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「殿下ー! 待ってください! そんなに速く歩かないでください! 私のヒールが折れたら、労災申請しますよ!」
王宮の長い廊下を、私は猛スピードで追いかけていた。
前を行くカイル殿下は、まるで見えない敵から逃げているかのような速さだ。
執務室の重厚な扉に彼が手をかけた瞬間、私はその隙間に扇を突き立てて阻止した。
「……(!?)」
カイル殿下が、驚いたように肩を揺らして私を振り返る。
その瞳には、恐怖……いや、もっと複雑な、困惑の色が浮かんでいた。
私はゼーゼーと肩で息をしながら、勝ち誇ったように笑う。
「ふふ、捕まえましたよ。さあ、殿下。先ほどの会議、私の翻訳に不備はございませんでしたか?」
「……」
カイル殿下は、ゆっくりと扉から手を離した。
そして、私から視線を逸らして、部屋の隅にある大きなソファにドサリと腰を下ろす。
沈黙。いつもの、あの「無言のプレッシャー」だ。
(……でも、今の私は気づいてしまったのよね。この人の沈黙、今まで見てきた『冷徹さ』とは、何かが決定的に違う気がするわ)
私は殿下の向かいに座り、じっとその美貌を観察した。
彼は指先を落ち着かなさそうに動かし、視線は右へ左へと忙しなく泳いでいる。
これは……断罪される直前の、私の元婚約者がよくやっていた「動揺」のサインによく似ている。
「殿下。一つ、私の仮説を聞いていただけますか?」
「……」
「世間様は、殿下のことを『冷徹な氷の王子』と呼び、喋らないのは『周囲を見下しているからだ』なんて言っています。でも、本当は違うんじゃないですか?」
カイル殿下の体が、ビクッと跳ねた。
私は確信を持って、さらに一歩踏み込む。
「殿下は、頭の回転が速すぎるんです。例えば『おはよう』と挨拶されたとき、殿下の脳内では……『今の時間帯は厳密には午前11時前だから、まだ「おはよう」で正解か? それとも相手の立ち位置からして、もう少し畏まった挨拶にすべきか? そもそも昨晩の天候からして湿度の話を差し挟むべきではないか?』……なんて、数百通りのパターンを同時に考えている。……そうでしょう?」
「……っ!!」
カイル殿下が、目を見開いて私を凝視した。
図星だ。この「氷の王子」の正体は、ただの「重度の考えすぎによるフリーズ体質」だったのである。
「つまり、選択肢が多すぎて、脳内の処理が追いつかずに『……』になってしまう。そして時間が経ちすぎて、結局何も言えなくなる。……あ、今の殿下の沈黙は『なぜそれを知っている!? お前はエスパーか!?』という驚きですね?」
「……(コクリ)」
殿下が、力強く頷いた。
初めてだ。彼がこんなに分かりやすく、自発的に意思表示をしたのは。
「なるほど、スッキリしました。殿下、それは別に悪いことじゃありませんよ。ただ、あまりにも非効率です。これからは、殿下が迷っている間に、私が適当に一番良さそうな選択肢をぶちまけておきますから。殿下は後で『コクリ』と頷くだけでいいんです」
「……(……)」
カイル殿下は、ふーっと長く、深い溜息をついた。
それは、長年抱えてきた重荷をようやく下ろしたような、どこか安堵した響きがあった。
「……あり、がとう」
「……え?」
今、聞こえたのは、風の音だろうか。
それとも、私の空耳だろうか。
蚊の鳴くような、掠れた、でも確かに美しい「声」が、一言だけ、私の耳に届いた。
「殿下……今、喋りました!? えっ、もう一回! もう一回だけ言ってください! 今の声を録音して、王都の広場で有料で流せば、それだけで私の退職金が溜まります!」
「……っ! ……(ブルブル!)」
殿下は猛烈な勢いで首を横に振ると、真っ赤になった顔を両手で覆い隠してしまった。
どうやら、一日の発言許容量を使い切ってしまったらしい。
「ふふ、恥ずかしがらなくてもいいのに。でも、安心してください。殿下が自分の言葉で喋れるようになるまで、私の超訳はノンストップで営業中です」
私は、ソファに深く沈み込んでいる王子の隣で、楽しそうに扇をパタパタと仰いだ。
無口すぎる王子と、喋りすぎる元悪役令嬢。
どうやら私たちは、欠けた歯車同士のように、絶妙に噛み合ってしまったらしい。
「さあ、殿下! 次の仕事は、お忍びでの城下町視察ですよ! 殿下が『美味しそうだな』と0.1秒でも見つめた食べ物は、私が全て『これは毒見が必要だ!』と叫んで買い占めますからね!」
カイル殿下は、指の間からチラリと私を見ると、今度は呆れたように、でも確かに柔らかく微笑んだ……ような気がした。
