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ヴェネツィア
知仁の提案②
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「花梨奈さん……」
硬直して動けない私をトモが横抱きに抱え上げた。その行為にとても驚いて彼にしがみつくと、彼がふわっと笑う。
え? どうして私を抱き上げるの?
「あ、あの……トモ?」
「いいですか、花梨奈さん。君は大丈夫だと思っているかもしれませんが、昨夜も『大丈夫』と言いながら見事に転んで怪我をした君の『大丈夫』は、まったく信用できません。それに今も二日酔いで体調が悪いんですよね? 君はもっと自分の状態を理解したほうがいい」
「う……」
諭すように言われて、返す言葉が見つからなかった。
確かに昨夜は派手にすっ転んで怪我をした……らしい。だが、その記憶はない。『大丈夫』と証明しようと思っても、昨夜の醜態を見ていた彼からしたら、私は途轍もなく危なっかしい人なのかもしれない。いや、多分そうなんだろう。
私が何も言えないでいると、トモは私をベッドにおろした。
「この体調で、また水上タクシーは辛いでしょう? だから、ここで休んでから移動しましょう。二日酔いに効くものでも用意しておきますから、君は眠っていてください」
「で、でも、私たち昨日会ったばかりなんだよ。いくら貴方の責任感が強くても……さすがにそこまでは甘えられないよ」
この人がすごく責任感が強いのは分かった。それはもう人一倍なのだろう。
でもダメ。私たちは一緒にいてはいけないの。というか、一緒にいる時間が長ければ長いほどバレる可能性が上がってしまう……。それはよくない。
焦りを隠しきれない表情でトモを見上げると、彼は優しげに私の頭を撫でる。その彼の手に戸惑いながらも、私はあえて彼の好きな人の話題を振った。
「あ、貴方にはわざわざヴェネツィアに会いにくるほど、すごく好きな人がいるんでしょう? なら、その人を探したほうがいいよ。み、見つからないにしても私に構っていないで、せっかく来たイタリアを満喫したら? ね? 私のことは、もういいから」
「はい、なら君の言う通りにしますね。だから、今は眠ってください」
「……う、うん」
分かってくれたのかな……?
私が不安げに彼を見つめると、彼は私を手際よくベッドに寝かせ布団をかけ、ポンポンと軽く叩いた。
「おやすみなさい。今は何も考えずにゆっくり休んでください」
「……おやすみ」
そして額におやすみのキスが降ってくる。一瞬心臓が跳ねたが、二日酔いの辛さに負けた私はそっと目を閉じた。
***
「……ぅんん」
なんだか気持ちいい。このベッド、こんなに寝心地良かったかな……
私はふわふわと浮上しそうな意識で寝返りを打ち、薄く目を開いた。すると、レースカーテンがそよぐバルコニーが目に入る。そしてその先に見える海にハッとした。
「は? 海?」
飛び起きた瞬間、眼前に無駄に豪奢な部屋が飛び込んでくる。その光景に目を瞬かせる。
「え? 何? ここ、どこ?」
足を下ろしてみるとカーペットもふかふかで、置いてある調度品もランクが桁違いだった。宮殿の一室かと見紛う内装は確実にここがホテルのスイートルームだということを物語っている。私が普段暮らしているアパートと比較するまでもない――おそらく一番いいランクの部屋だろう。
プレジデンシャルスイートかしら?
私、自分の部屋で寝たよね……どうしてこんなところにいるの? まさかトモの仕業?
そういえば、ホテルにおいでとか言ってたわよね?
あれは本気だったのかと頭をかかえながらベッドから抜け出した。
「私をここに連れてきたのトモでしょ! 勝手なことはやてめよね……って、あれ? いない」
部屋から飛び出すが、無駄に広いリビングが目に入るのみで彼はいなかった。
ほかの部屋かしら?
その後、ダイニングやもう一つのベッドルーム。二つあるバスルームなど――室内を隈なく覗いてみたが、トモはいなかった。
「……あれ?」
私は広いリビングの真ん中で立ち尽くした。
これは誰の仕業かと問わなくても分かるが、犯人であるはずのトモがいないと途端に不安になる。
え? トモの仕業じゃないとか?
