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9巻
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竜界に無数に浮かぶ大陸や惑星などは、特に誰のものと決まっているわけではない。各々がその時の気分次第で好きな場所を寝床とする傾向にある。
ヒュペリオンがずっと寝床を変えずにいるという事は、元来の睡眠を好む性格もあるが、相当寝心地が好い場所を見つけたのだろう。
道すがら、私は記憶の中にある竜界と変わっているところに気付いて、その変化を観察していた。
竜界は我ら竜種が創り出した竜種の為の世界である。だが、私達以外の生物も存在している。
天界や魔界と同じ高位次元に位置する竜界に、三次元や四次元などに属する地上の生物達や精霊、精神生命体の類がそれなりにまとまった数で居を構えているのだ。
当然、彼らは元から竜界に住んでいたわけではない。
神々の戦いの影響や何かしらの事情で故郷を失った者達、あるいは絶滅の危機に瀕した生物などを憐れみ、余っている土地を快適な環境に作り変えた上で竜界に引き入れて保護する、といった事が、私の知る限りでも何度か行われている。
ある程度時間が経過した後、元の世界に帰す事が多かったが、中には竜界にそのまま残って暮らしたいと望む者達もいた。
興味本位で現在の竜界を軽く探知してみたところ、竜界の外から保護した亜人や妖精、人間種が築き上げた文明がいくつも確認出来た。
私が暮らしている地上世界と同程度の文明もあれば、地上を離れた高高度に人工の大地を作って暮らせる程度に発達した文明も散見される。
「私が最後にいた頃と比べると、随分と賑やかになったものだな。竜界の居心地が好すぎるのかね?」
「そうやもしれぬ。故郷に帰る事を拒む者も多少はいたからな」
こういった他世界から保護した者達の世話や仲介なども、大元締めは自分が担っている事もあって、バハムートはどこか誇らしげに見える。
日頃の彼の苦労に対して、称賛や労いの声を掛ける者はほとんどいないだろうに、よくも不貞腐れずにいられるものだ、とついつい感心してしまう。
あるいはバハムートにとってはこれが生き甲斐になっているのかもしれない。
先行するアレキサンダーが緑に覆われた惑星に降り立ち、私もそれに続いた。
緑の正体は惑星表面を覆う苔で、他には木の一本はおろか草の茂みすら存在しない。苔生した岩と土だらけの大地には、ところどころに澄んだ青に染まる湖などがあるきりで随分と寂しげな風景だ。
風の音以外には静寂が支配しているこの惑星で、ヒュペリオンは眠りに就いているのだという。
アレキサンダーは惑星に降り立った後、惑星表面に走る無惨な刀傷を思わせる亀裂の中へと進む。
私達も亀裂の端に触れぬように体の大きさを調節しながら降下していく。
私が人間として生まれた惑星だったら、マグマに突入するくらいの深度まで潜ると、内側に薄紫色の煌めきを閉じ込めた水晶に囲まれて眠る巨大な龍の姿が見えた。
かつて孤独に耐えきれずに己が身を引き裂いた始祖竜の尻尾から生まれし者。
四翼一頭一尾零眼紫鱗の古龍神〝全てを圧し壊す〟ヒュペリオン。
それが、私達の目の前で昏々と眠り続ける龍の名前であった。
しかしまあ、私の気配に気付いて目を醒ますかと思えば、こうして私達兄弟が来てもまだ眠り続けているとは、いやはやヒュペリオンの眠り好きは相変わらずだな。
先にヒュペリオンのもとに到着していたアレキサンダーは、健やかな寝息を立てているヒュペリオンにカチンと来たらしく、少しばかり苛立ちを含んだ声を出す。
「おい、おい! 良い夢を見ているのか悪い夢を見ているのか知らんが、起きろ。最近まで死んでいたドラゴンの奴が、殊勝にも顔を見せに来たぞ。起きてみすぼらしくなったドラゴンの顔を拝んでやれ」
まったく……口が悪いなあ。
ふうむ、本当に痛い目の一つ二つに遭わせて、躾をしてやろうかね。
アレキサンダーの乱暴な呼びかけを受けて、深い眠りに就いていたヒュペリオンが、かすかに身じろぎした。
ほどなくして、首を持ち上げたヒュペリオンは、大きく口を開き、はしたなく欠伸を零してから、閉ざしたままの目を私達へと向ける。
高純度のオリハルコンを砂糖菓子のように容易く噛み砕く牙の奥から聞こえてきたのは、少年とも少女ともつかぬ澄んだ声音だった。
「ふわぁああ、なんだい、アレキサンダー? 相変わらず君は騒々しいなあ。言われなくっても起きるよ~。ふぁ……やあ、ドラゴン。随分と久しぶりになるかなあ」
「久しぶりだな。二度目の生を得たので顔を見せに来たよ」
「うん、そうみたいだね。今の君は……へえ、人間に生まれ変わったのかい? 人間は君と一番関わりの深かった生き物だね。これも因果というものかな?」
ヒュペリオンはバハムート同様に、私が人間に生まれ変わった事を一目で看破してきた。
瞳がないのに何が見えているのか、ヒュペリオンは昔から視力の有無をまるで感じさせない言動を取る。
「かもしれんな。運命を司る三女神でもその因果の糸で我らを絡め取る事が出来ない以上、何者かの意思が働いたとは考えられんがね」
「そうだねえ。ふああ、まだ眠たいけれど、せっかく君が来てくれたのなら起きなきゃ失礼かな。よいしょ」
ヒュペリオンは横たわっていた紫水晶の寝床から長い体を起こし、ふわりと浮かび上がる。
「ヴリトラやヨルムンガンドとの顔合わせはまだかい? いや、両方ともここを目指して来ているみたいだね。じゃあ、上の方に行って兄弟達が来るのを待とうか……ぐぅ」
