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12巻

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 プロローグ


 五代目マレビト、風見心悟かざみしんごは考える。
 猊下げいかやら、風見様やらとあがめられてきたが、自分には身に余るものだった。
 剣と律法りっぽうで人々があらそい、魔物が跋扈ばっこし、伝染病も野放しにされている世界の救世主。そんな存在になりきるには、足りないものが多かったのだ。
 その割に上手くやった方だとは思う。
 だが、今までやってこれたのは、自分の至らなさを補ってくれる仲間がいたからだ。
 その中でもリズは特別だった。風見がこの世界で生きる上で欠けていたものを、リズはピタリと埋めてくれた。仲間は誰しも大切だが、彼女が最も特別な存在だった。
 ……そう。〝だった〟という過去形になる。リズの窮地きゅうちに間に合わなかったし、傷ついた彼女を助けるすべも持っていなかった。その結果、自分は目の前でリズを死なせたのである。
 喪失感に襲われるなんてものではない。欠けてはいけないものが、体からごっそりと奪われたかのように、胸も心も、痛くて苦しいのだ。悲しいという一言では形容し尽くせない。
 以前も、似た感覚に襲われたことがある。
 この世界にばれ、活動する中で慕ってくれた隷属れいぞく騎士のノーラを、失った時のことだった。彼女もまた、力及ばず助けることがかなわなかった。
 けれどその時よりも、今回の苦しみはずっと強い。
 単なる仲間という域ではないのだ。欠けているものを埋め合い続けたいと思っていた。そういう感情はきっと、愛情と言う他にない。
 それほどに想う相手なら、最初から何を犠牲にしたって守るすべを探すべきだった。
 だが、反省しても、もう遅い。死者をよみがえらせるのも、過ぎた時を戻すのも、律法の領域ではない。お伽噺とぎばなしで語られる神様の御業みわざだ。いくら願ったところで実現する望みはない。
 自分の未熟さと甘さゆえに、一番大切なものが犠牲になった。
 それで話は終わり……。そう思っていたが、ここアウストラ帝国末姫のエレインは言った。律法の力で時間を戻し、失敗をやり直せる機会をくれると。
 彼女がどのような原理で時間を戻すのかも、その言葉が本当なのかもわからない。
 だが、風見にはもう、エレインの言葉に望みをかける他なかった。
 その言葉を信じて、ゆだねるのみだ。
 直後、エレインの詠唱の声を聞き、風見の意識は深く沈んだのだった。



 第一章 欠けているからこそのお伽噺とぎばなし


 暗転した意識が浮上し、風見はハッと目を開けた。
 意識を失う前と、明るさはほぼ変わらない。一方、目の前に広がる光景は明らかに様変さまがわりしていた。ここはコロミアの街にある施設の一室だ。
 先ほどまでいたのは、街の北方に位置する西軍のキャンプ地。
 リズを死に追いやったアスラと西軍兵を、風見がいかりに任せて皆殺しにしたのだ。そこへ、エレインとブルードラゴン、オーヴィルとレッドドラゴン、そしてリズを除く仲間が駆けつけたところだった。
 しかし今は周囲に誰もいない。場所すらも変わっている。
 風見は腕時計に視線を落とした。針が指し示すのは午前八時だ。
 記憶を掘り起こす。この施設には、昨日の夜から朝まで滞在していた。
 アスラの強襲に備えてその寄生体や分体を解剖し、情報を得ようとしたのだ。室内の様子を見る限り、すでに検体の片付けは終わっていた。そして自分は、アスラについてまとめた資料を手にしている。まさにこの時間帯に風見がしていた行動そのものだった。
 本当に時間が戻っているらしい。
 だが、同時に嫌な事実に気づく。午前八時といえば、早朝にもよおされたアスラ対策会議の約三十分前。それでは、リズが致命傷を負ったと思われる時刻まで、三十分もない。

「ダメだ。これじゃ間に合わないじゃないかっ……!」

 期待からの落差が大きく、目眩めまいすら覚える。
 この街からリズがいるハドリア教総本山までは、アースドラゴンのタマの脚でも一時間はかかる。今からどんなに急ごうとも、間に合わない可能性が高い。

