この「コンプライアンス違反」という「評価」にも落とし穴がある。確定された「対象」が「コンプライアンス」という基準にあてはめて得られた結論である。
「コンプライアンス」は一般に「法令等」と訳される。この「等」という言葉には「社会的相当性」が含まれる。この「社会的相当性」の内実が必ずしも明らかではなく、社会的合意もない。
厳格な評価基準を用いる人もいれば、緩やかな人もいる。同じ事象であっても「評価」に個人差が生じるのだ。
国分氏のケースについていえば、「コンプライアンス違反」という「評価」は、日本テレビによって確定された「対象」に、日本テレビが考える「コンプライアンス」という基準をあてはめて得られた結論、ということになる。認定した事実も、何に違反しているのかも、全くもって明らかになっていないのだ。
国分氏が芸能活動の自粛を余儀なくされることになった「対象」も「評価」に用いられた評価基準もわからない状況である。どのような事情があれば「評価」が変わるのか、皆目見当がつかなくなっている。「評価」が変わる時は永久に訪れないかもしれない。
今、国分氏は、一筋の光さえ届かない深い穴の底にいるような心境であろう。
国分氏のケースと同様のことは、私たちの周りでも起きている。例えば、「ハラスメント」についてである。
「セクハラ」や「パワハラ」、近年では「モラハラ」や「カスハラ」など、「ハラスメント」に関連する言葉を耳にしない日はない。そして、日常的に、「セクハラ」をされた、「パワハラ」だ、といった言い回しもされている。
「ハラスメント」という言葉は、あたかも私たちが直接体験した「対象」であるかのように用いられているが、本当はそうではない。「ハラスメント」という言葉も「評価』である。「対象」となる行為者の言動が別に存在する。
本来なら、まず「対象』である行為者の言動が確定され、これに一定の基準をあてはめる「評価』が行われる。その結果が「ハラスメント」である。
働いている職場で、「○○さんに『セクハラ』をされた」、「△△さんは『パワハラ』だ」という噂話を耳にしたことがある人もいるだろう。これは、「評価」だけが拡散され、独り歩きをしている状況である。
行為者からみれば、自分が実際に行った言動の内容には興味も関心も持ってもらえず、ただただ「セクハラをした人」、「パワハラをする人」という「烙印」を押された状況である。今後どのような事情があればこの「烙印」を消すことができるのかと考えると、暗澹たる気持ちであろう。
また、何をもって「ハラスメント」と考えるか、社会の中で十分な議論がされたとは言い難い。法律家としては、「労働者が適切な就業環境のもとで働く利益を侵害する言動」と定義づけはできる。ただ、この内容が社会で暮らす人々の理解を得られるかどうかは、不明である。
仮に、この定義が理解されたとしても、「適切な就業環境」の内実は、「社会的相当性」と同様に明らかではない。これを狭く考える人もいれば、広く考える人もいるであろう。
専ら「評価」だけが独り歩きをする状況の原因に、筆者の専門外の事柄ではあるが、SNSや「こたつ記事」と揶揄されるネット記事の普及があるだろう。
SNSやネット記事では、閲覧数を稼ぐためにキャッチ―な見出しが求められる。これらにおいては、往々にして、出典元である文章や発言の内容が短く切り取られる。その際、キャッチ―な言葉として「評価」のみが選択されることが多い。
多くの人は、これらを閲覧したことで、その内容を自分が直接見たり聞いたりした気持ちになる。出典元には、「対象」の内容が詳細に記載されているかもしれないが、それを確認することはしない。「評価」だけが拡散され、独り歩きする。
法律家である筆者は、「自分が直接見たこと、聞いたこと以外は信じない」ということを大切にしている。これは、「対象」の確定こそが全てのスタートであるという、自分への戒めである。
慶應義塾の創立者である福沢諭吉は、「自分の考えだけで他人を評価してはならない」という言葉を遺した。「評価型社会」を生きる私たちの前に、150年前の思想家の言葉がよみがえり、警鐘を鳴らしている。