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2巻
2-2
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ちょっぴり、彼らの顔を見てほっとしたくなったのである。
ランディも見た目は一応、爽やか系のイケメンだ。しかし、彼とは可愛いものスキー仲間。同志であるとわかっているためか、ヴィクトリアは今まで一度も彼の笑顔に萌えたことはない。
以前、彼がラブリーな仔猫型の魔導具に、めろめろにとろけた笑顔を向けていたことを思い出す。ヴィクトリアは、なんだかとっても落ち着いた。癒やし系の友人の存在は、実にありがたい。
いつかランディにも白い仔猫を――いや、それではミュリエルへのプレゼントとかぶりすぎだろうか。
彼は、これからどんどん過酷なカリキュラムをこなしていかなければならない『楽園』の生徒なのだ。むしろ、本人に魔導石を提供してもらって、これからの学生生活に役立ちそうな魔導具を作ってあげた方が喜んでもらえるかもしれない。
そんなことを考えて現実逃避をしながら、ヴィクトリアはこっそりと深呼吸を繰り返す。
――夏の休暇のときと同様、今回だって、リージェスには絶対に『詐欺だ』という、若干微妙でわかりにくい褒め方をしてもらえると思っていたのだ。
なのにまさか、こんな夕日に向かって走り出したくなるような気分にさせられてしまうとは、想定外にもほどがある。
ヴィクトリアは、ちょっぴりその衝動に身を任せたくなった。
だが残念ながら、本日ヴィクトリアが履いているのは少し踵の高いお洒落な靴。全力ダッシュに適したものではない。
ヴィクトリアは、ふっとアンニュイなため息をついた。
「リア? どうかしたか?」
それに気づいたリージェスが、気遣わしげに顔をのぞきこんでくる。
「なな、なんでもありませんッ!」
迂闊にため息ひとつつけない。ヴィクトリアは、この現状になんだか泣きたくなってきた。
(うぅ……っ、助けてランディ! わたしは今、アナタの癒やし系笑顔がとっても欲しいのですー……!)
自分の寿命のためにも、一刻も早く友人のもとへ辿り着くしかない。
動揺をごまかすためにへらっと笑ったヴィクトリアは、さかさかと早足になったのだが――
「ひゃっ」
「……大丈夫か?」
――慣れない靴のせいで、石畳の段差につまずいてしまった。『楽園』の授業で反射神経を鍛え上げられたリージェスは、ヴィクトリアがすっ転ぶ前にきちんと抱き留めてくれる。
だがそのおかげで、先ほどからおかしな具合に跳ね回っていたヴィクトリアの心臓は、いっそう深刻なダメージを受けた。
(わー……。いい匂いですねー、リージェスさま。一体どちらの石けんをお使いなのでしょうか。あぁでも多分、この匂いはリージェスさまがお使いになっているからこそのもの。ほかの人が使っても、きっとこんな素敵な匂いにはならないのでしょうね。だったらここはやっぱり、思う存分心ゆくまで堪能しておくべきなのでしょうかッ)
なんだか思考が変態くさくなってきた。
こんなことを考えているのがバレたら、リージェスにどん引きされてしまうだろう。
――それは、いやだ。
せっかく、こんなに優しくしてもらえるようになったのだ。また以前みたいな絶対零度の眼差しで見られたら、完全に再起不能である。
そんな恐ろしい未来をあまりにリアルに想像してしまい、ヴィクトリアは瞬時に蒼白になった。涙目で顔を上げる。
「だ……大丈夫、です。ごめん、なさい」
もう二度と、素敵な匂いに変態っぽくうっとりしたりいたしません。すみませんごめんなさい許してください、と祈っていると、なぜかリージェスがおかしな具合に固まる。
「リージェスさま? どうかなさいましたか?」
「……いや。なんでもない」
そのとき一瞬、視線が外された。ヴィクトリアは、『いーやああぁあー! もしやすでに変態認定されてしまいましたか!? ほんの出来心だったんです、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいー!』と背筋の凍る思いをする。
だが、すぐにこちらを見た藍色の瞳は、いつもと同じ優しく穏やかなものだった。
「そんなに慌てなくても、おまえの友人たちは逃げたりしないだろう? 慣れない格好をしているんだから、気をつけて歩くんだぞ」
「は、はい」
石畳の上で転んだら、せっかくきれいに着付けてもらった服が汚れてしまう。うっかり忘れていたけれど、自分が身につけているものはすべてお貴族さま仕様の高級品。もし汚したり傷つけたりしたときには、手入れに大変な手間と時間が必要になるだろう。
自分の粗忽さを心から反省したヴィクトリアは、慎重にゆっくりと歩きはじめた。
――目的地に近づき、そこで働くランディたちの姿を見て半目になる。
(ランディ……。わたしは今、アナタに笑って声をかけるべきなのか、それとも黙って何も見なかったことにして引き返すべきなのか、葛藤しております)
隣でリージェスが、ぽつりとつぶやく。
「なんというか……どこからツッコめばいいのか、迷うところだな」
売っている物は、串焼きをはじめとした庶民の味的な軽食。だから、祭りでテンションが上がった彼らが、上半身裸にエプロンというワイルドな格好であることはさしたる問題ではないだろう。
しかしそんな男くさい姿の青少年たちが、みんな揃って可愛らしいネコ耳のカチューシャを装備しているのは、いかがなものか。
(ばっちりそれぞれの髪色に合わせてネコ耳が作られているという芸の細かさ。それがまた微妙に脱力感を増してくれるのですよ……)
どうやらランディのネコ耳萌えは、クラスメイト全員を巻きこんでしまうほどになっていたらしい。
自分がその原因だという自覚が充分にあるので、ヴィクトリアはとっても申し訳なくなる。
とはいえ、祭りに招いてくれたランディに、挨拶もせず帰るわけにはいかない。
意を決して近づくと、こちらに気づいたランディが大きく目を見開いた。それから、とても嬉しそうな笑みを浮かべ、ぐっと親指を立てる。
ヴィクトリアはそのとき、心の中で親指を立て返しながら、上半身裸のエプロン少年がネコ耳カチューシャをつけているというのもアリかもしれないな、と思った。
「こんにちは、ランディ。お元気でしたか?」
ヴィクトリアは『いいところのお嬢さま』っぽく、にこりと笑う。
ランディもヴィクトリアに合わせ、一瞬浮かべた不敵な笑みをすぐに消して、やけに優雅な仕草で一礼する。ネコ耳裸エプロンなのに。
「まさか、本当にいらしてくださるとは思いませんでした」
「お誘いありがとうございます。――その格好、寒くはないのですか?」
素朴な疑問を向けると、ランディはひょいと肩をすくめる。
「こちらで火を扱っていますから、少し暑いくらいですよ。お嬢さまのお口に合うかどうかわかりませんが、よろしかったら召し上がっていきませんか?」
ヴィクトリアがにっこり笑ってお願いしますと言おうとしたとき、リージェスが口を開いた。
「悪いが、肉を串から外してもらえるか。そのままだと、彼女には少し食べづらい」
「あ、はい。わかりました。でしたら、紙皿に新しい串を添えてお出ししますね」
(リージェスさま……。確かに、いいところのお嬢さまは、大口を開けて串焼きにかぶりついたりいたしませんね! ナイスフォローをありがとうございます!)