「……っ! こんな奇跡まで起きたっていうのにか!?」

 希望は、わずかな光を見せた途端に遠ざかろうとする。運命はさだめられていて、何度やり直そうがのがれられないのかもしれないと、風見は歯噛はがみした。
 いや、そう思いこむのは早計だ。エレインの口ぶりでは、彼女自身今まで何度もやり直して、物事を上手く運んできたようだった。彼女が結果を残している以上、運命は変えられるものでなければおかしい。
 風見はつとめて冷静に対処法を考える。
 ちょうどその時、背後から物音が聞こえた。
 現在、室内には誰もいない。この時間、クロエたちは身支度で風見のそばを離れていたはずだ。一番近くにいるグレン、セラ、リードベルトの三名は、室外で警備をしている。
 では、この音は誰が立てたのか。その答えに思い至り、風見の胸はざわついた。

「マスター。どうかした?」

 背後から、きょとんとした声をかけられた。
 呼吸を忘れるほどの驚きを覚える。けれど納得し、安堵あんどした。エレインが本当に時間を戻してくれたのならば、こうでなければおかしい。
 風見は振り返ると、その姿を確かめるより早く声の主に抱きついた。
 相手はナトゥレル。風見の左手に宿やどされた魔獣まじゅうの核が作る精霊だ。

「ナトッ! そうだよなっ、お前もだよなっ……!?」
「んっ……!? あの……。マ、マスター?」

 嘘ではないし、まぼろしでもない。それを確かめようと、風見は強く抱きしめる。
 背の高い風見に抱擁ほうようされ、ナトは爪先立ちになっていた。顔を赤らめ、珍しくあたふたしている。
 彼女の核は、あらゆるものを同化、吸収する魔獣まじゅうヒュージスライムの欠片かけらでもある。
 時間が巻き戻る前、風見はナトも失っていた。異世界人である風見の体は、律法の影響を受けないため、ヒュージスライムの欠片かけら宿やどしても共存できていた。しかし、風見の体内にリズの血液が混入したことにより、この世界の人の体に近づいてしまい、ヒュージスライムを抑えきれなくなったのだ。
 そのままでは、ヒュージスライムが風見を吸収してなお成長する恐れがあったので、レッドドラゴンがナトごと焼き滅ぼしたのである。
 失っていいはずがない。助けたかった。そんな気持ちがあふれ、抱きしめる腕に力がこもる。
 巻き戻りの瞬間はこの世にいなかったせいか、彼女は事情がわからない様子だ。
 しかし風見の体に宿やどっているため、彼の強い感情は共有される。風見の再会の喜びがダイレクトに流れこんだようで、ナトはおろおろと視線をさまよわせた。どうやら感情を持て余しているらしい。
 その時、騒がしい足音が近づいてきた。
 ナトはそそくさと身を離し、風見の背後に回って背に頭を預けてくる。

「風見様っ、こちらにいらっしゃいますよね!?」

 そう言って部屋に駆け込んできたのはクロエだ。彼女の後ろにはキュウビもいた。
 部屋の前で警備していたグレンたちは、疑問顔でこちらをのぞきこんでくる。
 この状況は、時間が戻る前にはなかった。きっとクロエたちは、自分と同じくタイムスリップしたのだろう。

「二人にも、記憶があるんだな?」
「はい。この後のことは、はっきりと覚えています」

 一瞬辛そうに顔をゆがめたクロエに続き、キュウビが口を開く。

「わたくしでさえ、時間を戻す律法など聞いたことがありませんでした。けれど……状況からするに本物なのでしょうね」

 そう言うと、二人は風見の後ろにいるナトに視線を送る。
 彼女らはナトの姿を見て、この事態が現実だと判断したようだ。
 この場にいる七名のうち、状況が理解できているのは風見とクロエ、キュウビらしい。風見と心が繋がっているナトも、徐々に状況を把握しはじめている。
 残りのグレン、セラ、リードベルトの三名は、疑問顔のままだ。
 この状況から考えて、エレインの律法が発動した西国の拠点に居合わせた者のみ、記憶を持っているのかもしれない。総本山で他界したリズや、他の場所にいた仲間は、状況を理解できない可能性が高そうだ。
 しかし、悠長ゆうちょうに状況説明をしている暇はない。風見はクロエとキュウビを見つめる。

「聞いてくれ。時間が足りないんだ。今すぐに総本山に戻っても、普通の手段じゃ間に合わない。どうにかできないか?」

 風見は腕時計を示し、会議まであと三十分程度という事実を伝えた。
 しかし一刻をあらそう時にもかかわらず、キュウビは厳しい顔で見つめてくる。

「間に合わせる手段はあります。けれどシンゴ様、その前に一つだけ。わたくしはあの時のことを鮮明に覚えています。だから改めて、エレインが口にしたのと同じことを問わせてください」

