眠りが「脳の寿命」を決める時代へ…脳の老廃物を流す“深い眠り”をどこまで操れるか

 もう一つの前提が加齢だ。深い眠り(徐波睡眠)は年齢とともに減り、前頭前野の萎縮と徐波の減少、記憶力の低下が連動することが報告されている。

「睡眠と脳内の排出の関係は強く示唆されていますが、ヒトでどの程度効いているのかはまだ定量できていません。この領域は、動物実験の印象的な数字が一人歩きしやすい。対立するデータも含めて読む姿勢が必要です」(神経内科医・高迫直人氏)

「記録する」から「働きかける」へ

 指輪型や腕時計型の睡眠トラッカーは、すでにありふれた道具になった。その先で研究が進む介入の手法は、大きく三つある。

(1)音で徐波に「合いの手」を入れる

 もっとも研究が進んでいるのが、閉ループ音響刺激(CLAS)だ。脳波を監視し、徐波の山が来る瞬間に合わせてごく短いピンクノイズを鳴らす。ブランコと同じで、合いの手のタイミングが合えば揺れは大きくなり、ずれれば効果は出ない。独リューベック大学のグループが2013年に『ニューロン』で、徐波の増強と記憶の定着改善を示した。

 一方で、課題も見えている。フィリップスの研究チームが18年に報告した家庭用システムでは、若い層で徐波活動が約16%増えたが、40歳以上の層では効果が確認できなかった。もともと徐波が少ない人ほど刺激を入れる機会自体が減るためだ。脳の健康を本当に必要とする高齢者ほど効きにくいという構造的な壁である。

 それでも光明はある。スイスのグループは24年、認知機能が低下した高齢者16人を3夜連続で刺激し、脳波の反応が大きい人ほど血液中のアミロイドβの指標が改善していたと報告した。ただし小規模で短期の研究であり、著者ら自身もより長い介入での検証が必要だと書いている。

(2)微弱電流で脳のリズムを導く

 頭皮に電極を当て、微弱な電流で徐波のリズムを作り出す経頭蓋電気刺激(tES)もある。2006年の『ネイチャー』論文は、入眠初期に0.75ヘルツの刺激を加えると徐波睡眠と記憶の保持が増えたと報告した。ただ、その後の追試では結果がばらつき、家庭で安全に使える形に落とし込むにはまだ距離がある。

(3)光と温度で「眠る準備」を整える

 夜の照明を暖色で暗くし、朝に強い光を浴びる。寝具の温度を下げて深部体温の低下を助ける。体内時計を整えるこの系統は、脳波に直接働きかけるわけではない。だが導入のハードルが低く、①②と組み合わせて「眠りの土台」を担う役割が期待される。

「音響刺激は、脳波をその場で読んで音を出すかどうかを判断します。一番難しいのは、家庭で使う簡易な電極でもその判定を精度よく続けられるか。実験室での結果をそのまま製品の効果と考えるのは早いです」(同)

「ブレインヘルス」は誰の市場か

 睡眠と脳の関係に関心を寄せるのは、家電やウェアラブルの企業だけではない。

 まず医療だ。日本では2023年にアミロイドβを標的とする抗体薬レカネマブが、24年にドナネマブが承認された。いずれも早期の患者が対象で、病気の進行を遅らせる薬だ。裏を返せば、早く見つけ、早く対処する仕組みの価値が上がったということでもある。睡眠中の脳波は、こうした早期のサインを拾う指標の一つとして研究が進む。薬と置き換わるのではなく、「拾い上げ」と「日常の備え」を担う形だ。

 次に宿泊や住宅だ。海外では、脳波計測や照明・音の調整を組み込んだ「睡眠プログラム」を売るホテルや、寝室の温度・湿度・CO2濃度を自動で整える住宅設備も出てきた。睡眠環境を整えること自体には十分な価値がある。ただし、「一晩で脳を若返らせる」といった効果を裏付けるデータは、現時点ではない。体験としての快適さと、医学的な効果を分けて売れるかどうかが、事業として長続きするかの分かれ目になるだろう。