ヴィクトリアは、リージェスの気遣いにじーん、と感動した。
(……ん?)
そのとき、ランディ以外のクラスメイトたちが屋台の奥の方にひっこんでいることに気づく。
あんまり近くに寄ってこられて、自分がヴィクトリア・コーザだと彼らにバレては困る。
しかし、ネコ耳裸エプロン姿の青少年たちが一カ所にみちっと集まっている姿は、あんまり美しいものではない。ヴィクトリアは若干引きながら、こっそりとランディに尋ねた。
「あの……ランディ? みんなは、なぜ奥にひっこんでいるのですか?」
ランディは、くっくっと笑って声を低める。
「ヴィッキー? 男の子ってのはなー、可愛い女の子の前ではカッコつけたくなっちゃうイキモノだったりするのですよ。今のヤツらは、恥ずかしさでぴるぴる震えている仔猫ちゃんなのです」
「……それがわかっていて恥ずかしい格好をさせるとは、ランディもイイ性格をしていますね」
ヴィクトリアは、少しあきれた。無理やりこんな格好をさせて彼らの士気を下げてしまっては、営業に差し障るのではないだろうか。
しかし、ランディはヴィクトリアの言葉を意にも介さず、にやりと笑った。そして屋台の奥から箱を取り出して、ヴィクトリアの目の前にかざしてみせる。
「これも、うちの商品なんだけどな。おまえにはタダでやるよ。昔のよしみっつーか、退学になってなかったら、おまえも店に出てこれをつけてたんだしさ」
それは、ふわふわとした銀色のネコ耳がついたカチューシャだった。屋台のあちこちにカチューシャが飾られているのには気づいていたが、まさかこれも売り物だったとは。
たとえ生徒として店に出ていたとしても、ネコ耳裸エプロン姿になることだけは断固拒否していただろう。けれど、こうして祭りの間だけでも彼らと何かを共有できるのは、やっぱり嬉しい。可愛らしい銀色のネコ耳カチューシャを受け取り、さっそく頭に装着してみる。
「……おかしくありませんか?」
ヴィクトリアが聞くと、ランディは両手を叩いて満面の笑みを浮かべた。
「おお、似合う似合う! やっぱ、うちの連中よりずっといいな!」
比較対象が裸エプロンの筋肉系男子である以上、その評価は微妙だなーと思う。
しかし、褒め言葉は褒め言葉。ヴィクトリアは、にっこり笑って礼を言った。
「ありがとうございます、ランディ。えぇと、串焼きはおいくらですか?」
ランディがあきれた様子で顔をしかめる。
「ばーか、男に恥をかかせるようなこと言ってんじゃねーよ。――リージェスさま、お代を頂戴してもよろしいですか?」
「ああ。いくらだ?」
リージェスは無表情で答えた。ランディが近くに飾ってあった黒のネコ耳カチューシャを手に取る。
「もしよければ、リージェスさまもお揃いで――」
「結構だ」
リージェスは即答したが、ランディはめげなかった。
「絶対、喜びますよ? コイツ」
「……結構だと、言っている」
リージェスはランディにお金を渡して皿を受け取り、歩き出した。ヴィクトリアは改めてランディに礼を言うと、リージェスを追いかける。
「リージェスさま? あの、ありがとうございました」
リージェスが少し疲れたような顔で、いや、とつぶやく。
「おまえの友人は、なかなか面白い男だな」
「はい。元々可愛いものが大好きなひとではあったのですけど……。まさか、リージェスさまにまでネコ耳をすすめるとは思いませんでした」
ヴィクトリアの言葉を聞き、リージェスが半目になって振り返った。
「あれは、オレをからかって遊んでいただけだ。決して本気であの頭飾りをすすめてきたわけではないと思うぞ」
そうなのかな、とヴィクトリアは首をかしげる。
「リージェスさまをからかって遊ぶなんて、ランディは随分いい度胸をしているのですね」
それほどの度胸があるランディなら、リージェスの友人になれるかもしれない。
ヴィクトリアは、ランディに心からのエールを送った。
(がんばって、リージェスさまの友人になってくださいね、ランディ! リージェスさまにはちょっぴり変わった崇拝者は大勢いらっしゃいますけれど、マトモにご友人と呼べるのはシャノンさまおひとりだけかもしれません。あなたがリージェスさまとお友達になってくれたら、わたしはとっても嬉しいです!)
