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4巻
4-2
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何しろユージェニーはサフィスで暮らしていた頃、敵対関係にあったセレスティアとの戦に、熟練の兵士として何度も参加している。
すさまじい戦闘能力を持つユージェニーが、乳母日傘で育てられた貴族階級のお嬢さま方に負けるところなど、まったく想像できない。
もちろん、貴族階級における女の戦いのえげつなさは、想像を絶すると聞く。だが、幾度も死線を潜り抜けてきたユージェニーが、そんなものにダメージを受けるだろうか。
そう思い至ったとき、ランディがぼそっとつぶやいた。
「あの……。リージェスさま」
「なんだ? ランディ」
リージェスを見上げるランディの顔が、青ざめている。
「もし……もし、おれの妹が、そのお話を受けると言った場合なんですが。そうなったら……おれは将来、シャノンさまから『義兄上』なんて、呼ばれることになったり、するのでしょうか……?」
(わーお)
ヴィクトリアは、なんとも言い難い気分になった。
彼らの通う『楽園』は、事実上、全寮制の男子校である。ヴィクトリアは在学中、そこに集う生徒たちの特殊な生態に何度も戸惑ったものなのだが――
「……それは、シャノンさまを崇拝対象としている『楽園』のお坊ちゃま方が、ランディにとんでもない嫉妬と敵意を抱きそうなお話ですね」
『楽園』に集う貴族階級の生徒たちは、リージェスやシャノンのような見目麗しく実力も人望も兼ね備えた相手に対し、少々度を越した敬愛や尊崇といった感情を抱くらしいのである。閉鎖的な空間で過ごす思春期真っ盛りの青少年たちにとって、それは一時的な現実逃避のようなものなのかもしれない。
現在寮長として『楽園』の生徒たちのトップに立つシャノンは、圧倒的な実力と家柄のみならず、そのおおらかで社交的な性格で、彼らから絶大な支持を得ている。
シャノンが将来皇国軍のエリート士官となり、そのトップに上り詰めるだろうことは、誰もが簡単に思い描く未来だ。
そんなシャノンに『義兄上』と呼ばれる立場など、彼を崇拝する生徒たちにとっては、羨ましいどころの騒ぎではないのではなかろうか。
リージェスが、微妙にランディから視線を逸らしながら口を開く。
「『楽園』の連中は、おまえが先帝の後見を受けている上に、シャノンに気に入られているとすでに知っている。そこに多少の付加価値がついたところで、さほど変わりはないだろう」
「え、自分も『楽園』の寮長をやってたくせに、何、寝言を言ってるんすか、リージェスさま。男の嫉妬って、マジで怖いんすよ。今までは、エディアルドさまに後見していただいてるおれをシャノンさまが庇ってくださってる、っていう体だったから、取り巻き連中がいやみを言ってくることもありませんでしたけどね。『楽園』ではシャノンさまも、あくまでも『寮長』として接してくださっていましたし。それが、今後は義理の兄弟としてプライベートでも親しくさせていただく予定ですー、なんてことになったら! 怨念レベルの嫉妬の嵐に巻き込まれるに決まってます!」
……どうやらランディは、かなり動揺しているようだ。珍しく、リージェスに真顔でツッコんだ。しかも長い。
とはいえ、ランディはこれから、ありとあらゆる男の嫉妬に耐えていかなければならないのだ。シャノンの崇拝者たちなど、しょせんはまだ甘ちゃんの学生に過ぎない。彼らの恨み節程度、さらりと流せるようになってもらわなければ、話にならない。
ランディにとっては最も身近で差し迫った恐怖なのだろうが、ここは最初の試練ということで、どうにか踏ん張ってもらうしかあるまい。
胸のうちでひそかに合掌したところで、ヴィクトリアは素朴な疑問を覚え、リージェスを見上げた。
「あの、リージェスさま。このお話は、ユージェニーさんの同意を得られたら、とのことでしたが……。シャノンさまのほうは、なんとおっしゃっているんですか?」
彼女の知る限り、シャノンは若干フェアリーな思考回路を持つ青年だ。女の子に対して、ふわふわとした夢を見ているきらいがある。
以前、彼が平民の少女に片想いしていたときに相談相手を務めたことがあるが、ときどき頭が痛くなったものだ。
(たしか、あのときのシャノンさまの片恋のお相手は、『可憐で控えめで華奢で泣き虫で――』? うん、ちょっと忘れてしまいましたね。でも、なんだか男性の妄想の中にしか存在しないような、妖精さんのような女の子だとおっしゃっていたのはたしかです)
ユージェニーは、大きな若草色の瞳が印象的な、とても可愛らしい少女だ。表情に乏しい……というより、ほぼ皆無なのが難点ではあるが、いつかは笑顔を見せてくれると信じている。
しかし、彼女はひとたび武器系魔導具を装備すれば、凄腕の戦士に早変わり。少なくともシャノンが夢見る『妖精のような』少女像とは、対極の存在だと思う。
ヴィクトリアは、『楽園』時代からシャノンには大変世話になっている。
いくらユージェニーを守るための最善策とはいえ、彼自身が望まない婚姻を強いるような真似はしたくない。
そんな不安を覚えたヴィクトリアに、リージェスはあっさりと答えた。
