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1巻

1-3

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 誘っておきながら、いざ身体をさらけ出そうとすると恥ずかしさが上回る。ブラジャーはさっきから引っかかっているだけで意味をなしてない。
 既にあらわになっている胸を腕で隠しつつ、玲奈はブラウスを脱ぐとすぐに、ブラの肩紐を外していく。フレアスカートのジッパーを下ろしてテツを見ると、まるで視姦するかのように玲奈を見つめていた。

「もうっ、そんなに見ないで」
「やっぱりここから先は、僕にさせて」

 目元を柔らかく細めたテツが、ゆっくりとスカートを足から外していく。白く、少し肉付きのよい太腿と黒いレースのついた下着があらわになった。

「綺麗だ、レナ」

 身体に残っているのはショーツだけだ。トクトクと高鳴る鼓動がさっきからうるさいくらいに耳の奥で響いている。

「私も、テツさんの服を脱がせたい」

 口をすぼめて言うと、彼はくすりと笑って「いいよ」と返事をした。
 玲奈はベッドの上に立ち膝になり、さっき外せなくて中途半端になっているシャツに手を伸ばし、ボタンを最後まで外していく。すると、両胸がテツの目の前でぷるんと揺れてしまった。
 ちょっと意地悪な顔をしたテツは手を伸ばすと、玲奈の乳房の先端をいじり始める。

「可愛い」
「ちょっと、これじゃ脱がせられないっ」

 悪戯いたずらする手をかわしながら、なんとかシャツを脱がせ終えた玲奈はジーンズに手をかけた。盛り上がったたかぶりを見ないようにして硬いジーンズを腰まで下ろし、あとは片方ずつ外していく。
 テツも服を脱ぎ終えると、黒のボクサーパンツ一枚になっていた。
 休日に鍛えていると言った通り、細身の身体には均整のとれた筋肉が浮き上がっている。彼の身体から目が離せない。
 ベルガモットの香りとほのかな汗の匂いが混ざり、目元を赤くしたテツから壮絶な色気がただよってくる。玲奈を落ち着かなくさせる香りが鼻腔びこうをくすぐった。
 これから本格的に食べられてしまうのだろう、薄い唇を厚い舌でペロリと舐めた彼は、玲奈を視線で射貫いた。

「あぁ、これも僕が脱がせていい?」

 コクンと頷いた途端、テツはショーツの両端を持つと、少しずつ引き下ろしていく。するとささやかな和毛にこげが現れて、蜜口からは恥ずかしい糸が伸びていた。

「可愛い、もう濡れてる」
「もうっ、いちいち口にしないで」
「ごめん、でも本当に可愛いよ」

 テツはゆっくりと覆い被さると肌と肌を合わせるように抱きしめながら、顔中についばむようなキスを落とす。

「レナッ、……レナ」

 まるで恋人のように甘く名前をささやかれて口づけを受けていると、テツに愛されていると誤解しそうになる。

「っ、んっ、……ふあっ、ああっ」
「レナ、たまらないよ。もっと乱れて、僕にとろけた顔を見せて」

 テツの目の奥に、欲望の火が灯っている。
 自分から仕掛けたはずが、さっきからテツにリードされている。キスをしながら胸を強めに愛撫あいぶされ、痛いはずなのにもの凄く気持ちがいい。
 じわりと愛蜜がしたたり濡れていく。
 ――こんなのだめ、溶けちゃうっ……
 気がついた時には、テツは玲奈の下腹部に顔を落とし、ぷくりと膨らんだつぼみを口の中で転がしつつ指をたっぷりと濡れた膣内に入れていた。
 じゅぷ、じゅぷとゆっくりとほぐしながらつぼみの裏側を刺激されると、玲奈はそれだけで快感を拾ってしまう。