「こら、起きた傍から眠るな」
話している最中に寝息を立てはじめたヒュペリオンは、はっと顔を上げてはにかんだ笑みを浮かべた。
「やあ、ごめんごめん。宇宙が生まれて消えるまでの時間くらいは眠っているつもりだったからね~、どうしてもまだ眠り足りないのさ」
このヒュペリオンの緩い感じは、どことなく級友のファティマを連想させるものがある。
私がファティマに対して強い親近感を抱くのも、彼女自身の人徳に加えて肉親と言えるヒュペリオンと相通ずるものを感じていたからだろうか。
今度こそはっきりと目を醒ましたヒュペリオンを伴って亀裂を出て、私達はこの惑星の地表で他の兄弟達が来るのを待つことにした。
再会した四柱全員が、私の記憶の中の姿と全く変わっていない。この分では残りの兄弟達も変わらぬままであろう。
変わったのは私だけか――などと考えていると、それぞれ反対の方向から、残る兄弟達がぐんぐんと近づいてくる気配を感じた。
始原の七竜を含めた全ての竜種の中で最速を誇るヴリトラと、始祖竜の瞳から生まれて混沌の全てさえ見通すと言われるヨルムンガンドだ。
先に私達の前に姿を見せたのはヴリトラであった。
ヴリトラの全身は深い緑色の鱗に覆われ、翡翠が色褪せて見えるほどに鮮烈な翠の瞳を持つ。背に十二枚もの翼を広げ、臀部からは八本の尻尾が伸びている。
背の翼の皮膜はほとんど無色に近く、ヴリトラはこの十二枚の翼が生み出す速度によって、〝何よりも速き〟ヴリトラと称されていた。
しかし困った事に、この姉妹殿は一箇所に留まるという事をしない性分の持ち主だ。
私達の目の前まで来ても止まる事なく、風を切って惑星を周回しはじめた。
開口一番、ヴリトラは十代半ばから後半の闊達な少女を想起させる声で挨拶してきた。
「ドラゴン、久しぶり!」
と、にこやかに声を掛けてきた時には既に惑星の裏側に回っており、そこからまた私達の前まで来たところで……
「ちょっと小さくなった? 遅くなった? それとも小さく軽くなったから速くなった?」
……と言って、また二周目に入るという、なんとも面倒な会話の仕方をしてきた。
まあ、これは今に始まった事ではなく、私達兄弟からすれば慣れたものだ。
一瞬しか目の前に居ないヴリトラに直接声を掛けるのではなく、思念を飛ばして会話をするというのが彼女との意思疎通の基本だ。
私は言葉を口にするのと同時に念話を飛ばしてヴリトラとの会話を続けた。
「あまり変わらんと思う。ヴリトラ、無理に話そうとしなくても、今まで通り思念を飛ばしてくれればそれでいいぞ」
ひょっとして、ヴリトラが直接声を掛けてきたのは、久しぶりに私の顔を見て嬉しいからだろうか。
『あ、そう? じゃあそうするね! ヒュペリオンはもう起きているみたいだから、後はヨルムンガンドだけだね、遅いね、遅いよね?』
ヴリトラは即座に快諾の返事をよこしてきた。
「たまたま居た場所が遠かっただけの事だろう。それに、君と比べてしまえば全ての存在が遅いのは自明ではないか」
『まあね! ボクがいっちば~ん速いだもん!』
えへん、と胸を張っている様子が容易に想像出来る思念が伝わってきた。
始祖竜の翼から生まれたヴリトラは、速さに関しては自分が一番でないと我慢出来ないという子供っぽい性格で、私達同族のみならず、神々や神獣などを相手に速さ比べを挑んだ逸話が数え切れないほどある。
こうして見ると、アレキサンダーといい、ヒュペリオンといい、ヴリトラといい、我が兄弟達はなんとも個性的というか、どこか精神が幼く未成熟なところが目立つものだと思い知らされる。
その分、バハムートとリヴァイアサンが成熟していると考えるべきか、はてさて。
「君も変わらんな。最後に竜界を訪れた時からまるで時間が経っていないかのようだ」
しみじみと呟く私に、バハムートが応じた。
「広い視野で見れば、良く悪くも変化に乏しいのが我らの世界だ。それでも細かく見れば同じ時は決して流れておらぬし、微細に変わり続けている。しかしドラゴンよ、お主は人間に生まれ変わっている。定められた命を生きる人間としての感性があるならば、時の流れは生まれ変わる前よりも速く感じられるのではないか?」
「そうさな、人間として生を受けて十六年、あっという間に過ぎたように感じていたが、それも竜であった頃なら瞬きをするくらいの時間だ。ふむ……そうなると、私の時間の感じ方は大分人間に近づいていると言えるな。おっと、ヨルムンガンドも来たか」
私達が話をしている間に最後の兄弟が姿を見せた。
地面に降りていた私達の頭上でヨルムンガンドが停止し、彼の落とす影が私達を呑み込む。
七翼六頭十尾黒眼灰鱗の古龍神〝涯と頂を見通す〟ヨルムンガンド。その名前が示す通り、細長い龍の体の左右に六枚の翼が生え、背中の中心に七枚目の翼を持つ。
翼に皮膜はなく、代わりに体と同じ薄い灰色の鱗で覆われている。
六つの頭のそれぞれに一つずつの瞳があり、尻尾は十に枝分かれしているなど、その姿の異様さは始原の七竜の中でも頭一つ抜けていた。
ヨルムンガンドは黒い輝きに染まる六つの瞳で私を見て、六つの口で同じ言葉を発する。
「久しぶり、とは皆が口にしていよう。ドラゴン、また会えて嬉しいぞ」
抑揚が乏しい中にも喜色の滲むヨルムンガンドの声に、私は肉親に対する親愛の情を感じて、思わず口元を綻ばせた。
「私もさ。前は久しく顔を見せていなかったが、改めて兄弟というものの良さを知ってね。無沙汰を反省しているところだ」
これは無論、人間としての兄弟、ディラン兄とマルコのお蔭である。
