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57.*あと一回*

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 いつの間に日が落ちたのか、気づけば闇に侵食されていた室内には、ベッドの周りを浮遊する仄かな魔法の明かりが灯っていた。
 まるで小さな蝶が数匹飛び交うような光源に、また夜が来たことをぼんやりと自覚して、荒い息の合間に少しだけ考える。
 僕が越えてきた、気の遠くなるような夜のことを。

 使い魔改良に夢中になって徹夜したこともあれば、美味しい好みの飲み物を楽しむうちに、気づけば朝になっていたことも腐るほどある。
 便利道具をプレゼントされる前は、狼型使い魔の背にしがみつきながら暗い森を駆けずり回ったりもした。
 でも大半は、きちんと自分のベッドへ横になって、穏やかで充分な眠りの時間を過ごしてきたはずだ。

 その静かすぎる夜に、何度も何度も、圧し潰されそうになりながら。

 これは全て自分が望んだことで、この時間を積み重ねることにこそ意味がある。
 そう頭では理解していても、どうしても感情が酷く暴れ出すこともあったから。
 だからそんな時はストレス解消も兼ねて、嗚咽を押し殺すことなくただ枕を濡らし続けたっけ。

 孤独も不安も恐れも、そうやって独りで受け流してきたけれど……もうそれも、きっと、終わり――。

「ユーリオ?さすがに疲れたか?」

「ぁっやぁ!?…ぁっ!…ふぁっ……ぁ、はぁ…っん」

 ベッドの上で緩く胡坐を組んで座っている、一糸纏わぬ『伴侶』。
 その均整の取れた逞しい体へ、自分の素肌を密着させながらしがみつき、肩口に顔を埋めて熱の余韻を堪能していたのに。
 腰に添えられていた大きな手に、ゆさっと軽く揺すられた途端、体の最も深い所に収まっている雄に敏感な部分をまた刺激されて、瞬間的に一際甘い痺れが背筋を走る。
 その鋭い感覚に思わず声を上げはしたものの、否定の言葉は吐きたくなかった。

「っは、ちが……もっと…もっと、して……」

 久しぶりでありながら、いきなり長時間に渡っているこの行為のせいで、もう体も頭もとても怠い、重い。
 きっと勘違いだと思いたいけれど、なんだか下腹部が内側からたぷたぷと波打っているような気もする。
 それでも、やっと取り戻せた温もりとは離れがたく、体の奥に感じる熱もまだまだ放したくない。
 そんな我儘な望みを短い言葉に変えながら、大きな背中へ回していた腕を少しだけ緩めて、あの特別な瑠璃色の双眸を正面から見つめた。

 とはいえ、いくら何でもちょっとがっつきすぎな自覚は……僕にもある。
 先程から気遣われる頻度が増えたのも、もう自分では腰を動かすこともままならなくて、ただ抱っこされているに等しい状況だからかもしれない。

 だから、もう終わろう、と言われても仕方ないんだけど――。
 無言のまま、パチパチと目を瞬かせるラグナをやや上目遣いで見上げながら、自分の望みを小さく呟いてみた。

「……あと一回……だめ?」

「………………あー……愛いッッ!!!」

 一度天を見上げて、自分の鼻筋を抑える仕草をしてからそう一言叫んだ僕の伴侶によって、背中からまたシーツに沈んだ。
 そして、今日だけで既に数えきれないほど告げられた言葉がまた、キスの合間に惜しみなく降ってくる。

 『愛している』というその音に包まれながら、幸福な快楽にただ声を上げて、あとはもう酔いしれるだけ。

 ただ、あと一回だけと強請ったはずなのに、その後、記憶にあるだけで少なくとも五回は追加されるなんて、僕だって思っていなかった。
 長年の別離の影響か、魔王が魔王たる所以ゆえん……基本的には自分の欲求第一優先、というのを忘れていたのかもしれない。

 結局最後は上機嫌で僕を組み伏せ続ける男に、もうやだ無理と明確な否定の意思を叫んでも許してもらえず、ほぼ気絶する形でようやく終わりにできたなんて……。
 これだから魔王は……!何が「愛い愛いもっと啼くがよい」なのさ!?

 おかげで、久しぶりの過酷な状況に体が驚いたせいか、とても眠りが浅い。
 体は動かせないし力も抜けているけれど、時折意識だけがこうして浮上しかけている。
 だから、何となく今が明け方の気配であることも、しっかりと僕の体を抱きしめて横になっている温もりの存在も、確かに感じることができた。

 そして、静寂に満ちた部屋にふと響いたその声も、僕には聞こえていた。

『――戻ったか、ラグナレノス』

 合成音声じみた異質な音で、魔王の名を呼び捨てにできる存在が、もしもあの黒龍の他にいるのなら教えてほしいくらいだ。

「……ふむ。初夜の閨へ遠慮なく顔を出すとは、其方も変わりないようで嬉しいぞ。ベルちゃんよ」 

『この世界の時間軸において九九六年ぶりの邂逅を、貴公は何と心得る』

 小声ながらもいつも通りの愉しげな声音で語るラグナの言葉には、ツッコまない。
 ため息交じりにたしなめるベルちゃんの方には、眠りながらでも全面的に同意したいけれど。

