「友だち親子」は良いことなのか?我が子に依存し“自立を妨げる”親たち

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「Getty Images」より

 入社式に親がついて行ったり、体調を崩して会社を休む際に親が連絡してくるなど、自立できない若者が目立つ。大学でも、かつては学生は大人扱いされたものだが、今では授業の出席が足りなくなりそうだとゼミの教員が親に連絡を取り、出席を促してもらったりする。朝起きられない学生のために、モーニングコールのサービスを始めた大学もある。

 自立できない若者と言われたりするが、どうも社会全体が自立させないように働きかけているように思われてならない。

何でも話せるのは親だという若者たち

 かつての若者は親に反発することで自立に向かったものだが、この頃は親に反発するどころか、いつまでも親にべったりな若者が目立つ。友だち親子という言い方にもあらわれているように、10代の後半や20代になっても、一番親しい間柄にあるのは親であり、何でも話せる相手が親だという者も珍しくない。はたしてこれで自立ができるのだろうか。

 こうした問題について学生たちに問いかけたところ、友だち親子が周囲にもたくさんにるけど自分としては気持ち悪いという者もいる半面、自分はいわゆる友だち親子だと思うけどそれが悪いとは思わないという者もいる。自分は親に反発することが多いが、親と仲が良い友だちが羨ましいという者もいる。

 だが、親と子は、仲が良いとか悪いとかの尺度で測るべき間柄なのだろうか。これについては、後でまた考えてみたい。

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『さみしさの力』(榎本博明/ちくまプリマー新書)

 青年心理学では、親しい友だちの存在が親からの自立の助けになるとみなす。そして、自己開示の相手、つまり率直に自分をさらけ出せる相手は、児童期までは親、とくに母親が中心だが、思春期になると親に秘密をもつようになり、親からの自立という大きな人生の課題を共に抱える友だちが自己開示の主な相手になっていく、とみなされてきた。実際、私が行った調査でも、そのような傾向が顕著にみられたものだった。

 だが、最近はこうした傾向に反する事例が非常に多くなってきた。

「恋人に自己開示するのはリスクがあるから、親に自己開示するほうが安全だし、気持ちも楽だ」

「友だちに自己開示するのはリスクがあるが、親ならリスクがないから、自己開示する相手はもっぱら親である」

 このように言う者が結構いるのである。

さみしさが足りない時代

 親に自己開示するより他人に自己開示するほうがリスクがあるのは、いつの時代も同じだ。親にホンネをさらけ出したからといって、それを周囲に言い触らされる怖れはないだろうし、うっかり吐露した弱みに付け込まれることもないだろう。「そんなことを考えてるのか」とバカにされることもないだろうし、「そういう感受性なのか、自分とは違う」といって離れていってしまうこともないだろう。

 だが、いつまでも親にべったりではみっともない、自分も一人前になるために親離れしないと、と思うからこそ、家の外に身近な相手をつくろうとするのである。自立という孤独な心の課題を遂行するために、同じく孤独な心の課題に取り組む仲間を求めるのである。なんでも言える親しい友だちがほしいと思うのも、一緒に支えあって孤独な心の課題に取り組もうというわけである。

 そこで、心理的距離を縮めるために、思い切って友だちに自己開示することになる。だが、胸の内を明かしたところで、必ずしも共感的な反応が返ってくるとは限らない。わかってもらえないかもしれない。おかしなことを考えるヤツだと思われてしまうかもしれない。他の人に漏らされ、陰で笑われるようなこともあるかもしれない。

 それでも、親との間に秘密をもち、心理的距離を置くようになったため、孤独で、さみしくてたまらなくなることがあり、だれかとわかり合いたい、わかり合える相手がほしいと切実に思うため、リスクを冒してでも、友だちに自己開示をするのである。