 唐突な願い出に、風見とクロエは意表を突かれてキュウビを見つめた。

「この先、リズは死にます。その一方で――」
「はあっ!? それ、どーいうことですかっ!?」

 キュウビの言葉をさえぎり、セラが動揺を口にした。グレンの表情も、驚きに満ちている。
 しかしキュウビは彼女らを手で制して、言葉を続けた。

「その一方で、命を失わずに済んだ者が多く、敵軍も壊滅できました。結果としては悪いものではありません。あなたはマレビトという名の英雄です。その立場だというのに、全ての結果を白紙に戻してもよろしいのですか?」

 仲間としては、とても意地悪な問いかけだ。
 けれどこれはキュウビの優しさだということがよくわかる。今後何があろうと風見の決意がにぶらないように、問いかけてくれているのだろう。

「ああ。俺はあんな結末なんて認めたくない」
「リズの代わりに他の多くが死んでもいいのですか? 例えば、わたくしやクロエの命が天秤てんびんにかかったとしても?」

 キュウビはよどみなく、より答えにくい質問をぶつけてくる。
 一瞬、が生まれた。しかし風見の中で、答えははっきり出ている。
 深呼吸してから、首を横に振った。

「俺はリズのことが好きだ。けどな、だからって他を捨てていいとは思わない。クロエもココノビも他の仲間も、失うなんて選択肢はない。全部を守るために、俺はあの時と違う選択をしたい。だけどそのためには足りないところがあるんだ。だから、みんなに力を貸してほしい」

 この状況こそ、まさにそうだ。分析を済ませた以上、アスラを殺す手段はいくらでも思いつく。だが、総本山までの距離と時間という面ではどうしようもない。
 風見の答えに、ココノビ――キュウビは口元をほころばせた。

「結局、シンゴ様は英雄にはなりきれないのですね。足りないままです」

 言葉のみを聞けば否定的なものだ。
 けれどそうではない。彼女の笑みが深まったことが何よりの証拠である。

「ですが、あなたはそれでいいのだと思います。取捨選択して、多くを守るのが真の英雄でしょう。けれどもその反面、彼らの生き方は悲しいものです。まつり上げられ、精神をり減らし、いずれはち果てるのですから」

 それは二代目マレビトだったキュウビの父が経験したことなのだろう。
 彼女のつぶやきには並々ならぬ思いが感じられる。

「そんなありきたりにならう必要はありません。足りないものがあるからこそ完璧以上を目指すあなたの方が、どれほど素晴らしいか。存分に求めてくださいな。それを補うためにわたくしはここにいます。見果てぬ夢を見たいと思って、ここにいるのです」

 自分の胸に手を当て、力強く宣言したキュウビは、クロエに目を向ける。

「クロエ。あなたはどうですか? あなたの力なくして、リズのもとに間に合うすべはありません。導き手として、あなたはシンゴ様の選択が正しいと言えますか?」

 問われたクロエは一瞬戸惑ったが、すぐにキュウビを見つめ返す。

「正しいです。勝利を飾ることや、偉業をすことが全てではありません。キュウビ様がおっしゃったとおり、風見様はただの英雄にはできないことをげています。そうして世界を変えていることにこそ、希望を持つべきです。だから風見様はこの選択をためらう必要はありません。だって、私は『あの運命』を変えたいと願う人たちを見ました」

 それはリズが死んだ運命の末路のことだ。
 確かに犠牲が少なく、戦果は大きかった。けれどもあの場で勝利に酔っていた者はいない。
 その光景が脳裏に焼きついているからこそ、クロエはまっすぐ言葉をつむぐのだろう。

「ただ一人の活躍こそ、英雄譚えいゆうたんにふさわしいのかもしれません。ですが、英雄がいなくとも、世界を好転させることはできます。一人一人の努力すらおこたり、誰かにすがるだけでは、未来を望めないと思います」

 この世界において、生活を改善させるための知識を下々しもじもに与えてくれるマレビトは救世主だった。よって、いくら祈っても何もしてくれない神様に代わって、信仰の対象となったのだ。
 だが、それに頼りきりになってしまえば、人に進歩がなくなってしまう。
 彼女が言わんとしていることは、そういう意味のはずだ。