「もっと、声を出して」

 次第に指の数を増やして抽送を繰り返されると、気持ちのいい感覚が這い上がってくる。太腿の内側に力を入れ、足を閉じようとしてもテツの身体が入り込んでいてできない。

「んっ」

 ぞくぞくっと快感が背中を走っていく。舌先でつぼみねるように吸われつつ蜜口の気持ちのいいところを刺激されると、突然、その感覚が玲奈を襲った。

「っ、はぁっ、ああっ――っ」

 びくん、びくんと身体が跳ね、太腿でテツの頭を挟んでしまう。

「あっ、ああっ、イ、イッちゃう……」

 快感が全身を貫いていく。いきなり絶頂を味わった玲奈は、信じられない思いでテツを見るけれど、彼は「まだだよ」と言いながら再び蜜口に口づけた。

「まだっ、まだイッてる、からっ」

 さらに深く指を突き入れられ、つぼみに強く吸い付かれるとダメだった。

「あっ、……ぁあっ、あっ、あっ、もう、いっ」

 痙攣けいれんが収まらないまま連続して刺激され、再び絶頂に持っていかれる。玲奈は立て続けに達していた。
 震える腰を突き出すようにして、きゅうっとテツの指を締め付ける。何度もダメといってもテツは舌を器用に動かして、敏感になったつぼみを刺激することをやめなかった。
 ――こんなに激しいなんて、聞いてないっ!
 シーツを鷲掴わしづかみにしながら全身に力を入れて足先をピンと伸ばす。背中をビクッとのけ反らせ、玲奈は再び絶頂へと投げ込まれていた。
 ――こんなに、気持ちいいなんてっ……
 酔った上に今日初めて出会った人とワンナイトなんて、これまでしたことがない。玲奈は大胆なようでいて、館内が初めての相手でずっと彼に一途だった。
 館内クズとは比べ物にならないほどに高められている。
 テツは起き上がると愛液で濡れた口元を腕で乱暴にぬぐう。その仕草がまた、胸をキュンと締めつける。
 玲奈は両手を上げるとテツの頭を抱えるようにして、再び自分から唇を合わせた。
 キスの合間に何度も「可愛い」とささやかれると気持ちがいい。
 きっと今夜だけの関係なのに、テツの低音で聞くと心の一番奥に届くようで、震えてしまう。
 互いの口内の柔らかいところを舐め合って舌を絡めながら、テツの骨太の指で花芽をねられ、花びらをなぞられる。
 腕を伸ばしてテツのたかぶりに触れると、彼は下着を下ろして窮屈きゅうくつな場所からそれを取り出した。血管がビキビキと浮かび上がり、硬くち上がっている。
 雄茎を手に持ったテツが濡れた鈴口を秘裂に添え、入口を往復するようにこする。それだけで玲奈は小刻みに達していた。

「あぁ、もういいかな。レナ、……れるよ」

 ぐっと両膝を開かれ、テツが待ちきれないとばかりに腰をあてがう。

「はぁ、ちょっと、待って」

 顔を少し上げて彼の熱杭を直視すると、想像以上にたくましい。テツのそれは背の高さに比例するように大きかった。

「また、レナはいけない子だね。もう、待てないよ」

 呟きと共に、しっとりと湿った蜜洞に被膜を被せた熱杭の先端が入ってくる。
 ゆっくり入口を浅く往復したかと思うと、ぐっと腰を進めて奥に入り込んできた。

「はあっ、ああっ」
「凄い……っ、うあっ、絡みついてくる」

 きゅうっと絞るように熱杭を締め上げると、「うっ」という声と共にテツは腹筋に力を入れた。
 射精感をこらえているのか、玉のような汗を額に浮かべている。

「こらっ、まだ挿入はいったばっかりだろ、そんなに絞めたらだめだ……」

 眉根を寄せ、少し困った顔をしたかと思うと、テツは玲奈の片足を持ち上げ肩にかけた。
 挿入が深くなり、それだけで「はあっ」とイきそうになる。

「だ、だめっ、それ、深いっ」

 どう考えてもテツの熱杭は大きくて長い。これまで体験したことのない奥まで挿入され、リズミカルに突かれると快感が背筋に上ってくる。

「あっ、イクっ、イッちゃうっ」
「もっと早い方がいい?」
「う、うんっ」
「わかった」

 テツは玲奈の両足を肩にかけ、膝をついた格好で本格的に腰を打ち始めた。
 せり上がってくる快感を解放するように足をピンと伸ばすと、愉悦が身体の芯から這い上がって全身にいきわたる。気持ちがよすぎて、何も考えられなくなってしまう。
 テツが指の腹でぷくりと膨らんだ花芽をなぞると、一気に目の前が真っ白になり快楽が玲奈を貫いた。