ほっこりした気分で食べた串焼きの肉は、とてもおいしかった。
そのあと、ヴィクトリアはリージェスとともに上級クラスのイベント会場を訪れた。そこにいたシャノンが、彼女の姿を見るなりあきれ顔で言う。
「……なんか、すんげーヤな気分になった」
「顔を見るなりそのお言葉は、さすがにひどくありませんかー!?」
ヴィクトリアは思いきりむくれた。
シャノンは、顔をしかめたヴィクトリアの両頬を、むにっとつまむ。
「中身がコレだとわかっていると、そのあざとい外見がひじょーにムカつくのだ。なんだそのネコ耳は。あんまり狙いすぎると、あざといを通り越して笑いを誘うぞ?」
友人からもらった大切なネコ耳を貶され、ヴィクトリアは非常にムカついた。シャノンの足の甲を、靴の踵で思いきり踏みにじる。
「~~っ!」
うずくまって悶絶するシャノンを、ヴィクトリアはふふんと笑って見下ろした。
こちとら曲がりなりにも半年以上、近接戦闘訓練だらけの『楽園』で過ごしたのだ。それを知っているくせに喧嘩を売ってくるとは、まったく思慮が浅いにもほどがある。
「……シャノン」
そのとき、やけに低く冷たいリージェスの声が響いた。シャノンがぎょっとした様子で勢いよく顔を上げる。
「気安く、触るな」
「……ハイ。スミマセンデシタ」
ヴィクトリアは、ちょっと引いた。
(リージェスさま? あの、そんなに怒っていただかなくても大丈夫ですよ? しょっちゅう頭を鷲掴みにされたりしてきたのですから、ほっぺを引っ張られるくらい、ほんとになんてことないのですよ……?)
びくびくしながらふたりの様子をうかがうと、リージェスがヴィクトリアを見てにこりと笑った。
「次からは急所を狙え。婦女子の顔を痛めつける阿呆には、手加減してやる必要はないんだぞ?」
「は、はい! わかりました!」
思わず敬礼しそうになったヴィクトリアの足下で、蒼白になったシャノンがぎゃあとわめく。
「もうしねぇって! だーもう、悪かった、オレが悪かった!」
慌ただしく立ち上がると、シャノンはさりげなくヴィクトリアから距離を取った。
いまさら、彼の急所を狙うつもりはないのだが。
(そういえば母さんが、変な男のひとに絡まれたときには、真下から体にめりこませる勢いで蹴り上げろって言ってたっけ。『楽園』では急所への攻撃を禁止されてたから、すっかり忘れてたなー)
「……おい、おまえ。今何か、とても恐ろしいことを考えていなかったか」
「え? いえ、別に」
振り返ると、シャノンが何やらひどく青ざめている。
一体どうしたんだろう、と思っていたら、リージェスが小さく息をついた。
「シャノン……。おまえは変なところで勘がいいな」
「やかましいわ!」
シャノンが再びぎゃあ、とわめく。
改めて見てみると、彼は一風変わった異国風の衣装を着ていた。
上着は、ゆったりとしたつくりの前合わせのもの。その肩口と腰を、色鮮やかな紐と帯で締めている。光沢のある深い青緑色の生地には、伝説上の生物が華やかに描かれていて実に麗しい。
黙って立っていれば、まるで異国の勇壮な王子さまのようだ。
ヴィクトリアはなるほど、とうなずいた。
(うん。『黙ってさえいれば』それなりに見えるってところが、わたしとシャノンさまの共通項なのですね。なんだか微妙な気分ではありますが、ほんのちょびっとだけ、親近感がわきますよ。シャノンさま)
シャノンが、半目になってこちらを見る。
「……なんだか、失礼なことを考えていなかったか?」
「イエ、別に」
やっぱりシャノンは、かなり勘がいいのかもしれない。
彼のクラスが行っているイベントは、正門前広場の奥に造られた巨大な人工池での不思議な水遊びだ。人工池は三段あり、段ごとに角度の違う幅広の滝が流れている。
シャノンたちが使っているのは、最上段の人工池だ。
滝の少し手前に、普段はない頑丈そうなフェンスが設置されていた。その両側に置かれた高い椅子には、監視員らしき腕章をつけた生徒たちが座っている。
池の上には、大きくて透明な球体が浮かんでいる。それは、防御シールドの構築式を応用した魔導具だという。
幼い子どもたちは親と一緒に、少年少女たちはひとりずつその中に入って遊んでいた。
彼らは大きな歓声を上げながら、ボールの中で楽しげにくるくると転げまわっている。そのボールの内部は、かなり弾力性に富んでいるようだった。
また上手く扱えば、ボールを回転させて、なかなかのスピードで移動することもできるらしい。奥の競争用レーンでは、少年たちが真剣な顔をして競い合っている。
とっても楽しそうではあるけれど、残念ながら本日のヴィクトリアは、こんなアクティビティにはとことん不向きなお嬢さま仕様。
いいなー、いいなー、とうらやましく思いながら見つめていると、シャノンが笑って口を開いた。
「あっちのボールタイプはさすがにムリだが、なんだったらボートタイプに乗ってくか? 船底の素材が透明になっているから、水の中が見えて結構面白いぞ」
彼の言葉に、ヴィクトリアはきらきらと瞳を輝かせておねだりポーズをしようとした。それを察してか、リージェスがシャノンから素敵なボートを借りてくれる。
なんだか最近、リージェスにこちらの行動パターンを読まれまくっている気がする。
ヴィクトリアは、ボールタイプの遊具で人々が遊んでいるところから少し離れたボート乗り場まで行き、ボートに乗せてもらった。オールを漕ぐのはリージェスだ。
(……おおぉおおー! すごいです! ここでこんなにたくさん、お魚を飼っていたなんて!)
シャノンが言っていた通り、普段は見ることのできない水の中が見えた。その美しさに心が躍る。
「……ん?」
ふと、リージェスが何かに気づいたようにボールエリアの方を見た。
どうしたんだろうと思い、ヴィクトリアは彼の視線の先を追う。
すると、水上に浮かぶボールの中に、やけに大きなずんぐりむっくりとしたものの姿がある。
(……熊さん?)
