海ぼうずさんは俺を愛でたいらしい

キルキ

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本編

18 海ぼうずさんと上司①

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彼女と別れてから、3ヶ月がたった。絵莉さんと別れたら生きていけないんじゃないかという心地だったのだが、案外平穏な日常を過ごせている。あれだけメンタルが虚弱俺がこうして普通に仕事に行けているのは、クラゲさんのおかげと言っても過言ではない。

俺に何故か懐いてくれてるし、かなり過剰だけどスキンシップもしてくれる。一緒に外に出かけてくれるときもあるから、彼の存在は心の安寧とも言えるくらいになった。家にいる間は四六時中一緒にいてくれるから、寂しさに泣く隙が無かったのもある。

クラゲさんがいるから、寂しくなかった。失恋の傷は、すっかり癒やされていた。そうして油断していた頃に、嵐はやってくる。

「鍵田裕也って、あんたのこと?」

ピンクのアイメイクに猫のようにアイライナーを釣り上げた、気が強そうな女性が目の前に立ちはだかる。先日、他の社から転勤してきたという彼女は、俺を明らかに敵対視していた。

通行人たちはただならぬ雰囲気の俺たちを、横目でちらりと見てくる。

彼女の気圧に怯えながら頷くと、女性はかっと目を見開いた。頷いただけなのに、すごく怒っている。何かしてしまったのだろうか。初対面だと思うんだけど。

「っこの、くそ男!」

女性が片手を振りかぶった。そのまま俺のほっぺたを直撃されて、バッチイイイン!みたいな音がなる。

え……ええええ!

突然のビンタに頭が真っ白になる。そのまま、甲高い声で訳のわからないことを懇々と喋る彼女を呆然と見ていた。あまりの衝撃に、言い返す気力も吹っ飛んだ。

「えっと、一体何を……」
「───絵莉がどんな気持ちでいると思って───」

半狂乱の叫び声の中、聞き慣れた名前が聞こえた。もしかしてこの人、絵莉さんの友達なのか。

どうやら彼女から見た俺は最底辺の男であるみたいだ。今にももう一発平手打ちしてきそうな彼女の腕を誰かが掴んだ。この修羅場に乗り込んできた勇気ある第三者を見上げた。

「何やってんだ」
「や、安元さん」
「お前、この前ここに来たやつだろ。なんでこんな騒ぎになってんだ」

上司の安元さんが、厳しい顔で女性を見ている。ピリピリした雰囲気に女性が身を疎ませた。

「も、申し訳ございません。その、職場でこんな、」
「謝罪はいいから、理由は」
「あ……っ」

こっわい……!

明らかに怒りを隠せていない安元さんは、いつものにこやかなその人と別人のようだった。怒るとこんなに怖いんだ、安元さん。

でも、俺も騒ぎの渦中にいたのに、どうしてこちらにはお咎めが飛んでこないんだろう。安元さんは俺の前に立って女性を問い詰めている。寧ろ、俺を女性から庇っているようにも見えた。

低い声で質問を受けていた女性は、何かをぽつりぽつりと話し始めた。話の内容はこちらまで聞こえてこない。とりあえず上司の命令があるまで動かずにいると、しばらくして安元さんが俺を振り返った。

「鍵田はもう帰れ」
「え……しかし……」
「今日は早帰りしとけ。そんな面で会社に居られる方が困る」
「はい……」

きっぱりした物言いに何も返すことができなくて、俺はただ頷いた。






安元さん、怒ってたな……。

それにしても、なぜ俺に怒りが飛んでこなかったのだろう。途中で帰らされたのも、言葉ではああ言っていたが俺を気遣ってのものだった。ああでも、もしかしたら明日にでも絞られるかもしれない。プライベートのトラブルを職場で起こしてしまったんだから、たくさん迷惑をかけたことだろう。あーあ、明日会社行きたくない。あの女性とも会いたくない。

何故か俺を憎々しげに睨んでいた彼女は、どうして俺に突っかかってきたのだろう。まあ、おおよそ予想はついている。俺が絵莉さんを振ったからだろう。あの女性は絵莉さんのことを親しげに下の名前で呼んでいたし、いきなり別れを告げてきた友人の元彼を腹立たしく思っていたに違いない。俺が別れを告げるに至るまでの詳しい経緯は知らないようだったが。

あれ、もしかしてあの後、女性がこの話を安元さんにしてるんじゃね?

安元さんは女性がトラブルが発端であると見ていたから、今頃その理由を詳しく聞いていることだろう。女性の口の堅さにもよるけど、おそらく、十中八九伝わってる。

……さ、さいあくだ。安元さんに「この底辺男」って思われたらどうしよう。

ふらふらしながら家にたどり着くと、クラゲさんがコップの中で液状化していた。俺が帰ったことに気づいていないみたいで、宙を見つめてぼうっとしている。こうしていると、ただの水みたいだ。

ゆっくり近づいてコップを揺らすと、金の目がきょろりとこちらを見た。

「ヤー」
「ただいま。今日はいつもより早く帰ってきたんだよ。びっくりした?」

クラゲさんがコップから顔を出す。一頻り癒やされた後、荷物をおいて台所へ水を飲みに行った。作り置きの麦茶をコップ半分まで飲んで、一息つく。

帰路はあれこれ考えてきて、夕飯のことを考えていなかったな。今夜はどうしようか。冷蔵庫にあるもので食べようか。卵と納豆と、……じゃがいもと人参があるからポテトサラダでもつくろうかな。今日は時間があるから、料理にも時間をかけられそうだ。

棚の中をごそごそ探って今夜の食卓のことを考えていると、カタン、という音が背後から聞こえた。振り向くと、麦茶が半分入っているはずのコップにクラゲさんが乗り移っていた。

「あ、こら。台所は危ないから、離れようね」

クラゲさんが乗り移った麦茶は、すでに透明になっている、コップごと持ち上げて移動させようとしたとき、クラゲさんの細い手が宙でうねった。

「イタイ?」

クラゲさんが俺のほっぺたを凝視している。つい一時間ほど前に女性に叩かれたところだ。結構な力だったから、赤くなっているだろう。紅葉型についちゃったりしてるのだろうか。

「痛くないよ。……結構痕ついてる?」

こくりと頷くクラゲさんに、遠い目になった。明日はマスクが手放せないぞ。こんな顔で歩いていたら、通行人にも注目をあびるんじゃないだろうか。痴話喧嘩の後かな、なんて思われたら死にたくなる。

そんな俺の心情を感じ取ったのか、クラゲさんが叩かれた方の頬に手を伸ばしてきた。もしかして、治してくれるつもりなのか。ありがたいけど、これは駄目だ。

「ありがとう。でも、ビンタされるところみんなに見られちゃってるし、痕が残ってないと不自然がられるかもしれないからやめとこうか」

別に痛くない怪我だし、すぐに治らなくてもいい。治癒を断る俺に、彼は不満そうにしていた。

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