志村けんをスターにした『8時だョ!全員集合』の本当のスゴさ…熾烈な視聴率戦争の裏側

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志村けん

 志村けんさん(以下、敬称略)が他界して、はや1年が経つ。だが、いまだその死を現実のものとして受け止められない人も多いことだろう。

 そんな彼の出世作といえば『8時だョ!全員集合』(TBS系)にほかならない。それ以降も『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(同)、『志村けんのバカ殿様』『志村けんのだいじょうぶだぁ』(ともにフジテレビ系)といった代表番組はあるが、出発点はあの“土曜夜8時”であることは間違いない。

 今回は、改めて『全員集合』とは何だったのか、その歴史をたどってみたい。

上層部が“全員反対”だった初の冠番組

『全員集合』が始まるまでのTBSの土曜夜8時は、ドラマ枠だった。では、なぜザ・ドリフターズ(以下、ドリフ)はこの枠をゲットできたのだろうか?

「もともとTBSでは『ドリフターズドン!』という、彼らにとって初の冠番組が土曜の昼に放送されていました。当時、番組化にあたっては『知名度のない人間に任せられない』と上層部が全員反対したそうです。そのときに幅を利かせたのが、ドリフが所属していた渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)創業者の渡辺晋。プロモーター、実業家でもある彼が、その先見性からドリフを猛プッシュしたことで、彼らはレギュラーの座を獲得することができたのです。すると、これが思いのほか好評を博し、ドリフは『進め!ドリフターズ』『突撃!ドリフターズ』とゴールデンの30分枠を任せられるようになり、どんどん信頼を勝ち得ていきました。

 そして、いよいよ土曜の夜8時を任されるわけですが、彼らにこの枠を託したのがプロデューサーの居作昌果。土曜夜7時半から30分間放送されていた『お笑い頭の体操』を手がけるなどヒットメーカーとして知られていた彼は、土曜夜8時の立て直しを命じられ、『ドリフに賭ける』と覚悟の宣言。居作がそこまで言うのならと、何とか上層部も折れたそうです。のちに居作は『クイズダービー』も担当しています」(芸能ライター)

逆張り戦略でコント55号の冠番組を打ち切りへ

 こうして1969年10月4日に始まった『全員集合』だが、当時、裏番組ではコント55号による公開バラエティ番組『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ系)が大人気だった。同番組は、毎週30%を超える視聴率を記録していたという。

 彼らに立ち向かうためには、別のことをしなければならない。そこでドリフが採った戦略が“逆張り”だった。

「『世界は笑う』のコントは、萩本欽一が坂上二郎を狂気的に振り回しながらも、基本的には上品。オナラすらも許されないものでした。そこで『全員集合』は、オナラは上等、ウンコチンチンと、とにかく下品を貫いたそうです」(同)

 そして、半年後の70年3月に『全員集合』は『世界は笑う』を打ち切りに追い込む。挽回を期すフジテレビは75年4月、萩本を単独で使い、さらに『全員集合』の逆張りとなる番組をスタートさせる。それが、素人が考えたコントを採用し、リハーサルなしのぶっつけ本番、アドリブを前面に押し出した『欽ちゃんのドンとやってみよう!』だ。同番組は一時は視聴率で『全員集合』に勝利するも、再逆転されて5年後の80年に終了する。

『ひょうきん族』との熾烈な視聴率戦争

 欽ちゃんとの戦いに勝利したドリフを待っていたのが、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)だ。

「ビートたけし、明石家さんま、島田紳助ら、漫才ブームと前後して出てきた若手芸人を総出演させたこの番組は、まさに『全員集合』の逆張りでした。素人をスターにしてみたり、『全員集合』を番組内でイジってみたり、NGもアドリブもOKでベタな笑いは禁止、『全員集合』が変わらず長屋のコントをやる裏でトレンドを取り入れてみたり、さらには相手が生放送ならこちらはVTR収録と、とにかくアンチテーゼとして突き進んだのです。