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第1章 始まりの刻

始まりの刻Ⅲ

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「貴女のお名前は何ですか?」

「私? 私は……」

 教えてしまって良いのだろうか。もしかすると、両親が私のせいで脅迫などされてしまうかもしれないのに。
 俯いてしまった私の手に、そっとアリアの手が触れる。

「花岡実結、です」

 多分、この人は怖いだけの人ではない。これまでのアリアの行動がそう思わせ、口を開いていた。

「ファーストネームはどちらでしょう? ハナオカ様ですか? ミユ様でしょうか?」

「実結だよ」

「ミユ様ですね」

 変な質問だなと思いながらも小さく頷いてみせると、アリアはそっと微笑んだ。
 隣に居るアリアがリゾットを食べ始めたので、私もスプーンを使ってリゾットを頬張ってみる。
 甘いミルクとコンソメの味が口いっぱいに広がった。今まで食べてきたリゾットの中で一番美味しいかもしれない。

「美味しい……」

「エメラルド城のシェフは腕が良いですから」

「エメラルド城? シェフ?」

「……いえ、今のは忘れて下さい」

 アリアは私が話を理解出来ない事を認識したのだろう。囁きながら、小さく首を振る。
 私も、きっとアリアもそれ以上何を話して良いか分からず、静かな食卓は続いた。
 リゾットの他にはバニラアイスも用意されていた。
 濃厚なミルクの味を楽しみながら、家族に思いを馳せる。
 もう捜索願が出されたのだろうか。警察は私を見付け出してくれるだろうか。
 鞄もどこへ行ってしまったか分からず、スマホで連絡を取る事も出来ない。通報する事も出来ない。

「私の鞄は何処?」

「鞄、ですか? ミユ様はそのような物をお持ちではありませんでしたよ」

 やはり、か。期待はしていなかったものの、心に重たいものが圧し掛かる。
 アリアは本当に私を帰す気は無いらしい。
 最後の一口を食べ、ガラスの小皿をテーブルに置く。
 アリアも食べ終えたらしく、一息つくと今度はクローゼットの方へと向かった。

「今夜はこちらをお召しになって下さい」

 どうやらナイトウェアを取り出してくれているようだ。
 白色のそれをベッドの上へと置き、ゆったりとした歩幅で此方へと戻ってきた。

「今日はこれで失礼致しますね。明日、またお会いしましょう」

 食器たちをトレイに移すと、アリアはそれを持ち、ドアへと向かう。
 途中で此方に振り返ると、そっと微笑み、部屋から出ていってしまった。
 部屋の中がしんと静まり返る。
 眠くはないけれど、もう眠ってしまおう。もしかすると、明日には誰かが迎えに来てくれるかもしれない。
 僅かな期待を心に秘めながら、ゆっくりとベッドへと向かった。
 茶色の編み上げブーツを脱ぎ捨て、白色の衣服も椅子に脱げ捨て、まるでヨーロッパの貴族が着ていそうなナイトドレスを身に着け、ベッドに大の字で寝ころんだ。
 ダブルベッド並みに大きなこのベッドでは、何だかソワソワして気が休まらない。
 瞼を閉じ、大丈夫、眠れる、私は疲れているのだと自分に言い聞かせる。
 時計の秒針の音が耳にこびり付いて離れない。

――――――――

 ふと気が付いて瞼を開けた。いつの間にか私は眠ってしまったらしい。
 白い天井と天蓋――どうやら昨日の出来事は夢ではないらしい。
 小鳥の鳴く声が聞こえる。時間が気になり、木製の丸い掛け時計に視線を向けてみた。目を凝らしてみれば、針は八時を指していた。
 むくりと起き上がり、周囲を確認してみる。
 誰も居ない。
 溜め息を吐き、膝を抱えた。

「そうだよね……。私の居場所なんて誰も知らないのに、助けなんか来ないよね……」

 駄目だ、このまま考え込んでは涙が出てきてしまう。
 少し気分転換をしよう。
 そうだ。この場所が何処なのか分かれば、スマホが戻ってきた時に助けを呼べるかもしれない。
 レースカーテンが掛けられた大きな窓――ううん、バルコニーを目指した。
 右手でカーテンを除け、ガラス張りのドアを開る。
 目の前に広がるのは空ばかりで、建物は何も無い。
 どういう事だろう。此処はもしかすると高所なのだろうか。
 小首を傾げ、ゆっくりと目線を下へ持っていと――

「何……これ……」

 眼下に広がったのは赤い三角屋根ばかり。日本の景色とは明らかに違う。まるでヨーロッパのような街並みだ。

「嘘……でしょ……?」

 てっきり此処は日本だと思っていたのに。違うのだろうか。
 そう言えば、アリアが変な事を言っていた。

 ――魔法でちゃちゃっとやってしまいました――

 ――貴女の使い魔だからです――

 ――エメラルド城のシェフは腕が良いですから――

 もし、此処が日本では――地球ではないのだとしたら。

「ミユ様、おはようございます」

 今、小さくアリアの声が聞こえた気がした。
 ううん、そんなものはどうでも良い。
 私を助けに来てくれる人なんて居ない。私も帰る方法を知らない。
 嫌だ、何も考えたくない。眩暈がする。

「ミユ様?」

 どうしてこんな事になったのだろう。
 きっかけは――そう、あの雫形の緑色の石だろうか。
 誰が、どうしてあれを私にくれたのだろう。
 
「ミユ様? 何処にいらっしゃいますか?」 

 きっと、これはファンタジーな物語でよく見る異世界転移――
 意識が遠のくのと同時に、身体は後方へと倒れていった。
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