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疑念
しおりを挟む義父の実家である世田谷の成城よりもだいぶ都心に近い住宅街に建てられた三原家は、坪数にすれば本家の三分の一、付近の家と比べても人並み程度の広さしかない一軒家だ。そこに母と兄弟の三人で暮らしている。
だがそれは建物自体を比較した話で。4LDKマンションに家族四人で暮らす雪人は、タクシーから降りてご立派な門扉の表札を確かめる前に絶句した。
邸宅を囲む淡い色目の煉瓦風外壁は、身長が180㎝に届く雪人や慧の身長よりも高い。固く閉ざされた扉はご丁寧にカードキーやリモコンでの開閉式だ。
建物に対して敷地の面積がややおかしいが、ここ数年は友人の家といえば雪人の部屋しか訪れたことのない和馬は、疑問に思ったこともない。
中に入ってすぐに「ここに下宿してーなー」などと雪人はわりと本気で口にしたが、和馬にも慧にも相手にされず、門から離れた玄関に向かう二人に大人しく続いた。
「森さん、飯は?」
「あー、まだ」
「じゃあ、一緒に。すぐ出来るからね、兄貴」
愛想良く誘う慧に、受ける雪人。和馬はかまわず階段を上る。
「いい弟じゃん?」
今日の慧の行動、言動だけを見れば誰もがそう思うだろう。
「弟の飯なんて、一度も食ったことねーよ!」
そもそも三年前に建てられたこの家の食卓で何かを口にした覚えもない。
大概のものは部屋に置いたミニ冷蔵庫に入れてあるし、朝食を抜き、昼食も夕食も外で食べることが多い和馬は、自分のテリトリー=玄関と自室、それから浴室以外の場所をうろつきたくなかった。
浴室。気を抜けば思い出してしまう憂鬱な記憶を振り払い、ドアを開ける。
「―――は?」
「ん?」
今日の朝まで私物にまみれていた居心地の良い部屋には、ベッド一つが置かれているだけだった。それも、ベッドカバーやマット、シーツも全て外されている。
新手の嫌味かと、さすがに動揺すれば追いかけてきた慧が雪人の背後で言った。
「言い忘れてた。兄貴の部屋、移したから。一階だよ。その方が楽でしょ」
「俺の――」
「大丈夫、全部そのまま移動させただけだから。…シーツは替えたけどね」
わざわざ付け足す慧から目を逸らした。
「着替えたら来てね」
言い置いて、さっさとリビングに下りていく。
「…えーと?」
初めて来た親友の家で戸惑う雪人を連れて、階下に下りた。なんとなくそんな気がして「母親の部屋」だった場所のドアを開ける。
ほっとするほど安心できる「我が城」が朝出たそのままに再現されていた。
「うわ、広ぇ」
「………」
18年前和馬を産んだ母親は、慧の言う通り本当にいなくなったのだと実感した。
実子である和馬には何一つ、一言も残さずに消えてしまったのだ。
「和馬…?」
「適当に座ってて」
もやもやとした思いを胸に溜めながらとりあえず制服を着替える。念の為確かめたタンスの中身は今朝までと何ひとつ変わっていなかった。
その後ダイニングに向かうと、「呼びに行こうかと思った」などと言う義弟は手にしたグラスをテーブルに置く。
六人掛けのテーブルには既に、豚の生姜焼き+グリーンサラダ、付け合わせのお浸しに味噌汁、白米がきっちりと三人分並んでいた。
「すっげー!!美っ味そう♪」
「彼氏に褒められる料理、だよね」
「はは、そんな感じ」
「あ、すいません。『ですよね』。こっちどうぞ」
三人分の椅子を引く慧に、雪人も笑う。
「いーよ別に。俺の妹とか和馬にタメ口だし」
「じゃあ遠慮なく。…座んなよ兄貴」
和やかな会話、明るい食卓。一度も座ったことのない椅子に和馬はぎこちなく腰を下ろした。
「うぉうっま!美味いコレ」
「嬉しいな。肉がいいだけってオチなんだけど」
「いやいやいや、味付けとか最高でしょコレ。なぁ和馬」
場を明るくしようときっかけをくれる雪人の誘いを黙殺して、無言のまま食事を続けた。早くこの空間から外に出たかった。
「うわ、おっまえ感じ悪ぃなぁ!」
「兄貴はいつもそうだもんね」
こちらに笑いかける慧も無視した。
――お前と飯中に話したことなんかねーよ、六年はまともに話もしてねーだろ!