「んあっ、はぁああっ」
「レナっ」

 思わずテツの首の後ろに爪を立てて引っ掻いてしまう。衝撃にも似た快楽に玲奈は身体をぴくぴくと震わせ、膣をきゅうっと絞った。
 するとテツも耐えきれないとばかりに「うっ」とうなり声をらす。

「凄い……こんなの初めて」

 絶頂から降りた玲奈がほうっと息を吐くと、テツはくっと口角を上げた。

「あぁ、僕も持っていかれるところだったよ。レナ、まだ夜は始まったばっかりだ。あの男を忘れるには、もう少し必要だろう?」
「えっ、あっ、キャッ」

 玲奈の両膝を押さえると、テツはゆっくりと硬いままの熱杭を抽送させる。
 溢れ出す愛蜜が恥ずかしいほどの水音を立てている。その音を聞くだけで、頭が沸騰しそうになった。

「レナ、本当に君は……はあっ、たまらないよ」
「あっ、あっ、テツッ、凄いっ」

 はっ、はっとまるで獣になったように息が荒くなり、肉と肉がぶつかり合う音が部屋中に響く。
 高い嬌声を上げることしかできない。
 玲奈の身体を抱きしめたテツが、ぶるりと身体を震わせ被膜越しに欲望を吐き出した。同時に玲奈も絶頂に持っていかれる。
 二度、三度と押し込むように腰を前後させ、胸を大きく上下させながらテツははあっと息を吐き出した。

「ごめん、ちょっと早すぎたよね、次はもっとレナをイかせるから」
「えっ、ええっ?」

 もう十分達しているのに。そんな言葉を口にする間を与えず、テツはゴムの入った袋を取り出すと、それを開けて素早く取り替えた。
 次は後ろからにしようか、と体位を変えてつんいにさせられる。腰を持ち上げ、テツは臀部でんぶを握りしめながら蜜口に顔を近づけた。

「えっ、あ、テツ?」

 まさか、こんな姿勢になって舐められるとは思っていなかった。テツは玲奈のまろやかな臀部でんぶを揉みつつ、舌を突き出して秘裂からしたたる愛液を啜り上げた。

「はぁあっ、だ、だめぇっ」

 柔らかな刺激に身体が震え、テツの甘い息が後孔にかかる。
 上体を上げたテツは臀部でんぶを固定するように掴むと、既に一度上り詰めた蜜洞に再び硬くなった先端があてがった。

「レナ、いくよ」

 どちゅん、と一気に硬い熱杭が打ち込まれ、思いがけない強い衝撃に玲奈はあごを上げてしまう。

「あっ、そこ……ああっ、凄いっ」
「ここ? ここがいい?」

 テツは腰を回すようにして玲奈のがるポイントを探している。その動きが激しすぎて、玲奈はあられもない声であえがされた。
 昼間はあんなにも紳士だったのに、夜はこんな獣になるなんて聞いていない。

「あっ、も、もおっ、だめぇっ、こんなの、よすぎてこわれちゃうっ……!」
「いいよ、僕のでこわれたらいい」

 自分から求めたとはいえ、テツはとてもとても――いろんな意味で凄すぎた。
 ――本当にぐちゃぐちゃになっちゃうっ……
 乾いた音が鳴り響く。顔を持ち上げられ、キスされながら突かれると、上も下も同時に犯されているようでかつてないほど興奮する。
 テツは後ろから手を伸ばして玲奈の揺れる乳房を鷲掴わしづかみにしていた。