よく見ると、それは校門近くで目にしたキュートな熊の着ぐるみだった。
どうやらあれは、このクラスの客引きだったようだ。
熊の入っているボールは、ほかのたくさんのボールに取り囲まれていた。四方八方から突撃してくるボールに翻弄されて、飛んだり跳ねたり沈みかけたりと、もみくちゃにされている。
リージェスが目を細めて、しみじみと言った。
「熊も大変だな」
「そうですねー。……あ」
そのとき、やけに元気のいい少年たちの入ったボール三体に同時突撃され、熊入りボールが大きくはじき飛ばされた。かなり高めに設置された安全フェンスを、軽々と飛び越えていく。
……もし飛ばされたのが子ども入りのボールだったなら、監視係の生徒たちは、どんな手段を使ってもそれを確保していただろう。
だが、彼らはただポカンとそれを見ていた。ふわもこのお洒落な熊さん入りのボールが空中を高々と飛んでいく姿は、ちょっぴりメルヘンチックだ。そのせいで監視係の咄嗟の判断が鈍ったのかもしれない。
リージェスは、熊入りボールが飛んでいった中段の人工池の方に一瞬目を向け、すぐに逸らして言った。
「……生きているといいな」
「……そうですねー」
何事もなかったかのように、ヴィクトリアはリージェスとともにボートから下りた。そしてふと、リージェスのクラスのイベントを見てみたくなる。
何しろ彼らは、この『楽園』ヒエラルキーの最上位に君臨しているのである。さぞ気合いの入った素敵なイベントを催しているに違いない。
ヴィクトリアがそう言うと、リージェスはなぜか困った顔をした。
「また、見るだけになるぞ?」
「えっと……何をなさっているんですか?」
「滑り台だ」
ヴィクトリアは首をかしげた。『楽園』最上位クラスの催しが、子ども向けの遊具とはいかに。
そんな疑問が伝わったのか、リージェスが苦笑まじりに言う。
「簡易要塞設営ブロックとエアクッション、それに高所脱出用エアシューターの術式を組み合わせて作ったんだが、少々スリリングなものになってしまってな。――一応、見るだけ見てみるか?」
「……ハイ」
話を聞くだけで背筋が凍ったが、怖いもの見たさというやつである。
――それは、校舎の裏側に広がる、訓練用のグラウンドにあった。
その滑り台を見た瞬間、ヴィクトリアは思った。
これは絶対に、『少々スリリング』などという可愛らしいレベルじゃないだろう、と。
摩擦熱で火傷をしないようにという配慮からなのだろうか。滑り台にトライする人々には、一抱えほどの大きさのソリのようなものが手渡されている。
彼らは非常に緊張した面持ちで、かなり斜度のある階段を延々と上ったあとに、滑り台に突入していく。高さは『楽園』の校舎四階分くらいはゆうにある。
そして何よりえげつないところは、滑走部分が、先ほど人工池で見たボール型の遊具と同じ透明素材でできている、という点だ。
基本的に怖いのが大嫌いなヴィクトリアは、あんなものに自らトライしようとするなんて、みなさんちょっぴり危ない被虐嗜好があるのではないかと思ってしまう。
ヴィクトリアは、おそるおそるリージェスを見上げた。
「あの……。リージェスさま?」
「『楽園』での最後の祭りだから、クラスの連中が妙に張り切ってしまってな。あれでも一応、安全確保を万全にするために、いろいろなことをかなり控えめにさせたんだ。……こっちの隙を見て余計な術式を付加しようとする連中の頭を、何度どつき倒したことか」
そう言うリージェスの目が据わっている。
テンションが上がりきってしまっている級友たちを制御するのは、完全無欠な寮長さまでも難しかったのかもしれない。
こんな絶叫アクティビティ、とてもヴィクトリアは楽しめない。見ているだけで背筋がぞわぞわしてしまう――と思っていたら、「ひいいいぃいいー」という大声が滑り台の方から聞こえてきた。
滑走部分は筒状なのに、どうしてこんなに中の声が聞こえてくるのだろう。
疑問に思っていると、リージェスがぼそっとつぶやいた。
「あれの魔術式を組んだ連中が、臨場感を出すためには絶対に必要だと言い張って譲らなくてな。中の音声を、この会場内に聞こえるくらいに増幅して流しているんだ。オレは悪趣味だからやめておけと言ったんだが――」
彼の言葉が終わる前に、今度は「ぃやっほぉおおおぉー!!」と叫ぶ声が聞こえた。……どうやら、滑り台を全力で楽しむがゆえの歓喜の雄叫びのようだ。
「――世の中には、いろいろな人間がいるのだな」
そう言ったリージェスの横顔は、どこか憂いを帯びていて実に麗しかったのだが、あんまり萌えることはできなかった。
いずれにせよ、ここはチキンハートなヴィクトリアがいていい場所ではない。
ああいった恐ろしいモノを楽しむためには、きっと戦術級防御シールド並の強度を持つ心臓を所有していなければならないのだ。ヴィクトリアはごく普通の人間である。そんな超人的な強靱さを備えた人々とは違う世界で生きているのだから、ここは潔く戦略的撤退を選択すべきだ。
己の進むべき道を悟ったヴィクトリアは、にっこり笑ってリージェスを見上げた。
「リージェスさま。正門前広場の方に戻りませんか? ミュリエルさまのお土産を選びたいです」
来るときは、一刻も早くランディのところへ行くために、ほかの屋台はすべてスルーしてきた。
それらの中には、とても脳筋系男子学生の作品とは思えないほど可愛らしい商品を並べている店がいくつもあった。
作者の学生は、人気魔導具職人を目指すヴィクトリアのライバルになるのかもしれないのだ。彼らの実力は、今のうちにぜひこの目で直接確かめておきたい。
ヴィクトリアが踵を返したそのとき、背後から高く澄んだ声が聞こえてきて、びしっと固まった。
「――アイザック! ぼくはこれに乗りたいと言っているだろう! なぜ邪魔をする!?」
「ベルナルドさま。お言葉ですが、邪魔をしているのは私ではございません。この『ごめんね! ボクよりも小さなお子さまは、滑り台に乗ることはできないんだ!』と訴えている、ぶたさんなのです。あなたさまがぶたさんよりも小さなお子さまである以上、滑り台に乗ることはできないのです」
抑揚のない訥々とした声で、誰かが滑り台の身長制限を体現しているキュートなぶたさんの台詞をさらりと言ってのける。
ヴィクトリアは、おそるおそる肩越しに背後を振り返った。
(……っやっぱりーっっ!!)