「シャノンには、昨夜オレのほうから話をした。あいつもこうなることは、ある程度予想していたんだろう。普通に了解していたぞ。ユージェニーなら、どんな性格をしているのかもうわかっているし、見た目の可愛らしさに騙されて、あとでこんなはずじゃなかった――なんてことにはならないから安心だ、と言っていたな」
「なるほど」
どうやらシャノンは、この一年で随分大人になったらしい。
かつてはフェアリーな夢見る青年だった彼の成長を知り、ヴィクトリアはほろりとした。
とはいえ、そもそもこの話はユージェニーが了承しなければ、それまでなのだ。
彼女は今、離宮の応接間にひとり取り残されているはずである。面会に来たランディが、魔導具の訓練中だったヴィクトリアを探すために、部屋を飛び出してきてしまったからだ。申し訳ない。
申し訳ないというなら、リージェスに対してもだ。連日ランディとユージェニーの件についてギネヴィアの上層部と意見を交換し、さまざまな根回しをして離宮に戻った途端、空飛ぶ魔導具から落下する主を受け止める羽目になるなんて、思ってもいなかっただろう。
ヴィクトリアは改めて彼に詫び、ユージェニーがいるであろう応接間に、みなで向かうことにした。
隣を歩くリージェスが、そういえばと口を開く。
「リア。アイル殿から、このところおまえが街へ出るたび、宝飾店をのぞきたがると聞いたんだが……。何か、欲しいものでもあるのか?」
ヴィクトリアは、あやうくその場でぴょっと跳びあがるところだった。
このところリージェスは、毎日忙しく過ごしている。そのためこの半月ほどの間、ヴィクトリアの護衛は父ギルフォードの側近であるアイルとジーンが交代でこなしてくれていた。
彼らは、ヴィクトリアの行動をリージェスにしっかり報告していたらしい。
ヴィクトリアが宝飾店をのぞいていたのには、理由がある。ただ、それはリージェスに知られたくないもので――
内心の動揺をどうにか押し殺し、ヴィクトリアはリージェスを見上げてへらっと笑う。
「特に、欲しいものがあるわけではないのです。ホラ、皇都の宝飾店には流行最先端の素敵なデザインの装飾品が、たくさん置いてあるじゃないですか。これから魔導具を作るときの参考にしようと思って、見学させてもらっているんです」
リージェスはなるほど、とうなずいた。
そして、くるくるとヴィクトリアの足元にまとわりつくようにしながら歩く『ティグリス』を見ながら、厳かに言う。
「こういったおもちゃならどれだけ作っても構わんが、武器系魔導具を作るときには、必ずオレかアイル殿に相談してからにするように」
「はい、リージェスさま」
にこにことよい子のお返事をして、ヴィクトリアは内心ぐっと拳を握りしめた。
(ぃよしっ! 宝飾店に行きたがる本当の目的をごまかすことに成功しました! エライ、わたし!)
ヴィクトリアが、皇都に溢れる宝飾店のあちこちに足しげく通っている理由は、たしかに今リージェスに言った通りである。
リージェスはおそらく、ヴィクトリアが自分用の――女性向け装飾品のデザインを見学しに行っていると考えているのだろう。もちろん、繊細で華やかなそれらには目を奪われるし、少なからず勉強にもなる。
だが、彼女のお目当てはそれではない。
(ふっふっふ……。わたしがアイルさんに連れていってもらっている大きな宝飾店には、男性向けの素敵な商品もたくさん置いてあるのですよ。大恩あるリージェスさまのために、最高の遠距離攻撃魔導具を作るという夢を叶えるには、日々精進あるのみなのです)
今のヴィクトリアには、夢がふたつあった。
ひとつは、『楽園』時代から多大なる迷惑をかけまくり、現在進行形で世話になりまくっているリージェスに、己の持てる力をすべて注ぎこんだ最高の魔導具をプレゼントすること。
しかしすぐに彼にお礼の品を用意できるかと言ったら、そうではない。
なぜなら、リージェスはすでに、立派な魔導具をいくつも所持しているからだ。
彼が現在常に装備している魔導剣は、ヴィクトリアの護衛騎士となったとき、ギネヴィア皇帝から下賜された業物である。さすがに、あれ以上のものを作るというのは難しい。
ただ、幸いなことに、リージェスが得意としているのは、魔導剣よりも遠距離攻撃魔導具である。
そのためヴィクトリアは、『ホワイトファング』以上の性能を備え、操作性が高く魔力消費も少ない遠距離攻撃魔導具を作製すべく、いろいろと試行錯誤中なのだ。もちろん、リージェスには内緒で。
そして、彼女のもうひとつの夢は――
ヴィクトリアは、隣を歩くリージェスの横顔をそっと見上げた。
(シャノンさまは、会ったばかりのユージェニーさんと結婚することを、全然いやがってないみたいだし……。きっとリージェスさまも、それが必要だって判断したら、平気でどこかのお嬢さまと結婚しちゃうんだろうなぁ)
個人の感情とは関係なく、政治的な利害関係に基づく判断で伴侶を選ぶ。
それが、国を代表する貴族の家を継ぐ者として生まれ育った、彼らの『普通』なのだ。
ヴィクトリアの視線に気づいたのか、リージェスが目でなんだと問うてくる。
へにょりと眉を下げ、ヴィクトリアは口を開いた。
「えっと……。自分ばっかりのほほんとしているのは、やっぱりダメだなぁと思いまして。これからもより一層気合を入れて精進しよう、と決意を新たにした次第です」
「あぁ……?」