ヨルムンガンドは重力を感じさせぬ柔らかな動きで降下してきて、ちょうどヴリトラを除く私達六柱で車座になる。
「ドラゴンにしては殊勝。それにしてもアレキサンダー、良かったな。ドラゴンがこうして顔を見せに来てくれて」
ヨルムンガンドがアレキサンダーをからかえば、末の妹は実に分かりやすい態度で六つ頭の兄龍に抗議する。
「べべべ、別に喜んではいない! いないぞ」
アレキサンダーがあからさまに動揺する姿を見て、私以外の皆が大小の笑いを零す。惑星周回百周目に入ったヴリトラも例外ではない。
「笑うな!」
アレキサンダーはすっかり機嫌を損ねてしまい、恥ずかしさを誤魔化すかのように顔を逸らしていかにも自分は怒っているぞ、という態度を取る。
こういう反応をするから私達にからかわれて、末の妹扱いをされるのだと、アレキサンダーだけが理解していない。
「そういえば、今は人間に生まれ変わっておるのであろ? どのような姿を御母堂から授かっておるのかの?」
人間としての私について問いかけてきたのは、リヴァイアサンだった。
始原の七竜の中で母親ないしは長女としての役割を担う彼女は、生まれ変わった私の姿や生活などが気になるらしい。
そのような事を問われるとは思ってもいなかったが、人間としての姿を見せる事になんの問題も躊躇もない。
リヴァイアサンの言葉を皮切りに、他の兄弟達も私に好奇の視線を寄越した。ヴリトラまでも惑星を周回するのをやめて滞空している事から、興味の強さが窺える。
あまりに注目されると少しこそばゆいが、乞われるままに古神竜としての肉体を分解して、今回の生で賜った本来の人間としての姿を兄弟達の前に晒した。
私の古神竜としての肉体の輪郭がぼやけ、一瞬で鱗も翼も肉も骨も白い光の粒子と化して崩れ、それが人間の形へと集約される。
父親譲りの黒髪に、母親譲りの青い瞳。人からは〝まあまあ〟と評価してもらえる顔立ちである。
肌はよく陽に焼け、体は日頃の過酷な農作業と節制によって引き締まっている。
「とりあえずこのような肉体を賜っている。なかなか過酷な環境に生まれ育ったが、周囲の人々には恵まれていてね。とても充実した生を過ごしている」
巨体を誇る兄弟達と比べると遥かに小さくなった私の姿を、皆がしげしげと眺める。
そんな中、ヴリトラはケタケタと心底からの陽性の笑い声を上げると、緑と翡翠二色に彩られた体を変化させはじめる。
「ドラゴン、人間だね? 人間だ! あはは、小さ~い。せっかくだからボクも人間にな~ろぉっと。お話をするときはおんなじ目線じゃないと失礼なんだよね? 見下ろしてお話をするのはよくないもんね。えい!」
どうやら私と同じように自分を人間に変化させるつもりらしい。
十二枚の翼も緑の鱗に覆われた巨体も私同様に一旦光の粒子へと分解されて、刹那にも満たない短い時間で、ヴリトラの体があった場所に小柄な少女の姿が現れた。
うなじに掛かる髪は鱗と同じ深い緑、くりくりとよく動く大粒の瞳は翠。
小麦色に焼けた肌を持ち、四肢の付け根が露わな紺色の簡素なシャツと赤いショートパンツという出で立ちだった。
「んん~、地上の生物の姿になるのは何年ぶりかなあ、一万年? 一億年? あははは、忘れちゃった~」
ヴリトラは人間に変化させた肉体の調子を確かめるように、その場でせわしなく足を上下させたり、何度も兎みたいに跳ねたりする。
生命力に満ち溢れた闊達な少女にしか見えないが、こと速さにおいては全盛期の私でも後塵を拝する強大な古神竜である事に変わりはない。
「ほらほら、皆も人間になりなよ。せっかく兄弟が揃ったんだし、人間に生まれ変わったドラゴンに合わせるのも面白いよ~」
「なんで私達がドラゴンなんかに合わせてやらねばならんのだ」
ヴリトラからの提案に明確な反対の意思を示したのは、アレキサンダーだけだった。
ヒュペリオンは随分乗り気な様子である。
「ふふ、いいじゃない。大した手間でもないんだし、たまには違う姿になるのも面白いかもね~」
「しかし我らは竜だぞ。あるべき姿を変える必要などなかろう」
「それを言ったら、ドラゴンはもう人間に生まれ変わっているのだから、古神竜としての姿は在るべき姿ではないよぉ。わざわざぼく達の為にさっきまで昔の姿をしてくれていたんだし、だったらぼくらも合わせて姿を変えるくらいはしてもいいんじゃないかなあ?」
ヒュペリオンは淀みなく反論を述べると、この眠りたがりにしては珍しく迅速に行動に移り、人間の姿へと自身の巨体を変化させた。
瞬く間に変化が終わると、そこには十歳そこらの子供姿のヒュペリオンが立っていた。
龍体の鱗と同じ紫色の髪は先端にいくにつれて内側に巻く癖があり、華奢な体の左右を流れて、まるで紫色の百合の花がヒュペリオンを包んでいるかのように見えた。
凹凸のない流麗な線を描く体に、刺繍も柄も一切ない膝丈の白いワンピースを着ているのみで、傷一つない細い足と爪先は剥き出しになっている。
瞼こそ閉じたままだが、ほのかに桜色に染まった頬や、花びらがそのまま変わったかのような小さな唇、触れれば簡単に壊れてしまいそうなほど繊細で、硝子細工を思わせる儚げな雰囲気は、ヒュペリオンを絵画の中にも存在し得ない美少年、ないしは美少女へと仕立てあげていた。
子供嫌いの者でも一目で魅了してしまいそうなくらいに可憐で、現実にはあり得ない存在だと思わせるほどだった。
そういえば、昔からヒュペリオンの性別は謎だったな。男か女か、はたまた両性具有か。大した問題ではないから言及した事もなかったが、実際のところはどうなのだろう?