「私、まさか誘拐されたんじゃないよね?」
ポツリと漏れ出た言葉に、ないないと一笑にふす。
日本でなら考えられたかもしれないが、イタリアでは私の素性を知る人はいない。第一、こんなにもすごい部屋に誘拐してきた人を閉じ込めたりなんて普通しないだろう。絶対に犯人はトモだ。それしか考えられない。
「でも、本当にこの部屋素敵。こんなところに泊まれるなんて、トモってすごくお金持ちなのね」
お祖父様と同じくらいかしら?
我が家は夫婦仲どころか親子仲も悪い。なんだったら父と母方の祖父の仲も悪い。
そのせいか両親から愛情を向けられた記憶は一切ない。だから家族旅行をしてホテルに泊まったなんて記憶も残念ながらないのだ。
「あれ? 起きたんですか?」
「あら、いたのね」
唇を強く噛んだ瞬間、私の思考を打ち切るように、背後から声をかけられる。ゆっくりと振り返るとトモがミネストローネとフォカッチャを乗せたトレイを持って立っていた。
「厨房に頼んでミネストローネを作ってもらったんですが……、食べられますか? 本当なら僕が作りたかったんですが、料理ができないのでミネストローネに入れる食材を選ばせてもらいました。花梨奈さんの体のことを考えて選んだので食べてくれると嬉しいです」
「ありがとう……」
美味しそうな香りが鼻腔をくすぐって、一瞬お腹が鳴りそうになり、気を引き締めて厳しい顔でトモを睨む。
「あのね、トモ。一体どういうつも……」
「あ、その前にシャワーを浴びますか?」
「は?」
私の抗議の言葉を遮るように、突然シャワーを提案されて体が強張ってしまった。それが分かったのか、トモが慌てて首を横に振る。
「怖がらないでください。大丈夫です。花梨奈さんが考えているようなことはしませんよ。怪我人は余計なことを考えないで、ゆっくりと療養しましょうね」
そして、野菜とお豆たっぷりのミネストローネをテーブルの上に置いた。
「……」
別にそこは心配していない。人並み以上に責任感が強い人が軽傷でも怪我人を襲ったりしないだろう。彼の正義感がそれを許さないはずだ。会ったばかりだが、彼の責任感にはなぜか信頼が持てた。……が、私が初恋の相手とバレたら分からないので、本気で気をつけたいと思う。
「……せっかくだし先にそれをいただくわ」
ミネストローネに罪はないもの。帰るのはそれを食べてからでも遅くないと思う。それにお腹空いた……
私がお腹をさすりながら照れ笑いをすると、トモが嬉しそうに私の手を取ってエスコートしてくれた。促されるままリビングのソファーに座ると、その横に彼も座る。
「ミネストローネは栄養たっぷりですし疲れた時だけでなく、今日のように体調がよくない時などにもオススメですよ」
「うん、そうね。ありがとう……。すごく美味しそうだわ」
「どうぞ食べてください」
私が「いただきます」と手を合わせると、トモがスプーンで一口すくって、あーんと差し出してきた。その彼の行動に顔が引き攣る。
「いや、あの……自分で食べられるから」
「ダメです、貴方は怪我人なんですよ。ほら、あーん」
いやいや、怪我をしているのは手じゃなくて脚だ。食事くらい自分でできる。だが、彼はまったく引いてくれなかった。その押しの強い笑みに気圧され、つい口を開いてしまうと、満足げに彼が私の口の中にスプーンを入れた。
そのスープを口の中に含み、もぐもぐと野菜とお豆を咀嚼すると、彼が嬉しそうに笑う。
「美味しいですか?」
「オイシイデス……」
「それはよかった。たくさん食べてくださいね。あ、フォカッチャもありますよ」
「ありがとう……」
すると、トモがフォカッチャを一口サイズに千切って私の口に運ぼうとした。その手を軽く押す。
「私に構ってないで、トモも食べて。私、まだ介助が必要な年じゃないから……」
「そんなつもりじゃなかったんですが……。美味しそうに食べている花梨奈さんが可愛らしくて、つい世話をやきたくなって……」
彼の目が優しげに細められて、私を見つめてくる。食事をあーんしてくる彼の表情が、あまりにも温かく愛情深くて、一瞬バレているんじゃないかと勘繰ってしまう。
いやいや、まさかね……
私はなんとなくその気持ちを誤魔化すように、ミネストローネの入った器を手で持って、ごくごくと飲んだ。口に入った野菜やお豆をもぐもぐと咀嚼しつつ、スープを飲んでいると、トモが肩を震わせて笑い出す。
「可愛いですね。照れているんですか?」
「照れてない……。というか、そういうのは初恋の人にしたら?」
「ふふ、そうですね」
硬直して動けない私をトモが横抱きに抱え上げた。その行為にとても驚いて彼にしがみつくと、彼がふわっと笑う。
え? どうして私を抱き上げるの?
