GLP-1薬の普及を阻む最大の障壁は、その投与方法が皮下注射であることだ。医療現場では週1回の注射で効果が期待できるものの、国内外で「心理的ハードルが高い」との指摘が多い。
ここに照準を合わせ、各社が開発競争の矛先を向けているのが経口GLP-1薬だ。イーライ・リリーはすでに複数の経口薬の治験を進行中で、米国ほか主要市場で承認申請へ動いている。ノボノルディスクも今年、FDAに承認申請を行った。
経口薬への進化は市場構造を一気に変える。経口タイプは投与が容易、医療機関受診の頻度が低下、ポピュレーション全体への適用が広がる、といった利点があり、三好氏はこう評価する。
「経口タイプが主流化すれば、GLP-1薬は糖尿病薬のような“生活医薬品”に近づく。市場規模は現在の10兆円から18兆円規模に膨らむ可能性があります」
まさに「飲むだけで痩せる」という新時代が訪れるのか。ひとつの鍵は、日本を含むアジア市場の動向だ。
世界が肥満薬ブームに沸く一方、日本での普及は非常に限定的だ。その背景には3つの構造的な壁がある。
(1)保険適用の壁
日本では肥満単独では保険適用にならず、糖尿病などの合併症が条件となる。“ダイエット目的”での使用は自由診療扱いで、1カ月あたり3~5万円と高額だ。
(2)「副作用への慎重さ」という文化
日本の医療文化では、体重管理に薬剤を使うことに抵抗感がある。副作用としては嘔気・下痢、まれに膵炎などが指摘され、安全性への慎重姿勢が普及スピードを抑えている。
(3)供給量の制約
ノボノルディスク、イーライ・リリーとも、世界的な需要拡大で供給不足が続いている。各社は増産を進めているが、日本向け供給量は限定的とみられている。
杉原氏は次のように指摘する。
「日本は医療制度が慎重であることに加え、肥満率も米国より低い。製薬企業にとって日本市場の優先度は必然的に下がります。そのため、供給面・価格面で世界から後れを取る可能性が高い」
それでも日本市場が“取り残される”とは限らない。普及を後押しする要因は複数存在する。
(1)生活習慣病の急増
40代以降で糖尿病・脂肪肝・高血圧などの生活習慣病が増加しており、肥満治療薬を早期介入として活用するニーズは高まっている。
(2)経口薬の登場
副作用のコントロールが進み投与負担が小さくなれば、日本でも受容性は上がる。
(3)健康経営・ウェルネス市場の拡大
企業が社員の健康管理に積極的に投資し始めており、GLP-1薬を含む「肥満・代謝改善プログラム」を導入する動きも出てくるだろう。
世界の肥満薬市場は、今後10年で姿を大きく変える可能性がある。具体的には次のような方向だ。
(1)投与手法の多様化
注射→経口→経皮パッチなど、投与方法が進化する。
(2)生活習慣病との統合治療
肥満・糖尿病・心血管疾患を同一線上で管理する治療モデルが進む。
(3)予防医療へのシフト
保険制度がGLP-1薬を「肥満予防薬」として認める国が増え、医療費削減の柱として位置づけられる可能性がある。
(4)社会構造の変化
肥満率低下 → 医療費抑制 → 労働生産性向上という経済的好循環が期待される。
三好氏は次のようにまとめる。
「肥満薬は“美容薬”や“流行もの”ではなく、社会の医療インフラそのものを変える可能性があります。医療費・雇用・生活習慣病──そのすべてに影響する巨大なイノベーションです」
日本で肥満薬を普及させるには、次の点が鍵を握る。