彼女の抽象的な宣誓に、リージェスが若干不思議そうな顔になる。
だが、それ以上の言葉を口にすることはできない。なぜなら――
(……ハイ。これから可愛い妹に『きみの安全を守るためには、知り合ったばかりのシャノンさまと婚約したほうがいいみたいだよ』と言わなければならないランディの前で、『好きなひとのお嫁さんになれるよう、がんばります』とは……。さすがに、とても言えません。えぇ、ヒトとして)
ヴィクトリアが現在抱いている、ふたつめの夢。彼女がどうしても叶えたいそれは、『リージェスさまのお嫁さんになること』なのである。
いつからリージェスに心惹かれていたのかなんて、ヴィクトリアにはわからない。
もしかしたら、今までどんなときでも必ず守ってくれた彼に、臆病で甘ったれな自分の心が依存しているだけなのかもしれない。
それでも、リージェスがそばにいてくれるだけで、たとえ離れていても彼のことを想うだけで、胸の奥に温かな光がともる。何があってもヴィクトリアのそばにいる、と約束してくれた彼に、これからもずっと一番近くにいてほしいと思う。
大好きで、大切で、彼に名を呼ばれるだけでどきどきする。ほかの人がそばにいるときには見せない笑顔を見せてくれたときには、本当に嬉しくてたまらない。
けれど、ヴィクトリアはもう知っている。『セレスティア王家の血を引くギネヴィアの皇女』である自分自身に、どれほど利用価値があるのかを。そして、彼女の存在が明らかにされたときから、大陸中から数えきれないほどの縁談を持ち込まれていることも。
黙り込んだ彼女に、リージェスが問いかける。
「なんだ、何か悩みごとか?」
ヴィクトリアは、ため息をついてうなずいた。
『リージェスさまのお嫁さん』になりたい話はさすがにできないが、この問題は口にしてもいいだろう。
「実は先日、皇太子殿下と通信魔導具でお話ししているときに、うかがったのですけれど……。近々、東の小国連合から友好使節団が来るらしくて」
現皇帝には、正妃との間に今年九歳になる息子がいる。
すでに立太子しているその子の名は、ベルナルド・ティルティス・レンブラント・ネイ・ギネヴィア。少しクセのある柔らかな金髪にスミレ色の瞳を持つ、ヴィクトリアの従弟だ。
ヴィクトリアが『楽園』在学中に、偶然出会った彼を暗殺者の手から守ったこともあり、今ではベルナルドは姉上と呼んで慕ってくれている。
互いに忙しい身なので滅多に会えないけれど、彼とはときどき通信魔導具を介して楽しくおしゃべりする仲である。
「その使節団っていうのが……連合加盟国の、主だった独身王族で構成されているみたいなんです」
歯切れ悪く言ったヴィクトリアの言葉に、リージェスの眉根が、軽く寄った。
ランディも彼女の言わんとすることを察したのか、なんとも言い難い顔になる。
へにょりと眉を下げ、ヴィクトリアは口を開く。
「それで、えっと……。ベルナルド殿下がおっしゃるには、彼らの目的はおそらくわたしとの集団見合いだろう、って」
「わーお」
半目になったランディが、棒読み口調で言う。少し考えるようにしてから、彼は続けた。
「東のほうには、ちっこくてもめっちゃ古くから続いている国とか、質の高い魔導石鉱脈を抱えてアホみたいに金持ってる国とかもあるもんなぁ……。その辺のどっかにおまえが嫁いだら、ギネヴィアとセレスティアっていう二大国の後ろ盾ができて、東の小国を統一することもできちゃうかもー、みたいな?」
そうですね、とヴィクトリアはため息まじりにうなずく。
「皇帝陛下もお父さんも、わたしへの縁談はきれいにシャットアウトしてくれているのですけどね。さすがに、『友好使節団』の訪問をお断りするのは難しいようです」
何も知らなかった頃のヴィクトリアなら、そんな連中を迎えることなどまっぴらごめんだ、とすたこら逃げ出していただろう。
しかし、自分の意志でギネヴィア皇室入りを決めてから、いろいろなものを見聞きし、そして学んだ。
(わたし個人としては、「おととい来やがれ」と蹴っ飛ばしてやりたいところなのですけれども。ただそれをすると、身近な人たちにとんでもない迷惑がかかってしまう、という罠。わたしのせいで、お父さんたちが恥をかく羽目になるというのは、やっぱり避けたいところですし……)
――皇族や王族に許される『子どもの時間』は、とても短い。
こうして今、ヴィクトリアが自由に過ごせているのは、ギルフォードたちがそれを許してくれているからだ。周りの大人たちが揃って甘やかしてくれるから、彼女はなんの責任を負うこともなく過ごしていられる。
だが、ヴィクトリアよりもずっと年下のベルナルドでさえ、顔を合わせるたびに驚くほど成長していく。
もちろん、生まれたときから『未来の皇帝』として育てられてきた彼と、ずっと平民として育ってきた自分を、同列に考えているわけではない。
ただ、まだまだ小さな体をした従弟は、ちょっと想像しただけで息が詰まりそうなほどの、とんでもないプレッシャーの中で生きている。
なのに、もう十六歳になる自分がのほほんと呑気に守られているというのは、どう考えても不公平だと思うのだ。
ギネヴィア皇室に入るまで、ヴィクトリアはとても小さな世界で生きていた。
自分自身と、ほんのわずかな大切な人たちさえ幸せに生きていけるなら、それでいい。
ずっと、そんなふうに思って――正直に言うなら、今もそう思っている。