「弟クンて何でも出来るんだな」
「何でもなんて。出来ない事の方が多いですよ」
「いやいや。まずイケメンでしょ。頭いーし、多分運動も完璧で?その上料理も出来るとか」
「運動は普通ですね」
「運動は、ねぇ」
和馬だけが参加しないまま、一見和やかな会話が白々しく続けられる。
「勉強は得意かもです。好きだからかな」
「うわ、言ってみてーそのセリフ」
「知らないことを知るのは楽しいですよ。同じ理由で料理も楽しいし」
うわぁ、勉強教えて欲しいなーと言う雪人に、余裕の笑みで効率のいい勉強法ならありますよ?と返す慧の笑顔は偽物ではない、と雪人は思う。でもどこか歪だ。
何が気になってそう感じるのか分からない雪人だが、強いて言えば躊躇いなく真っ直ぐに自分を見る慧の瞳に、とても小さいけれどでも強く、敵愾の光が宿っている気がするのだ。昨日まで話したこともなければ、顔を合わせたこともないのに。
理由は自分と和馬の関係にあるのだろう。それから、和馬が家族のことを一切話そうとしなかったことにも関係がある。それは間違いないということは分かる。
「弟クン、頭いいでしょ。何でウチの学校来たん?」
ずばり核心を突いた問いに、慧もあっさりと答えた。
「兄貴がいるからですよ?」
「ファ?!」
「『ふぁ?』」
雪人の反応にクスクスと楽しそうに笑ってそのままの視線を和馬に流す。
「兄貴、味噌汁も飲まないと」
言われて乱暴に啜る和馬はやっぱり無言だ。
「ってもコイツと同じトコに通えるのなんて一年じゃん?」
「そうですけど。…それでもいいんです。今はしょうがない」
「今は?」
「兄貴が大学に入ったら、俺もスキップして転入します」
言葉尻を捉える雪人の疑問に答える慧には迷いがない。予想外すぎる答えに目を丸くしたのは雪人だけではなかった。
「え。え?コイツが行く大学に、ってこと?」
「はい」
「冗談だろ?」
ようやく和馬も口を挟んだ。
「本気だったよ。でも大学は東大じゃないと駄目だって。父さんが」
「東大?ウチのガッコから?」
そんな奇蹟の卒業生がいるなんて話は聞いたことがない。雪人や和馬が通ってきた高校もそれなりの偏差値はある進学校だが、日本屈指の国立大学となれば生半可な学力では、入試資格すら得られない。
「世界はまだまだ学歴社会だし。系列会社のひとつくらいは貰わないと、大事なひと一人養っていけないでしょ。まぁ…少しの我慢かな」
口元に笑みを刻み、独白のように呟いて箸を口に運ぶ目の前の少年が、どこか別の世界の生物に思える和馬と雪人だった。
「片付けぐらいするよ」
「いいです、いいです。兄貴がいつもお世話になってるし」
「いや、でも。飯美味かったし」
食い下がる雪人は、「お客さんだから」とダイニングから追い出そうとする慧に対する違和感がまだ消えない。
「今日はお客さんってことで、甘えてくださいよ」
「…んじゃ、サンキュ。今度は何か手土産持ってくるよ」
「本当に?生クリームモノがいいです」
子供みたいに喜ぶ様は普通に可愛い友人の弟、にしか見えないのだが。
「分かった、ケーキな」
「バナナ系で」
「了~解!」
すっかり打ち解けたかのように親しげに話す二人を置いて和馬は廊下を歩く。
後を追う雪人はふと思い出した。和馬が去年の暮れあたりからハマり始め、どこのコンビニでも好んで選ぶスイーツがある。
名前は違えど素材は同じで、どれもスポンジに生クリームとバナナがセットになった洋菓子だった。
食い過ぎた腹痛ぇ~、などとベッドに凭れて座る雪人は、初めて訪れる部屋で完全に寛いでいる。
反対に、座ろうとしない和馬の表情には余裕がなかった。
「お前んち行こうぜ」
「はぁ?何で」
「お前のウチなんだからいいだろ?!」
「いやいや、俺はこの広ぉいベッドで寝たぁぁい♡」
幸せそうな顔で漏らしながら、これだけは昨日までの部屋にはなかった、クイーンサイズにレベルアップしたベッドにダイブする。
「じゃあお前そこで寝ろよ。俺はお前んちに行く」
「いい弟クンじゃん…」
俯せの雪人は早くも、とろんと瞼を落とし始める。
「ほんと…マジでぜんぶ……かんぺき」
「そんなの関係ねーだろ、とにかくここで寝ないからな」
勝手にしろ、と寝言のように漏らす雪人は動く気配がない。かまわずボストンバッグを取り出してハンガーに掛けたままの制服を詰める。
――もっとシめて
気を抜けば、おぞましい声が甦る。
――初めてだった…?ここ
死ね!と叫ぶ鬼女の声の方がマシだった。
――あぁ……兄貴
思い出すと全身に寒気が走り、同時に身の内がかぁっと熱くなる。耐えきれないほど不快な感覚だ。
「雪人。マジで――頼むよ。行こうぜ。…雪人!」
揺する身体は完全に弛緩して気持ち良さそうな寝息を立て始めていた。
「テ、ン、メェ~~」
荷物を捨て、大の字に伸びる身体に飛び乗った。
「起きろテメー!ユキ!!起きろって!」
「起きないよ」
ドアが開くのと同時に聞こえた。
「兄貴は好き嫌い、多すぎ」
「――ユキ。雪人」
「豆腐が嫌いなんて、可愛いよね」
脳裏に甦るのは嫌味なくらい白い物体が詰められた、味噌汁の椀。
「何――した」
「あの女の薬。ただの睡眠導入剤だから、危ないモノじゃないよ」
腕を掴もうとする慧の手から逃れると、ベッドから下りた身体がぐらりと揺れる。
「でも、軽いからけっこう量は多めに入れたかな」
致死量ではないけどね。付け足す台詞と笑顔がそら恐ろしい。
足がもつれた身体を抱えられるようにして部屋を出される和馬の視界から…雪人の姿が消えた。
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