無能な私を捨ててください!と婚約破棄を迫ったら溺愛?

萩月

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「……イザベラ嬢。少し、僕と話をしようか。二人きりでね」

王宮の回廊に、冷徹な響きを持つ声が落ちた。
イザベラ・ド・モンティーニュ侯爵令嬢は、その声の主を振り返り、扇子を持つ手を微かに震わせた。
目の前に立つのは、いつもルルナの前で見せる「溺愛の塊」のような男ではない。
氷の瞳に絶対的な威圧感を宿した、この国の次期統治者としての顔を持つアリスティアだった。

「ア、アリスティア殿下。ご機嫌麗しゅう。……私のような者に何かご用でしょうか?」

「とぼけないでほしいな。君が僕の愛しいルルナに、妙な『教育』を施していることは全て把握している。……扇子で叩く方法、だったかな?」

アリスティアは一歩、詰め寄った。
その瞬間、周囲の空気が数度下がったかのような錯覚をイザベラに抱かせる。
彼は優雅な所作で、自分の肩を軽く払った。

「おかげで最近、彼女は僕と会うたびにパシパシと叩いてくる。……まあ、あれはあれで、君に触れられる喜びがあって素晴らしい体験なのだがね」

「……喜んでいらっしゃるではありませんか」

「喜んでいるよ! だが、問題はそこじゃない。彼女が『悪役令嬢になれば嫌われる』と本気で信じ込んでいることだ。……君、彼女に何を教えた?」

イザベラは「鉄の扇」の異名に恥じぬよう、必死に背筋を伸ばした。
しかし、額からは一筋の冷汗が流れている。

「私はただ……彼女の熱意に負けて、淑女としての『威圧の作戦』を授けたに過ぎません。彼女がそれをどう解釈するかは、彼女次第でございますわ」

「ほう。……君は彼女を、僕から遠ざけようとしているのかい?」

アリスティアの瞳の奥で、ドロリとした独占欲の炎が揺らめいた。
彼はイザベラの耳元に顔を寄せ、地獄の底から響くような低音で囁いた。

「これ以上、ルルナに余計な知恵を授けるのはお止めなさい。彼女のあの不器用な嫌がらせは、あまりにも可愛すぎて僕の理性が保てないんだ。……分かるかい? 彼女の愛らしさをこれ以上増幅させるのは、僕に対するテロ行為と同じだ」

(……そっち!? 理性が保てないから止めろって仰ったの!?)

イザベラは絶句した。
この王子は、ルルナが「悪行」をすればするほど、彼女の魅力が跳ね上がっていることに苦悩していたのだ。
常人には到底理解できない、狂気じみた溺愛のロジックである。

「いいかい、イザベラ嬢。ルルナは僕だけのものだ。彼女を『悪役』という舞台に立たせて、僕以外の観客にその魅力を晒すような真似はさせない。……これ以上続けるなら、君の家の予算を全て『魔獣保護基金』に回してもいいんだよ?」

「……承知いたしましたわ。以後、控えさせていただきます」

イザベラは深く頭を下げた。
この男に逆らってはならない。
ルルナは「悪役令嬢」を目指しているが、目の前にいるのは、本物の「支配者」なのだから。

アリスティアが去った後、イザベラは力なく壁に寄りかかった。

「……ルルナ様。あんな恐ろしい方に目をつけられるなんて。……でも、あの方の目には、あなたしか映っていないのも事実。……なんという、厄介な愛なのかしら」

一方、そんな緊迫したやり取りが行われていたとは露ほども知らないルルナは、柱の陰からその様子を盗み見ていた。

(……見ましたわ! アリス様がイザベラ様に、あんなに怖い顔をして詰め寄るなんて! きっと、私の悪行についてイザベラ様に苦情を言っていたに違いありませんわ!)

ルルナの脳内では、都合の良い変換が行われていた。
「教育係のイザベラを叱る」=「ルルナの行動に限界が来ている」という解釈である。

「よし! ついにアリス様も、私の横暴さに耐えきれなくなったのですわね! イザベラ様に八つ当たりするなんて、相当ストレスが溜まっている証拠ですわ。……ふふ、あと一押しですわね!」

ルルナは拳を握りしめ、次なる「最大の嫌がらせ」を画策し始めた。
自分の名声が上がり、王子の好感度が爆発し、イザベラが恐怖に震えているという現状を、全て「良い兆候」だと勘違いしたまま。

「見ていなさい、アリス様。次はもっと、あなたの心をバキバキに折って差し上げますわ!」

ルルナの瞳は、やる気と勘違いでキラキラと輝いていた。
その様子を遠くから魔法具の鏡で観察していたアリスティアは、愛おしそうに頬を染める。

「……ああ、ルルナ。次は何をしてくれるんだい? 君の新しい『攻撃』を、全身で受け止める準備はできているよ」

噛み合わない二人の攻防は、ついに「物理的な逃走」へと発展していくことになる。
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