無能な私を捨ててください!と婚約破棄を迫ったら溺愛?

萩月

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王宮の奥深く、第一王子の執務室。
そこには、山積みになった書類を片付けながら、時折ふっと頬を緩ませるアリスティアの姿があった。
傍らに控える側近の騎士・カイルは、主人のその「怪しい微笑」を見て、深い溜息をつく。

「……殿下。失礼ながら、少々気味が悪うございます。何をご機嫌に笑っておいでなのですか?」

「おや、カイル。顔に出ていたかな? いや、何。ルルナの今日の様子を思い出していただけだよ」

アリスティアは、机の端に大切に置かれた『猫の木彫りブローチ』をそっと撫でた。
それは超高級店で、ルルナが「財布を空にする」と言いながら選んだ、一番安価な商品だ。

「昨日の彼女も最高だった。あえて僕を無視することで、言葉の限界を超えた魂の交流を求めてくるなんて。彼女の愛は、もはや哲学の領域に達していると思わないかい?」

「……思いません。どう見ても、オーブライト様は殿下を避けておいででしたが。というか、最近のあの方の奇行は、社交界でも『聖女か、あるいは……』と物議を醸しておりますぞ」

「ははは。皆、彼女の『本質』に気づき始めたようだね。だが、彼女を一番理解しているのは僕だ。それだけは譲れないよ」

アリスティアは椅子に深く背を預け、窓の外に広がる王都の景色を眺めた。
その瞳は、いつもの穏やかな光とは違う、鋭く知的な輝きを帯びている。
彼は、決して盲目なわけではない。
むしろ、ルルナが何を考え、何を狙っているのか、その全てを正確に把握していた。

「ルルナは……僕のために、必死で『嫌われ役』を演じているんだ」

「……殿下。それは、流石にポジティブが過ぎるのでは?」

「いいや、事実だよ。彼女は自分の魔力が開花しないことを、ひどく負い目に感じている。自分と一緒にいたら僕の評判が落ちる、王家の恥になると……あの生真面目な彼女なら、そう思い詰めても不思議じゃない」

アリスティアは、かつて幼い頃のルルナと交わした約束を思い出していた。
『私がアリス様を、魔法で守ってあげますわ!』と、無邪気に笑っていた彼女。
その彼女が、今では自分を突き放すために、必死で悪女の真似事をしている。

「あんなに優しい子が、無理をして高笑いの練習をしたり、嫌いでもない相手に水をかけようとしたり……。その健気さを思えば、愛おしくて胸が締め付けられるよ」

「……なるほど。殿下は、オーブライト様が『演技』をしていると分かった上で、あえてあの過剰な溺愛反応を返しておられるのですか?」

カイルの問いに、アリスティアは唇の端を吊り上げ、確信犯の笑みを浮かべた。

「当然だろう? 彼女が婚約破棄を狙っているのなら、僕はその退路を全て断たせてもらう。彼女が悪事を働けば働くほど、僕はそれを『美談』として世に広め、彼女の名声を不動のものにする」

「……性格が悪すぎます、殿下」

「最高の褒め言葉だね。彼女が『私は悪女だから、婚約破棄して!』と泣きついてくるのを、笑顔で『いいや、君は聖女だよ』と抱きしめる……。これほど愉しいことが他にあるかい?」

アリスティアの瞳の奥で、独占欲という名の暗い情熱が揺らめいた。
ルルナが自分を想って身を引こうとするなら、自分はその倍以上の力で彼女を縛り付ける。
魔力がなかろうが、周囲に何を言われようが、ルルナ・オーブライトは自分の妻になる唯一無二の存在なのだ。

「彼女は、僕が彼女を『愛しているからこそ、自由にしてあげるべきだ』と期待しているのかもしれない。だが、それは間違いだ。僕は愛しているからこそ、彼女を地獄の果てまで連れて行く」

「……そのセリフ、オーブライト様が聞いたら腰を抜かしますよ」

「だから言わないのさ。僕はただ、彼女の可愛いお芝居に付き合い、それを全肯定し続ける。彼女が絶望して『もう悪役令嬢なんて無理……!』と僕の胸に飛び込んでくる、その日までね」

アリスティアは、手元の報告書に優雅なサインを書き込んだ。
それは、ルルナが「嫌がらせ」として提案したいくつかの無茶な要求を、全て「素晴らしい慈善事業」として承認する書類だった。

「さて、明日はどんなデートをしようか。ルルナはまた、一生懸命に僕を困らせようとするだろう。……ああ、待ち遠しいな。彼女の困った顔は、世界で一番美しいんだ」

アリスティアは、木彫りの猫にそっと口づけを落とした。
その微笑みは、まさに獲物を確実に追い詰める狩人のそれであった。

一方、そんな王子の深すぎる「策謀」など露ほども知らないルルナは、自室で「明日こそは絶対に王子を殴る(フリをする)」ための筋トレに励んでいるのであった。
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