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番外編
ウェディング・ベル・ドライ
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クリスマスも過ぎた年末。
若葉は御影のマンションでリビングの掃除をしながら、自分のアパートの掃除をいつしに行こうかと考える。
御影の家に住むようになったものの、未だにアパートを引き払っていない。さっさと引っ越しすれば良いと言われているし基本的なものは既に御影の家に置いてあるが、一応両親にも言わないといけないし年末だというのもあって引っ越し作業が滞っている。
定期的にアパートに寄っては風通しをしたりダンボールに荷物をつめたり。いろいろとやらなければならないのだが、正直面倒くさいというのもある。でも、家賃が勿体無いとも思っていて、投げやりな気分になりそうだ。
普段よりも念入りのリビングの掃除を終えて一息をつく。これで掃除のほとんどが終わってしまったし、後は夕飯の支度をするぐらい。
エプロンをつけて冷蔵庫の中身を確認していると、出かけていた御影が帰ってきた。
「悠麻さんおかえりなさい」
「ただいま。若葉、今日は夜飯行こう」
「え?でも、材料あるし家ご飯できるよ?」
「それも魅力的なんだが、知り合いが新作試食しに来いってうるせぇんだ。せっかくだし、そいつにお前のこと紹介しようとも思って」
「紹介…、何時に出る?」
「今夕方の五時だから、後二時間後ぐらいには」
若葉はつけたばかりのエプロンを外して、いそいそとお風呂場へと向かう。折角紹介したいと言われたのだから、きちんと化粧をしてオシャレをしていきたい。
基本的に地味な若葉がオシャレをしたところでたかが知れていると思ってはいるが、しないよりは断然マシだ。
シャワーを浴びて髪の毛をブローし、化粧を施す。そうしてから綺麗な色をしたワンピースを着て黒いタイツをはいた。あらかた準備を終えてリビングに行くと、スーツを着た御影がいる。
「悠麻さんスーツで行くの?」
「ん?おぉ、別にドレスコードがあるわけじゃねぇけど。そこそこちゃんとした店だし、若葉が綺麗だから俺もな」
顔がボッと赤くなった気がして、頬を思わず抑えてしまう。こんな風に若葉を綺麗や可愛いと言うのは御影ぐらいだけれど、好きな人に言われると破壊力は凄まじい。
嬉しいなと思う反面、言い過ぎだとも思えてしまう。自分の程度ぐらいは知っていると思いつつも、それは口に出さない。そんな風に考えていると、御影が立ち上がり若葉の腰に腕が回る。
「んじゃ、行くか」
「うん」
御影と出かけるのはいつも胸がときめいて、一人でそわそわとしてしまう。
電車に三十分ほど乗ってから駅を出て、駅前から徒歩十分程度にあるレストランにたどり着く。お店の扉を開けると、ドアベルがカランと鳴った。
「いらっしゃいませ」
「御影だ」
御影が苗字を言うだけで店員は理解したと頭を下げ、席へと案内してくれる。御影の友人がやっているというお店は、至る所に水槽が置いてあり白を基調としたソファーやテーブルで爽やかなリゾート雰囲気があった。
水槽がすぐ隣にある奥まった個室で落ち着いたところで、すぐにワインが届けられる。どうやら今日の食事は御影の友人のおすすめコースのようなものらしい。
薄い浅葱色の中でゆらゆらと泳ぐ魚をじっと見つめていると、視線を感じて御影のほうへと目を向ける。
「…悠麻さん見過ぎです」
「若葉が俺のほう見ないからな」
「…もう」
運ばれてくる色とりどりの料理に舌鼓をうっていれば、エプロンを巻いた男性がこちらへと歩いてきた。
「御影、久々」
「長谷部はせべ」
その男性は親しげに笑みを浮かべながら御影に声をかけて、御影が名前を呼んだことで彼が御影の友人であり、此処のシェフの人なのだと理解した。
