筆者が2021年秋から24年秋まで駐ウクライナ大使だった時期、キーウにおいて時々意見交換したハンガリー大使は、学究肌の職業外交官であり、中東欧の複雑な歴史に関して筆者の質問に対して丁寧に教えてくれたものである。ただし、話がハンガリー・ウクライナ関係の現状に及ぶと、苦渋に満ちた顔つきで言葉を濁して、ウクライナ政府から相手にされていないことを隠さなかった。
また、当時欧州連合(EU)各国から派遣されて来ていた大使達もハンガリー大使に対してはよそよそしい態度で接していた。反EU・親露のオルバン政権は、戦時下のキーウの外交現場においてハンガリー大使を明らかに孤立させていた。
オルバン首相は、10年以来16年の長きにわたってハンガリーを支配してきたが、4月12日に行われた総選挙において、与党フィデスが歴史的大敗を喫した。野党ティサを率いて3分の2以上の絶対多数で勝利したマジャル氏が5月9日に首相に就任すると目されている。
ハンガリーは、日本の約4分の1の面積に960万人程の人口を抱えて、北から右回りにスロバキア、ウクライナ、ルーマニア、セルビア、クロアチア、スロベニアおよびオーストリア7カ国と国境を接する中欧の内陸国である。
ハンガリーは、小国にもかかわらず、歴史上ユニークな存在感を国際場裏で度々発揮して来た。1848年には、失敗に終わったものの当時のオーストリア帝国からの独立を目指して革命を起こした。この革命精神が第一次世界大戦の敗北でオーストリア帝国が崩壊すると1918年のハンガリー独立をもたらした。
第二次世界大戦においては、ナチス・ドイツ側に立って参戦して、敗戦後はソ連の占領下に置かれた。56年にソ連圏からの離脱を目指したが、ソ連軍の介入を招いて失敗した(ハンガリー動乱)。
その後、60年代から80年代にかけては、共産党独裁の下でも比較的自由な社会主義体制を実現した。87年、モスクワの日本大使館の若い書記官であった筆者は、妻と共にブダペストを旅行して、モスクワと全く異なる自由な雰囲気、商店やカフェの豊富な物資と快いサービスに驚いたことをよく覚えている。
89年、ハンガリーは、ソ連末期の混乱期に乗じて多党制を導入して平和裏に体制変革を実現した。ソ連崩壊後の99年には、米国の強い後押しもあって、北大西洋条約機構(NATO)創設50周年に合わせてポーランドおよびチェコと一緒にいち早くNATO加盟を実現し(NATO第一次拡大)、04年にはEU加盟も実現した。因みに、88年、まだ社会主義体制が存続している時期にフィデス(青年民主連合)を立ち上げて自由と民主主義を求める運動を開始して、体制変革に貢献したのが若き弁護士オルバン氏であった。
ハンガリーを称して小国と言ったが、実は、2022年のウクライナ戦争を契機として、NATOやEUにおいては、いわゆる小国の存在感や影響力が劇的に高まっている。ロシアの脅威を肌で感じている北欧・バルト諸国の危機感が独仏等の慎重な姿勢を取る欧州主要国に圧力をかけて、対露制裁やウクライナ支援に関する欧州の議論をリードしてきている。フィンランドおよびスウェーデンは、長年の中立政策を放棄してNATO加盟をも果たしている。
逆に、ハンガリー、スロバキア、ブルガリアといった国々は、ロシア産エネルギーへの高い依存度やロシアとの歴史的繋がりを背景にして、親露的姿勢を取り、NATOやEU内の議論を攪乱するという負の影響力を発揮している。