ヴィクトリアは、『常に自分を律し、国民の幸福のために生きる』などという、崇高な考えなど持ち合わせていない。
けれど――
(『セレスティアの英雄』であるお父さんを筆頭に、親戚一同が揃いも揃って国の重鎮である場合、ですね。周りから全力で可愛がられている身としては、少しは彼らのお役に立ちたいと思うのは、コレ人情というものでして)
セレスティアとサフィスの開戦を回避し、ギネヴィアとセレスティアの関係をよい方向に導いてくれたのだから、もうそれで充分だ、亡き母のぶんまで自由に幸せに生きてほしい――そんな大人たちの気持ちは、とてもありがたいと思う。
だが、働かざる者、食うべからず。
それが、ヴィクトリアが幼い頃から母の背中を見て学んだ、この世の中のルールである。
だから、決めた。
この国の成人年齢は、十八歳だ。
それまでの間は、『子ども』のままでいさせてもらおう。
父とともに自由に暮らし、友人のために『皇女』の権力を好きなように使い、リージェスに一生に一度の恋をする。
タイムリミットは、二年後の誕生日。
それまでに、『リージェスのお嫁さん』になる権利を得ることができなければ、そこできっぱりとあきらめよう――と。
(うん。二年間がんばってダメなら、あきらめもつくだろうし。……リージェスさまのお嫁さんになれないなら、結婚相手なんて誰でも同じだし)
元々ヴィクトリアは、『将来の旦那さま』についてあまり夢を見ていなかった。
故郷の田舎町で暮らしていたときから、結婚相手は身近な年長者によさげな男性を紹介してもらい、穏やかで安定した家庭を築いていこうと思っていたのだ。
……あの頃と今との環境の違いを考えると、あまりの落差に眩暈がしそうだが、そこは今更言っても仕方があるまい。
ヴィクトリアが欲しいのは、リージェスだけだ。
二年後に後悔しないよう、これから全力でがんばる所存ではあるのだが――
「まぁ、あちらが『友好使節団』を名乗ってやってくるなら、こちらもそのつもりで応対するしかありませんよね。そんなことより、今はユージェニーさんですよ。シャノンさまとの婚約の件も、下手な伝え方をしたら『命令』だと思われそうで怖いです」
現状、最優先に考えなければならないのは、やはりこちらだ。
もし彼女自身が望まないのであれば、たとえそれが最良の方法であったとしても、強いるのは避けたい。しかし、彼女は周囲の人間の言葉を『命令』だと受けとると、あっさり従ってしまうところがある。
ヴィクトリアの指摘に、ランディが顔を強張らせた。
「そういえば、うちの妹は『偉い人』の指示には、無条件で『ハイ』って言っちゃうような、とんでもねーポンコツなんでした……ッ。リージェスさま! シャノンさまとのことは、おれからあの子に伝えさせてもらっていいですよね!?」
必死の懇願に、リージェスは特に検討する様子もなくうなずく。
「ああ。そのほうが、彼女も納得しやすいだろうからな」
ヴィクトリアは、ため息まじりに言う。
「一番信頼しているランディから、シャノンさまとのことを伝えられたら……。ユージェニーさんは、それこそ無条件で『ハイ』と言いそうな気がしますよ?」
「うぅ……っ」
苦悩するランディに、リージェスが言う。
「別に問題はないだろう。現状、おまえたちの安全を確保するためには、これ以上の方法はないんだからな」
「……それは、頭では理解しているのですが。できればあの子には、自らが望む形で幸せになってほしいというか……それに、可愛い可愛い妹と再会して半月も経たずに、あっという間にヨソの男にかっさらわれていく悲哀というのは……。ハイ。なかなかストレートに、兄心を折りにくるもののようでして」
ランディが、どんよりと肩を落とす。
そのときヴィクトリアは、リージェスがさりげなくランディから距離を取ったのを、たしかに目撃した。
たとえシスコンというのが感染する病だとしても、リージェスに姉妹はいないのだから、あまり恐れる必要はないのではなかろうか――と、ヴィクトリアは思ったのだった。
第二章 へっぽこ皇女とポンコツ姫
すっかりシスコン化したランディにビビりつつ、ヴィクトリアはユージェニーがいる応接間に彼らと向かう。そして、はたと気がついた。
(いやいや、待て待て。ユージェニーさんがメイア伯爵家の養子になったら、当然リージェスさまの義理の妹になるわけで。そうなると、ユージェニーさんがリージェスさまのシスコン対象……になった場合、彼女の安全はますます確固たるものになりますね?)
なんだか、それはそれでアリなような気がする。
そんなことを考えている間に、三人はユージェニーのいる応接間に到着した。
ヴィクトリアを探すために部屋を飛び出したランディを待つ間、彼女はひとりでいたはずだ。一体どうやって時間を潰していたのだろう。
「……ひっ!?」
開け放たれたままだった扉の中をのぞいた瞬間、目に入った異様な光景に、ヴィクトリアは思わず悲鳴を上げた。
レースのカーテン越しの柔らかな日差しを受け、ピカピカに磨かれたティーテーブルが淡い光を放っているかのようだ。豪奢な白磁のティーセットと色とりどりの茶菓子も、実に美しい。
猫脚のソファに背筋を伸ばして座るユージェニーが着ているのは、柔らかな緑色のドレス。
それはまるで、一幅の絵画のような佇まいだったが――
(な……っ、何アレー!?)
