道を極める

愛されるブランドづくりの原点
組織の中で個を発揮する「人気者で生きる」道

2017.02.07 公式 道を極める 第13回 成田久さん

「プライドなんてゴミ」
土下座して通わせてもらった予備校藝大4浪暗黒時代

成田氏:こうして一所懸命頑張ることの大切さや喜びを学びましたが、すぐに「それだけではどうしようもない」残酷な現実にぶつかります。それまでずっと5だった美術の成績が、中学2年生で先生が変わった途端、ずっと3になってしまって……。このころから徐々に暗黒時代に入っていきます。

成績が悪いんじゃどうしようもなく、美術系の高校は諦め、仕方なく普通科に進みました。それでも描くことはやめたくなかったし、アーティストとして生きていくんだろうなと思っていましたから、腐っている場合じゃないと自分に言い聞かせ、東京藝術大学に入るため予備校に通い始めるんです。高校2年生、16歳でした。

――比較的早い段階で、自分の道へ目標を定めてきたんですね。

成田氏:目標を見つけるのは早かったのですが、それを達成するまでが大変で、16歳から藝大を目指した6年間は、僕にとって暗黒の時代でした。最初は予備校に集まった優秀な生徒とのレベル差に愕然としましたし、デッサンもうまく理解できずに悩みました。「0で落ちるか100で受かるか」それしかないという考えで挑んでいましたので、受験は1回、2回、3回、4回と全部落ちてしまって。どんどん後輩に抜かされていって、プレッシャーで気が狂いそうでした。もうそうなるとプライドなんてゴミみたいなものでしたね。でも、「ここで納得しない道に逃げてしまったら、今頑張らなければ未来の扉は開かれない」と、試験に落ちては歯を食いしばり、早く次の試験がこないかと一年を悶々と過ごすことの繰り返し。後半は親に土下座して、また予備校に通わせてもらっていました。

結局僕は藝大を4浪した末、多摩美術大学染織デザイン科の試験を受けました。試験科目は、デッサンと平面校正(色彩デザイン)、国語と英語のテストに加えて出題されたのが、小論文。お題は「折り紙」。日本古来の美しさ、幼い子から大人までが楽しめる色彩カラフル優美な折り紙。でも僕、嫌いだったんですよ(笑)。型通りに進めていかなければ、何も現れない折り紙が。だから、もう答案用紙でいっそ飛行機折って窓から飛ばしたい、そして僕も飛んで行きたいという気分になってしまって。

――でも、書かなければまた落ちてしまいます……。

成田氏:だから『大嫌い!折り紙なんて大嫌い!』というタイトルで挑みました(笑)。どう考えても美しく伝統的な遊び事をなぜ嫌いなのか唱え、文面のラストは、「創るは自由。型があるものにならって形になる折り紙なら、僕はそれをちりぢりに破き捨て、空に舞い上がりひらひら揺れるその一瞬の美しさを見たい。クリエイションは自由な発想に宿る。折り紙なんて大嫌いだ!」といった締めくくりで一気に書き上げました。結果は合格。こうして僕の大学生活は、人より4年も遅れてスタートしました。

アーティストとして独り立ちするための通過点
一心不乱の学生生活と、藝大へのリベンジ

成田氏:ようやく、はじまった学生生活。ここからが本当のスタートでした。4浪するハメになりましたが、その間さんざん壁にぶち当たり続けていたぶん、自分の作風や個性に悩むことはなく、ただひたすら自らの表現、クリエイト制作にすべてを費やしていました。もう表現するのが楽しくて、課題はもちろん、できるだけなんでも挑戦し、吸収し、ポジティブに創っていました。

大学3年からは個展を開催。『公募ガイド』を買って、いろいろなコンペティションに出品し、大学で学ぶ課題だけではなく、学外活動にも精力的に励み、コミュニケーションもプレゼンテーションとともに広げていったんです。

――ひたすら創作にのめり込めた学生生活だったんですね。

成田氏:大学時代、学業以外にしたことは、展覧会の開催費用を稼ぐために上野駅周辺のキオスクでアルバイトを少しだけ。学生社員として働きましたが、お店を本気で任されそうになって、辞めました(笑)。そんな寄り道もありましたが、あとはひたすら創作活動。

「アーティストとして独り立ちするまで、あと数年しかない」という気持ちで、だらだらしている暇はないと思っていたんです。ただ僕が創作に打ち込むことができたのも、「あの子は自分の決めた道に進ませる方がいい」と言って応援してくれた家族や親族がいてくれたからです。