「ああ~、こっちの体の方が小さいからいろんな場所で眠れそうだねえ……ぐぅ……」
「ヒュペリオン、話している最中に眠るのは禁止」
地べたで眠ろうとするヒュペリオンを、ヨルムンガンドが窘める。
「ふあっ? ああ、ごめんねぇ、むにゃむにゃ」
言った傍から眠ろうとするヒュペリオンをよそに、ヨルムンガンドも姿を変える。
それにしても……頭が六つある姿に変化したとしたら、それは人間と言えるのだろうか? そんな私の疑問に反して、ヨルムンガンドはきちんと頭は一つ、手足はそれぞれ二本ずつという標準的な人間の姿になった。
地面に付きそうなほど長い灰色の髪を首の後ろで六つに分けて、髪そのもので結って垂らし、体の線がはっきりと浮き彫りになる薄い灰色のブラウスとズボンに同色のコートを重ねていた。
眦が少し垂れ気味で、黒一色の瞳にはあまり覇気が感じられない。
どことなく顔から読み取れる感情の色が薄く、ヨルムンガンドの生来の自己表現の希薄さがよく表れている。
「むぐぐぐぐぐ……ヨルムンガンドまで」
「アレキサンダーよ、いつもの通りお主の負けだ。意地を張らずにさっさと自分の心に素直になれ。いい加減、我もお主のその態度には飽きたというか、呆れておるのだぞ?」
「バハムートの言う通りだ。ドラゴンがまたいつ死ぬとも限らぬ以上は、前のように後悔しかねない真似は慎みなさい」
バハムートとリヴァイアサンは、まるで父母の如くアレキサンダーを諭すと、その姿を人間のものへと変えてゆく。
バハムートは鱗と同じ闇よりも深い漆黒のローブを纏った逞しい青年の姿を取っている。
私より頭一つ高い長身で、引き締まった筋肉の束を纏った見事な肉体を構築していた。変わらぬ銀の色彩に染まった瞳には、底知れぬ知性の煌めきが瞬いている。
巨大な岩石から掘り上げたような威厳を感じさせる顔立ちで、決して取れないと思わせる深い皺が眉間に刻まれていて、おまけに何故か視力を矯正する黒縁の眼鏡を掛けていた。
ふむん、お洒落か? よもや老眼の類ではあるまいが……
眼鏡はともかくとして、人間に姿を変えたバハムートには、人間のどんな国家の国王や皇帝であろうと声をかけることさえ憚られる大賢人か超越者といった風格がある。
リヴァイアサンも威厳に満ち溢れた姿であった。
底を見通せぬ深い海を写し取ったような青く長い髪を、黄金や白金など多種多様な宝石類で飾られた簪で結い留め、首元や手首にも豪奢と言う他ない装飾品をつけている。
これだけ飾り立てればかえって品性を損ないかねないのだが、リヴァイアサンに限っては、これらの装飾品でなければ彼女の美貌と品格に負けてしまう。
眦は鋭く、神秘的な蒼い瞳は心の奥底のみならず、魂まで見通すかのような輝きを秘めている。
穏やかな笑みを浮かべる唇は、そこから零れる言の葉一つで、全ての人間の心を奪えそうなほどに妖しく美しい。
リヴァイアサンの鱗や皮膚が変じた衣服は、龍吉やその娘の瑠禹が着用している前合わせの衣服に酷似していて、豊満な乳房と臀部が薄い生地を大きく押し上げ、代わりに腰の部分に関しては大胆なまでにくびれている。
蠱惑的な肉体の持ち主であるが、見る者に肉欲を抱かせぬ圧倒的な風格と美貌を併せ持っている。
ふむん、強いて言えば、龍吉を百倍ぐらい威圧的で勝ち気にすれば、似ていない事もないかもしれない。
皆が次々と人間の姿に変化した事で、ただ一柱取り残された形になったアレキサンダーは、むぐぐぐ、むぎぎぎ、と、女性にあるまじき唸り声を出している。
「ほれほれ、後はお主だけじゃぞ」
「早く決めなよ、決めるのおっそ~~~い」
リヴァイアサン達にはやし立てられたアレキサンダーのこめかみに、太い血管の筋がビキビキと浮かび上がる。
はてさて彼女の心中には、一体どのような感情の嵐が吹き荒れている事やら。
アレキサンダーはちらっと私の方を見て、鼻息を荒くする。
私を見てどんな決断をする気だ?