ユージェニーはいつも通りの無表情のまま、客間の中央に敷かれた円形の絨毯をじっと見つめている。離宮の応接間に敷かれているだけあって、それは色鮮やかな紋様が入った、分厚く重そうな逸品だ。
だが今、本来は床に張りついているはずの絨毯が、ぼこっぼこっと音を立てて蠢動しているのである。その表面のあちこちが不規則に弾み、今にも絨毯を突き破って大量の何かが生まれてきそうだ。
ヴィクトリアの全身に、一瞬でぞわぁっと鳥肌が立った。彼女は咄嗟に、リージェスの胴体にがっしとしがみつく。
「リア? どうした?」
「ど……どうって……どうって……っ!?」
至って冷静なリージェスの反応に、ヴィクトリアは混乱する。
こんな不気味な光景を目の前にして、なぜそんな平気な顔でいられるのか――
と、ヴィクトリアがパニック状態に陥る前に、ランディがすっと部屋に入った。彼は頓着した様子もなく絨毯の前にしゃがみ込むと、いまだにぼこぼこと蠢いているそれを無造作にめくりあげる。
「ふはっ。かくれんぼか?」
「この重たい絨毯の下でも、機動性が落ちない。ヴィクトリア殿下の魔導具は、見た目よりもずっと頑丈。驚いた」
……分厚い絨毯の下にもぐりこみ、それを動かしていたのは、仔猫や仔犬、リスやハリネズミといった、小さな動物の姿を模した魔導具たちであった。ヴィクトリアが以前、ユージェニーの癒しになればと作ったものだ。
すさまじい戦闘能力を持つユージェニーが、乳母日傘で育てられた貴族階級のお嬢さま方に負けるところなど、まったく想像できない。
もちろん、貴族階級における女の戦いのえげつなさは、想像を絶すると聞く。だが、幾度も死線を潜り抜けてきたユージェニーが、そんなものにダメージを受けるだろうか。
そう思い至ったとき、ランディがぼそっとつぶやいた。
「あの……。リージェスさま」
「なんだ? ランディ」
リージェスを見上げるランディの顔が、青ざめている。
「もし……もし、おれの妹が、そのお話を受けると言った場合なんですが。そうなったら……おれは将来、シャノンさまから『義兄上』なんて、呼ばれることになったり、するのでしょうか……?」
(わーお)
ヴィクトリアは、なんとも言い難い気分になった。
彼らの通う『楽園』は、事実上、全寮制の男子校である。ヴィクトリアは在学中、そこに集う生徒たちの特殊な生態に何度も戸惑ったものなのだが――
「……それは、シャノンさまを崇拝対象としている『楽園』のお坊ちゃま方が、ランディにとんでもない嫉妬と敵意を抱きそうなお話ですね」
『楽園』に集う貴族階級の生徒たちは、リージェスやシャノンのような見目麗しく実力も人望も兼ね備えた相手に対し、少々度を越した敬愛や尊崇といった感情を抱くらしいのである。閉鎖的な空間で過ごす思春期真っ盛りの青少年たちにとって、それは一時的な現実逃避のようなものなのかもしれない。
現在寮長として『楽園』の生徒たちのトップに立つシャノンは、圧倒的な実力と家柄のみならず、そのおおらかで社交的な性格で、彼らから絶大な支持を得ている。
シャノンが将来皇国軍のエリート士官となり、そのトップに上り詰めるだろうことは、誰もが簡単に思い描く未来だ。
そんなシャノンに『義兄上』と呼ばれる立場など、彼を崇拝する生徒たちにとっては、羨ましいどころの騒ぎではないのではなかろうか。
リージェスが、微妙にランディから視線を逸らしながら口を開く。
「『楽園』の連中は、おまえが先帝の後見を受けている上に、シャノンに気に入られているとすでに知っている。そこに多少の付加価値がついたところで、さほど変わりはないだろう」
「え、自分も『楽園』の寮長をやってたくせに、何、寝言を言ってるんすか、リージェスさま。男の嫉妬って、マジで怖いんすよ。今までは、エディアルドさまに後見していただいてるおれをシャノンさまが庇ってくださってる、っていう体だったから、取り巻き連中がいやみを言ってくることもありませんでしたけどね。『楽園』ではシャノンさまも、あくまでも『寮長』として接してくださっていましたし。それが、今後は義理の兄弟としてプライベートでも親しくさせていただく予定ですー、なんてことになったら! 怨念レベルの嫉妬の嵐に巻き込まれるに決まってます!」
……どうやらランディは、かなり動揺しているようだ。珍しく、リージェスに真顔でツッコんだ。しかも長い。
とはいえ、ランディはこれから、ありとあらゆる男の嫉妬に耐えていかなければならないのだ。シャノンの崇拝者たちなど、しょせんはまだ甘ちゃんの学生に過ぎない。彼らの恨み節程度、さらりと流せるようになってもらわなければ、話にならない。
ランディにとっては最も身近で差し迫った恐怖なのだろうが、ここは最初の試練ということで、どうにか踏ん張ってもらうしかあるまい。
胸のうちでひそかに合掌したところで、ヴィクトリアは素朴な疑問を覚え、リージェスを見上げた。
「あの、リージェスさま。このお話は、ユージェニーさんの同意を得られたら、とのことでしたが……。シャノンさまのほうは、なんとおっしゃっているんですか?」
彼女の知る限り、シャノンは若干フェアリーな思考回路を持つ青年だ。女の子に対して、ふわふわとした夢を見ているきらいがある。
以前、彼が平民の少女に片想いしていたときに相談相手を務めたことがあるが、ときどき頭が痛くなったものだ。
(たしか、あのときのシャノンさまの片恋のお相手は、『可憐で控えめで華奢で泣き虫で――』? うん、ちょっと忘れてしまいましたね。でも、なんだか男性の妄想の中にしか存在しないような、妖精さんのような女の子だとおっしゃっていたのはたしかです)
ユージェニーは、大きな若草色の瞳が印象的な、とても可愛らしい少女だ。表情に乏しい……というより、ほぼ皆無なのが難点ではあるが、いつかは笑顔を見せてくれると信じている。
しかし、彼女はひとたび武器系魔導具を装備すれば、凄腕の戦士に早変わり。少なくともシャノンが夢見る『妖精のような』少女像とは、対極の存在だと思う。