それでも、大学時代はあっという間に過ぎてしまって、まだまだ物足りない自分がいました。もっと追求したい、「やはり、あの場所で学びたい」と、4浪した東京藝大の、今度は大学院に挑戦することにしました。

「この数年の学生生活でだいぶ変わったはず」という少しの自信と、やはりぬぐい去れない不安を抱えながらの挑戦。大学最後の1年間は藝大に向けての準備、個展の開催、卒業制作とめまぐるしいものでした。大学院は各研究室に2人しか入学枠がなく、相変わらずの狭き門で、面接も在校生は5分、10分でしたが僕は1時間くらい話し込めて、無事、東京藝術大学デザイン学部大学院に入学することができました。

アーティストが「就職」すること
自作のコスチュームでクルクル回った入社面接

成田氏:藝大では茨城県・取手キャンパスの広いアトリエに泊まり込んで、24時間制作に没頭していました。やっと手に入れた環境。申し分のないものでした。ところがそうして作品制作に没頭していた2年目の春、資生堂が久しぶりにクリエイターの採用募集したのを知り、心に嵐が吹き荒れます。確かに僕は博士課程に進み、そのまま就職せずにアーティストの道を独り進むことになるだろうと考えていました。

でも、ペインティングやテキスタイルワークの作品を創るのも大好きな一方で、ヒット商品のプランニング、コンセプトを創ることも捨てがたい。「ビジュアル・クリエイションをしたいし、ファッションにも携わりたい。プロダクトも手がけてみたい」と、当時の僕はしてみたいことだらけ。どれかひとつだけには絞れませんでした。でも資生堂なら、いろいろな意味でそのすべてに携われるかもしれない……。

資生堂は140年以上、お客さまの「美」を追求し続けている化粧品会社です。日本はもちろん、今は世界に「美」を発信するグローバルブランドを目指し、ヨーロッパ、アメリカ、アジア等々、世界に広がっています。そのブランドを伝えるために、誰をモデルに起用するかはきわめて重要で、「ブランドの顔」が売れ行きを左右します。

「商品の顔となるシンデレラをクリエイトしたい」。小さいころからCMを見ては、キラキラした映像美の中にいるお化粧をした美しきシンデレラガールにときめいていた僕は、数々のモデルが資生堂の美をまとい、スターの階段を駆け上り、さらに開花していくイメージがしっかりと想い描けたんです。そんなクリエイションを僕もしてみたい。資生堂のモデルさん達に素敵なコスチュームアートの作品をコンセプチュアルに着せてみたいという思いは募るばかりでした。

――久(CUE)さんをフルに活かせる場所が、突如目の前に。

成田氏:それでも「アーティストを目指す自分が就職してもよいものか」。これから進もうとしている道は果たして正しいのか、迷いに迷いました。けれど、人生は一度きり。自分の創ってきた作品やセンスを資生堂のクリエイティブディレクターに見てもらう「チャンス」も一度きり。ならばと受けてみることにしたんです。

ただ、当時の仲間も当然の僕がアーティストとして独り立ちするはずだと思っていて、「就職したら負け」みたいなことも仲間内では言われていたので、誰にも言えずに願書を郵送しました。後でそのことを知った仲間からは「成田久は、アーティストになるんじゃなかったの!」って怒られましたね。

資生堂の入社試験ではとことん楽しく挑むと決めていました。取り繕っても仕方がない。面接時には自作のモノトーンコスチュームにコンペで受賞した花火柄のネクタイ、ヘアスタイルもバリっと立たせキメキメで挑むことに。人となり、個性をみせるプレゼンテーションなんだと、ありのまま自分で意気揚々とドアをノックしました。

――ドアの向こうの面接官の反応は。

成田氏:当時の採用担当の人事部の方々は僕の履歴書のモノクロの写真を見て「あら、写真にゴミがついているわ」と思っていたらしく、ゴミじゃなくて髪型だと気づいて仰天、面接会場がざわついたと後で聞かされました。着てきた自作のコスチュームを360度面接官の前でクルクル回って見せました。そして、自分を出し切ったおかげで(?)無事入社できました。

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アルファポリスビジネス編集部
アルファポリスビジネス編集部

アルファポリスビジネス編集部は厳選した人物にインタビュー取材を行うもので、日本や世界に大きく影響を与える「道」を追求する人物をクローズアップし、その人物の現在だけでなく、過去も未来の展望もインタビュー形式で解き明かしていく主旨である。編集部独自の人選で行うインタビュー企画は、多くの人が知っている人物から、あまり知られることはなくとも1つの「道」で活躍する人物だけをピックアップし、その人物の本当の素晴らしさや面白さを紐解いていく。

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