「ああもう、いつもこうだ。私ばっかり、こう……なんと言うか、除け者にされると言うか、頑固者扱いされると言うか、もう、もうもう!」
まさに駄々をこねる子供のように地団太を踏んで、アレキサンダーは渋々人間へと姿を変えはじめる。
彼女の外見には、気性が荒く傲岸な性格がよく表れていた。
銀糸だけで編んだような一枚布を全身に緩く巻いた姿で、四肢の付け根や大きく揺れる胸の谷間を大胆に覗かせていた。少し露出が多くはなかろうか。
鱗と同じ銀色の髪は膝に届くほどに伸び、腕や首、腰に足、耳、額と、全身のあらゆるところに各種の宝石や貴金属の装飾品を何重にもつけている。身を飾る品だけで地上の人間の王国を全て買えそうだが、これらは全てアレキサンダーの鱗や皮膚が変じたものだ。
目尻は吊り上がり、獰猛な光を帯びた金眼は、己の存在への絶対的な自信から他者への嘲りを隠そうともしていない。
あどけなさの残る顔立ちは、これ以上ないほどに整っており、その十代前半から半ばに見える幼さに反して、淫らとさえ言える体つきをしていた。
「まったく、竜以外の姿になるなど滅多にしないんだからな」
アレキサンダーはきめ細かな頬をぷくっと膨らませている。
皆の意見にアレキサンダーが根負けし、不機嫌になって怒りを撒き散らす――これも私達からすればいつもの光景である。
ヒュペリオンがずっと寝床を変えずにいるという事は、元来の睡眠を好む性格もあるが、相当寝心地が好い場所を見つけたのだろう。
道すがら、私は記憶の中にある竜界と変わっているところに気付いて、その変化を観察していた。
竜界は我ら竜種が創り出した竜種の為の世界である。だが、私達以外の生物も存在している。
天界や魔界と同じ高位次元に位置する竜界に、三次元や四次元などに属する地上の生物達や精霊、精神生命体の類がそれなりにまとまった数で居を構えているのだ。
当然、彼らは元から竜界に住んでいたわけではない。
神々の戦いの影響や何かしらの事情で故郷を失った者達、あるいは絶滅の危機に瀕した生物などを憐れみ、余っている土地を快適な環境に作り変えた上で竜界に引き入れて保護する、といった事が、私の知る限りでも何度か行われている。
ある程度時間が経過した後、元の世界に帰す事が多かったが、中には竜界にそのまま残って暮らしたいと望む者達もいた。
興味本位で現在の竜界を軽く探知してみたところ、竜界の外から保護した亜人や妖精、人間種が築き上げた文明がいくつも確認出来た。
私が暮らしている地上世界と同程度の文明もあれば、地上を離れた高高度に人工の大地を作って暮らせる程度に発達した文明も散見される。
「私が最後にいた頃と比べると、随分と賑やかになったものだな。竜界の居心地が好すぎるのかね?」
「そうやもしれぬ。故郷に帰る事を拒む者も多少はいたからな」
こういった他世界から保護した者達の世話や仲介なども、大元締めは自分が担っている事もあって、バハムートはどこか誇らしげに見える。
日頃の彼の苦労に対して、称賛や労いの声を掛ける者はほとんどいないだろうに、よくも不貞腐れずにいられるものだ、とついつい感心してしまう。
あるいはバハムートにとってはこれが生き甲斐になっているのかもしれない。
先行するアレキサンダーが緑に覆われた惑星に降り立ち、私もそれに続いた。
緑の正体は惑星表面を覆う苔で、他には木の一本はおろか草の茂みすら存在しない。苔生した岩と土だらけの大地には、ところどころに澄んだ青に染まる湖などがあるきりで随分と寂しげな風景だ。
風の音以外には静寂が支配しているこの惑星で、ヒュペリオンは眠りに就いているのだという。
アレキサンダーは惑星に降り立った後、惑星表面に走る無惨な刀傷を思わせる亀裂の中へと進む。
私達も亀裂の端に触れぬように体の大きさを調節しながら降下していく。
私が人間として生まれた惑星だったら、マグマに突入するくらいの深度まで潜ると、内側に薄紫色の煌めきを閉じ込めた水晶に囲まれて眠る巨大な龍の姿が見えた。
かつて孤独に耐えきれずに己が身を引き裂いた始祖竜の尻尾から生まれし者。
四翼一頭一尾零眼紫鱗の古龍神〝全てを圧し壊す〟ヒュペリオン。
それが、私達の目の前で昏々と眠り続ける龍の名前であった。
しかしまあ、私の気配に気付いて目を醒ますかと思えば、こうして私達兄弟が来てもまだ眠り続けているとは、いやはやヒュペリオンの眠り好きは相変わらずだな。
先にヒュペリオンのもとに到着していたアレキサンダーは、健やかな寝息を立てているヒュペリオンにカチンと来たらしく、少しばかり苛立ちを含んだ声を出す。
「おい、おい! 良い夢を見ているのか悪い夢を見ているのか知らんが、起きろ。最近まで死んでいたドラゴンの奴が、殊勝にも顔を見せに来たぞ。起きてみすぼらしくなったドラゴンの顔を拝んでやれ」
まったく……口が悪いなあ。
ふうむ、本当に痛い目の一つ二つに遭わせて、躾をしてやろうかね。
アレキサンダーの乱暴な呼びかけを受けて、深い眠りに就いていたヒュペリオンが、かすかに身じろぎした。
ほどなくして、首を持ち上げたヒュペリオンは、大きく口を開き、はしたなく欠伸を零してから、閉ざしたままの目を私達へと向ける。
高純度のオリハルコンを砂糖菓子のように容易く噛み砕く牙の奥から聞こえてきたのは、少年とも少女ともつかぬ澄んだ声音だった。
「ふわぁああ、なんだい、アレキサンダー? 相変わらず君は騒々しいなあ。言われなくっても起きるよ~。ふぁ……やあ、ドラゴン。随分と久しぶりになるかなあ」
「久しぶりだな。二度目の生を得たので顔を見せに来たよ」
「うん、そうみたいだね。今の君は……へえ、人間に生まれ変わったのかい? 人間は君と一番関わりの深かった生き物だね。これも因果というものかな?」
ヒュペリオンはバハムート同様に、私が人間に生まれ変わった事を一目で看破してきた。