「あ、あの……トモ?」
「いいですか、花梨奈さん。君は大丈夫だと思っているかもしれませんが、昨夜も『大丈夫』と言いながら見事に転んで怪我をした君の『大丈夫』は、まったく信用できません。それに今も二日酔いで体調が悪いんですよね? 君はもっと自分の状態を理解したほうがいい」
「う……」
諭すように言われて、返す言葉が見つからなかった。
確かに昨夜は派手にすっ転んで怪我をした……らしい。だが、その記憶はない。『大丈夫』と証明しようと思っても、昨夜の醜態を見ていた彼からしたら、私は途轍もなく危なっかしい人なのかもしれない。いや、多分そうなんだろう。
私が何も言えないでいると、トモは私をベッドにおろした。
「この体調で、また水上タクシーは辛いでしょう? だから、ここで休んでから移動しましょう。二日酔いに効くものでも用意しておきますから、君は眠っていてください」
「で、でも、私たち昨日会ったばかりなんだよ。いくら貴方の責任感が強くても……さすがにそこまでは甘えられないよ」
この人がすごく責任感が強いのは分かった。それはもう人一倍なのだろう。
でもダメ。私たちは一緒にいてはいけないの。というか、一緒にいる時間が長ければ長いほどバレる可能性が上がってしまう……。それはよくない。
焦りを隠しきれない表情でトモを見上げると、彼は優しげに私の頭を撫でる。その彼の手に戸惑いながらも、私はあえて彼の好きな人の話題を振った。
「あ、貴方にはわざわざヴェネツィアに会いにくるほど、すごく好きな人がいるんでしょう? なら、その人を探したほうがいいよ。み、見つからないにしても私に構っていないで、せっかく来たイタリアを満喫したら? ね? 私のことは、もういいから」
「はい、なら君の言う通りにしますね。だから、今は眠ってください」
「……う、うん」
分かってくれたのかな……?
私が不安げに彼を見つめると、彼は私を手際よくベッドに寝かせ布団をかけ、ポンポンと軽く叩いた。
「おやすみなさい。今は何も考えずにゆっくり休んでください」
「……おやすみ」
そして額におやすみのキスが降ってくる。一瞬心臓が跳ねたが、二日酔いの辛さに負けた私はそっと目を閉じた。
***
「……ぅんん」
なんだか気持ちいい。このベッド、こんなに寝心地良かったかな……
私はふわふわと浮上しそうな意識で寝返りを打ち、薄く目を開いた。すると、レースカーテンがそよぐバルコニーが目に入る。そしてその先に見える海にハッとした。
「は? 海?」
飛び起きた瞬間、眼前に無駄に豪奢な部屋が飛び込んでくる。その光景に目を瞬かせる。
「え? 何? ここ、どこ?」
足を下ろしてみるとカーペットもふかふかで、置いてある調度品もランクが桁違いだった。宮殿の一室かと見紛う内装は確実にここがホテルのスイートルームだということを物語っている。私が普段暮らしているアパートと比較するまでもない――おそらく一番いいランクの部屋だろう。
プレジデンシャルスイートかしら?
私、自分の部屋で寝たよね……どうしてこんなところにいるの? まさかトモの仕業?
そういえば、ホテルにおいでとか言ってたわよね?
あれは本気だったのかと頭をかかえながらベッドから抜け出した。
「私をここに連れてきたのトモでしょ! 勝手なことはやてめよね……って、あれ? いない」
部屋から飛び出すが、無駄に広いリビングが目に入るのみで彼はいなかった。
ほかの部屋かしら?
その後、ダイニングやもう一つのベッドルーム。二つあるバスルームなど――室内を隈なく覗いてみたが、トモはいなかった。
「……あれ?」
私は広いリビングの真ん中で立ち尽くした。
これは誰の仕業かと問わなくても分かるが、犯人であるはずのトモがいないと途端に不安になる。
え? トモの仕業じゃないとか?
「私、まさか誘拐されたんじゃないよね?」
ポツリと漏れ出た言葉に、ないないと一笑にふす。
日本でなら考えられたかもしれないが、イタリアでは私の素性を知る人はいない。第一、こんなにもすごい部屋に誘拐してきた人を閉じ込めたりなんて普通しないだろう。絶対に犯人はトモだ。それしか考えられない。
「でも、本当にこの部屋素敵。こんなところに泊まれるなんて、トモってすごくお金持ちなのね」
お祖父様と同じくらいかしら?