「完璧を用意し、人々を幸福へ導く救世主には、なれないのかもしれません。けれども、風見様は彼らにはなかったものを持っています。関わった者に変化をうながして、世界をいい方向に変えています。不確かで曖昧あいまいですが、それで十分なのだと思います」

 クロエは胸の前で手を組み、思いを言葉にする。

英雄譚えいゆうたんは本で読めれば十分。作物と畜産の恵みがあり、んだ時に医療を頼れる。人が生きるには、それだけあれば事足ります。風見様のお仕事は、それを支えるだけのものです」

 これがクロエの答えらしい。ハドリア教徒として誰よりもマレビトを盲信もうしんするばかりの少女だった。そんな彼女はマレビト――いな、風見の導き手として、成長してくれていた。
 クロエに眼差まなざしを向けられて、風見はうなずいた。そして二人してキュウビに視線を向ける。
 するとキュウビは「そうですか」とつぶやき、満足げに息を吐く。

英雄譚えいゆうたんは悲哀と共に語られるものです。別の答えには、わたくしとハチとお父様では辿たどり着けませんでした。理想をうらやみながら、道を見つけ出せなかったのです。わたくしはあなたたちの先達せんだつではありますが、先導者ではありません。だからこそ、願いをたくしたくなるのですよ。あなたたちがそう言って一歩を踏み出すというのなら、わたくしは持てる力全てで支えます」

 キュウビは風見をまっすぐ見つめる。

「シンゴ様の理想を実現するには足りないものがあるでしょう。けれど、補えます。間に合わなかった運命をくつがえすには、ここから総本山までの道、ドラゴンの翼を頼ればいいのです」
「いや、でもタマは……」

 キュウビの提案に、風見は口ごもる。
 確かにドラゴンの能力は超常的なものだ。他のどの魔獣まじゅうよりも特殊で、破格のことをげる。だが、アースドラゴンのタマと今回の問題は、相性が悪い。
 タマは飛べる。けれどそれは、クロエの補助があって初めて可能になることだ。しかも単に可能なだけで、地竜らしく地を走った方がずっと速い。
 総本山は入り組んだ地形の先、それも高所にある。タマの能力では飛んでも駆けても間に合わないのは明白だ。それはキュウビも承知のはずなのに、彼女の表情は不敵である。

「お忘れですか? 間に合わせるためには、クロエの力も必要だと言ったはずです。その上で、あの子の翼が必要だと言いました」

 先ほども聞いたことだ。誰か一人が偉業をすのではない。世界をよりよい方向に転がすなら、全員の努力で変えるという話だった。
 自分には不可能なのだから、彼女らに補ってもらう他はない。
 そう考えた風見はハッとしてキュウビを見た。彼女は意味ありげに微笑む。

「身体能力において、地竜をしのぐ竜種はいません。あの子が何故飛べないかというと、大きすぎる体のせいです。けれど、それを補うすべはありますでしょう?」

 キュウビはクロエに視線を向ける。
 だがクロエはまだ答えが見えていないらしく、表情をくもらせた。

「重さに関しては、私が重力属性の魔石を使えば補えます。しかし、体の大きさから生じる風の抵抗や、そもそも翼の小ささからくる浮力不足は、どうしようもないのでは?」

 体を小さくするなんて、数多あまたの物理法則をじ曲げる奇跡は、存在しない。
 そんな返事を聞いても、キュウビは表情を崩さなかった。彼女は視線を誘導するように、風見の後ろに隠れたままのナトに目を向ける。

「大きすぎる体をさまたげる風ならば、ナトゥレルの力で防げます。そして、体を小さくするというのは無理ですが、巨体を支えられる翼を用意してあげればよいではないですか。それを実現する魔法の杖を、シンゴ様は持っているはずです」

 キュウビにうながされ、風見はそれが何を意味するのかすぐに結びつけた。
 そう、地竜を補うのならこれ以上となく見合うものを、風見は持っている。
 それは、魔獣まじゅうミスリルタイタンを倒して手に入れた、霊核武装。
 まったく、笑ってしまいそうだ。一体どこからどこまで見通していたのかはわからないが、これほどまでに適切な力を用意してくれた魔獣まじゅうドリアードには、感服するしかない。