長谷部が若葉のほうへと視線を向けたので、若葉は思わず背筋を伸ばして会釈をする。
「この子が御影の嫁さん?」
「よっ…!」
”嫁”という言葉に反応して声が裏返ってしまい、慌てて口元を抑えるが音に出てしまったのは戻らないため恥ずかしくてたまらない。
「可愛い子だな。御影には勿体無い、御影なんてやめて俺とどう?」
「長谷部、冗談でも殴るぞ」
「おー、こえぇ!」
鋭い目で睨まれたというのに長谷部は慣れているようで、声をだして笑うだけだ。
「改めて、長谷部です。こいつとは大学時代から悪友」
「鏑木若葉です。料理、とっても美味しいです!幸せになります」
「そっか…、ありがとう」
照れてしまったのか自分の頬をぽりぽりと掻きながら、笑ってくれた。
こうして御影の会社関係者以外で誰かを紹介してもらえると、改めて自分が御影の彼女なんだと思えるし信用されているとも思えた。それが嬉しくて、幸せで口元がにやけてしまう。
「…おい、御影」
「んだよ」
「お前本当にいい子捕まえたんだな」
長谷部が穏やかに笑いながら御影と話し、暫くしてから厨房へと戻っていった。
彼の背中を見送った後に、自分も時間を取ってもらって大学時代からの友人に御影を会わせたいと思った。若葉にとって大事な友人で、いつも心配をしてくれる優しい人達。
その人達に「これが私の大切な人」だと胸を張って紹介したい。恥ずかしさで照れてしまうかもしれないけど。
「にやついてる」
「むっ、そんなことないですよ」
御影は楽しそうに笑みを零し、若葉の頬を軽く撫でる。他愛のない話をしながら、食後の珈琲を飲んでレストランを出た、
「どうしますか?」
「いつものとこ行こうか」
「うん」
いつものところというのは、全てが始まったあのバーのこと。あれからというもの、外食した後や会社帰りになど二人でちょくちょく行っていた。
若葉自身もバーのマスターと顔見知りになり、一人でも気軽に行ける場所だ。御影も変な客がいないことや、信頼しているマスターだからか、若葉が一人で行くことを許してくれている。
御影は思っている以上に過保護なところがあり、御影自身が参加しない飲み会などで若葉が飲み過ぎることを良く思っていない。
ただ若葉は女性にしてもお酒に強いタイプであり、御影が心配するようなことは決して無い。二人の始まりがそうだったからなのかもしれないが。
問題なのはその過保護な心配を若葉が嫌だと思えないことだ。それすらも嬉しくなってしまう。
御影と手を繋ぎながら通い慣れたビルの中へと入ってエレベーターへと乗り込み、店内へと足を踏み込む。マスターがいつもの笑顔で「いらっしゃい」と声をかけてくれる。
「いつもの席空いてますよ」
「あぁ、酒もつまみも適当に持ってきてくれ」
御影は基本的にいつも同じものを飲むし、若葉はいろいろと飲んでみたりするものの好みを理解してくれたマスターにまかせていることが最近多い。そのため、適当に持ってきてくれと頼んだとしても好みのカクテルが出てくる。
自分の知らないカクテルを飲めるのは楽しい。
あの日以来二人でくればいつも座る定位置となってしまったソファーに座り、持ってきてもらったおつまみとカクテルを飲みながら話をしていれば、あっという間に時間は過ぎていく。
一時間を過ぎたあたりでカクテルが飲み終わり、次は何を飲もうかなと考えていると薄暗かった店内がより暗くなる。
「…?」
暗闇の中でゆったりとしたジャズが店内を包み込み、目の前のネオン街がきらきらといつも以上に光っている。
カタン―と、音が聞こえて振り向くと、ゆらゆらと橙色の温かいキャンドルが揺れているのが見えた。マスターがカクテルを持ってきてくれたようだ。