そこには、愛くるしいぶたさんのぬいぐるみを睨みつけ、懸命に背伸びをする小柄な少年の姿があった。目立つ金髪を帽子で隠して、ごく一般的な貴族の子弟のような格好をしている。
ランディも見た目は一応、爽やか系のイケメンだ。しかし、彼とは可愛いものスキー仲間。同志であるとわかっているためか、ヴィクトリアは今まで一度も彼の笑顔に萌えたことはない。
以前、彼がラブリーな仔猫型の魔導具に、めろめろにとろけた笑顔を向けていたことを思い出す。ヴィクトリアは、なんだかとっても落ち着いた。癒やし系の友人の存在は、実にありがたい。
いつかランディにも白い仔猫を――いや、それではミュリエルへのプレゼントとかぶりすぎだろうか。
彼は、これからどんどん過酷なカリキュラムをこなしていかなければならない『楽園』の生徒なのだ。むしろ、本人に魔導石を提供してもらって、これからの学生生活に役立ちそうな魔導具を作ってあげた方が喜んでもらえるかもしれない。
そんなことを考えて現実逃避をしながら、ヴィクトリアはこっそりと深呼吸を繰り返す。
――夏の休暇のときと同様、今回だって、リージェスには絶対に『詐欺だ』という、若干微妙でわかりにくい褒め方をしてもらえると思っていたのだ。
なのにまさか、こんな夕日に向かって走り出したくなるような気分にさせられてしまうとは、想定外にもほどがある。
ヴィクトリアは、ちょっぴりその衝動に身を任せたくなった。
だが残念ながら、本日ヴィクトリアが履いているのは少し踵の高いお洒落な靴。全力ダッシュに適したものではない。
ヴィクトリアは、ふっとアンニュイなため息をついた。
「リア? どうかしたか?」
それに気づいたリージェスが、気遣わしげに顔をのぞきこんでくる。
「なな、なんでもありませんッ!」
迂闊にため息ひとつつけない。ヴィクトリアは、この現状になんだか泣きたくなってきた。
(うぅ……っ、助けてランディ! わたしは今、アナタの癒やし系笑顔がとっても欲しいのですー……!)
自分の寿命のためにも、一刻も早く友人のもとへ辿り着くしかない。
動揺をごまかすためにへらっと笑ったヴィクトリアは、さかさかと早足になったのだが――
「ひゃっ」
「……大丈夫か?」
――慣れない靴のせいで、石畳の段差につまずいてしまった。『楽園』の授業で反射神経を鍛え上げられたリージェスは、ヴィクトリアがすっ転ぶ前にきちんと抱き留めてくれる。
だがそのおかげで、先ほどからおかしな具合に跳ね回っていたヴィクトリアの心臓は、いっそう深刻なダメージを受けた。
(わー……。いい匂いですねー、リージェスさま。一体どちらの石けんをお使いなのでしょうか。あぁでも多分、この匂いはリージェスさまがお使いになっているからこそのもの。ほかの人が使っても、きっとこんな素敵な匂いにはならないのでしょうね。だったらここはやっぱり、思う存分心ゆくまで堪能しておくべきなのでしょうかッ)
なんだか思考が変態くさくなってきた。
こんなことを考えているのがバレたら、リージェスにどん引きされてしまうだろう。
――それは、いやだ。
せっかく、こんなに優しくしてもらえるようになったのだ。また以前みたいな絶対零度の眼差しで見られたら、完全に再起不能である。
そんな恐ろしい未来をあまりにリアルに想像してしまい、ヴィクトリアは瞬時に蒼白になった。涙目で顔を上げる。
「だ……大丈夫、です。ごめん、なさい」
もう二度と、素敵な匂いに変態っぽくうっとりしたりいたしません。すみませんごめんなさい許してください、と祈っていると、なぜかリージェスがおかしな具合に固まる。
「リージェスさま? どうかなさいましたか?」
「……いや。なんでもない」
そのとき一瞬、視線が外された。ヴィクトリアは、『いーやああぁあー! もしやすでに変態認定されてしまいましたか!? ほんの出来心だったんです、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいー!』と背筋の凍る思いをする。
だが、すぐにこちらを見た藍色の瞳は、いつもと同じ優しく穏やかなものだった。
「そんなに慌てなくても、おまえの友人たちは逃げたりしないだろう? 慣れない格好をしているんだから、気をつけて歩くんだぞ」
「は、はい」
石畳の上で転んだら、せっかくきれいに着付けてもらった服が汚れてしまう。うっかり忘れていたけれど、自分が身につけているものはすべてお貴族さま仕様の高級品。もし汚したり傷つけたりしたときには、手入れに大変な手間と時間が必要になるだろう。
自分の粗忽さを心から反省したヴィクトリアは、慎重にゆっくりと歩きはじめた。
――目的地に近づき、そこで働くランディたちの姿を見て半目になる。
(ランディ……。わたしは今、アナタに笑って声をかけるべきなのか、それとも黙って何も見なかったことにして引き返すべきなのか、葛藤しております)
隣でリージェスが、ぽつりとつぶやく。
「なんというか……どこからツッコめばいいのか、迷うところだな」
売っている物は、串焼きをはじめとした庶民の味的な軽食。だから、祭りでテンションが上がった彼らが、上半身裸にエプロンというワイルドな格好であることはさしたる問題ではないだろう。
しかしそんな男くさい姿の青少年たちが、みんな揃って可愛らしいネコ耳のカチューシャを装備しているのは、いかがなものか。
(ばっちりそれぞれの髪色に合わせてネコ耳が作られているという芸の細かさ。それがまた微妙に脱力感を増してくれるのですよ……)
どうやらランディのネコ耳萌えは、クラスメイト全員を巻きこんでしまうほどになっていたらしい。
自分がその原因だという自覚が充分にあるので、ヴィクトリアはとっても申し訳なくなる。
とはいえ、祭りに招いてくれたランディに、挨拶もせず帰るわけにはいかない。
意を決して近づくと、こちらに気づいたランディが大きく目を見開いた。それから、とても嬉しそうな笑みを浮かべ、ぐっと親指を立てる。
ヴィクトリアはそのとき、心の中で親指を立て返しながら、上半身裸のエプロン少年がネコ耳カチューシャをつけているというのもアリかもしれないな、と思った。
「こんにちは、ランディ。お元気でしたか?」
ヴィクトリアは『いいところのお嬢さま』っぽく、にこりと笑う。
ランディもヴィクトリアに合わせ、一瞬浮かべた不敵な笑みをすぐに消して、やけに優雅な仕草で一礼する。ネコ耳裸エプロンなのに。
「まさか、本当にいらしてくださるとは思いませんでした」
「お誘いありがとうございます。――その格好、寒くはないのですか?」
素朴な疑問を向けると、ランディはひょいと肩をすくめる。
「こちらで火を扱っていますから、少し暑いくらいですよ。お嬢さまのお口に合うかどうかわかりませんが、よろしかったら召し上がっていきませんか?」
ヴィクトリアがにっこり笑ってお願いしますと言おうとしたとき、リージェスが口を開いた。
「悪いが、肉を串から外してもらえるか。そのままだと、彼女には少し食べづらい」
「あ、はい。わかりました。でしたら、紙皿に新しい串を添えてお出ししますね」
(リージェスさま……。確かに、いいところのお嬢さまは、大口を開けて串焼きにかぶりついたりいたしませんね! ナイスフォローをありがとうございます!)
