度を整える。
その間にいろいろ考えたけど、やっぱり状況がわからない。とりあえず、クロード殿下と話さなければならないが、気が進まない。それは、クロード殿下について、いい噂がないからだ。
第二王子、クロード・アレンフラール。
その美貌で、十七歳という若さながら多くの女性を虜にしているらしい。ディオン殿下が爽やか潔癖王子だとしたら、クロード殿下は色気たっぷりのちょい悪王子だろうか。貴族院では、常に美しい女性を侍らせていた。ちなみに、私は声をかけられたことはない。
女性関係はもちろんのこと、それ以外でも素行がよいとは言えず、喧嘩や夜遊び、その他もろもろの噂は後を絶たない。そんなクロード殿下が今、このタイミングでここを訪れるということは、何か企んでいるのだろう。
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