なんだか、今日はとてもしゃれている。何か特別なことでもあるのかなと、緩く首をかしげた。
目の前に置かれた濃い赤い色のカクテルに、四角い箱、そして一本の赤い薔薇。
「…え…っと」
頭のなかで現状を理解しようといろいろと考えてよぎっていくが、いきつく答えが一つしかなくて全身がぶわっと何かが駆け巡った。
「若葉」
「ひゃっ…、んんっ…はい」
平然としていようと思っていたのに、声が裏返ってしまい恥ずかしい。なんとか返事をして御影を見ると、とても真面目な顔をしながらこちらを見つめていた。
無言のまま一本の薔薇を差し出され、御影と薔薇を何度も交互に見てからその薔薇を受け取った。薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。
「いろいろ何て言おうか考えてみたんだ。考えてみたんだが…、結局言いたいことは一つだけだった」
まだ何も言われていないというのに、すでに涙が目尻に溜まっていってしまう。
御影が置かれていた四角い箱を開けると、そこには煌々と輝くホワイトダイヤモンドを中心に二つのピンクダイヤモンドが寄り添うように並んだスリーストーンの指輪が佇んでいる。
「若葉、お前のことを愛してる。どうか、俺と結婚してくれないか」
「…っ、はい。お願い、…します」
こくりと頷くと、御影はホッとしたように微笑み指輪を薬指に嵌めたくれた。それを受け取った瞬間にぽたっと一滴手に落ちた。
感極まるというのはこういうことだったのかと頭の隅で思った。こみ上げてくる感情で喉が詰まって、うまく言葉が言い表せない。
御影と出会ってから何度も幸せだと思うことは多かった。その中でも特に今日は人生で最高に幸せだと思える日だ。
もしかしたら今後もこんな幸せだと思える日が増え続けていくのだろうか。
「さすがに緊張するな」
「…ふふっ、ありがとう。悠麻さん」
少し前、御影に一緒に住まないかという話をされた時。御影にプロポーズみたいなことを言われたのを思い出す。
その時彼は「正式なプロポーズは別の日にちゃんとな」と言ってくれていた。
だからいつかそういう日がくるだろうということもわかっていたし、心づもりもあったつもりだ。言われたら笑顔で「はい、喜んで」と答えようと思っていたのに、結局泣いてしまった。
ぐすぐすと鼻をすすってから、改めて左手の薬指に輝くエンゲージリングを見つめる。有名なブランドのもので、自分には不相応なもののような気もしてしまう。
「おめでとうございます。こちらは当店からのサービスです」
店内が明るさを取り戻しマスターが小さなオレンジムースとチョコのケーキを差し出してくれた。とても美味しそうで、思わず「わぁ」と声を上げてしまった。
「ケーキまで作ってたのか?」
「えぇ、ケーキに関しては趣味の一部なので定番化はしていないんですけどね」
フォークでケーキを口に運んでいれば、マスターがこちらを向く。
「そうそう、鏑木さん。さきほどのカクテルの名前ご存知ですか?」
「いえ…知らないです」
目の前にあるカクテルに視線をうつす。飲んでみたらわかるかもしれないが、見た目という意味では知らないカクテルだ。
マスターはにっこりと笑ってから、若葉の耳元に口を寄せて秘密を共有するような小さな声で囁いた。
「ウェデイング・ベル・ドライです。ちなみに御影さんからは、プロポーズに良さそうなカクテル…でしたよ」
彼の言葉に全身がカッと熱くなって、頬がぽかぽかしだす。恥ずかしくていたたまれなくなってきて、足をじたばたと動かした。
「マスター…」
「ふふ、すみません」
御影が咎めるような声をだすと、マスターは楽しそうに笑いながらその場を後にした。火照った顔を両手で押さえながら御影を見ると、照れているのか視線を外されてしまった。