ヴィクトリアは、リージェスの気遣いにじーん、と感動した。
(……ん?)
そのとき、ランディ以外のクラスメイトたちが屋台の奥の方にひっこんでいることに気づく。
あんまり近くに寄ってこられて、自分がヴィクトリア・コーザだと彼らにバレては困る。
しかし、ネコ耳裸エプロン姿の青少年たちが一カ所にみちっと集まっている姿は、あんまり美しいものではない。ヴィクトリアは若干引きながら、こっそりとランディに尋ねた。
「あの……ランディ? みんなは、なぜ奥にひっこんでいるのですか?」
ランディは、くっくっと笑って声を低める。
「ヴィッキー? 男の子ってのはなー、可愛い女の子の前ではカッコつけたくなっちゃうイキモノだったりするのですよ。今のヤツらは、恥ずかしさでぴるぴる震えている仔猫ちゃんなのです」
「……それがわかっていて恥ずかしい格好をさせるとは、ランディもイイ性格をしていますね」
ヴィクトリアは、少しあきれた。無理やりこんな格好をさせて彼らの士気を下げてしまっては、営業に差し障るのではないだろうか。
しかし、ランディはヴィクトリアの言葉を意にも介さず、にやりと笑った。そして屋台の奥から箱を取り出して、ヴィクトリアの目の前にかざしてみせる。
「これも、うちの商品なんだけどな。おまえにはタダでやるよ。昔のよしみっつーか、退学になってなかったら、おまえも店に出てこれをつけてたんだしさ」
それは、ふわふわとした銀色のネコ耳がついたカチューシャだった。屋台のあちこちにカチューシャが飾られているのには気づいていたが、まさかこれも売り物だったとは。
たとえ生徒として店に出ていたとしても、ネコ耳裸エプロン姿になることだけは断固拒否していただろう。けれど、こうして祭りの間だけでも彼らと何かを共有できるのは、やっぱり嬉しい。可愛らしい銀色のネコ耳カチューシャを受け取り、さっそく頭に装着してみる。
「……おかしくありませんか?」
ヴィクトリアが聞くと、ランディは両手を叩いて満面の笑みを浮かべた。
「おお、似合う似合う! やっぱ、うちの連中よりずっといいな!」
比較対象が裸エプロンの筋肉系男子である以上、その評価は微妙だなーと思う。
しかし、褒め言葉は褒め言葉。ヴィクトリアは、にっこり笑って礼を言った。
「ありがとうございます、ランディ。えぇと、串焼きはおいくらですか?」
ランディがあきれた様子で顔をしかめる。
「ばーか、男に恥をかかせるようなこと言ってんじゃねーよ。――リージェスさま、お代を頂戴してもよろしいですか?」
「ああ。いくらだ?」
リージェスは無表情で答えた。ランディが近くに飾ってあった黒のネコ耳カチューシャを手に取る。
「もしよければ、リージェスさまもお揃いで――」
「結構だ」
リージェスは即答したが、ランディはめげなかった。
「絶対、喜びますよ? コイツ」
「……結構だと、言っている」
リージェスはランディにお金を渡して皿を受け取り、歩き出した。ヴィクトリアは改めてランディに礼を言うと、リージェスを追いかける。
「リージェスさま? あの、ありがとうございました」
リージェスが少し疲れたような顔で、いや、とつぶやく。
「おまえの友人は、なかなか面白い男だな」
「はい。元々可愛いものが大好きなひとではあったのですけど……。まさか、リージェスさまにまでネコ耳をすすめるとは思いませんでした」
ヴィクトリアの言葉を聞き、リージェスが半目になって振り返った。
「あれは、オレをからかって遊んでいただけだ。決して本気であの頭飾りをすすめてきたわけではないと思うぞ」
そうなのかな、とヴィクトリアは首をかしげる。
「リージェスさまをからかって遊ぶなんて、ランディは随分いい度胸をしているのですね」
それほどの度胸があるランディなら、リージェスの友人になれるかもしれない。
ヴィクトリアは、ランディに心からのエールを送った。
(がんばって、リージェスさまの友人になってくださいね、ランディ! リージェスさまにはちょっぴり変わった崇拝者は大勢いらっしゃいますけれど、マトモにご友人と呼べるのはシャノンさまおひとりだけかもしれません。あなたがリージェスさまとお友達になってくれたら、わたしはとっても嬉しいです!)