王宮の長い廊下を、私は猛スピードで追いかけていた。
前を行くカイル殿下は、まるで見えない敵から逃げているかのような速さだ。
執務室の重厚な扉に彼が手をかけた瞬間、私はその隙間に扇を突き立てて阻止した。
「……(!?)」
カイル殿下が、驚いたように肩を揺らして私を振り返る。
その瞳には、恐怖……いや、もっと複雑な、困惑の色が浮かんでいた。
私はゼーゼーと肩で息をしながら、勝ち誇ったように笑う。
「ふふ、捕まえましたよ。さあ、殿下。先ほどの会議、私の翻訳に不備はございませんでしたか?」
「……」
カイル殿下は、ゆっくりと扉から手を離した。
そして、私から視線を逸らして、部屋の隅にある大きなソファにドサリと腰を下ろす。
沈黙。いつもの、あの「無言のプレッシャー」だ。
(……でも、今の私は気づいてしまったのよね。この人の沈黙、今まで見てきた『冷徹さ』とは、何かが決定的に違う気がするわ)
私は殿下の向かいに座り、じっとその美貌を観察した。
彼は指先を落ち着かなさそうに動かし、視線は右へ左へと忙しなく泳いでいる。
これは……断罪される直前の、私の元婚約者がよくやっていた「動揺」のサインによく似ている。
「殿下。一つ、私の仮説を聞いていただけますか?」
「……」
「世間様は、殿下のことを『冷徹な氷の王子』と呼び、喋らないのは『周囲を見下しているからだ』なんて言っています。でも、本当は違うんじゃないですか?」
カイル殿下の体が、ビクッと跳ねた。
私は確信を持って、さらに一歩踏み込む。
「殿下は、頭の回転が速すぎるんです。例えば『おはよう』と挨拶されたとき、殿下の脳内では……『今の時間帯は厳密には午前11時前だから、まだ「おはよう」で正解か? それとも相手の立ち位置からして、もう少し畏まった挨拶にすべきか? そもそも昨晩の天候からして湿度の話を差し挟むべきではないか?』……なんて、数百通りのパターンを同時に考えている。……そうでしょう?」
「……っ!!」
カイル殿下が、目を見開いて私を凝視した。
図星だ。この「氷の王子」の正体は、ただの「重度の考えすぎによるフリーズ体質」だったのである。
「つまり、選択肢が多すぎて、脳内の処理が追いつかずに『……』になってしまう。そして時間が経ちすぎて、結局何も言えなくなる。……あ、今の殿下の沈黙は『なぜそれを知っている!? お前はエスパーか!?』という驚きですね?」
「……(コクリ)」
殿下が、力強く頷いた。
初めてだ。彼がこんなに分かりやすく、自発的に意思表示をしたのは。
「なるほど、スッキリしました。殿下、それは別に悪いことじゃありませんよ。ただ、あまりにも非効率です。これからは、殿下が迷っている間に、私が適当に一番良さそうな選択肢をぶちまけておきますから。殿下は後で『コクリ』と頷くだけでいいんです」
「……(……)」
カイル殿下は、ふーっと長く、深い溜息をついた。
それは、長年抱えてきた重荷をようやく下ろしたような、どこか安堵した響きがあった。
「……あり、がとう」
「……え?」
今、聞こえたのは、風の音だろうか。
それとも、私の空耳だろうか。
蚊の鳴くような、掠れた、でも確かに美しい「声」が、一言だけ、私の耳に届いた。
「殿下……今、喋りました!? えっ、もう一回! もう一回だけ言ってください! 今の声を録音して、王都の広場で有料で流せば、それだけで私の退職金が溜まります!」
「……っ! ……(ブルブル!)」
殿下は猛烈な勢いで首を横に振ると、真っ赤になった顔を両手で覆い隠してしまった。
どうやら、一日の発言許容量を使い切ってしまったらしい。
「ふふ、恥ずかしがらなくてもいいのに。でも、安心してください。殿下が自分の言葉で喋れるようになるまで、私の超訳はノンストップで営業中です」
私は、ソファに深く沈み込んでいる王子の隣で、楽しそうに扇をパタパタと仰いだ。
無口すぎる王子と、喋りすぎる元悪役令嬢。
どうやら私たちは、欠けた歯車同士のように、絶妙に噛み合ってしまったらしい。
「さあ、殿下! 次の仕事は、お忍びでの城下町視察ですよ! 殿下が『美味しそうだな』と0.1秒でも見つめた食べ物は、私が全て『これは毒見が必要だ!』と叫んで買い占めますからね!」
カイル殿下は、指の間からチラリと私を見ると、今度は呆れたように、でも確かに柔らかく微笑んだ……ような気がした。
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