「ハチは幾度か口にしていました。魔獣まじゅうは領域を出られない。皮肉で残酷なこの世界はドラゴンに至高の身を与えたが、孤高になるしかないのろいまで持たせた、と。ですが、悲しいことばかりではありません。ハチとお父様の出会いはそうでした。誰かと共に飛べば身が軽くなる矛盾を、わたくしたちは知っています。だからあの子に改めて教えてあげてくださいな。シンゴ様が望む未来も、その先にあります」

 キュウビは風見の胸に手を触れる。

「ですが、単に霊核武装で翼の代わりを用意するだけでいい、とは思わないでください。それではただの独りよがりです。要は相加術と同じ。シンゴ様は今まで、人と魔物、そして魔獣まじゅうの関係を繋ぎ合わせてきました。それを律法でもおこなえばいいだけです。難しくはありません。シンゴ様はもうすでにその力の片鱗を樹海で味わっているのですから」

 風見はその言葉をきっかけに思い出す。
 ミスリルタイタンを倒す際、タマの律法はそれまでにないほど強い力を発していた。その際、風見の左手に埋めこまれたヒュージスライムの核も、熱を発していた。
 あれは風見自身が核に働きかけ、タマの律法が相加術のように発動したということだったのかもしれない。
 風見は、自分の体を改めて見つめる。
 ゴーレムの魔石から作った指輪に、ミスリルタイタンの霊核武装もある。また、ヒュージスライムの影響で、風見の体は徐々にこの世界の人間に寄ってきていると言っていい。
 人と魔物と魔獣まじゅう。確かに全てが身に揃っている。
 今までの旅で得たものは、決して無駄ではないのだと気づき、風見はその身に熱を覚えた。

「ああ……。ああ、そうだなっ……! なら、すぐにでもっ――」

 見通しがついた。ならば一分一秒でも早くリズのもとに駆けつけるべきだと風見は浮足立うきあしだつ。
 しかし、キュウビは風見を再び引き止めた。

「まだお待ちください」

 彼女の声色こわいろはきつい。まだ油断ならない問題が残っているのだろうか。

「一つ問題があります。ナトゥレルには記憶があるように見えません。恐らくそれはハチの律法で焼き尽くされたためでしょう。肉体なき死者はそうでした。では、肉体が残っていた死者はどうでしょうか? 生死にかかわらず、あの場に存在した者は以前の記憶を引き継いでいるのだとすれば、敵もまた同じなのではと思うのです。この辺りの見解については、シンゴ様の方が正確な推測を立てられるかと」

 エレインが使ったのは、いくら特殊であろうと律法である。
 風見自身、マレビトの特性に疑問をいだき、どのような条件なら律法は効果を表すのか研究をしてきた。それゆえ、キュウビの疑問に推測を立てることができる。

「……あの時の血や死体がエレインの律法を増幅したのなら、敵も記憶を受け継いでいる可能性は高いな。律法は、この世界の生物のに適用される。逆に、加熱とか長時間の放置でに律法は作用しないし、律法の増幅効果もなくなるはず。つまり、エレインが律法を使った時に、まだ死んでもなかった者は、記憶を持っていると考えた方がよさそうだ」
「やはりそうですか」

 キュウビはそれを踏まえた上での考えも用意していたらしく、すぐに口を開いた。

「敵が取る行動は両極端でしょう。一目散に逃げるか、徹底抗戦かの、どちらかです。後者であれば、総本山への襲撃を利用しないわけがありません。敵が攻めうるのは三ヶ所。この街か、住人を避難させたとりでか、総本山です。アスラの脅威となり得るのは、シンゴ様とタマちゃんとカトブレパスだけ。しかもアスラの機動力についていけるのは、タマちゃんしかいません。前回と同じく総本山を襲って状況を見ながら、魔獣まじゅうのいない施設をアスラ本体が襲う――そんな方針で来る公算が高いでしょう」

 敵はこのコロミアの街の北方約五十キロにある村に陣を敷いている。
 その距離はアスラなら三十分とかからずに走破するだろう。西軍兵も、寄生体を馬代わりにすれば、自動車並みの速度で侵攻してくるはずだ。

「――っ。だったら、ここにいる全軍を後退させて一ヶ所だけを守れば……」
悠長ゆうちょうに避難する時間はありませんし、施設を捨てて後退する姿をさらすなんて愚策ぐさくですわ。シンゴ様は思うがままにリズを助けに行けばいいのです」