ほっこりした気分で食べた串焼きの肉は、とてもおいしかった。
そのあと、ヴィクトリアはリージェスとともに上級クラスのイベント会場を訪れた。そこにいたシャノンが、彼女の姿を見るなりあきれ顔で言う。
「……なんか、すんげーヤな気分になった」
「顔を見るなりそのお言葉は、さすがにひどくありませんかー!?」
ヴィクトリアは思いきりむくれた。
シャノンは、顔をしかめたヴィクトリアの両頬を、むにっとつまむ。
「中身がコレだとわかっていると、そのあざとい外見がひじょーにムカつくのだ。なんだそのネコ耳は。あんまり狙いすぎると、あざといを通り越して笑いを誘うぞ?」
友人からもらった大切なネコ耳を貶され、ヴィクトリアは非常にムカついた。シャノンの足の甲を、靴の踵で思いきり踏みにじる。
「~~っ!」
うずくまって悶絶するシャノンを、ヴィクトリアはふふんと笑って見下ろした。
こちとら曲がりなりにも半年以上、近接戦闘訓練だらけの『楽園』で過ごしたのだ。それを知っているくせに喧嘩を売ってくるとは、まったく思慮が浅いにもほどがある。
「……シャノン」
そのとき、やけに低く冷たいリージェスの声が響いた。シャノンがぎょっとした様子で勢いよく顔を上げる。
「気安く、触るな」
「……ハイ。スミマセンデシタ」
ヴィクトリアは、ちょっと引いた。
(リージェスさま? あの、そんなに怒っていただかなくても大丈夫ですよ? しょっちゅう頭を鷲掴みにされたりしてきたのですから、ほっぺを引っ張られるくらい、ほんとになんてことないのですよ……?)
びくびくしながらふたりの様子をうかがうと、リージェスがヴィクトリアを見てにこりと笑った。
「次からは急所を狙え。婦女子の顔を痛めつける阿呆には、手加減してやる必要はないんだぞ?」
「は、はい! わかりました!」
思わず敬礼しそうになったヴィクトリアの足下で、蒼白になったシャノンがぎゃあとわめく。
「もうしねぇって! だーもう、悪かった、オレが悪かった!」
慌ただしく立ち上がると、シャノンはさりげなくヴィクトリアから距離を取った。
いまさら、彼の急所を狙うつもりはないのだが。
(そういえば母さんが、変な男のひとに絡まれたときには、真下から体にめりこませる勢いで蹴り上げろって言ってたっけ。『楽園』では急所への攻撃を禁止されてたから、すっかり忘れてたなー)
「……おい、おまえ。今何か、とても恐ろしいことを考えていなかったか」
「え? いえ、別に」
振り返ると、シャノンが何やらひどく青ざめている。
一体どうしたんだろう、と思っていたら、リージェスが小さく息をついた。
「シャノン……。おまえは変なところで勘がいいな」
「やかましいわ!」
シャノンが再びぎゃあ、とわめく。
改めて見てみると、彼は一風変わった異国風の衣装を着ていた。
上着は、ゆったりとしたつくりの前合わせのもの。その肩口と腰を、色鮮やかな紐と帯で締めている。光沢のある深い青緑色の生地には、伝説上の生物が華やかに描かれていて実に麗しい。
黙って立っていれば、まるで異国の勇壮な王子さまのようだ。
ヴィクトリアはなるほど、とうなずいた。
(うん。『黙ってさえいれば』それなりに見えるってところが、わたしとシャノンさまの共通項なのですね。なんだか微妙な気分ではありますが、ほんのちょびっとだけ、親近感がわきますよ。シャノンさま)
シャノンが、半目になってこちらを見る。
「……なんだか、失礼なことを考えていなかったか?」
「イエ、別に」
やっぱりシャノンは、かなり勘がいいのかもしれない。
彼のクラスが行っているイベントは、正門前広場の奥に造られた巨大な人工池での不思議な水遊びだ。人工池は三段あり、段ごとに角度の違う幅広の滝が流れている。
シャノンたちが使っているのは、最上段の人工池だ。
滝の少し手前に、普段はない頑丈そうなフェンスが設置されていた。その両側に置かれた高い椅子には、監視員らしき腕章をつけた生徒たちが座っている。
池の上には、大きくて透明な球体が浮かんでいる。それは、防御シールドの構築式を応用した魔導具だという。
幼い子どもたちは親と一緒に、少年少女たちはひとりずつその中に入って遊んでいた。
彼らは大きな歓声を上げながら、ボールの中で楽しげにくるくると転げまわっている。そのボールの内部は、かなり弾力性に富んでいるようだった。
また上手く扱えば、ボールを回転させて、なかなかのスピードで移動することもできるらしい。奥の競争用レーンでは、少年たちが真剣な顔をして競い合っている。
とっても楽しそうではあるけれど、残念ながら本日のヴィクトリアは、こんなアクティビティにはとことん不向きなお嬢さま仕様。
いいなー、いいなー、とうらやましく思いながら見つめていると、シャノンが笑って口を開いた。
「あっちのボールタイプはさすがにムリだが、なんだったらボートタイプに乗ってくか? 船底の素材が透明になっているから、水の中が見えて結構面白いぞ」
彼の言葉に、ヴィクトリアはきらきらと瞳を輝かせておねだりポーズをしようとした。それを察してか、リージェスがシャノンから素敵なボートを借りてくれる。
なんだか最近、リージェスにこちらの行動パターンを読まれまくっている気がする。
ヴィクトリアは、ボールタイプの遊具で人々が遊んでいるところから少し離れたボート乗り場まで行き、ボートに乗せてもらった。オールを漕ぐのはリージェスだ。
(……おおぉおおー! すごいです! ここでこんなにたくさん、お魚を飼っていたなんて!)
シャノンが言っていた通り、普段は見ることのできない水の中が見えた。その美しさに心が躍る。
「……ん?」
ふと、リージェスが何かに気づいたようにボールエリアの方を見た。
どうしたんだろうと思い、ヴィクトリアは彼の視線の先を追う。
すると、水上に浮かぶボールの中に、やけに大きなずんぐりむっくりとしたものの姿がある。
(……熊さん?)