瞳がないのに何が見えているのか、ヒュペリオンは昔から視力の有無をまるで感じさせない言動を取る。
「かもしれんな。運命を司る三女神でもその因果の糸で我らを絡め取る事が出来ない以上、何者かの意思が働いたとは考えられんがね」
「そうだねえ。ふああ、まだ眠たいけれど、せっかく君が来てくれたのなら起きなきゃ失礼かな。よいしょ」
ヒュペリオンは横たわっていた紫水晶の寝床から長い体を起こし、ふわりと浮かび上がる。
「ヴリトラやヨルムンガンドとの顔合わせはまだかい? いや、両方ともここを目指して来ているみたいだね。じゃあ、上の方に行って兄弟達が来るのを待とうか……ぐぅ」
「こら、起きた傍から眠るな」
話している最中に寝息を立てはじめたヒュペリオンは、はっと顔を上げてはにかんだ笑みを浮かべた。
「やあ、ごめんごめん。宇宙が生まれて消えるまでの時間くらいは眠っているつもりだったからね~、どうしてもまだ眠り足りないのさ」
このヒュペリオンの緩い感じは、どことなく級友のファティマを連想させるものがある。
私がファティマに対して強い親近感を抱くのも、彼女自身の人徳に加えて肉親と言えるヒュペリオンと相通ずるものを感じていたからだろうか。
今度こそはっきりと目を醒ましたヒュペリオンを伴って亀裂を出て、私達はこの惑星の地表で他の兄弟達が来るのを待つことにした。
再会した四柱全員が、私の記憶の中の姿と全く変わっていない。この分では残りの兄弟達も変わらぬままであろう。
変わったのは私だけか――などと考えていると、それぞれ反対の方向から、残る兄弟達がぐんぐんと近づいてくる気配を感じた。
始原の七竜を含めた全ての竜種の中で最速を誇るヴリトラと、始祖竜の瞳から生まれて混沌の全てさえ見通すと言われるヨルムンガンドだ。
先に私達の前に姿を見せたのはヴリトラであった。
ヴリトラの全身は深い緑色の鱗に覆われ、翡翠が色褪せて見えるほどに鮮烈な翠の瞳を持つ。背に十二枚もの翼を広げ、臀部からは八本の尻尾が伸びている。
背の翼の皮膜はほとんど無色に近く、ヴリトラはこの十二枚の翼が生み出す速度によって、〝何よりも速き〟ヴリトラと称されていた。
しかし困った事に、この姉妹殿は一箇所に留まるという事をしない性分の持ち主だ。
私達の目の前まで来ても止まる事なく、風を切って惑星を周回しはじめた。
開口一番、ヴリトラは十代半ばから後半の闊達な少女を想起させる声で挨拶してきた。
「ドラゴン、久しぶり!」
と、にこやかに声を掛けてきた時には既に惑星の裏側に回っており、そこからまた私達の前まで来たところで……
「ちょっと小さくなった? 遅くなった? それとも小さく軽くなったから速くなった?」
……と言って、また二周目に入るという、なんとも面倒な会話の仕方をしてきた。
まあ、これは今に始まった事ではなく、私達兄弟からすれば慣れたものだ。
一瞬しか目の前に居ないヴリトラに直接声を掛けるのではなく、思念を飛ばして会話をするというのが彼女との意思疎通の基本だ。
私は言葉を口にするのと同時に念話を飛ばしてヴリトラとの会話を続けた。
「あまり変わらんと思う。ヴリトラ、無理に話そうとしなくても、今まで通り思念を飛ばしてくれればそれでいいぞ」
ひょっとして、ヴリトラが直接声を掛けてきたのは、久しぶりに私の顔を見て嬉しいからだろうか。
『あ、そう? じゃあそうするね! ヒュペリオンはもう起きているみたいだから、後はヨルムンガンドだけだね、遅いね、遅いよね?』
ヴリトラは即座に快諾の返事をよこしてきた。
「たまたま居た場所が遠かっただけの事だろう。それに、君と比べてしまえば全ての存在が遅いのは自明ではないか」
『まあね! ボクがいっちば~ん速いだもん!』
えへん、と胸を張っている様子が容易に想像出来る思念が伝わってきた。
始祖竜の翼から生まれたヴリトラは、速さに関しては自分が一番でないと我慢出来ないという子供っぽい性格で、私達同族のみならず、神々や神獣などを相手に速さ比べを挑んだ逸話が数え切れないほどある。
こうして見ると、アレキサンダーといい、ヒュペリオンといい、ヴリトラといい、我が兄弟達はなんとも個性的というか、どこか精神が幼く未成熟なところが目立つものだと思い知らされる。
その分、バハムートとリヴァイアサンが成熟していると考えるべきか、はてさて。
「君も変わらんな。最後に竜界を訪れた時からまるで時間が経っていないかのようだ」
しみじみと呟く私に、バハムートが応じた。
「広い視野で見れば、良く悪くも変化に乏しいのが我らの世界だ。それでも細かく見れば同じ時は決して流れておらぬし、微細に変わり続けている。しかしドラゴンよ、お主は人間に生まれ変わっている。定められた命を生きる人間としての感性があるならば、時の流れは生まれ変わる前よりも速く感じられるのではないか?」
「そうさな、人間として生を受けて十六年、あっという間に過ぎたように感じていたが、それも竜であった頃なら瞬きをするくらいの時間だ。ふむ……そうなると、私の時間の感じ方は大分人間に近づいていると言えるな。おっと、ヨルムンガンドも来たか」
私達が話をしている間に最後の兄弟が姿を見せた。
地面に降りていた私達の頭上でヨルムンガンドが停止し、彼の落とす影が私達を呑み込む。
七翼六頭十尾黒眼灰鱗の古龍神〝涯と頂を見通す〟ヨルムンガンド。その名前が示す通り、細長い龍の体の左右に六枚の翼が生え、背中の中心に七枚目の翼を持つ。
翼に皮膜はなく、代わりに体と同じ薄い灰色の鱗で覆われている。
六つの頭のそれぞれに一つずつの瞳があり、尻尾は十に枝分かれしているなど、その姿の異様さは始原の七竜の中でも頭一つ抜けていた。
ヨルムンガンドは黒い輝きに染まる六つの瞳で私を見て、六つの口で同じ言葉を発する。
「久しぶり、とは皆が口にしていよう。ドラゴン、また会えて嬉しいぞ」