 キュウビはゆったりと首を横に振ると、風見を抱擁ほうようする。

「シンゴ様。わたくしはあなたのことが好きです。この場所も居心地がいい。それを壊そうというやからは、わたくしにとっても敵なのです。だからカトブレパスが守らないこの街はわたくしが引き受けましょう。いとしい人と、この居場所はわたくしが守ります」
「ちょっと待て、ココノビ! 相手は魔獣まじゅう並みなんだぞ!? それを一人でなんて――」

 風見は抱きついてきたキュウビを引きがす。彼女は甘い時間がすぐに終わったことを少しばかりしんだ後、風見の口に人差し指を当てた。
 彼女はくつくつと狐の笑みを浮かべる。
 それは人ならざるものだ。邪悪で、妖艶ようえんで、力強さを感じさせる。

「ご心配ありがとうございます。けれども心外です。わたくしはこれでも、かつての英雄の娘ですよ? リズを死なせた未来では振るうこともかなわずに終わった力があるのです」

 それが先ほどの言葉を裏打ちする自信なのだと、彼女の表情は物語る。

「さあさ、目を覚ましなさい。大喰らい。あなたとて、もう目覚めてもいい事態でしょう?」

 その言葉は、この場にいる誰でもない何かに語りかけるものだ。
 一体何なのかと思った次の瞬間、空中がバキリとひび割れた。そこから黒い異空間がのぞいている。キュウビは異空間に手を突っ込み、ひと振りの刀を取り出した。
 風見でも肌が粟立あわだつほどの圧を感じてしまう異様な刀だ。
 初めて感じる力。しかし何故か見覚えがある。どこで見たのかと記憶を探り、数秒で思い出した。これは、総本山にあった二代目の石像にられていた刀と同じなのである。

「お気づきのようで何より。これはお父様が使っていた妖刀ようとうであり、最後の三柱みはしら魔獣まじゅうを殺す魔獣まじゅうの、現在の姿です。大陸中にヒュージスライムがかれた騒ぎ以降は、大事が起こらなかったため、手元に残っているのですよ」

 キュウビはそれを腰に差すと、ふところから二本のひもを取り出す。そしてそのひもで髪を一つにまとめ、振袖ふりそでをたすき掛けにしてから、風見の手を握って微笑んだ。

「シンゴ様。欲張りましょう。総本山ではリズだけでなく、他の命も危機にさらされます。それら全てを助けきってこその、あなたではないですか。わたくしはここでそれを支えます。だから、すべきことを全て果たして、戻ってきてください」

 あれほど悲惨ひさんな未来を仕立てた敵なのだ。キュウビの言葉がいくら頼もしくとも、引き止める言葉がのどから出そうになる。
 だが、止めるのは無粋ぶすいだろう。できないことであれば、キュウビもこうは言わないはずだ。
 そう察した風見は、彼女の決意をありがたく受け取る。

「……わかった。それならココノビには、俺からできるアドバイスをさせてくれ」
「はい、なんでしょう?」

 首をかしげるキュウビに対し、風見は手にしていたアスラに関する資料を渡す。

「マムルイーターの森で、ダニを幻術で落としたことを覚えているな? それを頭に置いて、この資料でアスラの分体の頭部に関する項目を読みこんでくれ。きっと役に立つはずだ」
「あんな出来事が霊格武装の御者ぎょしゃと戦うのに役立つとは、にわかには信じがたいですが……、あなた様らしいことですわね。うけたまわりました。拝読いたします」
「ああ、頼んだ」

 風見はキュウビにそう言うと、クロエに顔を向ける。

「クロエ、すぐに準備をしよう」
「はいっ!」

 クロエは即座にうなずいた。
 それを確かめて、風見は走り出そうとする。けれども、彼の前にセラが立ちはだかった。

「ちょっと待ってください。お姉様が死ぬだとか、未来だとか、時間が戻っただとか……一体どういうことですか!? その挙句あげく、あなたは敵が真っ先に攻めそうなこの場から、ドラゴンを連れて離れようって言うんですか!?」

 セラは風見の服を握りしめ、食ってかかる。彼女の後ろにいるグレンとリードベルトも、物言いたそうな顔を向けてきた。
 彼女らの不安はもっともだ。本来であれば、コロミアの街が襲撃される可能性が最も高い。そこにいて、敵軍対策会議に出席する予定だった英雄が、ドラゴンと共に後方へ下がったら、敵前逃亡にしか見えない。残された者の士気は吹き飛んでしまうはずだ。
 今まで風見と信頼関係を結んできた彼らですら、これだけ動揺している。


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