 僕の腰に腕を回したまま、僅かに身を起こした隣の温もりの気配に多少不満を覚えるなか、旧友二人のひそひそ話は続いた。

「あれをユーリオへ贈ったは、其方であろう?――色がちと余の伴侶には似合わぬのが気になるが、感謝するぞ」

『貴様、我が最愛を表す色の何が不満だと……待て、伴侶?ついに伴侶と定めたか……』

 頻繁に浮き沈みする意識の中で、ぼんやりと聞いたそれは、今の僕でさえ知らなかったことだった。

 かの黒龍から贈られた、黒いブレスレット。
 それには、魂の疲弊とやらを緩和する力が、密かに込められていたらしい。

『元が短命種である人間の魂ならば、その存続限界強度は該当世界時間における五百年前後……それが私の最愛にして、最強の魔術師による推測であった。だからこそ、この魔導士の事情を知った彼は「やれるもんならやってみろ」と祝福も授けてくれたのだが……時間切れ寸前であったぞ』

「あぁ……故に、余は感謝しているのだ。それともう一つ、以前、話してくれたであろう?只の人間とそうは変わらぬ魂である其方がなぜ、長命でありながらも壮健なままでいられるのか」

『その話か。当時は私の言葉を鼻で嗤った貴公の、今の所感を尋ねよう』

 どこか優越感を滲ませて微笑んでいるような黒龍へ、苦笑交じりに返した魔王の言葉は、小声ではあってもしっかりと僕の耳に残った。 

 『愛』を交わすことで、魂を回復させる。
 それが人間ひとには可能なのだという話を、やっと信じられた。
 そう語る、伴侶の声が。

「これほどの深い傷が、余の『愛している』という言葉一つで癒えていく。それを前にすれば、余がユーリオへ抱く想いこそが愛なのだと、疑う余地もない。其方の言う通り、伴侶とは愛しいものだな?いや、愛しいからこその、伴侶か……くふ、ふふふ……この寝顔も愛いわ……あぁ久方ぶりのユーリオたんの寝顔っ!」

『……待て、ラグナレノス。私の話はまだ終わっておらぬ、伴侶に浸るのは後にせよ』

 なんだか面映おもはゆいような気もするけれど、僕だってその黒龍には散々伴侶自慢されてきたんだ。
 魔王、もっと言ってやって?

 少しだけ大きくなったラグナの声と、呆れと苛立ちを滲ませるベルちゃんのぼやきを聞きながら、そう思ったのが最後だった。
 ようやく深い眠りへと落ちていった僕は、その後、彼らの間でどんな話が交わされたのかまでは知らない。

 ただ翌朝、伴侶の腕の中で目覚めた僕の左手首には、漆黒から瑠璃色に変わったブレスレットが煌めいていた。
 すっかり明るくなった室内で、それに気づいた僕は思わず笑ったけれど、すぐさま「愛い愛い愛い!」と繰り返す温もりに圧し潰されかけて、笑顔も引っ込んだ。

 どうにかその腕の中から脱出し、まだ怠さの残る体をベッドの上へ起こしても、僕の隣で横になったまま悶えている男は、消えそうにない。
 夢でも幻でもなく、ちゃんと隣に、いる。

 それが嬉しいはずなのに、なんだか信じられなくて、少しぼんやりとしながら、鼻の下が伸びていようとも見た目だけは損なうことのない伴侶の顔を、しばらく眺めていた。

「あぁ~愛い!見た目は多少大きくなったというのに、この愛いさに更に磨きがかかっているなど余の想定愛いを軽く超えた愛いではないか~!うーーいぃぃ~~~!」

 そんなラグナは、ひとしきり「う」と「い」の二音を堪能した後、ガバリと身を起こす。
 上掛で体を包んでいる僕とは違い、その裸体を惜しげもなく晒してくれているから、ちょっと目のやり場に困るなぁと視線を逸らしたものの……。

「うむ!この機を逃してなるものか!!」

「……っラグナ待って!?まず説明!僕に説明が先だからね!?」

 そう宣言するや否や、一人だけ手早く魔法で衣服を身に纏うとベッドから立ち去ろうとする伴侶。
 そんな彼に先手を打って釘を刺すくらいには、僕も学習能力がある。
 でも、慌ててラグナの後を追おうとした僕を止めたのは、案ずるなと朗らかに笑う魔王本人で。 

 そしてそのまま彼は、この魔王の寝室の中央にわざわざ配置されている、あの鍵付きの衣裳箪笥クローゼットへと歩を進めた。
 草花のレリーフが施された真っ白な箱型収納は、横幅だけでも軽く三mはあるし、高さもそれくらいだ。

 見た目は単純な金色の錠前なのに、どれだけ僕が頑張っても開けることはおろか、壊すことさえもできなかったその鍵に、魔王が手を翳す。
 その途端、弾け飛ぶように光となって宙へと散った光景に、一瞬だけ心臓が跳ねたのは、千年近くも前の、苦い記憶が否応なく頭を過ったから。

 でもそんなものは、次の瞬間には綺麗さっぱり洗い流されてしまった。

 僕にそれがよく見えるよう、クローゼット正面から立ち位置を横へずらしながら、こちらを振り返るラグナ。
 その口元がニヤリと吊り上がっているのは、なぜなのか。

 答えは、ひとりでにゆっくりと動き出した、両開きの大きな扉の中にあった。


 迎えることのできなかった、大切な日。
 その一日の為だけに、多くの仲間たちの手と、たくさんの時間を掛けて作り上げられた、芸術品のような美しさを放つ、一点もの。


 それは、あの日の僕が袖を通すことさえできなかった、完成された婚礼衣装。



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