「難問にぶつかった」リーダーが知るべき超発想

江戸期の商人は士農工商の一番下の扱いで、武士と同席することはおろか、対面はきわめて冷遇されたものでした。これからは、日本も身分制度をなくさなければならない、と渋沢は強く感じたのです。

しかも、海外では商人が力を持つのは、カンパニー(株式会社)制度で大量のお金を集められるからだと知ります。また、バンク(銀行)は多くの人々から資金を集め、大きな事業に投資し、その利益を出資者に還元するというシステムであることが、明らかとなりました。

「これなら日本でもできる」

ちなみに、バンクを銀行と訳したのは、“三井”の大番頭・三野村利左衛門であり、それを日本に定着させたのは渋沢でした。彼は、本当は「金行」としたかったのですが、江戸時代の日本は金銀並列制で、実際の商取引は銀が主体でした。渋沢は自案に固執せず、ここでも柔軟に対処しました。いずれにせよ、明治日本は渋沢のシステムによって、一気に近代化を推進したのでした。

日本とのあまりの違いに絶望するどころか、むしろやるべきことを次々と見つけて、喜び勇んで日本に帰国した渋沢ですが、明治維新で幕府は消滅しており、慶喜は将軍職ではなく、上野から水戸、静岡へと謹慎の身の上となっていました。しかし渋沢は気落ちせず、できることから始めようとします。フランスで見てきたカンパニーを日本に作ろうとしたのです。

徳川家は静岡に移っていたため、渋沢も静岡を拠点にしました。当時、旧幕臣の多くが慶喜についてきたため、静岡の人口は急増し、土地の値段も跳ね上がって、経済がガタガタになっていました。

渋沢は銀行や商社の機能を持つ「静岡商法会所」を設立。静岡の名産であるお茶に目をつけて、お茶農家に資金援助をする仕組みを作りました。

深刻に考えず、やれることからやってみる

お茶であれば、武器と違って素人の商人でも扱えます。日本のお茶の品質は海外でも評価が高い。おまけに収穫サイクルも早く、すぐに輸出できるため、速やかに現金化できる利点がありました。その成果によって渋沢は、静岡の経済を立て直したのです。

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困難に直面しても彼は深刻に考えず、やれることからやってみようと挑戦しつづけました。この“軽やかさ”、フットワークのよさが渋沢の持ち味、真骨頂です。彼は常々、「俺なら慶喜公を説得できる」と心中で思っていたようです。もともとの身分からいえば、天と地の開きがありましたが、それすら渋沢は深刻に捉えませんでした。

楽天的に発想すれば、打てる手は無限にあります。彼は日本経済のリーダーとして、そのことを生涯かけて示し続け、彼の意志を継いだ人たちによって、日本は経済大国に成長していったのです。