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「セバス、明かりを消しなさい。今夜、私は闇に消える女になりますわ」
深夜のオーブライト公爵邸、ルルナの自室。
彼女は忍びのような黒いマントを羽織り、ベッドの上に巨大なトランクを広げていた。
手元には、護身用の扇子(イザベラ特製)と、わずかばかりの宝石、そして大量の保存食が並んでいる。
「……お嬢様。そのマント、裏地が最高級のシルクでツヤツヤと輝いておりますぞ。月明かりを反射して、追っ手から一発で見つかること請け合いでございます」
「いいのよ! たとえ逃亡者であっても、公爵令嬢としての最低限の美学は捨てられませんわ。……いい、セバス。私はもう限界ですの。アリス様はあんなにイザベラ様に怒鳴り散らして……相当私に愛想を尽かしているはずなのに、口では『愛している』なんて仰る」
ルルナは、トランクに大きな干し肉を詰め込みながら、悲しげに瞳を伏せた。
「きっと、優しいあの方は自分から婚約破棄を言い出せないのですわ。ならば、私の方から姿を消して差し上げるのが最後の慈悲というもの。……『身勝手な女が、王子を捨てて愛人と逃げた』。そんな噂を流せば、アリス様の傷は最小限で済みますわ」
「愛人の心当たりはございますか?」
「以前指名した、あのハーブ(草)で通しますわ!」
「……植物と駆け落ちする令嬢ですか。新しいですな」
セバスは深い溜息をつきながらも、彼女がトランクに詰めようとしている「特大の枕」を取り上げた。
それは先日、アリスティアから贈られた「安眠枕」だ。
「お嬢様、逃亡にこのサイズの枕は邪魔でございますぞ」
「……返して! それは、その……野宿する時に必要ですのよ! 断じてアリス様の匂いがするから持って行きたいわけではありませんわ!」
ルルナは枕を奪い返し、ぎゅうぎゅうとトランクに押し込んだ。
結局、荷物の大半は「アリスティアからのプレゼント」や「彼との思い出の品」で埋め尽くされている。
嫌われるための逃亡なのに、心の中は彼への未練で溢れかえっていた。
「よし、準備完了ですわ。セバス、今までありがとう。あなたは良い執事でしたわ」
「滅相もございません。……ただ、お嬢様。玄関の鍵を開ける前に、窓の方をご覧になった方がよろしいかと」
「窓? ……ひっ!?」
ルルナが振り返ると、バルコニーの柵越しに、銀色の月光を背負った「何か」が浮いていた。
いや、浮いているのではない。
漆黒の駿馬に跨ったアリスティアが、魔法で空間を固定し、二階の窓のすぐ外に待機していたのだ。
「……やあ、ルルナ。こんな時間に、随分と大きな荷物を持ってどこへ行くんだい?」
窓が開け放たれ、夜風と共に冷徹なまでの美貌を持つ王子が室内に足を踏み入れた。
その瞳は、逃げようとする獲物を決して逃さない、飢えた獣のような光を宿している。
「あ、アリス様……!? ど、どうしてここに……!? 警備はどうなっていますの!?」
「警備なら、僕の側近たちが一緒に茶を飲んでくれているよ。それより……その荷物、中身を見せてもらってもいいかな?」
アリスティアは優雅な所作でルルナに近づき、開いたままのトランクを覗き込んだ。
そこには、彼が贈ったブローチ、枕、そして例の「木彫りの猫」が鎮座している。
「…………」
「……あ、あの、これは……。その、全部売り飛ばして、逃走資金にするために……」
「ルルナ」
アリスティアの声が、甘く、そして重く響いた。
彼はトランクの中から、大切そうに詰められていた「自分の枕」を手に取り、それをそっとルルナの頬に寄せた。
「僕を捨てて逃げるのに、僕の枕を持って行くのかい? ……君は、僕がいなくて眠れない夜、僕の匂いに包まれて泣くつもりだったんだろう? ああ、なんて愛らしいんだ……!」
「違いますわ! それはただの緩衝材ですわ! 壊れ物を守るための!」
「ふふ、そうだね。君の『心』という、壊れやすい宝物を守るためのものだ。……逃がさないよ、ルルナ。君が僕を捨てようとするなら、僕は世界中の道を封鎖してでも君を僕の腕の中へ連れ戻す」
アリスティアはルルナの手首を優しく掴み、そのまま彼女を自分の胸へと引き寄せた。
トランクがベッドから落ち、干し肉が床に散らばるが、彼は気にする様子もない。
「……アリス様。どうして、どうして分かってくださらないの……。私は、あなたに相応しくないのに……」
「相応しいかどうかを決めるのは、君じゃない。僕だ。……君が行きたいところがあるなら、僕が連れて行ってあげるよ。夜逃げなんて回りくどいことはしなくていい」
アリスティアは、ルルナを軽々と横抱きに抱え上げた。
「さあ、行こうか。……ハネムーンの予行演習だ」
「ハネムーン!? ちょっと、離してくださいまし! 私は逃亡者なんですのよーっ!」
ルルナの叫び声は、夜の公爵邸に虚しく響き渡った。
彼女が用意した「夜逃げ」は、王子の迅速かつ強引な介入により、一瞬にして「深夜の強制デート」へと書き換えられてしまったのである。
「セバス! 助けてーっ!」
「お嬢様、お気をつけて。……ああ、殿下。干し肉はお忘れなく」
セバスは優雅に一礼し、夜闇に消えていく二人を見送った。
ルルナの「悪役令嬢としての敗走」は、またしても愛の深淵へと飲み込まれていく。