「レナ、好きだっ」

 揉まれながら、突かれながらかすれた声でささやかれると、本当のことのように聞こえてしまう。快楽と共に彼の言葉が甘い毒になって玲奈の身体をしびれさせた。
 テツは熱を帯びた目で玲奈に何度も「好きだ、可愛い」と言いつつ、硬い熱杭を抽送する。彼の裸の胸が背中に当たり、耳元で荒れた息遣いが聞こえる。揺れる乳房の先端をくにくにとねてうなじを甘噛みした。

「あっ……っ、はぁっ、あっ、あっ、だめっ、イくぅ……っ」

 絶え間ない刺激に玲奈は翻弄ほんろうされていた。次第にスピードを上げたテツは、仕上げとばかりに最奥を穿うがち玲奈を絶頂へと導いていく。
 目の前が白くなるのと同時に、テツの身体がぶるりと震える。

「……っ、くっ、出るっ」

 薄い膜一枚をへだて、テツは熱を玲奈の中に放出した。
 ふーっと息を吐き出しながら、テツが「日本に帰ってからも、付き合おう」と玲奈に言葉をかける。
 けれど、本名さえ知らない相手のねやでの言葉を本気にすることなどできない。玲奈は返事をすることなく、最後は倒れるようにして意識を手放した。


 朝日を感じて目を開けた玲奈は、重い腰の痛みに思わず顔をしかめた。
 昨夜は酔っていたとはいえ、知り合ったばかりのテツと大胆にも一夜を過ごしてしまった。それも、明け方まで身体を繋げるなんてことは初めてだ。

「ど、どうしよう」

 完全に酔っぱらっていた。普段の玲奈では、考えられない行動だった。
 テツも最初はかなり戸惑っていたように思う。それを、無理やり口づけて自分の方から襲っていた。
 ――ああっ、これじゃ私、痴女と変わらないっ!
 いくら忘れさせてほしかったとしても、テツは昨日出会ったばかりの人だ。
 昼間の彼は完璧な紳士だった。獣になるようにあおったのは玲奈だ。……と、思う。
 隣でまだテツは気持ちよさそうに眠っている。彼に包まれるように激しく抱かれ、久しぶりのエッチに乱れに乱れ――極上の一夜だった。
 思い返すだけで頬が赤くなる。これはもう、思い出してはいけない『黒歴史やつ』だ。
 頭を抱えながら時計を見ると、急に現実が迫ってくる。
 ――やだっ、もうこんな時間!
 今日は帰国のためにホテルをチェックアウトしないといけない。
 荷物をまとめていなかった玲奈は、するりとベッドから降りると脱ぎ散らかした服を拾い上げた。シャワーを浴びたいけれど、急がないと間に合いそうにない。
 サッと服を着ると玲奈は慌ててかばんを持つ。テツが眠っている今のうちに姿を消せば、お互いにしこりも残らないだろう。
 昨夜のことは二人とも一夜の遊びとして忘れた方がいい。

「ありがとう、テツさん。じゃあね」

 すこぶるいい男で、身体の相性もいい。こんな風にワンナイトさえしなければ、もっと違う形で会えたかもしれないのに。
 このままサヨナラするのは惜しいけれど、館内と別れたばかりの玲奈は今、とても恋愛をする気にはなれない。
 そーっと部屋を忍び出ると、重い腰を押さえながら急いで地下鉄の駅に向かう。
 まさかその時黙って部屋に置いてきたテツに追いかけられ、再び会うことになるとは思いもしなかった。