ヴィクトリアは、『楽園』時代からシャノンには大変世話になっている。
いくらユージェニーを守るための最善策とはいえ、彼自身が望まない婚姻を強いるような真似はしたくない。
そんな不安を覚えたヴィクトリアに、リージェスはあっさりと答えた。
「シャノンには、昨夜オレのほうから話をした。あいつもこうなることは、ある程度予想していたんだろう。普通に了解していたぞ。ユージェニーなら、どんな性格をしているのかもうわかっているし、見た目の可愛らしさに騙されて、あとでこんなはずじゃなかった――なんてことにはならないから安心だ、と言っていたな」
「なるほど」
どうやらシャノンは、この一年で随分大人になったらしい。
かつてはフェアリーな夢見る青年だった彼の成長を知り、ヴィクトリアはほろりとした。
とはいえ、そもそもこの話はユージェニーが了承しなければ、それまでなのだ。
彼女は今、離宮の応接間にひとり取り残されているはずである。面会に来たランディが、魔導具の訓練中だったヴィクトリアを探すために、部屋を飛び出してきてしまったからだ。申し訳ない。
申し訳ないというなら、リージェスに対してもだ。連日ランディとユージェニーの件についてギネヴィアの上層部と意見を交換し、さまざまな根回しをして離宮に戻った途端、空飛ぶ魔導具から落下する主を受け止める羽目になるなんて、思ってもいなかっただろう。
ヴィクトリアは改めて彼に詫び、ユージェニーがいるであろう応接間に、みなで向かうことにした。
隣を歩くリージェスが、そういえばと口を開く。
「リア。アイル殿から、このところおまえが街へ出るたび、宝飾店をのぞきたがると聞いたんだが……。何か、欲しいものでもあるのか?」
ヴィクトリアは、あやうくその場でぴょっと跳びあがるところだった。
このところリージェスは、毎日忙しく過ごしている。そのためこの半月ほどの間、ヴィクトリアの護衛は父ギルフォードの側近であるアイルとジーンが交代でこなしてくれていた。
彼らは、ヴィクトリアの行動をリージェスにしっかり報告していたらしい。
ヴィクトリアが宝飾店をのぞいていたのには、理由がある。ただ、それはリージェスに知られたくないもので――
内心の動揺をどうにか押し殺し、ヴィクトリアはリージェスを見上げてへらっと笑う。
「特に、欲しいものがあるわけではないのです。ホラ、皇都の宝飾店には流行最先端の素敵なデザインの装飾品が、たくさん置いてあるじゃないですか。これから魔導具を作るときの参考にしようと思って、見学させてもらっているんです」
リージェスはなるほど、とうなずいた。
そして、くるくるとヴィクトリアの足元にまとわりつくようにしながら歩く『ティグリス』を見ながら、厳かに言う。
「こういったおもちゃならどれだけ作っても構わんが、武器系魔導具を作るときには、必ずオレかアイル殿に相談してからにするように」
「はい、リージェスさま」
にこにことよい子のお返事をして、ヴィクトリアは内心ぐっと拳を握りしめた。
(ぃよしっ! 宝飾店に行きたがる本当の目的をごまかすことに成功しました! エライ、わたし!)
ヴィクトリアが、皇都に溢れる宝飾店のあちこちに足しげく通っている理由は、たしかに今リージェスに言った通りである。
リージェスはおそらく、ヴィクトリアが自分用の――女性向け装飾品のデザインを見学しに行っていると考えているのだろう。もちろん、繊細で華やかなそれらには目を奪われるし、少なからず勉強にもなる。
だが、彼女のお目当てはそれではない。
(ふっふっふ……。わたしがアイルさんに連れていってもらっている大きな宝飾店には、男性向けの素敵な商品もたくさん置いてあるのですよ。大恩あるリージェスさまのために、最高の遠距離攻撃魔導具を作るという夢を叶えるには、日々精進あるのみなのです)
今のヴィクトリアには、夢がふたつあった。
ひとつは、『楽園』時代から多大なる迷惑をかけまくり、現在進行形で世話になりまくっているリージェスに、己の持てる力をすべて注ぎこんだ最高の魔導具をプレゼントすること。
しかしすぐに彼にお礼の品を用意できるかと言ったら、そうではない。
なぜなら、リージェスはすでに、立派な魔導具をいくつも所持しているからだ。
彼が現在常に装備している魔導剣は、ヴィクトリアの護衛騎士となったとき、ギネヴィア皇帝から下賜された業物である。さすがに、あれ以上のものを作るというのは難しい。
ただ、幸いなことに、リージェスが得意としているのは、魔導剣よりも遠距離攻撃魔導具である。
そのためヴィクトリアは、『ホワイトファング』以上の性能を備え、操作性が高く魔力消費も少ない遠距離攻撃魔導具を作製すべく、いろいろと試行錯誤中なのだ。もちろん、リージェスには内緒で。
そして、彼女のもうひとつの夢は――
ヴィクトリアは、隣を歩くリージェスの横顔をそっと見上げた。
(シャノンさまは、会ったばかりのユージェニーさんと結婚することを、全然いやがってないみたいだし……。きっとリージェスさまも、それが必要だって判断したら、平気でどこかのお嬢さまと結婚しちゃうんだろうなぁ)
個人の感情とは関係なく、政治的な利害関係に基づく判断で伴侶を選ぶ。
それが、国を代表する貴族の家を継ぐ者として生まれ育った、彼らの『普通』なのだ。
ヴィクトリアの視線に気づいたのか、リージェスが目でなんだと問うてくる。
へにょりと眉を下げ、ヴィクトリアは口を開いた。
「えっと……。自分ばっかりのほほんとしているのは、やっぱりダメだなぁと思いまして。これからもより一層気合を入れて精進しよう、と決意を新たにした次第です」
「あぁ……?」
彼女の抽象的な宣誓に、リージェスが若干不思議そうな顔になる。
だが、それ以上の言葉を口にすることはできない。なぜなら――