彼はサプライズなどが得意な人ではない。だから“ちゃんとする”というのも、指輪を準備して日常生活の中でプロポーズされるのかなと思っていたのだ。それで良いとも思っていた。
テレビであるような事前に準備してたくさん驚かせるサプライズや、今流行りのフラッシュモブなど若葉はあまり興味はなかったし、人前でプロポーズされるより二人きりでのほうがよかった。
だから予想外だったのだ。サプライズが得意ではない御影が自分のために、いろいろと考えてわざわざマスターにまで協力を頼んだのが。
言葉だっていろいろと考えてくれたと言う。若葉のために、若葉が喜んでくれるように。それだけで十分だった。それだけで、若葉はとてつもなく幸せだと思えてしまう。
マスターが作ってくれたらウェディング・ベル・ドライを口にする。ウィスキーをベースにグランマニエにオレンジビターズを組み合わせたもので、爽やかなオレンジの香りに甘味や苦味が絶妙にマッチングしていて、とても美味しい。
「…すっきりして美味しい」
「そうか、よかったよ。お前が気に入ってくれて」
柔らかい声で耳に馴染み、カクテルをテーブルに置いてから隣の御影へと視線を送る。御影は外を眺めたまま、ウィスキーを飲んでいて、相変わらずとてもかっこいい。
そんな彼の太腿に手を置いてその端正な顔の頬に口付けをした。
「…、若葉」
「なんです?」
「こういう時は、こっちにするもんだろ」
御影が自分の唇をとんとんと叩いて見せて、若葉は恥ずかしさなどが全身を巡るがそれ以上に今の感情を伝えたくて言われた通り唇を寄せた。
「んっ…」
口付けをした後に、御影の下唇を唇で挟んで小さな舌でぺろりと舐める。
「煽ってんのか?」
「…はぁ、そうだったら…どうしますか?」
「煽るなら、きっちり煽れ」
御影の手が若葉の腰に回り、ぐっと抱き寄せられてから口付けされた。甘くて濃厚な口づけは、この後のことを連想させるような卑猥なもので身体が熱くなる。
「続きは家に帰ってからな」
自分から仕掛けたこととはいえ、やはり恥ずかしさが未だにあって御影の胸に顔をぐりぐりとくっつけてから深く息を吐いた。
若葉は御影のマンションでリビングの掃除をしながら、自分のアパートの掃除をいつしに行こうかと考える。
御影の家に住むようになったものの、未だにアパートを引き払っていない。さっさと引っ越しすれば良いと言われているし基本的なものは既に御影の家に置いてあるが、一応両親にも言わないといけないし年末だというのもあって引っ越し作業が滞っている。
定期的にアパートに寄っては風通しをしたりダンボールに荷物をつめたり。いろいろとやらなければならないのだが、正直面倒くさいというのもある。でも、家賃が勿体無いとも思っていて、投げやりな気分になりそうだ。
普段よりも念入りのリビングの掃除を終えて一息をつく。これで掃除のほとんどが終わってしまったし、後は夕飯の支度をするぐらい。
エプロンをつけて冷蔵庫の中身を確認していると、出かけていた御影が帰ってきた。
「悠麻さんおかえりなさい」
「ただいま。若葉、今日は夜飯行こう」
「え?でも、材料あるし家ご飯できるよ?」
「それも魅力的なんだが、知り合いが新作試食しに来いってうるせぇんだ。せっかくだし、そいつにお前のこと紹介しようとも思って」
「紹介…、何時に出る?」
「今夕方の五時だから、後二時間後ぐらいには」
若葉はつけたばかりのエプロンを外して、いそいそとお風呂場へと向かう。折角紹介したいと言われたのだから、きちんと化粧をしてオシャレをしていきたい。
基本的に地味な若葉がオシャレをしたところでたかが知れていると思ってはいるが、しないよりは断然マシだ。
シャワーを浴びて髪の毛をブローし、化粧を施す。そうしてから綺麗な色をしたワンピースを着て黒いタイツをはいた。あらかた準備を終えてリビングに行くと、スーツを着た御影がいる。
