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A面「サヨナラ、二月のララバイ」

美術室で

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 放課後の人が少ない美術室は、暖房がききすぎていた。美術部なんて幽霊部員がほとんどで、毎日まじめに顔を出している生徒なんて少数だ。

 俺はその数少ない部員であり、今は描きかけの風景画を前にして、左手に持った練りけしをいじくりまわしていた。

 今日はもうちょっとこの絵の続きを描きたいのに、やる気というものをいっこうにみつけられない。おまけに暖気と疲労で、頭がぼうっとしてくる。

 右手に持った鉛筆の後ろでこめかみを強く抑えても、頭はすっきりとしない。ぎゅっと目をつむると、スケッチブックのまだ色がぬられていない空の青が、脳裏に広がる。

「忍ちゃん大丈夫なの?」

 幻の青空に、同じ美術部員の原田凛子の心配そうな声が流れ込んできた。
 よかった。原田は体育の時間での俺の態度を、気にしていないようだ。

 彼女とは小学校からの付き合いだった。子供の時と変わらない呼び名で呼ばれると、背中がむずがゆくなる。

 原田の心配する内容に、心当たりがある。あまり、思い出したくないのを気取られないように、先ほどより丁寧に答える。

「ちょっと、がんばりすぎただけだ。あいつがオーバーなんだって」

 持久走の時間、二年生の男女全員が一斉スタートした直後のことだ。俺はなんとか晶についていこうと、ハイペースで走り出した。バスケ部主将にひょろい美術部員が勝てるわけもない。

 どんどん晶との差はひらき、グラウンド三周で俺は途中リタイアすることになった。酸欠状態のかすむ視界の中で、集団が校外へと走り出ていく。苦しくて自然と涙がにじみ、鼻をすすった音がグラウンドにむなしく響いた。

 居残りの島崎先生が俺にかけよって来るのが目の端にうつり、すばやく目元をぬぐった。

 数分後トップでゴールを切った晶は、グラウンドの隅に座り込む俺へ一直線に向かってきた。俺のうつむく顔を覗き込み、顔色が悪いと騒ぎだしたのだ。

 ほっといてくれと言っても、あいつは引きさがらない。嫌がる俺の肩を抱いて、引きずるように保健室に連行したのだった。

 傍目には親密に肩を組む俺たちの姿を見て、グラウンドにいた女子から変な声が聞こえてきたが、聞こえないふりをした。

「大丈夫そうでよかったけど。それにしても忍ちゃん、今日はてんこ盛りの一日だったね。朝は全校生徒の前で表彰されるし」

 原田のはずんだ声が、頭に刺さり頭痛がしてくる。
 週一回の全校集会で、公開処刑をくらった。全国規模の公募展に、俺の描いた油絵が入賞したのだ。

「すごいよ! あの公募展に高校生が入選するなんてめったにないらしいよ」

 鉛筆を握れるようになった頃から、目にうつる景色を絵の中に閉じ込めてきた。庭に生える草花。母親の後ろ姿。図鑑の中の動物たち。でも、どんなに絵がうまくても何の価値もない。

 医者のスペックに、絵画の才能なんていらない。それなのに、原田は顔を紅潮させて俺を褒め続ける。

「シミセンが、興奮してたもん。わが校から初めて美大に行ける生徒が出たって。すごいことなんだよ、忍ちゃん」

 シミセンとは、顧問の美術教師の清水先生のこと。ここは自称進学校でもあるので、ほとんどの生徒は普通の四大へ進学する。

 原田の一方的な会話が耳の中を素通りしていく。もうちょっとがまんすれば、原田も飽きるだろう。そう思っていたら、流れるような原田のおしゃべりが一瞬とまった。

「そうだ、忘れてた……。後で職員室に来るように伝言頼まれてたんだった。受験に向けて、対策を練ろうだって。今日、進路希望の用紙もらったよね。それも持ってこいって。きっと、東京のレベルの高い美大を勧められるんだよ。ねえ、聞いて……」

 原田の言葉を遮るように、ねり消しと鉛筆を乱暴に筆箱へしまった。思いのほか強く放り込んだせいで鉛筆がはね、大きな音を立てて床に転がった。

「帰るの? わたしちゃんとつたえたからね」

 俺が行くかどうか、いぶかるような原田の声音だ。原田は、ちょっとおっちょこちょいなところがあり、よく忘れ物やうっかりミスをする。そこが女の子らしい愛嬌となっているのだけど、本人はそうは思っていないようだ。

「わかってる。ちょっと用事あったの思い出しただけ。シミセンのとこは明日行くから」

 落ちた鉛筆を冷たい床にころがしたまま、そそくさと美術室から出ようとすると、原田の声が追いかけてくる。

「ちゃんと行ってね」

 返事もせずに、逃げるように教室を後にした。
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