よく見ると、それは校門近くで目にしたキュートな熊の着ぐるみだった。
どうやらあれは、このクラスの客引きだったようだ。
熊の入っているボールは、ほかのたくさんのボールに取り囲まれていた。四方八方から突撃してくるボールに翻弄されて、飛んだり跳ねたり沈みかけたりと、もみくちゃにされている。
リージェスが目を細めて、しみじみと言った。
「熊も大変だな」
「そうですねー。……あ」
そのとき、やけに元気のいい少年たちの入ったボール三体に同時突撃され、熊入りボールが大きくはじき飛ばされた。かなり高めに設置された安全フェンスを、軽々と飛び越えていく。
……もし飛ばされたのが子ども入りのボールだったなら、監視係の生徒たちは、どんな手段を使ってもそれを確保していただろう。
だが、彼らはただポカンとそれを見ていた。ふわもこのお洒落な熊さん入りのボールが空中を高々と飛んでいく姿は、ちょっぴりメルヘンチックだ。そのせいで監視係の咄嗟の判断が鈍ったのかもしれない。
リージェスは、熊入りボールが飛んでいった中段の人工池の方に一瞬目を向け、すぐに逸らして言った。
「……生きているといいな」
「……そうですねー」
何事もなかったかのように、ヴィクトリアはリージェスとともにボートから下りた。そしてふと、リージェスのクラスのイベントを見てみたくなる。
何しろ彼らは、この『楽園』ヒエラルキーの最上位に君臨しているのである。さぞ気合いの入った素敵なイベントを催しているに違いない。
ヴィクトリアがそう言うと、リージェスはなぜか困った顔をした。
「また、見るだけになるぞ?」
「えっと……何をなさっているんですか?」
「滑り台だ」
ヴィクトリアは首をかしげた。『楽園』最上位クラスの催しが、子ども向けの遊具とはいかに。
そんな疑問が伝わったのか、リージェスが苦笑まじりに言う。
「簡易要塞設営ブロックとエアクッション、それに高所脱出用エアシューターの術式を組み合わせて作ったんだが、少々スリリングなものになってしまってな。――一応、見るだけ見てみるか?」
「……ハイ」
話を聞くだけで背筋が凍ったが、怖いもの見たさというやつである。
――それは、校舎の裏側に広がる、訓練用のグラウンドにあった。
その滑り台を見た瞬間、ヴィクトリアは思った。
これは絶対に、『少々スリリング』などという可愛らしいレベルじゃないだろう、と。
摩擦熱で火傷をしないようにという配慮からなのだろうか。滑り台にトライする人々には、一抱えほどの大きさのソリのようなものが手渡されている。
彼らは非常に緊張した面持ちで、かなり斜度のある階段を延々と上ったあとに、滑り台に突入していく。高さは『楽園』の校舎四階分くらいはゆうにある。
そして何よりえげつないところは、滑走部分が、先ほど人工池で見たボール型の遊具と同じ透明素材でできている、という点だ。
基本的に怖いのが大嫌いなヴィクトリアは、あんなものに自らトライしようとするなんて、みなさんちょっぴり危ない被虐嗜好があるのではないかと思ってしまう。
ヴィクトリアは、おそるおそるリージェスを見上げた。
「あの……。リージェスさま?」
「『楽園』での最後の祭りだから、クラスの連中が妙に張り切ってしまってな。あれでも一応、安全確保を万全にするために、いろいろなことをかなり控えめにさせたんだ。……こっちの隙を見て余計な術式を付加しようとする連中の頭を、何度どつき倒したことか」
そう言うリージェスの目が据わっている。
テンションが上がりきってしまっている級友たちを制御するのは、完全無欠な寮長さまでも難しかったのかもしれない。
こんな絶叫アクティビティ、とてもヴィクトリアは楽しめない。見ているだけで背筋がぞわぞわしてしまう――と思っていたら、「ひいいいぃいいー」という大声が滑り台の方から聞こえてきた。
滑走部分は筒状なのに、どうしてこんなに中の声が聞こえてくるのだろう。
疑問に思っていると、リージェスがぼそっとつぶやいた。
「あれの魔術式を組んだ連中が、臨場感を出すためには絶対に必要だと言い張って譲らなくてな。中の音声を、この会場内に聞こえるくらいに増幅して流しているんだ。オレは悪趣味だからやめておけと言ったんだが――」
彼の言葉が終わる前に、今度は「ぃやっほぉおおおぉー!!」と叫ぶ声が聞こえた。……どうやら、滑り台を全力で楽しむがゆえの歓喜の雄叫びのようだ。
「――世の中には、いろいろな人間がいるのだな」
そう言ったリージェスの横顔は、どこか憂いを帯びていて実に麗しかったのだが、あんまり萌えることはできなかった。
いずれにせよ、ここはチキンハートなヴィクトリアがいていい場所ではない。
ああいった恐ろしいモノを楽しむためには、きっと戦術級防御シールド並の強度を持つ心臓を所有していなければならないのだ。ヴィクトリアはごく普通の人間である。そんな超人的な強靱さを備えた人々とは違う世界で生きているのだから、ここは潔く戦略的撤退を選択すべきだ。
己の進むべき道を悟ったヴィクトリアは、にっこり笑ってリージェスを見上げた。
「リージェスさま。正門前広場の方に戻りませんか? ミュリエルさまのお土産を選びたいです」
来るときは、一刻も早くランディのところへ行くために、ほかの屋台はすべてスルーしてきた。
それらの中には、とても脳筋系男子学生の作品とは思えないほど可愛らしい商品を並べている店がいくつもあった。
作者の学生は、人気魔導具職人を目指すヴィクトリアのライバルになるのかもしれないのだ。彼らの実力は、今のうちにぜひこの目で直接確かめておきたい。
ヴィクトリアが踵を返したそのとき、背後から高く澄んだ声が聞こえてきて、びしっと固まった。
「――アイザック! ぼくはこれに乗りたいと言っているだろう! なぜ邪魔をする!?」
「ベルナルドさま。お言葉ですが、邪魔をしているのは私ではございません。この『ごめんね! ボクよりも小さなお子さまは、滑り台に乗ることはできないんだ!』と訴えている、ぶたさんなのです。あなたさまがぶたさんよりも小さなお子さまである以上、滑り台に乗ることはできないのです」
抑揚のない訥々とした声で、誰かが滑り台の身長制限を体現しているキュートなぶたさんの台詞をさらりと言ってのける。
ヴィクトリアは、おそるおそる肩越しに背後を振り返った。
(……っやっぱりーっっ!!)
そこには、愛くるしいぶたさんのぬいぐるみを睨みつけ、懸命に背伸びをする小柄な少年の姿があった。目立つ金髪を帽子で隠して、ごく一般的な貴族の子弟のような格好をしている。
応援ありがとうございます!
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