深夜のオーブライト公爵邸、ルルナの自室。
彼女は忍びのような黒いマントを羽織り、ベッドの上に巨大なトランクを広げていた。
手元には、護身用の扇子(イザベラ特製)と、わずかばかりの宝石、そして大量の保存食が並んでいる。
「……お嬢様。そのマント、裏地が最高級のシルクでツヤツヤと輝いておりますぞ。月明かりを反射して、追っ手から一発で見つかること請け合いでございます」
「いいのよ! たとえ逃亡者であっても、公爵令嬢としての最低限の美学は捨てられませんわ。……いい、セバス。私はもう限界ですの。アリス様はあんなにイザベラ様に怒鳴り散らして……相当私に愛想を尽かしているはずなのに、口では『愛している』なんて仰る」
ルルナは、トランクに大きな干し肉を詰め込みながら、悲しげに瞳を伏せた。
「きっと、優しいあの方は自分から婚約破棄を言い出せないのですわ。ならば、私の方から姿を消して差し上げるのが最後の慈悲というもの。……『身勝手な女が、王子を捨てて愛人と逃げた』。そんな噂を流せば、アリス様の傷は最小限で済みますわ」
「愛人の心当たりはございますか?」
「以前指名した、あのハーブ(草)で通しますわ!」
「……植物と駆け落ちする令嬢ですか。新しいですな」
セバスは深い溜息をつきながらも、彼女がトランクに詰めようとしている「特大の枕」を取り上げた。
それは先日、アリスティアから贈られた「安眠枕」だ。
「お嬢様、逃亡にこのサイズの枕は邪魔でございますぞ」
「……返して! それは、その……野宿する時に必要ですのよ! 断じてアリス様の匂いがするから持って行きたいわけではありませんわ!」
ルルナは枕を奪い返し、ぎゅうぎゅうとトランクに押し込んだ。
結局、荷物の大半は「アリスティアからのプレゼント」や「彼との思い出の品」で埋め尽くされている。
嫌われるための逃亡なのに、心の中は彼への未練で溢れかえっていた。
「よし、準備完了ですわ。セバス、今までありがとう。あなたは良い執事でしたわ」
「滅相もございません。……ただ、お嬢様。玄関の鍵を開ける前に、窓の方をご覧になった方がよろしいかと」
「窓? ……ひっ!?」
ルルナが振り返ると、バルコニーの柵越しに、銀色の月光を背負った「何か」が浮いていた。
いや、浮いているのではない。
漆黒の駿馬に跨ったアリスティアが、魔法で空間を固定し、二階の窓のすぐ外に待機していたのだ。
「……やあ、ルルナ。こんな時間に、随分と大きな荷物を持ってどこへ行くんだい?」
窓が開け放たれ、夜風と共に冷徹なまでの美貌を持つ王子が室内に足を踏み入れた。
その瞳は、逃げようとする獲物を決して逃さない、飢えた獣のような光を宿している。
「あ、アリス様……!? ど、どうしてここに……!? 警備はどうなっていますの!?」
「警備なら、僕の側近たちが一緒に茶を飲んでくれているよ。それより……その荷物、中身を見せてもらってもいいかな?」
アリスティアは優雅な所作でルルナに近づき、開いたままのトランクを覗き込んだ。
そこには、彼が贈ったブローチ、枕、そして例の「木彫りの猫」が鎮座している。
「…………」
「……あ、あの、これは……。その、全部売り飛ばして、逃走資金にするために……」
「ルルナ」
アリスティアの声が、甘く、そして重く響いた。
彼はトランクの中から、大切そうに詰められていた「自分の枕」を手に取り、それをそっとルルナの頬に寄せた。
「僕を捨てて逃げるのに、僕の枕を持って行くのかい? ……君は、僕がいなくて眠れない夜、僕の匂いに包まれて泣くつもりだったんだろう? ああ、なんて愛らしいんだ……!」
「違いますわ! それはただの緩衝材ですわ! 壊れ物を守るための!」
「ふふ、そうだね。君の『心』という、壊れやすい宝物を守るためのものだ。……逃がさないよ、ルルナ。君が僕を捨てようとするなら、僕は世界中の道を封鎖してでも君を僕の腕の中へ連れ戻す」
アリスティアはルルナの手首を優しく掴み、そのまま彼女を自分の胸へと引き寄せた。
トランクがベッドから落ち、干し肉が床に散らばるが、彼は気にする様子もない。
「……アリス様。どうして、どうして分かってくださらないの……。私は、あなたに相応しくないのに……」
「相応しいかどうかを決めるのは、君じゃない。僕だ。……君が行きたいところがあるなら、僕が連れて行ってあげるよ。夜逃げなんて回りくどいことはしなくていい」
アリスティアは、ルルナを軽々と横抱きに抱え上げた。
「さあ、行こうか。……ハネムーンの予行演習だ」
「ハネムーン!? ちょっと、離してくださいまし! 私は逃亡者なんですのよーっ!」
ルルナの叫び声は、夜の公爵邸に虚しく響き渡った。
彼女が用意した「夜逃げ」は、王子の迅速かつ強引な介入により、一瞬にして「深夜の強制デート」へと書き換えられてしまったのである。
「セバス! 助けてーっ!」
「お嬢様、お気をつけて。……ああ、殿下。干し肉はお忘れなく」
セバスは優雅に一礼し、夜闇に消えていく二人を見送った。
ルルナの「悪役令嬢としての敗走」は、またしても愛の深淵へと飲み込まれていく。
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