我が家は夫婦仲どころか親子仲も悪い。なんだったら父と母方の祖父の仲も悪い。
そのせいか両親から愛情を向けられた記憶は一切ない。だから家族旅行をしてホテルに泊まったなんて記憶も残念ながらないのだ。
「あれ? 起きたんですか?」
「あら、いたのね」
唇を強く噛んだ瞬間、私の思考を打ち切るように、背後から声をかけられる。ゆっくりと振り返るとトモがミネストローネとフォカッチャを乗せたトレイを持って立っていた。
「厨房に頼んでミネストローネを作ってもらったんですが……、食べられますか? 本当なら僕が作りたかったんですが、料理ができないのでミネストローネに入れる食材を選ばせてもらいました。花梨奈さんの体のことを考えて選んだので食べてくれると嬉しいです」
「ありがとう……」
美味しそうな香りが鼻腔をくすぐって、一瞬お腹が鳴りそうになり、気を引き締めて厳しい顔でトモを睨む。
「あのね、トモ。一体どういうつも……」
「あ、その前にシャワーを浴びますか?」
「は?」
私の抗議の言葉を遮るように、突然シャワーを提案されて体が強張ってしまった。それが分かったのか、トモが慌てて首を横に振る。
「怖がらないでください。大丈夫です。花梨奈さんが考えているようなことはしませんよ。怪我人は余計なことを考えないで、ゆっくりと療養しましょうね」
そして、野菜とお豆たっぷりのミネストローネをテーブルの上に置いた。
「……」
別にそこは心配していない。人並み以上に責任感が強い人が軽傷でも怪我人を襲ったりしないだろう。彼の正義感がそれを許さないはずだ。会ったばかりだが、彼の責任感にはなぜか信頼が持てた。……が、私が初恋の相手とバレたら分からないので、本気で気をつけたいと思う。
「……せっかくだし先にそれをいただくわ」
ミネストローネに罪はないもの。帰るのはそれを食べてからでも遅くないと思う。それにお腹空いた……
私がお腹をさすりながら照れ笑いをすると、トモが嬉しそうに私の手を取ってエスコートしてくれた。促されるままリビングのソファーに座ると、その横に彼も座る。
「ミネストローネは栄養たっぷりですし疲れた時だけでなく、今日のように体調がよくない時などにもオススメですよ」
「うん、そうね。ありがとう……。すごく美味しそうだわ」
「どうぞ食べてください」
私が「いただきます」と手を合わせると、トモがスプーンで一口すくって、あーんと差し出してきた。その彼の行動に顔が引き攣る。
「いや、あの……自分で食べられるから」
「ダメです、貴方は怪我人なんですよ。ほら、あーん」
いやいや、怪我をしているのは手じゃなくて脚だ。食事くらい自分でできる。だが、彼はまったく引いてくれなかった。その押しの強い笑みに気圧され、つい口を開いてしまうと、満足げに彼が私の口の中にスプーンを入れた。
そのスープを口の中に含み、もぐもぐと野菜とお豆を咀嚼すると、彼が嬉しそうに笑う。
「美味しいですか?」
「オイシイデス……」
「それはよかった。たくさん食べてくださいね。あ、フォカッチャもありますよ」
「ありがとう……」
すると、トモがフォカッチャを一口サイズに千切って私の口に運ぼうとした。その手を軽く押す。
「私に構ってないで、トモも食べて。私、まだ介助が必要な年じゃないから……」
「そんなつもりじゃなかったんですが……。美味しそうに食べている花梨奈さんが可愛らしくて、つい世話をやきたくなって……」
彼の目が優しげに細められて、私を見つめてくる。食事をあーんしてくる彼の表情が、あまりにも温かく愛情深くて、一瞬バレているんじゃないかと勘繰ってしまう。
いやいや、まさかね……
私はなんとなくその気持ちを誤魔化すように、ミネストローネの入った器を手で持って、ごくごくと飲んだ。口に入った野菜やお豆をもぐもぐと咀嚼しつつ、スープを飲んでいると、トモが肩を震わせて笑い出す。
「可愛いですね。照れているんですか?」
「照れてない……。というか、そういうのは初恋の人にしたら?」
「ふふ、そうですね」
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