   ◇第二章 


 ニューヨークから帰国した玲奈は、急に取り消された仕事については忘れることにした。持ち前の明るさと度胸のよさもあり、海外事情を記事にする仕事も増えている。
 館内の裏切りは許せないけれど、人生の勉強代だったと気持ちを切り替えた。
 ――結局、あの夜で吹き飛んじゃったのよね……
 思いがけない一夜を過ごしたことで、ぐちゃぐちゃだった気持ちがすっきりしていた。クズ男のことは、テツのおかげですっかり過去のものになっている。
 それでもあの夜、自分とは思えないほど乱れてしまったことが恥ずかしくて、玲奈はテツのことを記憶の中から抹消することにした。
 幸いにも次の仕事はすぐに決まり、今回はシンガポールに来ている。近代的な建物が立ち並び、マーライオン公園など街全体が美しく整っていた。
 顔を上げると雲一つない青空が広がっている。ニューヨークの夏よりも暑い南国の気候が、玲奈にあの熱い一日を思い出させていた。
 ――テツとのエッチ、本当に凄かったな……
 時々思い出してはあらぬところがうずいてしまう。けれど、名前も連絡先も知らないし、彼も玲奈のことを捜し出すことはできないだろう。名刺すら渡していなかった。
 ――だめだめ! テツのことばっかり考えないで、シンガポールを楽しまないと!
 もう忘れないといけないひとなのだ。
 玲奈は頭を小さく左右に振ると、ガイドブックを取り出した。シンガポールではマレー料理も中華料理もある。今夜は何を食べようか、と楽しみにしながら頬に風を受ける。
 玲奈はノースリーブの青色のシャツに、白のサブリナパンツを履いて散歩をしていた。
 ようやく取材が終わり、歴史的な建築物であるショップハウスの立ち並ぶ地区を歩いていると、ふと子どもの姿が目についた。
 もしかしたら……と思って眺めていると、近くを歩く白髪しらが交じりの男性から財布を盗もうとしているのか、後をつけて隙を窺っている。
 ――どこにでも、やっぱりいるのよね……
 子どもがそーっと、慎重に後ろに回って、その人のかばんをろうと手を出した。

『ちょっと、そこの君』
『わ――っ!』

 英語で声をかけた途端、逃げ出そうとする子どもの服を掴み、玲奈は子どもに向かって説教を始めた。

『いい、今こんなことをしても、後悔しか生まないのよ。犯罪行為はね――』
『ご、ごめんなさい……』
『謝ることができるのは、いいわね。ハイ、これでもなめたらいいよ』

 そう言って玲奈は大きな飴玉を子どもに渡した。その子は目を大きくして喜んだ。

『ありがとう!』
『もう、あんなことしちゃダメだよ!』
『うん!』

 走り去っていく子どもの後ろ姿を見た玲奈が振り向くと、白髪しらが交じりの男性がまだそこにいる。

「お嬢さん、ありがとう、助かりました」
「えっ、日本人ですか?」

 いきなり日本語で話しかけられ、玲奈は思わず目をぱちくりとした。
 男性はおじいさん、というには申し訳ないほど溌剌はつらつとしていた。背の高さはちょっと日本人離れするほど高くて、白いシャツにキャメル色のトラウザーズを穿き、かばんを斜めにかけている。
 にこやかな笑顔を見せているが、その一方で隙のない感じもする不思議な人だ。

「お礼に夕食をごちそうしたいが、いかがかな?」
「へっ? そんな、私はただ子どもに声をかけただけですが……」
「いやいや、お嬢さんの勇気ある行動で私もかばんをられなかったから、ぜひともお礼がしたい」

 玲奈にしてみれば、子どもが悪いことをしたら叱るのは当たり前のことだ。ここで悪いことをしたという意識を持たなければ、もっと大きな犯罪に手を出しやすくなる。
 だから説教しただけで、自分としては特別なことをしたつもりはなかった。けれど、男性はどうしても夕食をおごりたいと言ってくる。

「私一人で夕食をとるのも味気ないからね。マリーナベイ・サンズにあるホテルにいるから、そこでどうかな」
「マリーナベイ・サンズ! あそこのホテルにお泊まりなんですか?」

 玲奈は思わずゴクリと唾を呑み込んだ。三つのタワーの上に舟型の構造物が横たわる、今やシンガポールの象徴とも言える超高級ホテル。
 玲奈のような庶民には手が出ないホテルだ。