抑揚が乏しい中にも喜色の滲むヨルムンガンドの声に、私は肉親に対する親愛の情を感じて、思わず口元を綻ばせた。
「私もさ。前は久しく顔を見せていなかったが、改めて兄弟というものの良さを知ってね。無沙汰を反省しているところだ」
これは無論、人間としての兄弟、ディラン兄とマルコのお蔭である。
ヨルムンガンドは重力を感じさせぬ柔らかな動きで降下してきて、ちょうどヴリトラを除く私達六柱で車座になる。
「ドラゴンにしては殊勝。それにしてもアレキサンダー、良かったな。ドラゴンがこうして顔を見せに来てくれて」
ヨルムンガンドがアレキサンダーをからかえば、末の妹は実に分かりやすい態度で六つ頭の兄龍に抗議する。
「べべべ、別に喜んではいない! いないぞ」
アレキサンダーがあからさまに動揺する姿を見て、私以外の皆が大小の笑いを零す。惑星周回百周目に入ったヴリトラも例外ではない。
「笑うな!」
アレキサンダーはすっかり機嫌を損ねてしまい、恥ずかしさを誤魔化すかのように顔を逸らしていかにも自分は怒っているぞ、という態度を取る。
こういう反応をするから私達にからかわれて、末の妹扱いをされるのだと、アレキサンダーだけが理解していない。
「そういえば、今は人間に生まれ変わっておるのであろ? どのような姿を御母堂から授かっておるのかの?」
人間としての私について問いかけてきたのは、リヴァイアサンだった。
始原の七竜の中で母親ないしは長女としての役割を担う彼女は、生まれ変わった私の姿や生活などが気になるらしい。
そのような事を問われるとは思ってもいなかったが、人間としての姿を見せる事になんの問題も躊躇もない。
リヴァイアサンの言葉を皮切りに、他の兄弟達も私に好奇の視線を寄越した。ヴリトラまでも惑星を周回するのをやめて滞空している事から、興味の強さが窺える。
あまりに注目されると少しこそばゆいが、乞われるままに古神竜としての肉体を分解して、今回の生で賜った本来の人間としての姿を兄弟達の前に晒した。
私の古神竜としての肉体の輪郭がぼやけ、一瞬で鱗も翼も肉も骨も白い光の粒子と化して崩れ、それが人間の形へと集約される。
父親譲りの黒髪に、母親譲りの青い瞳。人からは〝まあまあ〟と評価してもらえる顔立ちである。
肌はよく陽に焼け、体は日頃の過酷な農作業と節制によって引き締まっている。
「とりあえずこのような肉体を賜っている。なかなか過酷な環境に生まれ育ったが、周囲の人々には恵まれていてね。とても充実した生を過ごしている」
巨体を誇る兄弟達と比べると遥かに小さくなった私の姿を、皆がしげしげと眺める。
そんな中、ヴリトラはケタケタと心底からの陽性の笑い声を上げると、緑と翡翠二色に彩られた体を変化させはじめる。
「ドラゴン、人間だね? 人間だ! あはは、小さ~い。せっかくだからボクも人間にな~ろぉっと。お話をするときはおんなじ目線じゃないと失礼なんだよね? 見下ろしてお話をするのはよくないもんね。えい!」
どうやら私と同じように自分を人間に変化させるつもりらしい。
十二枚の翼も緑の鱗に覆われた巨体も私同様に一旦光の粒子へと分解されて、刹那にも満たない短い時間で、ヴリトラの体があった場所に小柄な少女の姿が現れた。
うなじに掛かる髪は鱗と同じ深い緑、くりくりとよく動く大粒の瞳は翠。
小麦色に焼けた肌を持ち、四肢の付け根が露わな紺色の簡素なシャツと赤いショートパンツという出で立ちだった。
「んん~、地上の生物の姿になるのは何年ぶりかなあ、一万年? 一億年? あははは、忘れちゃった~」
ヴリトラは人間に変化させた肉体の調子を確かめるように、その場でせわしなく足を上下させたり、何度も兎みたいに跳ねたりする。
生命力に満ち溢れた闊達な少女にしか見えないが、こと速さにおいては全盛期の私でも後塵を拝する強大な古神竜である事に変わりはない。
「ほらほら、皆も人間になりなよ。せっかく兄弟が揃ったんだし、人間に生まれ変わったドラゴンに合わせるのも面白いよ~」
「なんで私達がドラゴンなんかに合わせてやらねばならんのだ」
ヴリトラからの提案に明確な反対の意思を示したのは、アレキサンダーだけだった。
ヒュペリオンは随分乗り気な様子である。
「ふふ、いいじゃない。大した手間でもないんだし、たまには違う姿になるのも面白いかもね~」
「しかし我らは竜だぞ。あるべき姿を変える必要などなかろう」
「それを言ったら、ドラゴンはもう人間に生まれ変わっているのだから、古神竜としての姿は在るべき姿ではないよぉ。わざわざぼく達の為にさっきまで昔の姿をしてくれていたんだし、だったらぼくらも合わせて姿を変えるくらいはしてもいいんじゃないかなあ?」
ヒュペリオンは淀みなく反論を述べると、この眠りたがりにしては珍しく迅速に行動に移り、人間の姿へと自身の巨体を変化させた。
瞬く間に変化が終わると、そこには十歳そこらの子供姿のヒュペリオンが立っていた。
龍体の鱗と同じ紫色の髪は先端にいくにつれて内側に巻く癖があり、華奢な体の左右を流れて、まるで紫色の百合の花がヒュペリオンを包んでいるかのように見えた。
凹凸のない流麗な線を描く体に、刺繍も柄も一切ない膝丈の白いワンピースを着ているのみで、傷一つない細い足と爪先は剥き出しになっている。
瞼こそ閉じたままだが、ほのかに桜色に染まった頬や、花びらがそのまま変わったかのような小さな唇、触れれば簡単に壊れてしまいそうなほど繊細で、硝子細工を思わせる儚げな雰囲気は、ヒュペリオンを絵画の中にも存在し得ない美少年、ないしは美少女へと仕立てあげていた。
子供嫌いの者でも一目で魅了してしまいそうなくらいに可憐で、現実にはあり得ない存在だと思わせるほどだった。
そういえば、昔からヒュペリオンの性別は謎だったな。男か女か、はたまた両性具有か。大した問題ではないから言及した事もなかったが、実際のところはどうなのだろう?