「悠麻さんスーツで行くの?」
「ん?おぉ、別にドレスコードがあるわけじゃねぇけど。そこそこちゃんとした店だし、若葉が綺麗だから俺もな」
顔がボッと赤くなった気がして、頬を思わず抑えてしまう。こんな風に若葉を綺麗や可愛いと言うのは御影ぐらいだけれど、好きな人に言われると破壊力は凄まじい。
嬉しいなと思う反面、言い過ぎだとも思えてしまう。自分の程度ぐらいは知っていると思いつつも、それは口に出さない。そんな風に考えていると、御影が立ち上がり若葉の腰に腕が回る。
「んじゃ、行くか」
「うん」
御影と出かけるのはいつも胸がときめいて、一人でそわそわとしてしまう。
電車に三十分ほど乗ってから駅を出て、駅前から徒歩十分程度にあるレストランにたどり着く。お店の扉を開けると、ドアベルがカランと鳴った。
「いらっしゃいませ」
「御影だ」
御影が苗字を言うだけで店員は理解したと頭を下げ、席へと案内してくれる。御影の友人がやっているというお店は、至る所に水槽が置いてあり白を基調としたソファーやテーブルで爽やかなリゾート雰囲気があった。
水槽がすぐ隣にある奥まった個室で落ち着いたところで、すぐにワインが届けられる。どうやら今日の食事は御影の友人のおすすめコースのようなものらしい。
薄い浅葱色の中でゆらゆらと泳ぐ魚をじっと見つめていると、視線を感じて御影のほうへと目を向ける。
「…悠麻さん見過ぎです」
「若葉が俺のほう見ないからな」
「…もう」
運ばれてくる色とりどりの料理に舌鼓をうっていれば、エプロンを巻いた男性がこちらへと歩いてきた。
「御影、久々」
「長谷部はせべ」
その男性は親しげに笑みを浮かべながら御影に声をかけて、御影が名前を呼んだことで彼が御影の友人であり、此処のシェフの人なのだと理解した。
長谷部が若葉のほうへと視線を向けたので、若葉は思わず背筋を伸ばして会釈をする。
「この子が御影の嫁さん?」
「よっ…!」
”嫁”という言葉に反応して声が裏返ってしまい、慌てて口元を抑えるが音に出てしまったのは戻らないため恥ずかしくてたまらない。
「可愛い子だな。御影には勿体無い、御影なんてやめて俺とどう?」
「長谷部、冗談でも殴るぞ」
「おー、こえぇ!」
鋭い目で睨まれたというのに長谷部は慣れているようで、声をだして笑うだけだ。
「改めて、長谷部です。こいつとは大学時代から悪友」
「鏑木若葉です。料理、とっても美味しいです!幸せになります」
「そっか…、ありがとう」
照れてしまったのか自分の頬をぽりぽりと掻きながら、笑ってくれた。
こうして御影の会社関係者以外で誰かを紹介してもらえると、改めて自分が御影の彼女なんだと思えるし信用されているとも思えた。それが嬉しくて、幸せで口元がにやけてしまう。
「…おい、御影」
「んだよ」
「お前本当にいい子捕まえたんだな」
長谷部が穏やかに笑いながら御影と話し、暫くしてから厨房へと戻っていった。
彼の背中を見送った後に、自分も時間を取ってもらって大学時代からの友人に御影を会わせたいと思った。若葉にとって大事な友人で、いつも心配をしてくれる優しい人達。
その人達に「これが私の大切な人」だと胸を張って紹介したい。恥ずかしさで照れてしまうかもしれないけど。
「にやついてる」
「むっ、そんなことないですよ」
御影は楽しそうに笑みを零し、若葉の頬を軽く撫でる。他愛のない話をしながら、食後の珈琲を飲んでレストランを出た、
「どうしますか?」
「いつものとこ行こうか」
「うん」
いつものところというのは、全てが始まったあのバーのこと。あれからというもの、外食した後や会社帰りになど二人でちょくちょく行っていた。
