お見通しですわ。婚約破棄、承りましたわ。

萩月

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王都、王宮の一室。
かつてはキサキが完璧に管理し、埃一つ落ちていなかった「皇太子の執務室」は、今や見る影もない惨状となっていた。

「……おい、この書類はなんだ。なぜ三日前の日付のものが、まだ決済箱の一番下にあるんだ!」

アラルド皇太子は、眉間に深い皺を寄せて叫んだ。
机の上には、もはや地層のように重なった書類の山。
彼は一枚の紙を手に取ったが、そこに書かれた「予算配分案」の数字が並んでいるのを見ただけで、頭痛に襲われた。

「申し上げます、殿下! これまではキサキ様が、殿下が目を通す前に全ての誤字脱字を修正し、論点を三行にまとめて付箋を貼ってくださっていたのです。現在は……我々役人が一から説明せねばならず、時間が……」

「そんなことは聞いていない! なぜ、キサキがやっていたことがお前たちにできないんだ!」

「キサキ様は、一度に五つの案件を並列処理しながら、お茶を淹れる間に予算の矛盾を見つける方でしたから。あの方は……あの方は人間ではなく、高性能な計算機だったのです!」

役人は半泣きで訴えた。
アラルドは苛立ちを紛らわせるように、机を叩いた。

「くそっ、キサキの奴め。あんな可愛げのない女、いなくなって清々したと思っていたのに……。なぜ、いなくなってからの方が、あいつの存在を感じるんだ!」

そこへ、ふわふわとしたドレスの裾を揺らしながら、リリィが部屋に入ってきた。

「アラルド様ぁ。まだお仕事が終わらないのですか? リリィ、寂しくて死んでしまいそうですわ」

リリィは潤んだ瞳でアラルドを見つめ、その腕にしがみついた。
以前なら、この「あざとさ」に鼻の下を伸ばしていたアラルドだったが、今の彼はそれどころではない。

「……リリィか。悪いが、今はこの大量の書類を片付けなければならないんだ。夜の晩餐会までには終わらせないと……」

「えーっ、そんなの放っておけばいいじゃないですか。あ、そうだわ! リリィ、聖女の祈りでアラルド様の疲れを癒やして差し上げますね? えいっ、キラキラ~!」

リリィが手を振ると、わずかな魔力の光がアラルドを包んだ。
だが、当然ながら、目の前の書類が減るわけではない。

「……リリィ。祈りはいいんだが、この『港湾整備計画』の数字、計算が合うか確認してくれないか? お前は聖女なんだから、賢いんだろう?」

「ええっ? 計算ですかぁ? リリィ、難しいことは分からな~い。あ、でも、この紙、可愛いですね! ハートの模様でも描いちゃおうかな!」

リリィはあろうことか、国家の重要書類に羽根ペンで落書きを始めた。
アラルドの顔が、みるみるうちに引きつっていく。

(キサキなら……キサキなら、今ごろ私の代わりに会議を三つ終わらせ、ついでに私の衣装の着替えまで三秒で準備していただろう。あいつは、私の言葉を遮ってまで『結論を言え』と迫ってきたが……そのおかげで、私は何も考えずに遊んでいられたんだ)

アラルドは、キサキが去り際に放った言葉を思い出した。

『殿下、一点だけアドバイスを。先ほどの商品……失礼、断罪の演説。形容詞が多すぎて中身がスカスカでした』

「……スカスカ。確かに、今の私のスケジュールはスカスカなのに、仕事だけが詰まっている……」

「アラルド様? どうしたんですか? そんなに怖い顔をして。リリィ、怖くて泣いちゃいそうですぅ」

「……リリィ。少し、黙っていてくれないか。今、零・一秒でも思考を止めたいんだ」

アラルドの口から出たのは、甘い愛の言葉ではなく、拒絶の言葉だった。
リリィは目を見開いた。

「えっ……ひどい……。キサキ様みたいな、冷たい言い方をするんですね! アラルド様の意地悪!」

リリィは泣きながら部屋を飛び出していった。
いつもなら追いかけるところだが、アラルドにはその「移動コスト」を支払う余裕すらなかった。

「……はぁ。キサキ。あいつ、今ごろ領地で泣き暮らしているんじゃないのか? あまりに仕事が回らなくて、私に助けを求めてくるはずじゃなかったのか?」

そこへ、伝令の兵士が勢いよく飛び込んできた。

「報告します! アデレード領の視察報告が入りました!」

「おお、来たか! どうだ、キサキはやつれて、後悔しているか?」

「いえ……それが。キサキ様は隣国の宰相ゼノス閣下と意気投合し、現在、領地の生産性を通常の二倍に引き上げる『超高速プロジェクト』を爆進中とのことです! さらに、ゼノス閣下から熱烈なビジネスプロポーズを受けたという噂も……!」

「な……に……?」

アラルドの手から、羽根ペンがポトリと落ちた。

「隣国の宰相だと? あの、歩く氷山と呼ばれるゼノス・ガルシアと? あいつら、趣味が合うのか!?」

「はい。報告によれば、二人は食事中もずっと『関税の最適化』について語り合っており、その様子はまさに『魂の共鳴』だったとか……」

アラルドは椅子から転げ落ちそうになった。
自分が捨てたはずの「可愛げのない女」が、隣国の最高権力者と組んで、自分よりもはるかに充実した(そして効率的な)生活を送っている。

「……そんなバカな。私は……私は、ただの事務処理機を捨てて、愛らしい聖女を選んだはずだ。なのに、なぜこんなに……損をした気分になるんだ!」

アラルドの叫びは、無情にも積み上がった書類の山に吸い込まれていった。
後悔、という感情は、彼にとって最も「非効率」なものであったが、それは確実に彼の心を蝕み始めていた。
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