「ああ~、こっちの体の方が小さいからいろんな場所で眠れそうだねえ……ぐぅ……」
「ヒュペリオン、話している最中に眠るのは禁止」
地べたで眠ろうとするヒュペリオンを、ヨルムンガンドが窘める。
「ふあっ? ああ、ごめんねぇ、むにゃむにゃ」
言った傍から眠ろうとするヒュペリオンをよそに、ヨルムンガンドも姿を変える。
それにしても……頭が六つある姿に変化したとしたら、それは人間と言えるのだろうか? そんな私の疑問に反して、ヨルムンガンドはきちんと頭は一つ、手足はそれぞれ二本ずつという標準的な人間の姿になった。
地面に付きそうなほど長い灰色の髪を首の後ろで六つに分けて、髪そのもので結って垂らし、体の線がはっきりと浮き彫りになる薄い灰色のブラウスとズボンに同色のコートを重ねていた。
眦が少し垂れ気味で、黒一色の瞳にはあまり覇気が感じられない。
どことなく顔から読み取れる感情の色が薄く、ヨルムンガンドの生来の自己表現の希薄さがよく表れている。
「むぐぐぐぐぐ……ヨルムンガンドまで」
「アレキサンダーよ、いつもの通りお主の負けだ。意地を張らずにさっさと自分の心に素直になれ。いい加減、我もお主のその態度には飽きたというか、呆れておるのだぞ?」
「バハムートの言う通りだ。ドラゴンがまたいつ死ぬとも限らぬ以上は、前のように後悔しかねない真似は慎みなさい」
バハムートとリヴァイアサンは、まるで父母の如くアレキサンダーを諭すと、その姿を人間のものへと変えてゆく。
バハムートは鱗と同じ闇よりも深い漆黒のローブを纏った逞しい青年の姿を取っている。
私より頭一つ高い長身で、引き締まった筋肉の束を纏った見事な肉体を構築していた。変わらぬ銀の色彩に染まった瞳には、底知れぬ知性の煌めきが瞬いている。
巨大な岩石から掘り上げたような威厳を感じさせる顔立ちで、決して取れないと思わせる深い皺が眉間に刻まれていて、おまけに何故か視力を矯正する黒縁の眼鏡を掛けていた。
ふむん、お洒落か? よもや老眼の類ではあるまいが……
眼鏡はともかくとして、人間に姿を変えたバハムートには、人間のどんな国家の国王や皇帝であろうと声をかけることさえ憚られる大賢人か超越者といった風格がある。
リヴァイアサンも威厳に満ち溢れた姿であった。
底を見通せぬ深い海を写し取ったような青く長い髪を、黄金や白金など多種多様な宝石類で飾られた簪で結い留め、首元や手首にも豪奢と言う他ない装飾品をつけている。
これだけ飾り立てればかえって品性を損ないかねないのだが、リヴァイアサンに限っては、これらの装飾品でなければ彼女の美貌と品格に負けてしまう。
眦は鋭く、神秘的な蒼い瞳は心の奥底のみならず、魂まで見通すかのような輝きを秘めている。
穏やかな笑みを浮かべる唇は、そこから零れる言の葉一つで、全ての人間の心を奪えそうなほどに妖しく美しい。
リヴァイアサンの鱗や皮膚が変じた衣服は、龍吉やその娘の瑠禹が着用している前合わせの衣服に酷似していて、豊満な乳房と臀部が薄い生地を大きく押し上げ、代わりに腰の部分に関しては大胆なまでにくびれている。
蠱惑的な肉体の持ち主であるが、見る者に肉欲を抱かせぬ圧倒的な風格と美貌を併せ持っている。
ふむん、強いて言えば、龍吉を百倍ぐらい威圧的で勝ち気にすれば、似ていない事もないかもしれない。
皆が次々と人間の姿に変化した事で、ただ一柱取り残された形になったアレキサンダーは、むぐぐぐ、むぎぎぎ、と、女性にあるまじき唸り声を出している。
「ほれほれ、後はお主だけじゃぞ」
「早く決めなよ、決めるのおっそ~~~い」
リヴァイアサン達にはやし立てられたアレキサンダーのこめかみに、太い血管の筋がビキビキと浮かび上がる。
はてさて彼女の心中には、一体どのような感情の嵐が吹き荒れている事やら。
アレキサンダーはちらっと私の方を見て、鼻息を荒くする。
私を見てどんな決断をする気だ?
「ああもう、いつもこうだ。私ばっかり、こう……なんと言うか、除け者にされると言うか、頑固者扱いされると言うか、もう、もうもう!」
まさに駄々をこねる子供のように地団太を踏んで、アレキサンダーは渋々人間へと姿を変えはじめる。
彼女の外見には、気性が荒く傲岸な性格がよく表れていた。
銀糸だけで編んだような一枚布を全身に緩く巻いた姿で、四肢の付け根や大きく揺れる胸の谷間を大胆に覗かせていた。少し露出が多くはなかろうか。
鱗と同じ銀色の髪は膝に届くほどに伸び、腕や首、腰に足、耳、額と、全身のあらゆるところに各種の宝石や貴金属の装飾品を何重にもつけている。身を飾る品だけで地上の人間の王国を全て買えそうだが、これらは全てアレキサンダーの鱗や皮膚が変じたものだ。
目尻は吊り上がり、獰猛な光を帯びた金眼は、己の存在への絶対的な自信から他者への嘲りを隠そうともしていない。
あどけなさの残る顔立ちは、これ以上ないほどに整っており、その十代前半から半ばに見える幼さに反して、淫らとさえ言える体つきをしていた。
「まったく、竜以外の姿になるなど滅多にしないんだからな」
アレキサンダーはきめ細かな頬をぷくっと膨らませている。
皆の意見にアレキサンダーが根負けし、不機嫌になって怒りを撒き散らす――これも私達からすればいつもの光景である。
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