眠りが「脳の寿命」を決める時代へ…脳の老廃物を流す“深い眠り”をどこまで操れるか

「抗体薬の登場で、認知症医療の関心は早期発見に移っています。睡眠のデータがその入り口になる可能性はありますが、あくまで受診のきっかけを作る道具。診断や治療の代わりにはなりません」(同)

日本企業に勝ち筋はあるか

 世界でも有数の超高齢社会であることは、それ自体が大きな条件だ。実際に使う人が多く、介護や医療の現場も近い。そこに既存の技術をどう重ねるかだ。

 一つ目は、眠りを妨げないセンサーと素材だ。第2章で触れたように、介入の効果は脳波をどれだけ正確に読めるかに大きく左右される。寝返りを打ってもずれにくく、一晩中つけていても気にならない。そうした柔らかい電極や繊維は、素材・部品メーカーが力を発揮しやすい領域だ。

 二つ目は、音響・空調・照明といった家電の知見を「脳波に合わせて制御する」方向へ発展させる道だ。ただし、医療機器としての承認を目指すのか、健康家電にとどめるのかで、必要な証拠も、開発期間も、売り方もまったく変わる。最初にどちらを選ぶかが、戦略の大半を決めると言っていい。

 三つ目はデータだ。自宅で脳波を測る睡眠検査は国内でも大学発のスタートアップが提供を始めており、測ることのハードルは下がってきた。毎夜の脳波や睡眠の変化から、将来のMCIリスクの兆しを拾えれば、検診や医療機関につなぐことができる。ただ、「何年後に発症するか」を予測できる水準にはまだ届いていない。長期の追跡データを誰が、どう集めるか。ここに日本の健診制度や自治体の仕組みを生かせる余地がある。

「日本企業は部品や素材の品質では強いが、臨床証拠を積んで承認を取り、医療現場に届けるところまでを一社で担うのは大変です。大学や医療機関との共同研究を、早い段階から設計に組み込んでおくことが結局は近道になります」(同)

普及の前に越えるべき三つの壁

【表示の壁】日本で「認知症を予防する」とうたうには、薬機法に基づく医療機器としての承認が必要になる。健康機器のまま効果をうたえば、未承認の医療機器の広告や景品表示法上の問題になりうる。宣伝の細部まで言葉を選ぶ必要がある。一方で、2023年には不眠障害向けの治療用アプリが承認されるなど、デジタルな介入を医療として認める道も開きつつある。ただ、認知症の「予防」を証明するには、数年単位の大規模な臨床試験が必要だ。その費用と時間は、参入を検討する企業にとって重い前提になる。

【安心の壁】寝ている間に脳へ音や電流を入れることに、抵抗を感じる人は少なくない。安全性のデータを示すのはもちろん、「何を、いつ、なぜしているのか」を利用者が確かめられる設計が欠かせない。効果を大きく見せるより、効かない場合や使うべきでない人を先に伝える。その方が信頼を得やすいだろう。

【データの壁】脳波は、体調だけでなく認知機能や精神状態の推測にも使われうる情報だ。米国ではコロラド州やカリフォルニア州が「神経データ」を個人情報保護法の対象に加え、25年9月には連邦議会にも関連法案(MIND法案)が提出された。日本でも、商用利用の範囲や第三者提供のルールを、事業者自らが先に示すことが信頼の土台になる。

「脳波のデータは、本人も知らない健康状態を示しうる情報です。法律の整備を待たず、取得する目的を絞り、持ちすぎないこと。それが結果的に事業のリスクも下げます」(同)

寿命の「中身」を守る最後の砦

 平均寿命が延びるほど、考え、覚え、人と関わる力をどこまで保てるかという問いは重くなる。脳の健康な期間を指す「ブレインスパン」という言葉が使われ始めたのも、その表れだろう。

 睡眠がその鍵を握っている可能性は高い。ただし現時点で確かに言えるのは「睡眠不足は脳によくない」というところまでだ。「深い眠りを増やせば認知症を防げる」は、まだ検証の途中にある。この差をごまかさずに証拠を積み上げた企業が、長い目で見て市場の信頼を得るはずだ。