「どうかな。こうして会えたのも何かの縁だから、レストランで食事でもどうだろうか」
「本当ですか?」

 憧れのホテルのレストラン。ぜひ案内してほしい。
 南国の温かい空気が玲奈の心をおおらかにしていた。
 相手はお年を召した方だし、大胆になってみようと玲奈は早速返事をする。

「わかりました、夕食のお相手でしたら喜んで」
「よし、そうと決まれば後でホテルのフロントに来てほしい。私の名前を出せば、すぐに案内してくれるだろう」

 そう言って渡された名刺の名前は、勝堂総一郎そういちろうとあった。役職のところに会長と書かれているのを見て、玲奈は手が震えてしまう。

「あの、……あの勝堂ホールディングスの会長ですか?」
「会長といっても、まぁ、もう引退して息子に引き継ごうと思っている途中だよ」

 ――信じられない! あんな大企業の会長だなんて……
 勝堂ホールディングスといえばホテルから総合商社まで持っている、日本では誰もが知っている大企業だ。その会長と知り合うとは夢にも思わなかった。
 一旦宿泊しているホテルに帰り、前面で布地がクロスしている青色のXラインワンピースに着替え、マリーナベイ・サンズに向かう。
 そしてセレブリティ・シェフがいると名高いレストランに案内されると、かにの姿煮やココナッツで味付けされたシーフード・カレーなど、シンガポールらしい南国料理が出てくる。
 香辛料が効いてスパイシーで、ぷりぷりのエビを使った麺料理は特に素晴らしかった。
 ――んんっ、美味しい!
 レストランでは流行はやりのジャズが心地よく流れている。
 何よりも気さくな勝堂会長のグローバルな体験談を聞いていると、時間は溶けるように過ぎていった。

「麻生さん、いや、君のような女性とこんなにも楽しく食事ができてよかったよ。いい食べっぷりで、こちらもおごりがいがあった。日本に帰ったら、また美味しい店を紹介したい」
「そう言ってもらえると嬉しいです。次はぜひ、会長にインタビューさせてください」
「ははっ、こんなじじいでよければ、いつでも話をしよう」

 そして連絡先を書いた名刺を渡すと、もう時間なのでと玲奈は席を立った。
 すると、レストランの入口から背の高い男性が数人入ってくるのが見える。人気のレストランだから、客がひっきりなしに来るのだろう。

「すまないね、本当は息子も一緒にシンガポールに来ているから、君を紹介したかったよ」
「いえ、また機会があればお会いできるでしょう、楽しみにしています」

 お礼を伝えレストランを出ていく途中、入口で立っていたサマースーツ姿の男性と肩がぶつかった。

『あっ、すみません』
『いえ、こちらこそ』

 低い声はどこかで聞いた気がするけれど、シンガポールに知り合いはいない。
 玲奈は振り返ることなくホテルのロビーに出ると、ちょうどそこに停まっていたタクシーを見つけた。
 レナ、と名前を呼ばれたように思ったけれど、きっとざわついたロビーの雑音を拾ったのだろう。気に留めることもなくタクシーに乗り込んだ。


   ◇


 京都の料亭で目の前にいるテツは、ニューヨークで会った時と雰囲気がガラリと違う。
 精悍せいかんな顔つきをしている彼は見るからに王者の風格をまとい、上品で自信に溢れている。黒に細いラインの入った三つ揃えのスーツに、ボルドーのネクタイ。
 鼻筋の通った鼻梁びりょうに、キリっと結ばれた薄い唇。後ろに流して固めた黒髪にくっきりした二重の瞼。
 ニューヨークのテツはもっとこう、ラフで黒豹のようにスマートな男性だった。服装と場所によって、こうも違って見えるのだろうか。
 玲奈はテツの正面に座り、そっと彼に視線を送った。黒い双眸そうぼうがじっと射るように自分を見つめている。
 ――ど、どど、どうしよう……本物のテツさんだよね……
 玲奈はドキドキと脈打つ鼓動を抑えるために、胸に手を当ててふうっと息を吐いた。
 テツのことは、黒歴史として記憶から追い出してきたのに、まさか再会するとは思いもしなかった。


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