若葉自身もバーのマスターと顔見知りになり、一人でも気軽に行ける場所だ。御影も変な客がいないことや、信頼しているマスターだからか、若葉が一人で行くことを許してくれている。
御影は思っている以上に過保護なところがあり、御影自身が参加しない飲み会などで若葉が飲み過ぎることを良く思っていない。
ただ若葉は女性にしてもお酒に強いタイプであり、御影が心配するようなことは決して無い。二人の始まりがそうだったからなのかもしれないが。
問題なのはその過保護な心配を若葉が嫌だと思えないことだ。それすらも嬉しくなってしまう。
御影と手を繋ぎながら通い慣れたビルの中へと入ってエレベーターへと乗り込み、店内へと足を踏み込む。マスターがいつもの笑顔で「いらっしゃい」と声をかけてくれる。
「いつもの席空いてますよ」
「あぁ、酒もつまみも適当に持ってきてくれ」
御影は基本的にいつも同じものを飲むし、若葉はいろいろと飲んでみたりするものの好みを理解してくれたマスターにまかせていることが最近多い。そのため、適当に持ってきてくれと頼んだとしても好みのカクテルが出てくる。
自分の知らないカクテルを飲めるのは楽しい。
あの日以来二人でくればいつも座る定位置となってしまったソファーに座り、持ってきてもらったおつまみとカクテルを飲みながら話をしていれば、あっという間に時間は過ぎていく。
一時間を過ぎたあたりでカクテルが飲み終わり、次は何を飲もうかなと考えていると薄暗かった店内がより暗くなる。
「…?」
暗闇の中でゆったりとしたジャズが店内を包み込み、目の前のネオン街がきらきらといつも以上に光っている。
カタン―と、音が聞こえて振り向くと、ゆらゆらと橙色の温かいキャンドルが揺れているのが見えた。マスターがカクテルを持ってきてくれたようだ。
なんだか、今日はとてもしゃれている。何か特別なことでもあるのかなと、緩く首をかしげた。
目の前に置かれた濃い赤い色のカクテルに、四角い箱、そして一本の赤い薔薇。
「…え…っと」
頭のなかで現状を理解しようといろいろと考えてよぎっていくが、いきつく答えが一つしかなくて全身がぶわっと何かが駆け巡った。
「若葉」
「ひゃっ…、んんっ…はい」
平然としていようと思っていたのに、声が裏返ってしまい恥ずかしい。なんとか返事をして御影を見ると、とても真面目な顔をしながらこちらを見つめていた。
無言のまま一本の薔薇を差し出され、御影と薔薇を何度も交互に見てからその薔薇を受け取った。薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。
「いろいろ何て言おうか考えてみたんだ。考えてみたんだが…、結局言いたいことは一つだけだった」
まだ何も言われていないというのに、すでに涙が目尻に溜まっていってしまう。
御影が置かれていた四角い箱を開けると、そこには煌々と輝くホワイトダイヤモンドを中心に二つのピンクダイヤモンドが寄り添うように並んだスリーストーンの指輪が佇んでいる。
「若葉、お前のことを愛してる。どうか、俺と結婚してくれないか」
「…っ、はい。お願い、…します」
こくりと頷くと、御影はホッとしたように微笑み指輪を薬指に嵌めたくれた。それを受け取った瞬間にぽたっと一滴手に落ちた。
感極まるというのはこういうことだったのかと頭の隅で思った。こみ上げてくる感情で喉が詰まって、うまく言葉が言い表せない。
御影と出会ってから何度も幸せだと思うことは多かった。その中でも特に今日は人生で最高に幸せだと思える日だ。
もしかしたら今後もこんな幸せだと思える日が増え続けていくのだろうか。
「さすがに緊張するな」
「…ふふっ、ありがとう。悠麻さん」
少し前、御影に一緒に住まないかという話をされた時。御影にプロポーズみたいなことを言われたのを思い出す。
その時彼は「正式なプロポーズは別の日にちゃんとな」と言ってくれていた。