(……ハイ。これから可愛い妹に『きみの安全を守るためには、知り合ったばかりのシャノンさまと婚約したほうがいいみたいだよ』と言わなければならないランディの前で、『好きなひとのお嫁さんになれるよう、がんばります』とは……。さすがに、とても言えません。えぇ、ヒトとして)
ヴィクトリアが現在抱いている、ふたつめの夢。彼女がどうしても叶えたいそれは、『リージェスさまのお嫁さんになること』なのである。
いつからリージェスに心惹かれていたのかなんて、ヴィクトリアにはわからない。
もしかしたら、今までどんなときでも必ず守ってくれた彼に、臆病で甘ったれな自分の心が依存しているだけなのかもしれない。
それでも、リージェスがそばにいてくれるだけで、たとえ離れていても彼のことを想うだけで、胸の奥に温かな光がともる。何があってもヴィクトリアのそばにいる、と約束してくれた彼に、これからもずっと一番近くにいてほしいと思う。
大好きで、大切で、彼に名を呼ばれるだけでどきどきする。ほかの人がそばにいるときには見せない笑顔を見せてくれたときには、本当に嬉しくてたまらない。
けれど、ヴィクトリアはもう知っている。『セレスティア王家の血を引くギネヴィアの皇女』である自分自身に、どれほど利用価値があるのかを。そして、彼女の存在が明らかにされたときから、大陸中から数えきれないほどの縁談を持ち込まれていることも。
黙り込んだ彼女に、リージェスが問いかける。
「なんだ、何か悩みごとか?」
ヴィクトリアは、ため息をついてうなずいた。
『リージェスさまのお嫁さん』になりたい話はさすがにできないが、この問題は口にしてもいいだろう。
「実は先日、皇太子殿下と通信魔導具でお話ししているときに、うかがったのですけれど……。近々、東の小国連合から友好使節団が来るらしくて」
現皇帝には、正妃との間に今年九歳になる息子がいる。
すでに立太子しているその子の名は、ベルナルド・ティルティス・レンブラント・ネイ・ギネヴィア。少しクセのある柔らかな金髪にスミレ色の瞳を持つ、ヴィクトリアの従弟だ。
ヴィクトリアが『楽園』在学中に、偶然出会った彼を暗殺者の手から守ったこともあり、今ではベルナルドは姉上と呼んで慕ってくれている。
互いに忙しい身なので滅多に会えないけれど、彼とはときどき通信魔導具を介して楽しくおしゃべりする仲である。
「その使節団っていうのが……連合加盟国の、主だった独身王族で構成されているみたいなんです」
歯切れ悪く言ったヴィクトリアの言葉に、リージェスの眉根が、軽く寄った。
ランディも彼女の言わんとすることを察したのか、なんとも言い難い顔になる。
へにょりと眉を下げ、ヴィクトリアは口を開く。
「それで、えっと……。ベルナルド殿下がおっしゃるには、彼らの目的はおそらくわたしとの集団見合いだろう、って」
「わーお」
半目になったランディが、棒読み口調で言う。少し考えるようにしてから、彼は続けた。
「東のほうには、ちっこくてもめっちゃ古くから続いている国とか、質の高い魔導石鉱脈を抱えてアホみたいに金持ってる国とかもあるもんなぁ……。その辺のどっかにおまえが嫁いだら、ギネヴィアとセレスティアっていう二大国の後ろ盾ができて、東の小国を統一することもできちゃうかもー、みたいな?」
そうですね、とヴィクトリアはため息まじりにうなずく。
「皇帝陛下もお父さんも、わたしへの縁談はきれいにシャットアウトしてくれているのですけどね。さすがに、『友好使節団』の訪問をお断りするのは難しいようです」
何も知らなかった頃のヴィクトリアなら、そんな連中を迎えることなどまっぴらごめんだ、とすたこら逃げ出していただろう。
しかし、自分の意志でギネヴィア皇室入りを決めてから、いろいろなものを見聞きし、そして学んだ。
(わたし個人としては、「おととい来やがれ」と蹴っ飛ばしてやりたいところなのですけれども。ただそれをすると、身近な人たちにとんでもない迷惑がかかってしまう、という罠。わたしのせいで、お父さんたちが恥をかく羽目になるというのは、やっぱり避けたいところですし……)
――皇族や王族に許される『子どもの時間』は、とても短い。
こうして今、ヴィクトリアが自由に過ごせているのは、ギルフォードたちがそれを許してくれているからだ。周りの大人たちが揃って甘やかしてくれるから、彼女はなんの責任を負うこともなく過ごしていられる。
だが、ヴィクトリアよりもずっと年下のベルナルドでさえ、顔を合わせるたびに驚くほど成長していく。
もちろん、生まれたときから『未来の皇帝』として育てられてきた彼と、ずっと平民として育ってきた自分を、同列に考えているわけではない。
ただ、まだまだ小さな体をした従弟は、ちょっと想像しただけで息が詰まりそうなほどの、とんでもないプレッシャーの中で生きている。
なのに、もう十六歳になる自分がのほほんと呑気に守られているというのは、どう考えても不公平だと思うのだ。
ギネヴィア皇室に入るまで、ヴィクトリアはとても小さな世界で生きていた。
自分自身と、ほんのわずかな大切な人たちさえ幸せに生きていけるなら、それでいい。
ずっと、そんなふうに思って――正直に言うなら、今もそう思っている。
ヴィクトリアは、『常に自分を律し、国民の幸福のために生きる』などという、崇高な考えなど持ち合わせていない。
けれど――
(『セレスティアの英雄』であるお父さんを筆頭に、親戚一同が揃いも揃って国の重鎮である場合、ですね。周りから全力で可愛がられている身としては、少しは彼らのお役に立ちたいと思うのは、コレ人情というものでして)
セレスティアとサフィスの開戦を回避し、ギネヴィアとセレスティアの関係をよい方向に導いてくれたのだから、もうそれで充分だ、亡き母のぶんまで自由に幸せに生きてほしい――そんな大人たちの気持ちは、とてもありがたいと思う。
だが、働かざる者、食うべからず。
それが、ヴィクトリアが幼い頃から母の背中を見て学んだ、この世の中のルールである。
だから、決めた。
この国の成人年齢は、十八歳だ。
それまでの間は、『子ども』のままでいさせてもらおう。