だからいつかそういう日がくるだろうということもわかっていたし、心づもりもあったつもりだ。言われたら笑顔で「はい、喜んで」と答えようと思っていたのに、結局泣いてしまった。
ぐすぐすと鼻をすすってから、改めて左手の薬指に輝くエンゲージリングを見つめる。有名なブランドのもので、自分には不相応なもののような気もしてしまう。
「おめでとうございます。こちらは当店からのサービスです」
店内が明るさを取り戻しマスターが小さなオレンジムースとチョコのケーキを差し出してくれた。とても美味しそうで、思わず「わぁ」と声を上げてしまった。
「ケーキまで作ってたのか?」
「えぇ、ケーキに関しては趣味の一部なので定番化はしていないんですけどね」
フォークでケーキを口に運んでいれば、マスターがこちらを向く。
「そうそう、鏑木さん。さきほどのカクテルの名前ご存知ですか?」
「いえ…知らないです」
目の前にあるカクテルに視線をうつす。飲んでみたらわかるかもしれないが、見た目という意味では知らないカクテルだ。
マスターはにっこりと笑ってから、若葉の耳元に口を寄せて秘密を共有するような小さな声で囁いた。
「ウェデイング・ベル・ドライです。ちなみに御影さんからは、プロポーズに良さそうなカクテル…でしたよ」
彼の言葉に全身がカッと熱くなって、頬がぽかぽかしだす。恥ずかしくていたたまれなくなってきて、足をじたばたと動かした。
「マスター…」
「ふふ、すみません」
御影が咎めるような声をだすと、マスターは楽しそうに笑いながらその場を後にした。火照った顔を両手で押さえながら御影を見ると、照れているのか視線を外されてしまった。
彼はサプライズなどが得意な人ではない。だから“ちゃんとする”というのも、指輪を準備して日常生活の中でプロポーズされるのかなと思っていたのだ。それで良いとも思っていた。
テレビであるような事前に準備してたくさん驚かせるサプライズや、今流行りのフラッシュモブなど若葉はあまり興味はなかったし、人前でプロポーズされるより二人きりでのほうがよかった。
だから予想外だったのだ。サプライズが得意ではない御影が自分のために、いろいろと考えてわざわざマスターにまで協力を頼んだのが。
言葉だっていろいろと考えてくれたと言う。若葉のために、若葉が喜んでくれるように。それだけで十分だった。それだけで、若葉はとてつもなく幸せだと思えてしまう。
マスターが作ってくれたらウェディング・ベル・ドライを口にする。ウィスキーをベースにグランマニエにオレンジビターズを組み合わせたもので、爽やかなオレンジの香りに甘味や苦味が絶妙にマッチングしていて、とても美味しい。
「…すっきりして美味しい」
「そうか、よかったよ。お前が気に入ってくれて」
柔らかい声で耳に馴染み、カクテルをテーブルに置いてから隣の御影へと視線を送る。御影は外を眺めたまま、ウィスキーを飲んでいて、相変わらずとてもかっこいい。
そんな彼の太腿に手を置いてその端正な顔の頬に口付けをした。
「…、若葉」
「なんです?」
「こういう時は、こっちにするもんだろ」
御影が自分の唇をとんとんと叩いて見せて、若葉は恥ずかしさなどが全身を巡るがそれ以上に今の感情を伝えたくて言われた通り唇を寄せた。
「んっ…」
口付けをした後に、御影の下唇を唇で挟んで小さな舌でぺろりと舐める。
「煽ってんのか?」
「…はぁ、そうだったら…どうしますか?」
「煽るなら、きっちり煽れ」
御影の手が若葉の腰に回り、ぐっと抱き寄せられてから口付けされた。甘くて濃厚な口づけは、この後のことを連想させるような卑猥なもので身体が熱くなる。
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