父とともに自由に暮らし、友人のために『皇女』の権力を好きなように使い、リージェスに一生に一度の恋をする。
タイムリミットは、二年後の誕生日。
それまでに、『リージェスのお嫁さん』になる権利を得ることができなければ、そこできっぱりとあきらめよう――と。
(うん。二年間がんばってダメなら、あきらめもつくだろうし。……リージェスさまのお嫁さんになれないなら、結婚相手なんて誰でも同じだし)
元々ヴィクトリアは、『将来の旦那さま』についてあまり夢を見ていなかった。
故郷の田舎町で暮らしていたときから、結婚相手は身近な年長者によさげな男性を紹介してもらい、穏やかで安定した家庭を築いていこうと思っていたのだ。
……あの頃と今との環境の違いを考えると、あまりの落差に眩暈がしそうだが、そこは今更言っても仕方があるまい。
ヴィクトリアが欲しいのは、リージェスだけだ。
二年後に後悔しないよう、これから全力でがんばる所存ではあるのだが――
「まぁ、あちらが『友好使節団』を名乗ってやってくるなら、こちらもそのつもりで応対するしかありませんよね。そんなことより、今はユージェニーさんですよ。シャノンさまとの婚約の件も、下手な伝え方をしたら『命令』だと思われそうで怖いです」
現状、最優先に考えなければならないのは、やはりこちらだ。
もし彼女自身が望まないのであれば、たとえそれが最良の方法であったとしても、強いるのは避けたい。しかし、彼女は周囲の人間の言葉を『命令』だと受けとると、あっさり従ってしまうところがある。
ヴィクトリアの指摘に、ランディが顔を強張らせた。
「そういえば、うちの妹は『偉い人』の指示には、無条件で『ハイ』って言っちゃうような、とんでもねーポンコツなんでした……ッ。リージェスさま! シャノンさまとのことは、おれからあの子に伝えさせてもらっていいですよね!?」
必死の懇願に、リージェスは特に検討する様子もなくうなずく。
「ああ。そのほうが、彼女も納得しやすいだろうからな」
ヴィクトリアは、ため息まじりに言う。
「一番信頼しているランディから、シャノンさまとのことを伝えられたら……。ユージェニーさんは、それこそ無条件で『ハイ』と言いそうな気がしますよ?」
「うぅ……っ」
苦悩するランディに、リージェスが言う。
「別に問題はないだろう。現状、おまえたちの安全を確保するためには、これ以上の方法はないんだからな」
「……それは、頭では理解しているのですが。できればあの子には、自らが望む形で幸せになってほしいというか……それに、可愛い可愛い妹と再会して半月も経たずに、あっという間にヨソの男にかっさらわれていく悲哀というのは……。ハイ。なかなかストレートに、兄心を折りにくるもののようでして」
ランディが、どんよりと肩を落とす。
そのときヴィクトリアは、リージェスがさりげなくランディから距離を取ったのを、たしかに目撃した。
たとえシスコンというのが感染する病だとしても、リージェスに姉妹はいないのだから、あまり恐れる必要はないのではなかろうか――と、ヴィクトリアは思ったのだった。
第二章 へっぽこ皇女とポンコツ姫
すっかりシスコン化したランディにビビりつつ、ヴィクトリアはユージェニーがいる応接間に彼らと向かう。そして、はたと気がついた。
(いやいや、待て待て。ユージェニーさんがメイア伯爵家の養子になったら、当然リージェスさまの義理の妹になるわけで。そうなると、ユージェニーさんがリージェスさまのシスコン対象……になった場合、彼女の安全はますます確固たるものになりますね?)
なんだか、それはそれでアリなような気がする。
そんなことを考えている間に、三人はユージェニーのいる応接間に到着した。
ヴィクトリアを探すために部屋を飛び出したランディを待つ間、彼女はひとりでいたはずだ。一体どうやって時間を潰していたのだろう。
「……ひっ!?」
開け放たれたままだった扉の中をのぞいた瞬間、目に入った異様な光景に、ヴィクトリアは思わず悲鳴を上げた。
レースのカーテン越しの柔らかな日差しを受け、ピカピカに磨かれたティーテーブルが淡い光を放っているかのようだ。豪奢な白磁のティーセットと色とりどりの茶菓子も、実に美しい。
猫脚のソファに背筋を伸ばして座るユージェニーが着ているのは、柔らかな緑色のドレス。
それはまるで、一幅の絵画のような佇まいだったが――
(な……っ、何アレー!?)
ユージェニーはいつも通りの無表情のまま、客間の中央に敷かれた円形の絨毯をじっと見つめている。離宮の応接間に敷かれているだけあって、それは色鮮やかな紋様が入った、分厚く重そうな逸品だ。
だが今、本来は床に張りついているはずの絨毯が、ぼこっぼこっと音を立てて蠢動しているのである。その表面のあちこちが不規則に弾み、今にも絨毯を突き破って大量の何かが生まれてきそうだ。
ヴィクトリアの全身に、一瞬でぞわぁっと鳥肌が立った。彼女は咄嗟に、リージェスの胴体にがっしとしがみつく。
「リア? どうした?」
「ど……どうって……どうって……っ!?」
至って冷静なリージェスの反応に、ヴィクトリアは混乱する。
こんな不気味な光景を目の前にして、なぜそんな平気な顔でいられるのか――
と、ヴィクトリアがパニック状態に陥る前に、ランディがすっと部屋に入った。彼は頓着した様子もなく絨毯の前にしゃがみ込むと、いまだにぼこぼこと蠢いているそれを無造作にめくりあげる。
「ふはっ。かくれんぼか?」
「この重たい絨毯の下でも、機動性が落ちない。ヴィクトリア殿下の魔導具は、見た目よりもずっと頑丈。驚いた」
……分厚い絨毯の下にもぐりこみ、それを動かしていたのは、仔猫や仔犬、リスやハリネズミといった、小さな動物の姿を模した魔導具たちであった。ヴィクトリアが以前、ユージェニーの癒しになればと作ったものだ。
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